高見けい



スペインで遭遇してしまった


 スペインを旅するのは、私にとって特別の意味がある。大学時代に第二外国語としてスペイン語を勉強したからだ。初級レベルとはいえ、片言でも喋れるようになると試してみたくなるもので、私はすぐさまスペインへと旅立ってしまった。無鉄砲にも西語辞書も何も持たずに……

 スペイン北東部に位置する、ガウディのサグラダ・ファミリア教会で有名なバルセロナから、十九時二十分発の夜行列車に乗った。行き先は、スペイン中央部に位置するアルカーサルだ。ヨーロッパの列車はコンパートメント式になっていて、一つのコンパートメントに三人ずつ向かい合って座る仕組みになっている。
 列車は空いていた。私の乗ったコンパートメントには、私の他に二人の中年男性が窓際に向かい合って座っているだけだった。二人の男性はがっしりとした体躯をもち、肌は茶褐色に日焼けしていた。そして無精ひげを生やし、いかにもラマンチャ風といった体裁だった。ラマンチャ(La Mancha)とは、スペイン中南部の高原地方をさす言葉で、そこに暮らす男達は、ドン・キホーテのような勇猛果敢な闘士達といわれている。
 二人は友人なのだろうか。私などにはお構いなしに楽しげに話している。時々ワッハッハッとさも愉快そうに笑いながら。
 そうこうしているうちに、二人がほぼ同時に煙草を吸い始めた。煙の匂いは非常にきつい。あっ、これがスペイン語のテキストに出てきた「ネグロ」という煙草か?私は内心わくわくした。ネグロとはスペイン語で黒を意味する。煙草に使う時は「タバコネグロ」といい、「黒味がかった強い煙草」を指す。このタバコネグロは等級の低い葉タバコが主な原料となっていて、お世辞にもお上品な方が吸う代物とはいえない。
 私はすかさず、たどたどしいスペイン語で彼らに話しかけた。
「そのタバコもらえますか?」
 彼らは今まで豪快に喋っていたが、突然、見も知らぬ東洋の女の子から話しかけられて、びっくりしたのだろう。目をぱちくりさせている。
「なんだって?」
 私はもう一度言った。
「そのタバコもらえるかしら?」
 彼らは絶句したまま、二人で顔を見合わせている。一人がおもむろに一本取り出した。私に差出し、マッチで火までつけてくれた。
「ありがとう」
 私はそうっと吸ってみた。うわ〜、肺に痛みを感じるほど強い。一服で肺が真っ黒になりそうだ。葉巻のような上品な香りは全くせず、火事場跡の煙がくすぶっているようなひどい匂いばかりだ。すぐにでも捨ててしまおうかと思ったが、せっかくくれたおじさん達の手前そうもできない。仕方なくもう少し吸ってみた。すると、ひどいと思っていた匂いが、いつの間にか肉体労働者のような逞しい匂いに変化していた。ひょっとして、これは毎日吸うと癖になる憎めない煙草かもしれない。私はタバコネグロに親しみを覚え、嬉しく思いながら、おじさん達の方をうかがった。彼らは余程驚いたのか、瞬きもせず私の一挙手一投足をじっと見つめている。
「強いわねえ。このタバコ」
 私はそう言いながら煙草を指さした。彼らはまだ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、私から目を離そうとしない。私はさらに続けた。
「これは健康に良くないわよ」
「うわっはっはっは!」
 ついに彼らは弾けた。二人はおなかをかかえ、さもおかしそうに繰り返した。
「健康に悪いだってよ。わっはっはっは!」
「こんなかわいい子が、健康に悪いってさ!あっはっはっは!」
「お嬢ちゃん、面白いこと言うねえ。いったいどこから来たのさ?」
「日本よ」
「おい、日本だってよ。おまえ、どこだか知ってるか?」
 私達はすっかり打ち解けてしまった。私のスペイン語が未熟なため、複雑なことはコミュニケートできなかったが、それでもお互いの国のことを随分紹介し合った。
「ところで、お嬢ちゃんはどこまで行くのかな?」
「アルカーサルよ」
「ふーん、それで?」
「アルカーサルで風車を見て、それからまた列車に乗ってマドリッドへ行くの」
「ふーん、でも列車はないよ」
 二人は、そう、そう、とうなずき合っている。
「あら、あるわよ」
 私はトーマス・クックというヨーロッパの全列車が載っている時刻表を彼らに見せた。
「ほら、アルカーサル十二時五十一分発マドリッド行き。ね、あるでしょ」
 彼らは時刻表など見たことがないのか、頬を摺り寄せて覗き込んでいる。そして、二人同時に顔をあげると
「でも、列車はないよ」
とまじめな顔をして言った。
 私は、この人達は列車のことをよく知らないんだわと残念に思い
「そうかしらね」
と適当な返事をして、この話を打ち切った。時計を見ると二十二時をまわっている。私は旅の疲れが出たのだろう。いつの間にか、うとうとと眠ってしまった。
 どのくらい経ったのだろうか。急に目が覚めた。それもそのはずである。ラマンチャのおじさん達が、何がそんなに楽しいのか、手拍子をとって大声で歌っているではないか。そして、例のタバコネグロをスパスパと吸っている。コンパートメントは締めっ切りだから煙くて仕様が無い。時刻はなんと夜中の二時。私はおじさん達に控え目に訴えた。
「あの、私、眠いんだけれど……」
「そうだ、そうだ。まだ真夜中だ。もっと寝た方がいい」
おじさん達は意外にも私の申し入れを素直に受け入れてくれた。
「さあ、オレの肩に寄りかかって」
 そう言いながら、自分の肩をぽんぽんと叩いた。い、いや、枕が必要なんじゃなくて、おじさん達が騒がしいから……内心そう思ったが、おじさんはそんなことにはまるで気がつかない。
「さあ」
とまた景気よく肩を叩いた。
「あ、ありがとう」
 せっかくの好意だ。私はおじさんの肩に寄りかかった。すると、もう一人のおじさんが自分のコートを脱ぎ、隣でうずくまって眠っている途中駅から乗車してきた白人少女二人にそっとかけた。
「彼女達はまだ子供だからな」
 おじさん達はぶっきら棒で荒くれ男のように見えるが、本当は優しいのだ。私は、ラマンチャ男の素顔を垣間見たような気がして、もう一度おじさん達をじっと見つめてしまった。
 午前四時、列車はアルカーサルの駅に着いた。おじさん達は眠っていたにもかかわらず、わざわざ起きて、私のリュックをホームまで下ろしてくれた。
「気をつけるんだよ」
「ありがとう。楽しかったわ」
私達はそう言って別れた。

