志村晶子・・・・・・・・・・・・・・・・・・わが家にきた観音さま



「わしに恋人が出来ました」
 と長男の泰順から手紙がきた時、私達夫婦は驚いた。ありえないことが起こったと思った。
 というのは、泰順は高校生の頃から禅宗の教えに傾倒し、土地財産はちり・あくたと見なし、大学を卒業して一旦教職に就いたものの、家と親姉妹を捨て出家していた。現在は山陰の小さな町の寺の住職をしており、結婚すると子供が出来る、すると欲が出るから結婚しないとつねづね言っていたからである。
 その後ひんぴんときた手紙によると、相手は近くのK市に住む檀家の未亡人で花江さんといい、苦難の人生を歩んできたひとだという。K市随一の青果店の娘に生まれたが、台頭するスーパーに押されて倒産し、一家七人がリヤカー一台で夜逃げしたという。小学校高学年の頃だったろうか?
 落ち着いた先はさる宗教の協会を管理する叔父さんの家の一間で、父親は失意の酒に溺れ、母親は料亭の仲居に出て生計をたて、たびたび宴会料理の残りを持ち帰って、糊口をしのいだそうである。
 そんな貧しさのなかでなんとか中学校を卒業した花江さんは高校へ入った。これは花江さんが亡くなったあと遺品を整理していて分かった話だが、定時制で加えて表彰状もあった。
 ――貴女は良く両親を助けて働きその成績優秀である。よってここに表彰する――
 真面目で健気な娘さんだった。その頃の写真を見ると痩せて淋しい顔をしている。どんなにか辛い日々だったのだろう。
 高校を卒業してさる会社に入った花江さんは、秘書に抜擢してくれた上司に人柄を見込まれ十八歳で結婚した。上司は五十三歳の再婚で年の差三十五歳。ちょっと驚いた。
 長男は父親への憧れがあったからだというが、私は借金のかたにわが身を提供したように思えてならない。
 高価な装身具や着物を買って貰い、物質的には恵まれたものの、この結婚は決して幸せではなかったという。
 何しろ先妻の子が自分より年上なのだから、ことごとく白眼視されただろうことは容易に想像出来る。二十二年間連れ添い最期をみとったにも関わらず、夫の位牌は先妻の子に持ち去られてしまったのだ。
 頼まれもしないのに四十九日の法要に出かけた泰順は、空っぽの仏壇を前に泣いている花江さんを見、身の上話を聞いて深く同情した。
 同情は熱い恋に変った。
 泰順は日頃口癖の独身主義はどこへやら恋人にプロポーズしたが、なかなか返事は得られなかった。辛いことはあったものの老夫にいとしまれ気楽に暮した身が、小遣いさえままならない貧しい寺の生活に耐えられるか? 思い悩んだようだった。けれども一年後、遂に二人は結婚した。
「観音さまが呼んで下さるような気がしますからお受けします」、それが受諾の返事だったという。この時、泰順四十四歳、花江さん四十二歳だった。
 初めてわが家へきた時の花江さんの姿が忘れられない。真っ直ぐな髪をひっつめてうなじに小さい髷にまとめ、シンプルなベージュのスーツを着ていたが、きめこまかい色白の細面とすんなりした姿態からは女らしさが匂いたつようだった。
 年齢こそ違え二人の男性が心底惹かれたのも分かるような気がした。それに甘い細い声での物言いのしとやかさ。礼儀正しさ。
「籍を入れて頂いてありがとうございました」と座布団をすべり落ちて丁寧にお辞儀した時は、ひょっとして前の結婚は内縁だったのかしら? と疑った程だった。
 花江さんは温かい家庭に憧れていたせいか、親が出来て嬉しいといい、年に一度訪ねてくるかたわら、母の日・父の日・敬老の日には必ず小さいプレゼントと便りをくれた。それは白いレースのハンカチであったり、シルクの五本指のソックスであったり、シャネル五番オードゥトワレットであったりした。寺にそんな余裕はない筈なのに。おそらく花江さんが所持金から出したのだろう。もう良いからと言ってもそれは続いた。
