塩谷靖子



燈ともせと



   燈ともせと云ひつ々出るや秋の暮
 この、慈愛と切なさと侘しさの入り混じった蕪村の俳句に出会ったとき、なぜか言い知れぬ懐かしさが胸をよぎった。私が思うに、蕪村は、早めに燈をともしておくようにと妻に言い残して、ぶらっと散歩にでも出たのだろう。釣瓶落しの秋の暮れ、妻が独り、薄暗がりにいる姿を想像するのが切なかったのかもしれない。蕪村の優しさと、秋の暮れの侘しさが胸に迫ってくる。彼自身も、燈のともった暖かい家に帰ってきたかったに違いない。そこには、寂しがりやで愛すべき蕪村も見えてくる。
 それにしても、この懐かしさはいったいどこから来るのだろう。そう考えているうちに、すぐに思い当たった。それは、今は亡き父の言葉だった。私が中学生だった頃のある日、夕方になったら電灯をつけるようにと言い残して、父はどこかに出かけた。その日は家族みんなが出かけていて、私は一人になった。そして、目の見えない私は父の言葉をすっかり忘れ、夜になっても電灯もつけずに夕食の支度をしていた。帰ってきた父は何も言わずに、ぱちっと電灯のスイッチを入れた。暗闇にいる娘を不憫に思ったのだろう。私は、父にそんなふうに思わせてしまったことを申し訳ないと思いつつも、気付かぬふりをして「お帰りなさい」と大きな声で言ったのだった。それまで思い出すこともなかった半世紀前の小さな出来事が、この俳句によって、わずかな痛みとともに懐かしくよみがえったのである。
 今、私は、日没の時間が近づくと電灯をつけるのが習慣になっているが、これは帰ってくる夫のためばかりではない。来客があったときに相手がびっくりしないようにするためでもあり、また自分のためでもある。暗闇の中にいる自分の姿を想像するのはあまりいい気がしないからだ。全盲者の多くが、同じような理由でこのようにしているという。
 だが、東日本大震災以来、独りでいるときは電灯をつけずにいるという全盲者が増えている。わずかでも節電に協力できるのだから、無駄な明かりはつけないほうがいいということだ。暗闇の中でも、いつものように動いたり家事をしたり、音声パソコンで読んだり書いたりインターネットだってできるのだから、その特技を生かさない手はない、というわけだ。
 今、節電のために街の照明が暗くなっているという。とはいっても、私が8歳で失明する前に見たかつての街に比べれば、はるかに明るいに違いない。あの頃は、デパートの店内でさえ隅は薄暗かった。夕方ともなれば路地のあちこちに濃い闇が潜み始め、ちょっとばかりのスリルと不安を抱きながら家路を急ぐ。だから、明るく電灯のともった家に入った瞬間、何とも言えない安堵感と懐かしさでいっぱいになるのだ。家族で夕食を囲む茶の間は電灯の下だけが明るく、部屋の隅では柱時計や人形がぼんやりした明かりの中で侘しげにしていた。これらは、なににもまして私のノスタルジアを呼び起こす光景である。あの頃はまだ、小泉八雲や谷崎潤一郎が愛してやまなかった、陰翳に富む日常が残っていたように思う。この節電を機に、そんな日本的な美意識が復活するのではないだろうか。

 究極の陰翳は闇である。一般に、完全に失明している人の日常は闇であると思われているようだ。確かに、物理的には光が届いていないのだから、その意味では闇であると言えるかもしれない。だが、感覚的には目の見える人が想像しているような闇ではないのだ。失明直後は闇であったとしても、いずれ明るくも暗くもない状態に入っていく。明があるからこそ暗があるのであって、常に明がない者にとっては暗もないのだ。だから、失明という言葉は、正しくは失明暗と言うべきかもしれない。
 光と色に溢れる世界をもう一度見たいというのは失明者の偽らざる気持だが、それと同時に、ふと闇が恋しくなることもあるのだ。失明者が闇を恋しがると言うと奇異に思われるかもしれないが、失明暗の状態にある者にとっては、もはや体験することのできない、真夜中の森を覆い尽くす闇や、カーテンを閉めて明かりを消した寝室に漂う闇が恋しくなるのだ。

 ところで、全盲者が電灯をつけ忘れたための、とんだお騒がせ話は枚挙にいとまがない。旅館の真っ暗な風呂場から、入浴する水音や歌声が聞こえるといって騒ぎになった話。真っ暗なマンションの一室から、バンドの練習をする大音響と話声がするといって、近所に怪しまれたという話。このご時世、いっそのこと「ただいま節電に協力中」の貼り紙でも出しておくのが無難かもしれない。
 以前、私が全盲の友人の家に行ったときのこと、夕食に出前を頼むことにした。インターフォンが鳴ったのでドアを開けると、出前を持ってきた人の声がおかしい。幽霊屋敷にでも迷い込んだように恐る恐る小さな声で話す。私たちは大きな声で冗談を言って笑いながらお金を払い、「どうも」と言ってドアを閉めた。入れ違いにドアが開き、「お母さんたち、何やってんだよ。暗闇で食事なんかするんじゃないよ。」と言いながら友人の息子が帰ってきた。事の次第が分かるや、「出前の人は、さぞかし怖い思いをしただろうね。気の毒なことをしてしまったね」と言いながら、3人で大笑いをした。
 幼い頃、父にはいろいろ心配をかけたが、今となっては、草葉の陰からこんな私を見て笑ってくれるに違いない。
(日経新聞日曜版(2011年6月12日)朝刊の文化欄に掲載)