 アルカーサルでは、バスに乗って「ドン・キホーテが突進した」という風車を見にカンポ・デ・クリプターナ村まで行った。そして、その日はアルカーサルに戻って、そこで一泊した。
 翌日、例の十二時五十一分発のマドリッド行きの列車に乗ろうとアルカーサル駅に行った。なんとなく駅ががらんとしている。十二時五十一分になった。列車は来ない。十三時 三十分になった。まだ来ない。外国の列車は日本の列車よりも時間にルーズだと聞いてはいたが、こんなにも遅れるものだろうか。私は急に不安になり、辺りを見回した。すると、一人の中年女性がホームに所在なげにたたずんでいた。彼女に近づき、つたないスペイン語で尋ねてみた。
「なぜ汽車が来ないのですか?」
「ウェルガだからよ」
私はこの「ウェルガ」というスペイン語を知らなかった。
「ウェルガって何ですか?」
「汽車が来ないことよ」
「だから、なぜ汽車が来ないんですか?」
「ウェルガだからよ」
 ああ、同じ押し問答の繰り返しだ。どうしよう。
 途方に暮れていると、むこうから制服を着た駅員らしき人がやって来て
「こっちですよ。こっちに来て下さーい」
と叫びだした。わけが分からないまま、その駅員らしき人について行くと、駅前に止めてあったマドリッド行きのバスに無理矢理乗せられてしまった。ちょっとォ〜、私は列車でマドリッドまで行きたかったのにィ〜。ぶつぶつと一人で不満を漏らしたが仕方がない。
 数時間後、バスはマドリッドの駅に到着した。駅は大勢の人でごったがえしていた。あまりの人混みに驚きながら、一人の外国人旅行者に英語で尋ねた。
「この騒ぎはいったい何ですか?」
「ストだよ」
(2007)





