女性であること、人間であること・・・・・・・・・・・・・・・・・・澄 眞子



 青天の霹靂とはこのことだ。カルテに「不妊」という文字を垣間見て私は瞬きをした。文字通り目を閉じて開け、もう一度目を閉じて開けたのだ。「これは夢なのか現実なのか。」約1秒か2秒、考えた。不妊。英語でsterlility。不妊症の、という形容詞はsterile。ステラル、ステラル。心の中でつぶやいて産婦人科を後にした。世界がゆらゆら揺れている。ふらふらしながら家路についた。それは私の人生で最も過酷で屈辱的で、最も衝撃的な、思いもよらぬ不幸な一瞬になった。今から20年も前のことである。

 自分に子供ができることは当たり前のことで、結婚する時には妊婦服まで用意した。体格も良く腰も広く、あなたは多産型ね、と言われていた。子供ができないと診断されて、余計子供をのどから手がでるほど渇望するようになった。絶望と悲しみの日々であった。

 その頃の私は商家に嫁ぎ、食料品店でレジを受け持っていた。都会から人口4万人弱の小京都と呼ばれる温泉街のこの町で新たに人生を始めて3年近くたっていた。「子供はまだか。」「赤ちゃんはまだか。」毎日周囲に言われた。レジで立っていると、お客さんがわざわざおなかに手を触れてきた。そして「まだ?」と聞く。私はまるで射程距離から逃げられないひな鳥のように怯えながら、すっかり降参したぎこちない笑みを浮かべ、「はい。」と答える。それが繰り返される日課であった。

 仕事が終わった後、温泉に行くのが楽しみの一つだった。あついお湯に身をゆだねると一日の疲れがさっと取れるのだ。ただ、やはりレジで顔を知られているので、近所の客と湯船の中で出くわすことがたびたびあった。その人は又、同じ質問をしてくる。「こどもはまだ?」と。私は、「はい。」と答える。彼女は舌打ちして、さもだめだなあ、という風に私の体をじろじろ見て言った。「あんたの体は子供に乳やった体なのにねえ。」と。私は叫ぶ。心の中で。「違う、ただふくよかなだけなんだ。」と。なんだか落ち着かず、早々に風呂から退散する。着替えもせき立てられるようで妙にぎこちない。

 以後近所の喫茶店がささやかな避難場所になった。店が終わり、食事が済むと、1時間ばかり家を抜け出してよくその喫茶店に通った。暗い2階へ上がっていく。いつもマスターがにっこり笑って私を迎えてくれた。彼は決して私のプライバシーには一切触れず、ただ一人の客として扱った。ありがたかった。私は誰とも顔を合わせずにすむ奥の席を選び、店の玄関に背を向け、深々とソファに身を沈めた。コーヒーを注文して、今日の新聞を見て過ごすそのひとときが私にとってはかけがえのない、自分であることのできる唯一至福の時であった。

 義父も義母も夫も、私を気遣ってくれた。子供がいなくてもいい、とまで言ってくれた。そこまで言われると余計に孫を産めない自分が情けなかった。私は相変わらず産婦人科に通っていた。他の病院はどうか知らないが、行きつけのその病院では、問診をせずにいきなり検診室に通された。見せるところが見せるところで、かなり苦痛を伴う。カーテンで向こうの部屋から遮断され、患者はまるで死刑台のような冷たい階段をはだしでのぼって脚を開く。カーテンが開き、やがて医者の「はい、調べます。」という声がする。どうも患部にスムースに機械が入らないようだ。私は緊張しすぎて堅くなってしまっているのを十分すぎるほど知っている。しかしどうして良いか分からない。医者が「痛くないからね。さあ、大きく息をして。」と言う。局部に金属のような冷たいものが入ってひきつるように痛い。死ぬんじゃないかという恐怖と 度を越した羞恥心と必死で戦うのだ。私の頭は真っ白になり、ただただ「神様、どうぞ助けてください。」と祈るだけだ。この時だけは時計の針が嘘のようにぴたっと止まってしまうのだ。まるでその激痛が永遠にそこに張り付いてしまったかのように。

 すると医者は「〜の検査もしておきましょうね。」「がん検診もしよう。」と言いだした。私は検診が早く終わってほしいのと、何故患者の意志も聞かずに検査をするのかという疑問と怒りがわいてきて、「検査はしなくていいです。」と2度言った。1度目が聞こえていない気がして。しかし、医者は手を休めない。違う機械を手に持って、ハンマーみたいに打ち始めた。私は夢中で医者の足を蹴った。「やめてください。」と叫びながら。帰る時には検査料といって、法外なお金を取られた。以後、その病院に行くのはやめた。

