飛蚊症・・・・・・・・・・・・・・・・・・紫野 葉子





三年ほど前になるだろうか。ある時、左目の先に爪楊枝の頭ほどの黒い点が見えた。私は“何だろう”と思ったが、その時はそれほど気にもせずにいた。

そして時がたち、一年もたったある日、私は家族と供に、筑波山へ行った。数年ぶりの登山となった。しかし、気軽な気持ちで向かったので、充分な水分補給もしていなかった。五月の快晴の空は、容赦ない強い日差しで、私たちに迫る。この山は低いが、けっこう、起伏が激しく、見た目よりずっときつい山なのだ。

辛くも、そのことを思い出させられて、私の身体はガクガクになり、疲労困憊という状態。それなのに、私は自覚がなかった。約三時間ぐらいの行程だったろうか。

私たちは車に戻り、すぐに出発した。

「あれー、右目の先に、蜘蛛のような黒い点が見える」

「えー、それは大変だ。すぐに、眼科へ行ったほうがいい」

と夫が言う。とはいえ、明日まで待たねばならない。

「これで、両目に出たのよ。一体、どういうことなのだろう」

「いつから」

「けっこう、前から、実はひとつあったの」

翌朝、一番に車で眼科へ行く。待たされること、およそ、一時間、けっこう、イライラは募っていた。事前の検査をすませてから、医者に呼ばれる。

「黒い点がひとつずつ、見えるんですね」

「はい、昨日、急に運動した直後に、大きい黒い点が飛び出しました」

「これは、老化の一種で、直らないんですよ」

唖然とする私。“直らない、老化だって、何を言っているのこの医者は。それって、医者の怠慢じゃないのか”私の心の中では、怒りが渦巻いていた。老化ですむなら、苦労はない。それなら、誰もがなるのか、問いたい。まったく、何の手立てもなく、帰宅したのだった。

周りの人に聞いてみると、けっこう経験者がいるではないか。これにも、実のところ、驚いた。とすれば、かなりの潜在的患者がいるということだろう。それなのに、何ら研究されていないのか。

医学書を読んでも、その明白な原因は不明だ。硝子体の老化現象とは書いてあるが、それでは説明したことにはならない。硝子体は水晶体の後方にあって、眼球の内部の大半を占めている。それは、水分でゼリーのように固まっているらしい。そして、すぐ外側にある網膜を支え、保護する大事な役目をしていると言う。

ところが、歳をとるにつれ、この硝子体が変化し、均一であるはずのゼリーが、水分と線維質に分解する。その線維が硝子体の中に浮いて、網膜に影を映し、黒点のような形で見えると言う。なるほど、これが、原因かー。

もとより、眼科医はこんなに詳しく説明をしてはくれなかつた。だとすると、私の友人が、小学生だか中学生の時に飛蚊症になったと言うのは、どういうことだろう。近視が強すぎると発症することがあるとも聞いたが、では、それは何故なのか。

もう、それ以上考えるのは、専門家に任せよう。そもそも、突然、筑波山登山を実行したのには、訳があった。この夏に、家族で富士登山を計画したことにある。いまが体力の限界かもしれないからと言う夫の強い主張の下、決まったのだ。

娘の真理にも、自信をつけさせたいという私の気持ちもあって、この夏の実行となった。どう考えても、いきなり富士山を登頂できるはずもなく、筑波山での練習となったのである。そこで、さらに七月始めに、再度、訓練に登った。

七月末の暑い日に、私たち家族は富士山を目指して、出発した。後になってみれば、いかに無謀な計画と実践であったかがわかる、実にハードなスケジュールを組んで……

日帰り登山という、素人には考えられない強行軍だった。予定していたよりも、はるかにオーバーして、富士山頂に着いたために、後々、苦しむことになってしまった。とりわけ、下山の過酷さはまるで、修験者の修行を思わせた。詳細はここでは述べない。

真夜中の十二時に、やっとホテルに辿り着いた時の私の身体は、立っているのが不思議なほどだった。熱と寒さが交互にやってきて、グラグラと体が揺れている感じだった。フロントで氷枕を借りて、ベットに横になる。だが、背中の痛みで、眠れるものではない。息をするたび、背中の右半分が引きつるのだ。とうとう、眠れなかった。