胸に焼きついた


 さて、今日は何をしよう?
読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋。秋は活発に動きたくなる実り多い季節だ。だから、週末毎の僕の休みは予定でびっしり詰まっている。イベント参加、ラグビー観戦、同窓会打ち合わせ等々。今日だって、友人と今開催中のルーヴル展の名画を観に行こうと約束していたのだ。だが昨晩、急に都合が悪くなったとキャンセルの電話がかかってきた。今日は、突然ぽっかりと空いた休日になってしまった。
 ふっと窓から外を見る。ぬけるように高い青空。ほんのり色づいた桜や銀杏の葉に朝日が当たって光っている。家でくすぶっているのはもったいないな。僕は朝食を済ませると、そそくさと散歩にでかけた。
爽やかな風を頬に感じる。各家の塀からつき出ている庭木を眺めながら、自分のペースで歩いてみる。二軒隣の奥さんがトレーニングウェアを着て、競歩でもしているのか、むこうからズンズンやってきた。軽く会釈をする。休日の朝をこんなふうにして過ごすのもなかなかいい。
 ひとブロックほど歩く。あっちの方からワーワーと子どもたちの元気のいい声が聞こえてきた。そして、それに合わせるように、クシコス・ポストの軽やかなメロディーも景気よく流れてきた。ああ、今日はさくら保育園の運動会なんだ。ちょっと覗いてみるか。
 小さな園庭に、子どもたちが丹精こめて作ったであろう旗がところ狭しとはためいていた。そして、園庭の中ほどには白いラインが何本も引かれ、その周りをお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんがぐるっととり囲んでいる。みんなニコニコしながら大声を出し、手を振り回して応援している。運動会の熱気ムンムン、雰囲気は絶好調に達していた。
「次はプログラム七番。五歳児による徒競走です。みんな、がんばって走りましょう」
 若い女の先生が明るい声でマイクにむかっている。
「よーい」
四人の子どもたちがスタートラインに立ち、構えた。
「ドン」
ドンのところはピストルではなく、先生が小さな太鼓を叩く。ははは、かわいいな。ピストルじゃあ、子どもたちがびっくりするからな。
 太鼓の音に合わせて、子どもたちが一斉にワーッと走り出した。みんな真剣な表情だ。へえ、五歳ともなると案外速いんだな。
「よーい、ドン」
「よーい、ドン」
次から次に走っていく。気持ちいいなあ。みんな、元気だなあ。おっ、もう最後のグループか。
「よーい、ドン」
その瞬間、僕の目はそのレースに釘付けになってしまった。いや、正確にいうと、その子に釘付けになってしまった。
その男の子は、ぴょこたん、ぴょこたん歩いていた。足でも怪我しているのか。僕は目を凝らした。義足だった。その子だけが長ズボンを履いていたが、ズボンの裾からは硬いものが見え隠れしていた。他の子どもたち三人は、もうゴールインしてしまっている。トラックに残されているのは、たったひとり、その子だけだった。
「さとしくんっ! がんばってっ!」
マイクで先生が応援する。さとしくんは、目玉が飛び出そうなほどカッと目を見開き、瞬もしないでゴールを睨みつけている。そして、ぐっと歯をくいしばると、倒れないよう一歩一歩慎重に進んでいく。
「さとしっ! がんばれよっ!」
きっと一番仲のいい友だちなのだろう。ひとりの男の子が、ラッパ型にした両手を口に押し付け、脇から声をかけた。すると、その一声に押されたのか、五歳児の子どもたち全員が口々に叫びだした。
「さとしくーん、がんばってー」
「さとしー、いけー」
そして、さらに驚いたことに、僕の足元に座っていた三歳児くらいにみえる小さな子どもたちまでもが、先生に指示されたのではなく、自ら立ち上がって
「ちゃとちくーん、ちゃとちくーん、がんばれー」と声を出し始めたのである。いつしか、園庭はさとしくんを呼ぶ声でいっぱいになった。
僕はふと後ろを振り返った。お母さんなのかもしれない。ひとりの女性が涙をぽろぽろ流して泣いていた。お母さんだって、意を決して子どもを徒競走に出したのに違いない。だが、涙しているのはお母さんだけではなかった。そこに居合わせているほとんどの大人たちが涙ぐんでいた。
「さとしくんっ、あと少し。あと少しだから、がんばってっ!」
マイクを通した先生の声は金切り声になってきた。口先だけのおざなりの応援じゃない。
「先生、さとしくんのために、もいちどテープはろ」
そう言いながら、先にゴールした子どもたちがテープをのばした。
「さとしー」
「がんばれー」
「あきらめるなー」
「あと、ちょっとだぞー」
とうとう、さとしくんはテープを切った。
「やったー」
「さとしー」
「すごいぞー」
 園庭中に歓声が沸きおこった。友だちがワーッと駆けよってきて、さとしくんに抱きついた。さとしくんも友だちに抱きついた。先をこされて抱きつけなかった子どもたちは、さとしくんの周りでぴょんぴょん飛び跳ねている。さとしくんも友だちと抱き合いながら、飛び跳ねたそうに膝を曲げたり伸ばしたりした。そして、目がなくなってしまうほど、目をほころばせ、顔をくしゃくしゃにして、やったー、やったーと声をあげている。友だちのくしゃくしゃになった顔と、さとしくんのくしゃくしゃの顔が、べっちょり擦り合った。
「さとしくん、よくやったねー」
「さとしー、えらいぞー」
「さとしー」
「さとしー」
みんなの笑顔が、みんなの笑い声が大きく広がった。僕は胸をいっぱいにして、ただただ立ち尽くしていた。
(2009)