 そうこうしているうちに年月が経ち、周りの人は諦めたのか、興味を失ったのか、子供のことを聞かなくなっていった。そうすると私は嬉しいというよりも、惨めな気持ちになった。人が聞く気にもなれない、興味もわかない自分のふがいなさを噛みしめた。自分自身の両親に対しても孫を産めなくて申し訳ない、という思いで一杯だった。ある日、町で店の古い客とばったり会った。挨拶をすると、その老婆は「それで子供はできたの?」と聞いた。私がいいえ、と答えると、彼女はメガネの奥から猜疑心に満ちた眼球を、私の頭のてっぺんから足の先まで凝視して言った。「この頃は女の方が悪いらしいよ。」と。

 夫は子供の話題に触れなくなっていった。テレビで赤ちゃんに関する放映があると、黙ってチャンネルを変えた。忙しいのは分かる。でも、夫婦間のことなのだからきちんと向き合って、人工授精でも、もらい子でも良いから話し合ってほしかった。何度か話し合おうと努力したが、いつも話に進展性がないまま終わってしまった。

 私は耐えた。やがて姑との確執もあり、私は商売から手を引いた。家に一人でいる私を、実の父が私を心配し始めた。ちゃんとした病院に行って診て貰った方がいいのではないか、と。そこで一大決心をして、都会の大学病院で検査をすることになった。卵管癒着で妊娠不可能であるとの結果だった。3ヵ月後、6時間かかって卵管接続の手術をした。前日は、おなかに傷がつくが、一生後悔したくないから手術を受けようと、これで最後、無傷の自分の裸体を鏡にうつし、長い間一人見ていた。32歳のことである。

 店が多忙になり夫は極度に忙しくなっていった。朝早くからの買出しで夫婦生活もままならない、二人の時間もとれなくなっていた。私は諦めたくなかった。諦められなかった。何を?子供を?いや、私自身の人生を。実の父が、私に通信教育で大学の勉強をしてみないかと勧めた。30代で今更勉強なんて、と思ったが、やってみることにした。これが良かった。面白いと思ったのだ。単位を取ることは安易ではなく、苦労をともなったが、徐々に勉学の生活に慣れてきた。勉強に熱中することで他のことを全部忘れることができた。夏期講習というものがあって、それにも出席でき、多くの友達もできた。結局卒業するのに6年間もかかったが、そこで得たことはとてつもなく大きい。

 卒業論文は自分に最も関心のある不妊について、女性について書くことにした。自分の不妊の経験を社会的に模索しようと思ったのだ。その時、教育学の教科書に書いてあった一言が私の人生を大きく変えた。それは、「例えば子供を持つ、ということは、義務ではなく一つの選択なのである。」だった。

 私は、女性は子供を産み育てることができなければ女性と見なされないと教えられ、そう固く信じて育ってきた。しかし、本当にそうなのだろうか。なるほど女性には子宮という生殖器官があるが、それを使わないことも人生の一つの選択と考えることはできないだろうか。出産育児だけが女性のアイデンティティではなく、そのことも含め、幅広い多様化した生き方が認められてこそ、成熟した社会ではないだろうか。

 教育学の教科書にはこうも書いてあった。「教育とはラテン語でeducate、引き出す、ということである。教師は生徒の才能を引き出すことが仕事である。しかし同時にその関係性は、教師と生徒間だけではなく、私たち社会に生きるすべての人々がお互いに教育し合うことである。」もし私たちが、お互いのありとあらゆる個性や固有性を認め尊重することができたなら、性や年齢、地位や境遇すべてを乗り越え、お互いに教え、学びあうことができるのではないだろうか。しかるべき唯一の生き方をしないといって、それを拒絶し抑圧し差別し、排除しようとすることは、人間性の未熟さを露呈していることであり、自分の生き方が唯一無二であるという傲慢さを示しているのではないだろうか。

 今、私は人と違うからといって、人生を諦めることはないのだという確信に至った。さまざまな経験を経て私は離婚し、今は子供たちに教えることで平和な生活を送っている。自分の子供はいなくても、人の子供たちと触れ合うことで心身共々どれほど満たされ癒されるか分からない。神は平等に結果を与えられる。そうしているうちに一つのことに気がついた。それは、他人の子供たちを所有感なしに客観的に見つめるようになったことだ。そして同時に自分も含め、大人たちの内に小さい子供を見出すのである。その子供たちが発する「自分だけが正しい。」という主張に対し、私の中の子供は相手を認め、自分に言う。「傷ついてはいけないよ。」と。「私は私で正々堂々と生きなければ。」と。

 子供の出産、育児以外の人生を見出すことを一つの生き方と認め尊重できる時、私たちの意識は拡大し、他の多くの個性をも認め、生かすことができるだろう。他を抑圧し、殺すことではなく、自分も生き、他も生かすのである。そうしてこそお互いに助け合い、成長できるのではないだろうか。そのためには自分自身が、どんなに人と違っていても一人の人間として堂々と胸をはり生きていかなくてはならない。決して屈してはならないのだ。その姿に一人、二人と周りに、多様化に意識を拡大できる人も増えてくるだろう。その時に古い日本の意識構造にも変化が訪れてくるのだと私は思うようになった。
(2010)