片田舎の温泉場であったこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・副田つばき




 当時はその女のひとが恐かった。若くはないが年寄りでもないそのひとは、白い大きなマスクをして、アカンベーをしたような目だけを覗かせていた。近くに住んでいたのか、洗面用具はいつも胸に抱えて柴垣湯ののれんをくぐってきた。五十年近く経った今でもそのひとの外見は眼に残っており、十歳だった私は、まだ「らい病」という言葉を知らなかった。

 

私が子供時代を過ごした入来温泉は中世から温泉として機能しており、文書上の初見は、建徳二年(1371)十月十五日付け渋谷重門置文である。当地に地頭として鎌倉から下った渋谷一族の湯治場として利用されていたことが、『入来文書』(注:朝河貫一編 日本学術振興会刊 四七頁)の中に残っている。

また、『入来町史』には、天保十四年(1843)の『三国名勝図絵』からの転載として、

「湯性温和で、胃腸の弱い人、虚弱の人に良い。諸病を治すので、湯治客が絶えることがなく、多いときは数百人に及ぶ・・・云々」

との記事があり、西南戦争の後、傷ついた兵士たちが傷を癒しに湯治した記録もある。

温泉銭湯は、柴垣湯を含め現在四つになったが、私が子供だった1960年前後には五つあり、近隣の住民は、源泉で56度以上もある掛け流しの湯を、十円の入浴料で個人風呂がわりに利用していた(因みに現在は百円)。どの銭湯も、朝夕の混雑時には芋の子を洗うような繁盛ぶりであり、マスクの女のひとは、こんな温泉場にあるとき突然現れ、突然いなくなった感がある。

 

 そのひとが入ってくると、混み合った脱衣所内がそこだけ微妙に空いた。湯けむりの立った洗い場に入って、たまたまそのひとがいると恐くて、自分も反対側に座を取ったりした。裸にマスクをしていた姿もぼんやりと浮かぶが、堂々とマスクを取り、洗い場の片隅で、一人忙しく痩せた体を洗っていた記憶の方が鮮明だ。私は子供らしい好奇心から、その顔をまじまじと見た。こんなとき、子供たちを安心させようとして、母は小さい声で必ずこう言った。

「もう治っていて、感染(うつ)らんらしかよ」

 ちょうどそのころ、私の右の頬に小判型の痛くて固くて痒いものができた。「たむし(顔面白癬)」という病名がわかったのは後のことで、初めのころは不潔が良くないと思い、銭湯に行くたび石鹸でしつこく洗った。するとますます大きく痛くなり、顔面が引きつれるほどであった。自分でもうすうす感染の危険性を感じながら遠慮がちに体を洗っていると、あちこちから非難と疑惑に曇った視線を感じた。隣に座って私のそれに気付くとあからさまに座を移ったり、迷惑そうにタイルに湯を汲み流す人もあった。面目なかったし、恥ずかしさで身が縮んだ。ようやく医者に行くと、塗り薬がよく効いて、しつこかった「たむし」は急激に治癒した。

私がこのときのことを今でも覚えているのは、同じ時期のあの女のひとと重なるからである。周りの人間から避けられ、白い目で見られる辛さと恐怖! 治る病気はそのときだけの辛さであるが、あのひとは一体どんな思いで人々の非難の目に耐えていたのか。

 

資料を見ると、1953年に「らい予防法」(新法)が制定されたとき、すでに特効薬のプロミンが発見され、ハンセン病がきわめて感染力の弱い伝染病であることは判明していた。年表(注:ハンセン病リンク集、日本のハンセン病年表)によると、1951年には、プロミン治療による軽快退所者第一号が、熊本の恵楓園から出ている。それにもかかわらず、患者は強制的に国立療養所への入所や、優性手術などの差別的待遇にさらされ、強制隔離政策は1953年の新法にも踏襲された。

私が彼女に会った1960年は、鹿児島県鹿屋市に、国立療養所「星塚敬愛園」が設立された年である。ほどなく柴垣湯から見えなくなった彼女は、あるいは療養所に強制入所させられたのであったろうか。それとも大人たちが口をつぐむもっと他の理由があったのだろうか。

 

それにしても、現在よりももっと偏見は強かったと想像される時代に、なぜ彼女は地域の中で生活できたのか、というのが今になって思う疑問である。

病気になり、離縁でもされて実家に戻され、療養所への入所待ちだったのか。あるいは、科学的根拠を盾に、自ら地域での生活を選択したのか。いずれにしろ、田舎温泉場の管理人は入浴を拒まなかった。

対して、2003年に起きた熊本県の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル宿泊拒否事件」は、「らい予防法」が、1996年に廃止されてから7年経っても、無知からくる偏見が社会に蔓延していた事実を、改めて私たちにつきつけた。ホテル側が元患者を直接差別したというよりは、ハンセン病への社会全体の差別偏見を、営利事業団体として敏感に察知し、風評被害を恐れる余りのことであったろう。最初は予約を承諾しながら、後に拒否に転じたことがそれを示している。

だから、罪はホテルにだけあるのではない。ひとはなかなか自覚しないが、私たちの意識の深い部分に、自分と異なるものへの嫌悪感があって、それの集積が世間というものを形成していると考えれば、決して、自分には関係のない話、と片付けることはできないのであろう。

 

私もあのとき目でマスクの(ひと)を差別した。ただ恐かった、というだけで、それと意識はしていなかったが、しかし彼女にとっては、一つ一つの視線は間違いなく、鋭く体全体を刺し貫いたことだろう。目の暴力は陰湿で、時には物理的暴力よりひどく心身を消耗することを、私自身も人生途上で何度か受けた経験者として、十分知っている。それが謂れのないものである場合、怒りは体に溜まっていき、それが更に自分を蝕むことになる。時には死に向かう。

このようなアンフェアーなことに対して、私たちはもっと怒っても良いのではないか。「優しさ」を教える前に、「怒り」を自覚する方法を、家庭や学校で教えて欲しい。「怒り」は人間の自然な感情の一つなのだから、人は怒っても良いし、喧嘩しても、大声で泣いても良いのだ。特に子供時代は。

 

それと同時に、家庭風呂のない家が多かった当時、日本の片田舎では、お上のすることなどどこ吹く風とばかり、困った人がいればお互い様の精神で抱擁していく風潮があったことも特記しておきたい。寝たきりの老人を家族ぐるみで入浴させている光景や、身体の不自由な娘さんを、客の少ない時間帯に習慣的に入浴させている母親も何度か目にした。光明皇后の昔から、湯屋とは本来こんな場所なのだろう。その昔、「感染しない」という触れが入浴客に行き渡り、私のふるさとの人々が、ハンセン病の女性と共に入浴した事実を、重く受け止めたいと思う。そして、誇りにも思う。

柴垣湯は現在でも健在で、地域の老人たちの癒しを引き受けている。