僕も戦わなくっちゃ


 テレビにイラク戦争の場面が映った瞬間である。九十歳を越え、老衰も進み、意識もうろう、うつらうつらベッドに横たわっていた祖父が、突然目をカッと見開き、大声を出して立ち上がった。驚いたのは、まわりにいた家族である。まるで不気味な魔物でも見るように、祖父のことを凝視した。
 祖父は昭和十七年に召集をうけ、南方ニューギニアに送られた。当時、祖父は二十七歳だったが、運動に精を出す頑強なタイプではなく、読書を好み、仕事に励むという、ごくごく普通の温厚で真面目な青年だった。
 だが、ニューギニアに上陸してまもなく、不運にも栄養失調にみまわれ、早々に船で日本に送り返された。そしてその後は、出征県の軍需工場で燃料タンク製造に従事していた。
 それからしばらくして、南方は戦況が悪化した。ニューギニアへはどんどん兵隊が送られるが、送られる一方の片道船で、帰国させてもらえる兵隊は皆無になった。そのうち、燃料、食料の補給船も途絶え、ニューギニアは大本営から完全に見放された孤島の激戦地と化した。
 ニューギニアでは、兵隊たちが標高四千メートルの厳しい山々を越え、ジャングルの中をさまよった。隊の食料は底をつき、蛇やトカゲ、毛虫まで食した。その蛇やトカゲ、毛虫も食べつくし、しまいには、身につけているベルトや靴も、牛の皮だから煮たら食べられるだろうと何時間もグツグツ煮た。高熱が出るマラリヤや南方特有の強烈な下痢にやられ、体力を完全に消耗する。大勢の兵隊が飢えと病気で歩きながら倒れ、そのまま死んでいく。ジャングルという野外そのもののはずなのに、糞尿と腐った遺体の臭気で充満する。この世のものとは思えない地獄以下の光景だ。
 「食料を送ってくれ」と大本営に頼んでも、返ってくる回答は、「食料は敵国基地から奪え」であった。それは、「食料は、もはや日本から届けることはできない。敵国と戦って、敵軍を倒し、敵の基地にある倉庫から食料をぶんどってこい」という意味だ。
 しかし、兵隊たちは七十キロあった体重がすでに三十八キロにまで落ち、お化けのようにやせ細っていた。小石にも蹴つまづくようなフラフラな体だ。そして、装備している武器といえば、山砲(山中、運搬しやすいように作られた小さな大砲)がたったの八門(門――大砲を数えるのに用いる助数詞)、砲弾もたったの五百発。一方、これから戦おうとしている目の前の敵は、戦車をともなう砲が五十門、砲弾は七十五万発。砲弾だけでも、五百と七十五万だ。この条件下で敵軍と戦って食料を奪えなど、誰が考えても不可能だ。当時、三十そこそこの部隊長たちが、大本営の絶対命令とやせ細った部下の板ばさみになり苦しんだ。しかし、軍隊の命令は上からの一方通行のみだ。「今、戦わなくてはいけないんですか?」とか「弾が不足しているんですけど……」などという質問や言い訳は一切許されない。
 「たいちょう―。弾がもったいなくて撃てませーん」
 兵隊が叫ぶ。そんなことは言われなくても隊長が一番よく知っている。なぜなら、ついさっき、山砲一門に最後の砲弾を二弾ずつ配ったばかりなのだから。隊長は文字通り断腸の思いで叫ぶ。
 「いけー」
 結局、その部隊は砲弾を何百発もくらい、機関銃で弁当箱ほどの大きさの飯盒に三発も当たる密度で射撃され、隊長をはじめ五百名、ほぼ全員が戦死した。生き残った兵士はたったの三十五名。奇跡的に生き残ったその三十五名の兵士だって、翌日には他の部隊に組み込まれ、また戦勝率ゼロ%の戦いに挑むのだ。
 こんな戦いを繰り返し、八月十五日の終戦をむかえた。結局、ニューギニアでは十三万人の兵隊が戦死した。

