大きな欅 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 角田 章予




 私が生まれた家の庭には、たくさんの木があった。庭の中央にそびえ立つ大きな欅。縁側から望める大きな藤棚。庭を囲む見事な山茶花の垣根。

 藤色の長い花房が、甘い香りとともに幾重にも重ったのれんのように風に揺れる時、幼な心にも、美しいと感じた。同時にその時、心躍る季節が来たのだと気がついた。

 肉厚の濃緑の山茶花の葉の生垣に、淡いピンクの可憐な花が満たす時、寒風が肌をさす厳しい冬が来るのだと学んだ。

 幼な子にとって自然は良き教師であった。友であった。その中でも、庭の中央にあった大きな欅は、私の幼なき日の生活そのものだった。

 母が父のところに嫁にきて間もなくの頃、欅の枝打ちをした。年輪を数えてみたところ四百年も生きてきた木だと分かったという。

 春の欅の芽生えたばかりの繊細で柔らかな若葉は、薄緑色のレースのように初々しく空に揺らいだ。「きれいね!」と見上げているうちに、若葉はどんどん濃緑色の葉に成長した。雨風を防ぐ天幕のように、力強く空を覆った。

 夏には灼熱の太陽の光から人々を守るように、大きな木陰をつくった。風が吹くたびに、サワサワと控え目の葉音を立てては涼を運んだ。私はその音が好きだった。

 台風の季節、幾重にも重なった葉を思いっきり擦り合わせ、ガサガサ、ザワザワと吠えたてながらも、突風を一身に受けて、母屋の前で踏んばった。

 幹はゴツゴツして硬く、顔をつけても決して肌ざわりの良いものではないけれど、枝葉を支えてたじろがず、堂々と真っ直ぐに立っている姿は、何ものにも動じない父親のような安定感と安心感を与えてくれた。

 秋に紅葉した大量の葉が落ちると、祖父がその葉で焼き芋を作った。熱い黄色い焼き芋の香りがプーンとした。

 真冬に全ての葉が落ち、竹ぼうきのように枝をさらして寒風に耐えている姿は、決して威厳を崩さない孤高な老人のようだと後で気がついたが、その姿は端正で美しかった。

 私の父は長男だった。教職について間もなく、朝鮮で教師をし、敗戦で日本に帰った。そして私が生まれた。

 私が生まれた日は、大きなお月様が家と庭を明るく照らしていたと聞く。「おじいちゃんが『いい月だなあ』と鼻歌を歌いながら、産婆さんを呼びにいったのよ」と母はよく話してくれた。

 私が物心ついた頃、その家には、祖父と父と母と姉と私、それに父の妹と弟、つまり若い叔母と叔父のいる大家族だった。それに、近くに嫁に行った父の姉の子どもたち(従兄弟)もよく遊びにきたので、いつも賑やかで楽しかった。

 従兄弟たちがくると欅の下で遊んだ。小さな手をつないで、何人で欅の幹を抱えられるかを試したり、盛り上がった根っこに腰をかけて休んだり、鬼ごっこや隠れん坊、石蹴りや缶蹴りは、全て欅を起点として遊んだ。そこは穏やかな幼なき日の空間だった。

 初めての友だちは、前の家の雪ちゃんだ。いつも欅の下にござを敷いてままごとをした。

 ある夏の日のことだった。いつものようにいくつもの草を食べ物に見立てて家族ごっこで興に入っている時だった。

 昼になっていたのだろう。前の家の台所の窓から、雪ちゃんのお母さんが大声で叫んだ。

「雪ちゃん、ごはんよう」

 その声を聞いた雪ちゃんは、お腹が空いていたのだろうか。突然立ち上がり、一目散に家に走り帰ってしまった。

 私はあっけにとられて立ちつくし、その後しゃくり上げて泣いたと母はいう。しゃくり上げが止まらないほど激しく泣く私を「初めて見た」と母はいった。驚いた母が「なぜ、そんなに泣いているの」と聞いた時、私はしゃくり上げの間に問に答えたという。

「雪ちゃん、何も言わないで、帰っちゃった。いっしょに、遊んでいたのに、雪ちゃん、片付けもしないで、帰っちゃった。いっしょに、遊んだんだから、いっしょに、片付けなくちゃ、いけないのに」

 そして私は涙をふきふき一人で片付けしていたという。

 母はその後も、何度かその話をしたことがあった。その度に、「あなたは潔癖な子だったのよ」と良く解釈してくれていた。

 確かに私は理にかなわないことを許したくない所が今もある。一途すぎる所が今もある。でも全てが順調にいく訳ではないことも自然と知った。

 その頃も、近所に悪ガキたちがたくさんいた。ある日、その悪ガキたちが栗を取りに行こうと私を誘った。何も解らない幼い私は、悪ガキたちの後をついて、裏の栗林に行った。栗はまだ青く熟してはいなかった。でも悪ガキたちは、竹の棒などで次々と青い栗を落として回った。私はただそれを見ていた。

 次の日、「栗は青いうちに取ってはいけない」と、私は祖父からひどく叱られた。

 その栗林は、祖父が大切にしていた栗林だったのだ。幼い私は知るよしもない。悪ガキたちの悪巧みの出しに使われただけだった。

 色々あっても、しかし欅の家の穏やかさは変らない。夏の庭の井戸には、いつも大きな西瓜が冷やされていたし、とうもろこしは、お腹が痛くなるほど食べた。落葉で焼く芋もおいしく、焼かれた栗がパーンと跳ねる音に逃げまわった。

 その欅の家を私は四才の時、引っ越した。父と祖父の間で何の行き違いがあったのかは知らない。深い意味もなく、父が応募した住宅建設の抽選に簡単に当選してしまったのだとは母から聞いた。当選を断る知恵がなかったのか、結局、私の家族四人は一キロ先に建てた家に住むため、欅の家を出た。その家は父の弟が継いだ。

 五才上の姉は、欅の家の近くの小・中学校にわざわざ通い、学校が終ると祖父の所で遊んできた。

 年の小さい私は、引っ越し先の小・中学校に通い、高校や大学はさらに遠くに通った。結婚してからは、東京や名古屋や前橋やに住み、長い人生、失ったものも多く、得たものも多くある。そして十数年前、再び埼玉に住むようになった。

 欅広場や欅の街路樹。美しい姿の欅は、私には特別の存在だ。なぜか懐しい。

 私は先日、あの大きな欅に会いたくなって、叔父の家を訪ねてみた。

 大きな欅は威厳と優しさをもって、昔と少しも変わりなく、ゆったりと立っていた。見上げる私を大きく大きく包み、揺籃のように、外敵から子を守る翼のように静かだった。変わらないものがあることにホッとする。変わらない生命があることはすばらしい。

 戦後六十年、祖父も父もすでに亡くなり、日本もずい分と変わった。せわしない世の中になった。少し立ち止まり、新しい世紀をどう生きるかを模索しながらも、さらに変わることだろう。

 でも自然の営みを見る限り、厳しい中にも変わらない穏やかさ、優しさ、爽やかさがある。肯定的に前向きに押し出す、不思議な力がある。

 私は、すくっと立って前を向いて、さらに歩めと言われた気がした。