戦争は生きている ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 多賀谷城司




 霊魂の存在について唐突な質問があったなら、躊躇なく霊魂の存在を肯定する側の語り部に変身するだろう。悲運の激戦地フィリピンに工兵部隊の慰霊団を引率した。この添乗において霊魂に導かれた運命に遭遇した。顧客心理などを詳細に書き記した添乗メモを残していた。仕事熱中症に侵され転機が訪れた。複数の病に侵され入院と手術を繰り返した。長期療養が求められ、齢五十歳を目前に早期退社した。療養生活の中で膨大な資料を丹念に整理した。出逢った人間模様が走馬灯のように駆け巡った。フィリピン慰霊団の添乗メモを手にすると鮮烈な閃光が走った。無我夢中で資料の整理に没頭し三昼夜かけて読み漁った。戦争は巨大な殺戮だ。悲惨な戦争を過去として考えてはならない。私が書き記しただけでも膨大な記録が残されている。帳面に走り書きされた真実が戦争は生きているという衝撃を齎した。平和呆けになっている現代だからこそ戦争の真実を書き記さなければならない。

 文字が乱れ滲んだ添乗メモには復員兵や遺族の熱い言葉が貼り付いている。鮮明になった記憶を手繰り寄せ紐解いた。……戦争末期は軍隊組織が完全に壊滅していた。食料も武器弾薬も補給が途絶えていた。完全に見捨てられた状態だ。武装解除の時は自決用の一発の銃弾すら残されていなかった。多くの将兵が自決できない無念を嘆いた。何故生き残ることが屈辱なのか、戦後生まれには理解ができない。日本軍の軍事教訓で徹底的に洗脳された結果だ。フィリピンのジャングルに潜んでいたこの部隊が武装解除を受けたのは九月七日だ。天皇勅令から三週間も後の事だ。この三週間を生き延びたからこそ日本に帰還できた。降伏。捕虜。敗北――これらの言葉は軍事教訓から完全に抹消されていた。考えることすら許されなかった。戦争中、飢餓に苦しみ鬼畜と化した将兵が無差別に民家を闇討ちにした。凄惨な殺戮と強奪が繰り返された。戦後、惨劇現場に居合わせた将兵は捕虜収容所で重い鬱状態になった。戦争は正常な人間ほど精神異常となる。精神が弱いからではない。殺戮を平気で実行する人間は凶悪な殺人者と同じだ。

 この部隊の中隊長は軍隊の指揮官でありながら人間としての尊厳も教えていた。略奪や強姦はするなと徹底して訓示していた。人間の尊厳を忘れるなという訓示は軍隊では異例だ。「あの中隊長がいたからこそ、我我は鬼畜にならずに済んだと思っている」と復員兵が明言した。誰もが尊敬の念を持って中隊長を語った。

 太平洋戦争の犠牲者は二千五百万人に達している。日本軍兵力は昭和二十年に七百八十九万人まで増強された。日本軍将兵の犠牲者は二百二十万人を数え、本土空襲や原爆による非戦闘員の死亡者は百十万人と言われている。それだけではない。日本人以外で犠牲になったのは二千万人以上と推計される。局所的大虐殺の検証も大切だが、想像を絶する全体の犠牲が意外なほど論議されていない。

 穏やかな機内にルソン島が見えるというアナウンスが響いた。誰もが窓に顔を擦り付けて見下ろした。窓側席を譲り合った。マニラ国際空港でタラップに立つと、綿シャツの袖口を熱風が通り抜けた。ザワザワとする陽炎が舞い上がった。四十年前の地獄絵図が蘇る蜃気楼を予感させた。マニラから中型バスで北上を続け、北部山岳地帯サンホセに近づいた。復員兵三人が車窓からの景色と現地で入手した地図を見比べ始めた。元伍長の記憶力は健在のようだ。羅針盤を失った船のように彷徨うジャングル行軍を何度も救ったのが、元伍長の研ぎ澄まされた記憶だった。まるでGPSが作動しているようだ。複数のポイントを確認して雑木林を絞り込んだ。腐葉土を踏みしめ顔や手足に絡んでくる小枝や蔦などを掻き分けて歩いた。やがて辿り着いた。直径五メートルほどの擂り鉢状の穴が四十年間も悲惨な原型を留めていた。強力な砲弾が炸裂した跡であることは容易に認識できた。戦友が、夫が戦死した場所だ。未亡人達はへたり込んだ。水晶の数珠を額に当て烈しい念仏を唱えた。その瞬間、鼓膜の振動が止められ不思議な静寂が訪れた。鳥の声も風のそよぐ音も雑木林から消えた。抑揚が烈しい念仏は恐山のイタコが交霊している神秘さえ感じた。悲劇の穴を囲んで参加者全員が涙の合掌を続けた。

 さらに北上し、途中の小学校や町役場に立ち寄った。一箱ずつの文房具を寄贈した。日本の慰霊団で、所属部隊は家坂隊であると伝えた。突然の訪問だったが驚きの反応が返ってきた。イエサカ隊の名前を親から聞いて知っている人が多く、この部隊の良い印象が残されていた。確実に中隊長の訓示が実践されていたことを裏付けていた。