 戦後、祖父はひと言も戦争のことを口にしなかった。私がニューギニアに係わる仕事についているのに……である。何度か祖父に「ニューギニアのことをやっているから、今度、話を聞かせてほしい」とせがんだが、返事は一切なかった。祖父は戦争のことを忘れてしまったのだろうか。
 考えてみれば、祖父の九十年という長い人生の中で、たいへんではあったが、戦争は昭和十六年から二十年のたったの四年間のできごとにすぎない。
戦後、祖父はある会社に入った。あの頃、日本は「みな、働け働け」の高度成長期に突入していた。祖父もご多分に漏れず、二十四時間、三百六十五日、昼夜休みなく働いた。その甲斐あってか、六十歳で無事、定年をむかえることができた。祖父の人生にとってたいへんだったのは、戦後働いた三十年間だったのかもしれない。たった四年間の戦争は、きっとたいしたことではなかったのだろう。私はずっとそう思っていた。
 が、祖父が突然立ち上がった姿を見て、私は涙を抑えることができなかった。祖父は忘れていたのではなかったのだ。いや、忘れていたどころか、きっと片時も考えずにはいられなかったのにちがいない。そうでなければ、もう死ぬという最後の最後になって、意識ももうろうとしている中、「戦わなくっちゃ」と言って、立ち上がったりできるものではない。
 ニューギニアから帰って来られた兵隊さんは、ほんの少しだ。
 ――自分は栄養失調になって、ろくすっぽ戦いもせず、おめおめと生きて帰ってきたのだ。あの時、ニューギニアに向かう船に乗り、一緒に語り合った山本くんも、石田くんも、原口くんも、みんな戦死した。手垢でボロボロになった白黒写真を手に、「これが母ちゃん、これが妹だ。妹はまだ、小学生なんだ」と教えてくれた田中くんだって、砲弾に当たって戦死してしまった。彼らだって、みな好青年で夢も希望も未来もあった。彼らだって、僕みたいに九十歳まで生きる権利は十分あった。なぜ……、なぜ彼らは、二十代という、人生まさにこれからという時に死ななければならなかったのか。なぜ、僕だけが生きることになってしまったのか。「生きて、すまん。今、毎日こうして、白い握り飯を食って、ほんとうに申し訳ない」
 こんなふうに考えだしたら、胸は張り裂け、気は狂いそうになる。そして、最後には何も語りたくなくなる。
 生きて帰ってきた兵士たちも死ぬまで苦しむのだ。「生きる」という、本来ならば当然ともいうべき「喜ばしい、素晴らしい行為」にどうしようもない罪悪感をいだく。
 「生きていたらいけない」「僕も死ぬまで戦わなくっちゃ」
 このトラウマに一生苦しめられるのだ。
 (2010)