 そのなかで最も大きいプレゼントは夫の米寿祝いの西伊豆への旅だった。忘れもしない平成二十年十一月三十日、私達は箱根の紅葉を楽しみ、沼津で鰯の刺身を堪能し、西伊豆海岸の椰子の葉陰のリゾートホテルで老いのひとときをゆっくり楽しんだ。
 良い嫁を貰った、良い嫁を貰ったと連発しながら。
 まさかその時花江さんが死のベッドに呻吟していようとは二人共夢にも思わなかった。
 帰ってから土産と心をこめた礼状を送ったがなんの返事もない。いつもならすぐ電話をくれる花江さんなのに。どうしたのかしら? 不審に思っていると数日後泰順から連絡があり真相が分かった。彼の声は疲れていた。
「花江は肺ガンが骨に転移して入院しています。もう手遅れで余命三か月だそうです」
「まあ!」ポロリと涙がこぼれた。
 思い出した。あれは息子夫婦が結婚して四年目だった。電話で彼女が、
「お母さま、私、肺にカゲがありますのよ」、私は驚いて「まあ大変すぐに精密検査しなくては」「いいえ大丈夫です。何の症状もありませんから」「腫瘍マーカーは」「正常です。だから心配ありませんのよ。ホホホ」と朗らかに笑うので、それきり忘れていたが……。
 禅寺の生活は厳しい。朝五時に起きて洗面・読経・お粥と僅かな副食物の朝食。棚経・涅槃会・座禅会・写経会とやつぎ早やの行事。時をきらず檀家の訪問客の接待。
 その上、花江さんは花道・茶道と並んで修行した書道で大成していた。所属するN書芸院で最優秀芸術院賞を貰い、公民館文化祭の垂れ幕書き、小学校の卒業証書の署名、檀家の表札書きと頼まれごとが山積していた。そのどれ一つも断らず、一日の仕事のあとにコツコツこなしていたという。
 積もり積もった疲労が肺の良性腫瘍をガン化し、やがてそれは骨にまで広がっていったのだろう。病名を知らされた時、花江さんは、
「観音さまの思召しなら受け入れるほかはないでしょう」と静かだったが、モルヒネを拒否したガンの痛みは烈しかった。見兼ねて泰順が、こんな時だから父親の米寿祝いは延期しようと提案すると花江さんは首を振った。
「何おっしゃっていられるんですか。貴方。お父さまのお祝は欠かしてはいけませんよ。お母さまも楽しみにしてらっしゃるでしょうから、すぐお金を送ってあげて下さい」
 花江さんの優しさの上に私達の祝賀旅行は実現したのだった。
 あとでそのことを知った時、私は夜布団の中で一人泣いた。夫は天の非情を悲憤慷慨していた。今でもそのことを思うと眼が潤んでくる。
 余命三か月を四日延して花江さんは逝った。享年五十七歳。結婚して十四年目だった。
 花江さんにも欠点はあった。それは料理を好かないことで、泰順は結婚当初花江は料理もうまいとのろけていたが「簡単だから卵と豆腐の料理しか作らないんだ。外食というとラーメン一杯でも喜ぶし、高いものを食べたがるし……」と愚痴るようになっていた。いわゆる倦怠期の頃だった。花江さんの体にのちの死病が芽吹いていたのかも知れない。
 そのたび私は心の中で「人間完全無欠とばかりはいかないのよ」と反駁し、近かったらお菜を沢山作って届けてあげたいと切望した。それは叶わない夢だったが。
 花江さんは元後妻。私も夫とは再婚で今後妻。四人の子の継母である。似た境遇を生きた者として、生きつつある者として見えない糸が二人をしっかりつないでいたように思う。
 けれども死はすべてを浄化する。泰順は「あれはわしを物心共に支えてくれた。観音さまがわしに遣わしてくれた観音さまだ」と涙をかくして讃え、私も「親を喜ばせにわが家にきた観音さまだ」と思った。夫も同じ思いであったろう。
 昨年、花江さんの三周忌が済んだ。
 でも想い出は少しも薄れない。かえって年毎に深くなっていくようである。
(2011)



しむら・あきこ
茨城師範学校女子部で国語と音楽を学ぶ。二年の教員生活のあと自由業の夫と結婚離婚。現在の夫と再婚四人の子の継母。
短歌・詩・エッセイに親しみ、新聞雑誌に掲載多数。小諸藤村賞入賞・コスモス賞入選。地元高齢者クラブ・同住民の会より表彰される。