でも、その疲労の本当の代償は、秋にやってきたのだ。どんなことがあっても、富士登山を達成するという想いは叶った。その充足感も得た。真理も“やればできる”という自信をつけたまでは良かった。

しかし、いつしか、私の目の前には、複数の黒いひもが、横泳ぎしていた。両目の前で忙しい。三度目の眼科へ。

「黒いものが増えたんですね」

「はい、たぶん、秋頃から、出ていたかもしれません」

「一回目の時から、半年以上、経っていますね」

と医者が言うと、眼底を見た。

「んー、網膜に弱い所があるなー」

「どうしたら、いいのでしょう」

「いまの所、何とも言えないけど、穴が開くとまずい」

「ほっておいていいのですか」

「今すぐ、どうなると言うことは言えないけれど」

「三ヶ月後に来院して、穴が開いていたらどうなるんですか」

「その時はごめんなさい」

私の心のうちは、呆れかえっていた。“一体、この医者は何を考えているのか、無神経なのか、麻痺しているのか、全く、どこから、そんな言葉が出てくるのだろう”私は怒りを感じ取られないよう、冷静さを装って尋ねた。

「予防はできないのでしょうか」

「レーザー手術ができます、簡単で痛くもない」

と医者は言った。

「その手術は予約をしないと、だめなんですね」

「んー、でも、今日のように空いていれば、すぐにできますよ。ただ、お金が高いんですけどね」

「いくらでしょうか」

「五万円です」

「わかりました、それじゃ、今日、やってください」

私は、その後、三十分ほど待たされた。その間、瞳を大きくする目薬をつける。得意の瞑想に浸る。それから、二階の手術室へ移動した。そして、始まった。まず、三十秒ほど、目を大きく開けている。その間に、ボッ、ボッという空気の流れが目に飛び込んでくる。六回ぐらい痛みを伴って、その風は入って来る。その痛みはけっこう強く、すこぶる気持ち悪い。歯痛のそれでもなく、かと言って陣痛の痛みでもなく、これまで体験したことのない痛みの種類だった。

いわゆる、これが目痛かもしれない。時間にして、わずか五分ほどだったが、医者が言うほど“痛くない”とは言えないものだ。ただ、瞬間的なものなので、耐えられたにすぎない。どういう訳か、その間、私の口が開いてしまうのだ。医者が閉じていいですよと笑いながら言っても、私の意志ではどうにもならないのだった。

こうして、私の網膜は固められた。二週間後に様子を見て、何もなければ、半年後に来院すればいい。しかし、これからが本当の苦痛の始まり。手術した左目はずっと、重い感じが付きまとった。その違和感が続く限り、激しい運動どころか、日常の立ち居振る舞いにも、気をつけなければならなかった。

まだ、これは我慢できるが、目を極力、使えないことが辛い。従って、新聞も本も読めない日々。活字人間の私には、これほど辛いものはない。目を使わずにできることなど、限られている。もっぱら、ラジオを聴いて過ごす。しかし、たまに聞く分にはいいが、四六時中となると、耐えられる番組の少ないことに気づかされる。

しかたがないので、テレビを聞くことにする。同じニュースを何度も聞かされて、うんざりしてくる。それならと、外出を試みるが、シズシズと歩くのでは、その範囲はしれている。ウォーキングもできない。車に乗るのも、大儀だ。どの行動も、けっこう振動があるのだ。

かくして、楽しみはなくなった。人との対話も、けっこう疲れるので、目に悪い気がする。一週間もこういう生活をしていると、つくづく思った。病気の原因は、ストレスに起因していると私は確信したのだ。

昔は案外、そのことに気づかなかったのではないだろうか。飛蚊症や子宮筋腫のような地味な病気は、ほとんど研究されていない。潜在的患者は多いと思う。最新の研究に走りたい医者の気持ちもわからない訳ではないが、地味な仕事にも、勤しんでほしいとつくづく感じたのでした。