参考文献
「愛の統率 安達二十三」 小松茂朗 一九八九・一・一三 光人社
「米軍が記録した ニューギニアの戦い」 森山康平 一九九五・八・一五 草思社







弟だもんな


 僕の隣に少年が座った。
 ここは東京、山手線の車両内。空いている席も吊り革もなく、立っている客も隣の客と肩が触れそうになるくらいに込んでいる。
 少年は十歳ほどだろうか。外遊びが好きなのか、真っ黒に日焼けしている。ポロポロと皮がむけている鼻のそばで、いたずらっぽい目がクリクリッとよく動いた。少年らしい少年だ。僕が子どもの頃だったら、悪さばかりして先生に叱られ、いつも廊下に立たされているタイプだろう。膝の上に二歳くらいの弟を抱いていた。
 ――めずらしいな。
 子どもが子どもの世話をする光景、昔は日常茶飯事だったが、最近はあまり見かけない。とくに、都会の東京では……。
 はじめのうち、半分赤ん坊のような弟は、少年にむかってキャッキャッと喋ったり笑ったりして陽気に振舞っていた。が、ふと気がつくと、いつの間にか静かになっている。どうやら、少年の腕の中で眠ってしまったようだ。瞼が半分閉じ、手足がぶらんとしている。少年は弟の顔を覗き込み、頭がカクンとならないよう腕で重そうな頭を支えたり、弟の足が隣の人のズボンに触れて汚したりしないよう弟の足を自分の方に引き寄せたり、マメマメしく世話をしていた。
 ――初めてじゃないな。
 僕はそう直感した。
 ――時々、こんなこと、しているんだろうな。
「とうきょう〜、とうきょう〜、お降りの方は〜」
 電車が東京駅のホームに滑り込んだ。少年たちの母親が、少し離れた所から人込を掻き分け、慌ててやって来た。そして、歯切れよくひと言、
「降りるわよ」と放った。
 少年は弟を抱きかかえ、急いで電車を降りホームに立った。僕も降り立った。
 見ると、この親子三人はこれから帰省しようというのか、母親は大きなスポーツバッグを二つ抱え、リュックサックをしょい、さらに土産の入った紙袋まで提げていた。
「そんな顔しないで、抱っこして来てよ」
 母親が厳しい口調で言う。
 ――そうだ。これと同じ場面、前にもあったな。僕もそうだった。小さい頃、田舎で……。

「ぶつくさ言わねんで、抱いでやなが」
 おっかあと弟とおらの三人で野良仕事に出かけた帰りは、いつもこうだった。五歳の弟はチョコチョコとよく手伝ってはくれるのだが、野良仕事が終わって帰ろうとすると、必ず「疲れだ」「眠ぷて」と言ってだだをこね、歩こうとしなかった。
「たけし、抱っこしてやなが」
 おっかあが怖い顔して言う。仕方なく、ぐずぐずしている弟を抱き上げる。すると、どうだろう。今抱き上げたばかりだというのに、もう静かになっている。おらの腕の中で寝入ってしまったのだ。スースーと気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。弟の体がずしりと重く感じる。心地よさそうに眠っている弟の寝顔を見ると、無償に腹が立った。鼻をギュッとつまんで泣かしてやりたくなった。
 ――おらだって疲れでるんだよ。おまえのことなんか抱いで、あさぎたぐない(歩きたくない)。
 だが、それはおっかあには言えなかった。おっかあの方が、おらよりも野良仕事うんといっぱいして、おらよりもうんといっぱい疲れているはずだ。それに今、おっかあは鋤だ鍬だといっぱいかついで、弟の体よりずっと重い物を持っている。弟を抱いてやれと言うのは、おらに軽い方を持てというおっかあの優しさなのだ。
 ――よぐ分がってる。ばって……。
 おらは歯をくいしばった。おらの不満をぶつけるところはどこにもなかった。
 ――なして弟なんだよ。なして兄(あん)ちゃんでなくって弟なんだよ。こんな時、おらにもし兄(あん)ちゃんがいたら……。おらの手ェ引いて歩いでくれだがもしれね。よく手伝ってくれだなって優しい言葉かけでくれだがもしれね。兄(あん)ちゃんがいたら、どったがさ、いがったが……。
 顔をあげると、おっかあはもう歩き出していた。ずっと先の方を歩いている。こんな日の落ちた暗い畦道で、おいてきぼりを食ったらたいへんだ。こんな寂しい道、おっかなくって一人では絶対帰れない。弟の顔を覗き込む。半分口を開き、何の心配ごともない安心しきった顔で、おらの肩に頭をのせていた。
 ――今ここで置き去りにしたら、目が覚めだ時、おっかあ、おっかあって気が狂ったように泣くべな。走り回って田んぼに落ぢでまるかもしれね。んや、その前に野良犬に食(くわ)れでまる。
 そんなことが、一瞬にしておらの頭の中を駆け巡った。もう一度、弟の顔を覗き込む。さっきと同じあどけない顔をして眠っている。いつの間にか、小さな手でおらの着物の襟をぎゅっと握っていた。
 │仕方ねぇべな。弟だもんな。
 おらは弟を支えている腕にぐっと力を入れると、そのまま歩き出した。


 ――同じだ。
 少年たちの母親は大荷物を抱え、もう歩き出していた。少年は、こんな人の多いごちゃごちゃした東京駅で、おいてきぼりを食ったらたいへんだ。こんな喧騒な駅、おっかなくって一人では絶対動けない。
 少年は顔を歪め、泣き出したそうになった。が、次の瞬間、ぐっと目を見開くと、弟を抱えたまま歩き出した。
 僕は、先を行く母親と、弟を抱いて母親を追う少年を見つめた。後姿が見えなくなるまで目を離さずに、ずっと……。
 ――少年、がんばるんだぞ! 兄ちゃんなんだから。

