本当の自由を求めて・・・・・・・・・・・・・・・・・・田端 健



 我々は、日々、生活を送っている。それは、自覚しようがしまいが誰しも為している事柄だろう。ところで、生活とは何か?
 私は、思う。生活とは、生命活動の総体であると。人間は、生命を有する事の発現として様々な活動を行なっているが、生活というのは、この様な活動を総体的に把握した概念である。
 人間は、この生命活動を維持する為に労働し、そして、その労働の対価を取得する。この対価は、金銭に化体する。金銭として化体されたものは、人間の生命活動の一断面である、消費活動に反映する。それらの活動は言うまでもなく意識を伴う。そして、この両者は互いに影響し合っている。活動は意識に影響を与え、意識は活動に影響を及ぼす。
 意識が生活を規定するのか、生活が意識を規定するのか。この様に問題を提起する事は可能であると考える。だが、いずれも、事柄の一面のみを語っているに過ぎないだろう。
 この点について、私は、次の様に考える。生活と言っても様々な場面が存在する。人間は、生命活動を維持する為に、生産活動としての労働をし、その対価を取得し、そして消費活動をする。そして、生産活動が他者と係わりを持つとき、それは同時に社会活動としての面を有する。又、消費活動が他者と係わりを持つ(消費活動は当然に他者との関係を前提とする。)とき、社会活動としての面を有する。そして、これらの、それぞれの活動の客観面が、人間の意識を規定するのではなかろうか。
 これに対して、意識が生活を規定する事はないのか? 有りうると私は思う。が、意識は先験的なものではなく、必ず前提を伴う。無前提な「宙に浮いた」意識というものは有り得ない。だが、個別的な活動の客観面によって一旦規定された意識が弁証法的に発展する事はあり得るのだ。
 そして、次に、人間の意識を規定する主なものは消費活動であると私は考える。それは、生産活動・社会活動・消費活動のうち、消費活動が「生命活動の維持」にとって最も直裁的だからである。つまり、生命活動の総体のうちの消費活動の客観面が、人間の意識を規定する主なものである(ここで我々は、経済学者であるウェブレンの見解に触れる事が出来るが、ここでは止める事にしよう。)と私は考える。
 ここで指摘されるべきは、金銭の持つ、いわば現実的な性格ではなかろうか。
 労働により取得された対価は、確かに金銭に化体する。だが、金銭は、労働の象徴ではなく、又、労働に付随した様々な事柄の象徴ですらない。金銭は、少なくとも人間の生命活動の何らかの化体であるが、人間が消費行動に入った時に、その金銭を取得する契機となった、それ以前の段階の生命活動の一部とは切り離される。生命活動の総体としての人間の活動は、金銭を媒介として局面を変えるのである。金銭の高度な抽象性は、生産活動と消費活動とを全く分断してしまう事を可能にしてしまったのだ。つまり、『犯罪によって取得した金』によって消費活動をしている人間の存在を可能にしている事が問題であると私は思う。その様な人間の持っている意識の内容はどの様なものだろうか?
