親父と煎茶・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉原不二夫



 地元の市役所を定年退職し、家業の農業に戻ってから十五年になりました。七十七歳の喜寿を迎えたいま、朝の寒い日や雨の日は、納屋の隅にある自分の部屋に入り、外が明るくなるまで煎茶を飲みながら、新聞に眼をとおしたり、テレビを見たりの毎日です。
 そんなときに、ふと親父のことを思い出したりすることもあるのですが、それはやはり煎茶の味を上手に出したときでしょうか?
 平成元年、八十八歳で亡くなったのですが、父が元気なころは親不孝ばかりかけて来たから、余計なのかも知れません。
 元気な頃の父は、朝起きると直ぐ三畳の茶屋に入り、煎茶を楽しんでいました。酒がさっぱり飲めなかったからかも知れません。三畳の茶屋に入った父は、湯冷ましにお湯を注ぎ、しばらく時間をかけて、沸騰している熱い湯が体温よりもいくらか熱めに下がるまで辛抱強く待っていました。湯が冷めるまで一文字盆や茶托を布巾でせっせと磨いている父でした。お茶の染みこんだ布巾で拭けば、一文字盆や茶托の艶が出てくるからだと話していたし、それに沸騰しているお湯が適温にまで下がるのを待つ間の恰好の手仕事だからでしょう。
「煎茶を飲むときは焦ったり、慌てていては煎茶の本当の味を出すことはできん。お湯が体温に近くなるまで下がってゆくのをじっと待つ。待つことができないで熱い湯を使うとお茶を殺してしまうんだから」
 とか、
「待ったあとはお湯を急須に入れ、急須からさっと茶碗に注がなければ、煎茶の甘さよりも渋味や苦味が勝ってくる」
 と、そんなことを話してくれながら、自分だけが旨そうに煎茶を飲んでいたのでした。私が中学生の頃だったでしょうか?
 父の年齢になった今でも、親父が出していたお茶の「味」を出せないままに煎茶を飲んでいる私ですが、出来れば親父のお茶の「味」にまで近付けたいものだと思っています。
 一口飲めば奥歯の間から湧いてくるかのように、口の中に残っている煎茶の甘い味は忘れられません。
 親父が使っていた茶器を出して来て、適当な間合いをとってと、お茶を楽しむのだが、今だに煎茶独特の甘い味は、たまにしか出せないでいます。
 煎茶も抹茶も、お茶の心は「わび」とか「さび」だと聞いているけど、お茶の味を呼び出すことができないのだから「お茶の心」でもないでしょう。
 布巾を手にして一文字盆や茶托の艶が見事に出てくるまで根気よく磨いていた父だからこそ、そこまでの「通」になったのだと思う。「道楽」もそこまで到達しなければならないのだろうか?
 百姓仕事がひまなときは、一日中茶室に座って、近所の人を相手に煎茶を楽しむ親父でした。朝早くから近所の方が一人やって来て、三畳の茶室に入ると、次々と近所の人がやって来て、午後の二時、三時頃まで茶室は賑やかな声が、ときどき弾んでいたものです。近くには村役場、農業協同組合、××村立小学校から保育園などが集まっている所だったから、それだけ人が集まったのでしょう。父の茶飲み友達で一番年齢の若いF氏が、ときどきわが家へやって来て、親父から煎茶の入れ方を学び、骨董品を楽しんでいたようでした。
 親父が亡くなってからは、今度は私がF氏の家へ訪ねて行き、その人の美味しいお茶を、ときどきよばれていたのも忘れられないことです。
 Fさんの家をたずねると、今日は珍しい物が手に入ったからと言って見せてもらったのが、倉敷の実業家、大原謙三郎氏が描いたという水彩画の色紙や、犬養木堂が学松農業学校の教師に贈ったという掛軸「敬天地之祕」を架けて楽しんでいたのです。煎茶の道具や骨董品を集め、それを楽しんでいたこの人も、もう「道楽」の域に達していたようでした。
 世の中がせこくなったためか、私の父や友人のF氏のように、その道を楽しむ「道楽者」が少なくなっているようだし、そうした人を見かけることが出来なくなった。
 片意地なまでに自分が求めた「道」を楽しむ人が、私の周りにいなくなったのは淋しい限りです。