(方言指導 佐藤真由美)

(2011)





安喰善作(あじきぜんさく)


 昭和の初め、東北地方は何年にもわたる冷害が続き、農家の暮らしは悲惨なものだった。子どもたちは、ろくな食事もとれず、大根をかじっては飢えをしのいでいた。村のあちこちに『娘身売り相談所』が設けられ、十七歳前後の若い娘たちが、家の借金返済のため東京の芸娼妓に売られていた。両親は「明日はいったいどうやって食い繋ごう」と夜毎に話し合い、途方に暮れていた。それほど貧しい毎日だった。
 そんな時、郵便配達をしていた志げの夫が病で死んだ。五歳の息子善作と志げを残して……。
 その日から、母子の生活は貧しい生活から極貧の暮らしに一変した。志げは歯をくいしばり、かかとでふんばって頑張った。なにがなんでも、どんなことをしてでも、必ず、必ず、善作を立派に育てようと。
 その頃、自分の田畑を持てない農民が生計を立てるのは容易ではなかった。まして、女一人では不可能に近いほど難しかった。
 志げは手間賃を稼ぐため、朝は早くから近くの農家に行き、田植えや草取りを日がとっぷりと暮れるまで手伝った。夜は夜で針仕事を請け負い、寝る暇も惜しんで必死に働いた。志げは三度の食事を一度に減らし、成長期の善作にまわした。少しでも多くメシを食わせれば、それだけ善作の背も伸び、立派な青年に成長すると思ったからだ。その姿を目に浮かべれば、自分の食事を減らすことくらい、なんということもなかった。
 そうは言うものの、母子二人の暮らしは少しも楽にならなかった。雪国では十一月から三月の冬場、炭焼きといって伐採した木を窯で焼き、木炭を作っていた。できあがった木炭は、俵にして遠い集積所に運ぶが、山中の窯から馬車が走る通りまでは、人が背負って運ぶしかなかった。
 善作は高等小学校(尋常小学校終了後に通う二年間の学校)に入ると、炭焼きの人にその炭俵運びをやらせてほしいと頼み込み、日銭を稼ぐようになった。学校が終わると、炭俵二つを背負い、窯と通りの間を四往復する。ゴム長靴のような高価な履物はもちろん買ってやれなかったから、志げが夜鍋して編んだ藁沓を履いた。冷たい雪が藁沓の編目から滲み入り、足袋を履いていない素足はあっという間に凍えてしまっただろう。家に帰って来ると、真っ赤に膨れあがった足先を囲炉裏に当て、温めていた。
 善作が高等小学校を終えると、志げは善作と一緒に近所の農家に行き、農作業を手伝った。農閑期に入ると、善作は道路工事を請け負って日銭を稼いだ。二人して働きに働いた。
 昭和十七年、次第に軍事色が濃くなってきた。貧しい農家では、十代の食べ盛りの少年たちが「俺(おら)がいなければメシを食うやつが一人減り、家が楽になるべい」と考え、自ら兵隊に志願するようになった。志げの村でも、若い男たちは根こそぎ兵隊にとられた。いつかは善作も……と思うと、志げの胸は張り裂けそうになった。そして、いつしか「なぜ安喰(あじき)の息子は若(わけ)えのに兵隊に行かねえだっぺい」と囁かれるようになった。
 ある晩、吊るしランプの下で、志げが背中を丸め、針仕事をしていると、囲炉裏端で根っこを突ついていた善作が、もそっと言った。
「おっかあ、俺(おら)、兵隊に行くべいと思うんだが……。おっかあ一人にしてよかぺいかあ」
――ついに……。
 志げは泣くまいと奥歯にぐっと力を入れた。善作に心の動揺を悟られないよういつもの声を出すのがやっとだった。
「いかぺいよ。おっかあ一人でもなんとかやるから。しっかり奉公してきなあ……」
 突然、善作が「おっかあ」と泣きながら胸に飛び込んできた。志げは堪(こら)えていたが堪(こら)えきれず、善作と抱き合って一緒に泣いてしまった。
 その晩は二人して床を並べた。二人ともなかなか寝つかれなかった。だが真夜中を過ぎ、善作の寝息が聞こえてくると、志げは善作の傍らに正座をし、寝顔を覗き込んだ。涙がぽたりぽたりと膝に落ちた。そっと善作のほほに手を触れた。
――おっかあの稼ぎが悪いばっかりに、貧乏でひもじい思いをさせて悪がったなあ。辛がったべいなあ。おまえが小学校四年生の時に、おっかあが字も読めず書けもしねえからて、ひらがな教えてくれだっけな。おっかあのもの覚えが悪いから、ふくれたりしてだな。だげど、次の日また思いなおして、根気よく教えてくれだっけな。ありがとうなあ。二人して農家の手伝いに行った時は、暑くてかなわんがったなあ。だげど、終わった後の深井戸の水は冷たくてうまがったべ。あん時のおまえの嬉しそうな顔ったらながったべ。
 そして十七年春。長くて厳しい冬が終わり、ようやく柔らかい日差しが降り注ぐようになった。いつもは閑散とした小さな駅に、今日は大勢の村人が集まっている。善作の出征を見送りに来てくれたのだ。
 善作が村人の前で敬礼する。言葉は交わせなかったが、目と目が合った。十七年間一緒に暮らしてきた息子だ。善作がどんな気持ちでいるかぐらいは痛いほど分かった。善作の口元がかすかに震えた。
――善作……。
 善作を乗せた汽車が静かに走り出した。志げが越えたことのない山々にむかって、しだいに小さくなっていく。朝(あさ)靄(もや)と木立に見え隠れしながら、さらに小さくなり、そしてついに見えなくなってしまった。後には、まるで汽車が通ったことなど嘘のように、朝(あさ)靄(もや)がそのまま残っていた。
 善作のいない日々が始まった。朝、おはようと言う相手がいない。善作のいないちゃぶ台で一人、朝メシを食う。農家の手伝いに行く。昨日までは善作と一緒に歩いた畦道を今日は一人で歩く。一緒にしていた農作業も今日は一人だ。夕暮れ、「おっかあ、夕日がきれいだべなあ」と目を細めていた善作は、今日はもういない。毎日、毎日、思うことは善作のことばかりだ。善作が脱いでいった着物は、洗濯もせずそのまま畳んである。善作のにおいがまだ残っているからだ。そっとほほに当て、においをかぐ。
――善作、どこにおるか分がらんが、苦労してねえといいだべなあ。腹いっぱいとは言わねえが、ひもじい思いしてねえといいだがな。
 志げは次第に元気がなくなってきた。今までは、善作が農家の手伝い、炭俵運搬、道路工事と肉体労働を一手に引き受け、日銭を稼いでくれた。その善作がいなくなってしまったのだ。東北の厳しい冬の中、志げ一人の力では体力に限界があった。そして、十八年十二月、善作が入営して二年が経過しようとしていた。ある寒い朝、志げは静かに息をひきとった。