 バヨンボンに近づく頃から慰霊団が踏み荒らした畑を随所で目にした。卒塔婆、線香、お菓子、日本煙草などが供えられ、空になった一升瓶や弁当箱が散乱していた。地元の感情を逆撫でし全く無視している。民衆の心の傷に粗塩を擂り込む深刻な問題だ。僅か二日間で三箇所も破廉恥な慰霊団の存在を現実に目撃した。「こんなことでは当時の戦争の時となんら変わりはない」と復員兵が吐き捨てるように呟いた。徹底的に踏み荒らした大地と民衆を再び踏み荒らしている。何故このことに気付かないのか。このような慰霊を繰り返しても戦友の霊魂が鎮まるはずがない。このような非常識な事実を日本の新聞やテレビに取り上げられたことはない。

 バヨンボン市内に到着した。表敬訪問の約束を取り付けていた市長と面会した。四十歳代半ばの市長は笑顔こそないが、実に穏やかな表情で家坂中隊関係者を迎えてくれた。

「皆さんのことは訪問趣旨を説明した手紙をいただいており理解しています。イエサカ隊という部隊の名前も長老から聞き及んでいます。イエサカ隊の皆様が私達を人間として接してくれた数少ない部隊であったことを理解しております。当時は価値のなくなった軍票で食料を無理やり持ち去り、田畑からも野菜や穀物がほとんど略奪されました。イエサカ隊の皆さんは極限の飢餓の中でも私達から略奪をしなかったと聞かされていました」

「しかし非常に残念な話もあります。最近バヨンボンにも数多くの日本人が慰霊団として訪れています。耕作中の田畑に勝手に慰霊碑を建て畑が踏み荒らされている事実があることも理解してください。私の命令で違法に建てられた慰霊碑は全て撤去作業をしています。屈辱の戦争が終わっても、私達は日本軍からまだ解放されていないのです」

 市長が語気を強めて話をした。参加者の誰もが慰霊碑の建立は無理かなという不安な気持ちを隠せなかった。市長はどよめきを遮るかのように首を横に振りながら話を続けた。慰霊碑の建立場所として農業短大のキャンパスを紹介してくれた。市長の電話で説明を受けていた学長が待ちかねていた。学長は挨拶の冒頭からキャンパス敷地内に慰霊碑の建立を認めてくれた。学長の挨拶が済むと全員で立ち上がり御礼の挨拶とお辞儀をした。突然、日本人青年二人が息を弾ませながら飛び込んできた。二人は海外青年協力隊のメンバーで農業の指導をしていた。二人に簡単に今回の訪問の目的を説明した。快く場所探しを引き受けた。十五分ほどして笑顔を見せながら誇らしげに戻ってきた。二人に先導された場所は広いグランドの片隅にあった。サッカーと野球が同時にできるくらい広大なグランドだ。直径八十センチ以上もある巨木が十数本スクッと立っていた。成長の早い亜熱帯でも少なくとも五、六十年は経っている巨木だ。ここならば将来を考えても建物を建てる雰囲気はない。希望する二坪から三坪ほどの広さも充分に確保できる。海外青年協力隊の二人が両手で囲んで慰霊碑建立の具体的な場所を表現した。学長は間髪をいれずに拍手をしながら賛成した。これで慰霊碑の建立場所が決まった。

 巨木を見上げながら周囲を気にしていた復員兵が小声で話し込んでいた。巨木の群生している一帯と慰霊碑を建立することが決定した場所を検証しているようだ。しばらくして検証の内容を説明した。ここは旧日本軍の野戦病院の跡であり、家坂中隊の戦友八名を荼毘にふした場所だと云う。学長が女子学生数人を呼び寄せ、近所に住む長老を呼んで確認するように指示した。ほどなく六十歳を過ぎた老人達が歩いてきた。事前の説明なしに野戦病院の場所を尋ねると二人の老人が顔を見合わせた。巨木の位置関係を確かめグランドの方にスタスタと歩き始めた。すぐに立ち止まり何度も頷いた。二人とも右足で足元を踏みつけた。両手を広げて建物の位置を表現する仕草をした。野戦病院の位置が確定した。霊魂は存在することを確信した。戦友の霊魂がここまで呼び寄せてくれたのだ。大きなどよめきの後で南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経の声が唸り始めた。復員兵は戦友の魂が生きていることを噛み締めた。学長も感動的ミラクルに遭遇し神の祝福に感謝した。荼毘に付した場所を囲んで騒然となった。狂ったように数珠を額に擦り付けた。指先で地面を掻き毟った。激しい祈りに数珠がはじけ飛んだ。荼毘にふされた戦死者の霊魂が呼び込んだのだ。これほど激しい祈りと直面したのは後にも先にもない。立ち竦んだ復員兵も数珠を取り出しお経を読み上げた。海外青年協力隊の二人は短時間における急激な展開に驚きを隠せず、お互いの手を握り合い諤諤と震えた。私の頬にも幾筋もの涙が止まらない。いつの間にか数十人の農業短大の学生達が囲んでいた。

 第一回慰霊団の最大の目的は慰霊碑の建立場所の確保だった。戦友の霊魂に導かれるように選ばれた場所は多くの戦友が荼毘にふされた因縁の深いものとなった。農業短大の学長は慰霊碑建立の許可とその維持管理に関する証明書をすぐに作成してくれた。 

 成田空港に向かう帰路、眼下に広がるルソン島を見ながら手を振った。参加者の誰もが一年後に御影石の慰霊碑を建立するために再会できることを心に誓った。やがて日本の領域に入り晴れ渡った青空に霊峰富士が輝いていた。慰霊団が成功して無事に帰れたことを富士山に感謝したのかも知れない。富士山に両手を合わせた。合掌。