 ところで、意識は、形成されたまま不動のものではない。それは自ら対象を予定する。意識がいわば対象化され、それが対自化されると、自己の生命活動そのものを把握する様になる。一般に「内省」といわれるのは、この様な事柄を意味するのだろう。
 ――私は、この年になって「学習」しようと思う様になった。それは謂わば内省によるものである。「人間は、自分にないものを求める。」然し、この言説は、『時間性』を捨象して考える事は出来ない。満足に食事を与えられなかった者が食事を欲する様に、満足に学習の機会を与えられなかった者が学習しようと欲する様になるのだ。この言説は、決して「時間」の流れの中の一時をとらえた、その人間の属性に関するものではない。――。
 前述の様に、生命活動が他者と係わりを持つ時、それは社会活動としての面を有する。
 この社会活動を把握する事は、広義の「社会学」の問題である。哲学者オルテガは、次の様に言う。『社会とは何かを探求しようという(この)望みは、われわれの生命に関わる問題なのだ。それゆえこれは、考えられる限りもっとも真正な問題なのであり、したがって社会は、先に述べた用語を用いるなら、とてつもない「必要事」なのである。』(『個人と社会』A・マタイス、佐々木考訳、白水社)
 評論家であり思想家でもある吉本隆明は「社会事象」を総体的に把握しようとするが、吉本が把握しようとした社会事象は、私が、前に記した社会活動としての面に限られない。社会事象の中には、生産活動・社会活動・消費活動に包摂されないものも存在するからである。だが、古くから社会主義や共産主義と対立的な概念として用いられてきた資本主義の内容を把握する事は、オルテガの指摘する「生命に関わる問題」とまでは言えないとしても、大事な事柄であると思う。
 資本主義という言葉が用いられる様になって久しいが、最近に至っては「金融資本主義」という言葉が流行し、又、株式の相互持合いにより支えられている資本主義という指摘もよくなされた。資本主義という言葉は、山崎正一氏の言葉を借りれば「意味開放系」(『幻想と悟り』山崎正一、朝日出版社)なのだろう。{因みに「共産主義」という語の内容も流動的だ。吉本隆明は、「政治制度とその下にある市民社会の間には、マルクス主義が指摘する様な関係(マルクス主義は、下部構造である経済構造と上部構造である政治構造とは関係を持つとする。)はない。」と指摘する(吉本隆明が語る戦後55年B三交社刊、15頁〜16頁)が、この事は、北朝鮮の「世襲制の共産主義」を考える際に、有益ではなかろうか。}吉本隆明は、最近の資本主義を「消費資本主義」指称しているが、吉本は、消費者も商品を選択する事が出来る立場を持つ事を通して社会を変える事が出来るという肯定的な見方にウェイトを置いたのだろう。資本主義の枠組みが社会の流動性に左右される事があるのは、否定できない。この事は市場原理からも首肯しうるのではないか。物の需要に応じた供給が更に新たな需要を生み、又、供給の欠乏がまた新たな需要を生む事はあり得るからである。
 前述の様に、消費活動は、人間の意識を規定する主なものだ。
 消費活動は楽しい。それは自由を感じるからだ。ところで、自由である、とは何か?
 ベストセラー「アウトサイダー」の著者であるコリン・ウィルソンは、こう記している。
「基本的問題はドイツの哲学者フィヒテのこんな要約につきよう。『自由であることなど、どうということはない。自由になることが素晴らしいのだ。』」又、こうも言っている。「人間というものは、恐ろしいほどすぐにものを忘れてしまうのだ。」{『ずっと人間のことばかり考えていた』(小川隆訳、アスペクト社)より抜粋}
『人間は、不自由である事をいつも忘れず自由を得る事に努める事が大事だ。』という事をコリン・ウィルソンはここで主張しているのである。
 自由とは何か? ヘーゲル主義者は、次の様に言っている。「自由とは、一般的に、必然性の認識と、この必然性にくわえられる能力として、弁証法的に規定される。」(ルフェーブル著『美学入門』より抜粋)
 私は、次の様に理解している。
 必然性の認識は、自由である事と同一ではなく、消費活動によって形成される意識とは別のものである。それは、オルテガが、『生命に関わる問題』とした「社会とは何か」を把握しようとする望みと同義ではないにしても、それと基を同一にするものだ。そこにあるものは、消費活動に見出される楽しさとは異質なものである。そして、それは人間が、本当の自由を獲得する為の契機となるものであろう。人間は、原因があって生を受け、その原因と或る距離の連鎖を持った因果の流れの中には「必然性」が内包されている。
 そして、生まれる原因はあっても生まれる理由の無い人間は、その必然性を認識し、必然性と戦って自由を勝ち取らなければならないのだ。
 私には思えてならない。人間の生は自由を獲得する為のものであると。