 それから三ヶ月ほどして、志げのもとに一通の手紙が届いた。志げが毎日手伝っていた農家のおかみさんが、志げに代わって開封した。
―私は東部ニューギニア(現パプアニューギニア)の野戦病院で、安喰(あじき)善作上等兵の横に床を取っていた岩谷という者です。安喰(あじき)上等兵は十八年十二月、戦病死されました。最期は、故郷に残してきたお母様を思いながら、小さな声で『誰か故郷を想わざる』という歌を口ずさみ、そしてさらに小さなかすれた声で「おっかあ」と呼ぶと、そのまま息をひきとられました。安喰(あじき)上等兵の薬指のご遺骨と遺品です。
 遺品は、石が二つと善作の手紙だった。
―おっかあ、俺(おら)は今、南の国でマラリアという病気にかかっている。早く死ぬかもしれん。おっかあといつか海を見ようなあと約束してだが、一緒に行けなんだな。ここの海の石だべ。おっきい方はおっかあ、ちっさい方は俺(おら)だ。父亡き後、十九年も育ててくれてありがとう。ありがとう。なのに、俺(おら)はおっかあになもしてなんだ。すまなかったよう。許してくんろ。
「おっかあ」の「かあ」の字と「ありがとう」の「あ」の字が、ひときわ大きな字で書かれていた。


岩谷壽春様(東北出身、愛知県在住、九十二歳)が書かれた「誰か故郷を想わざる」に心打たれ、この作品を書きました。この度、岩谷様に内容、方言のチェックをしていただきました。ありがとうございました。
(2012)