ご存知ですか、谷崎さん



 小説『春琴抄』が、多くの人たちの間で、視覚障害者のことを知るためのガイドブックに成り下がっていると知ったら、谷崎潤一郎は草葉の陰で苦笑することだろう。

 この小説は、盲目で気位の高い天才的な琴・三味線奏者である春琴に、丁稚の佐助が献身的に仕えるという物語で、そこには無類の耽美的な世界が繰り広げられている。それをそのまま現実世界に当てはめてしまったり、道徳論を持ち出したりする読者の何と多いことか。しかも、江戸から明治にかけての物語という設定であるにも拘わらず、現代にも通用する普遍的な話だと思い込んでしまうのだ。おかげで、私たち視覚障害者はそんな読者への対策に手を焼く羽目になったのである。
 この物語は、全くのフィクションであるにも関わらず、谷崎の巧みな筆によって、あたかも春琴と佐助が実在の人物であるかのように思い込ませてしまう。私も、まんまと騙された読者の一人である。谷崎自身が二人の墓にお参りしたことがあるとか、明治初年か慶応の頃に撮られた春琴の写真を見たとか、『鵙屋春琴伝』なる小冊子によって春琴のことを知るに至ったとか、その他、実話であるように思わせるためのお膳立てが満載なのだ。大阪某所の丘の上にあるという二人の墓とそれを取り囲む風景の描写などは実に精密で美しく、夕日に染まった古い墓石のたたずまいと、眼下の夕靄の底に広がる工業都市とのコントラストは、時の移ろいをしみじみと感じさせ、お見事と言うしかない。
 「そんなまことしやかな書き方をするから視覚障害者への偏見が助長されるのだ」と言う人もいるが、それよりも、この小説の特異な世界に浸ることのできない真面目な読者のいることが問題なのだ。だが、谷崎にとっては、そんなことはどうでもよかったのだ。耽美の世界へ読者を誘い込むことが彼の目的であり、そのためには墓や写真や春琴伝を登場させてリアリティーを出す必要があったのだ。
 「あの小説を読んで、目の見えない人は感覚が鋭いから天才が多いんだということが分かりました」と言われても、視覚障害者に天才が多いという統計はどこにもないし、別にそうとも思えない。だから、「ほら、宮城道雄とかレイ・チャールズとかヘレン・ケラーとか」などと言われても困ってしまう。中には、ホメロスや鑑真など、その存在さえ朧げな人物まで持ち出す人もいる。
 目の見えない人は気難しくて頑固だ、第六感というものを持っている、果ては、日常の食事や入浴にも介助が必要だ、などと多くの読者が、春琴を通してステレオタイプの視覚障害者像を造ってしまうのだ。春琴がそうだったからといって、「目の見えない人は人前で食事をしたがらないそうですね」と言う人が多いのは残念なことだ。よほどの事情があるならともかく、たいていの視覚障害者は、みんなと同じように、レストランへ行くのが大好きだからだ。視覚障害者の事情に通じているような口ぶりで話し始めたと思ったら、その出典が春琴抄だったりする。困ったことに、「職業柄、あの小説はいろいろ勉強になりましたよ」と言う眼科医も珍しくない。
 佐助は、ひたすら春琴に仕え、それによって得られる陶酔の境地を求めた。春琴に邪険にされればされるほど、理不尽な仕打ちを受ければ受けるほど、その献身ぶりは増していく。佐助にとって、春琴は、あくまでも気高く気位が高く高圧的でなければならず、彼女が、弱みを見せたり、軟化する素振りを示したりすることを嫌った。にも拘わらず、道徳論を主張する読者も多い。「いくら佐助が春琴の身の回りの世話をすることに喜びを感じるといっても、本当の愛情があるなら、あんなに何もかもやってしまっては本人のためにならないことくらい分かりそうなものだ」、「春琴と同じ世界に入りたいからといって、佐助が自らの手で自分を失明させるのは身勝手だ。そんなことをしたら周りの人たちが佐助の世話までしなければならなくなり、迷惑をかけてしまうではないか」と憤る。またある人たちは「あんなに献身的に尽くしてくれる奇特な男性なんて、めったにいるもんじゃないわよ」と賞賛する。
 実のところ、「ちょっと待ってよ、谷崎さん。それは書きすぎじゃないの」と言いたくなる箇所もある。「盲人というものは、しかじかの傾向があるから」とか、「盲人というものは、しかじかを好むから」とか、彼の独断であるにも関わらず、それらが一般的な事実であるかのような記述がされているからだ。これも、リアリティーを出すための手法なのだから仕方ない、と言ったら彼の肩を持ちすぎのような気もする。正直なところ、「ちょっと迷惑してるんですよ、谷崎さん」というのも本音ではある。大勢の真面目な人たちが、この小説を読み、山本富士子や山口百恵主演の映画を見ていて、私たちはそういう人たちの中で生活しなくてはならないからだ。

 仕方がない。谷崎の世界に入り込むことのできないそんな読者に対して、私たちは身をもって分かってもらうようにしていこう。






深夜の散歩



 あれは、遥か昔のある晩のことだった。
 お客さん、着きましたよ」。「え、ここはどこ」。熟睡から覚めた私は、慌てて記憶の糸をたどった。
 そうだ、今夜は池袋で盲学校の同窓会の新年会があり、かなり酔いのまわっていた私をみんなが無理やりタクシーに押し込んだのだった。
 「大丈夫、電車で帰れるから」と言い張る私に、「無茶を言うもんじゃない。ホームから落ちても知らないからね。だいいち、もうとっくに電車なんか終わってるよ」などと言いつつ、ドアを閉めたのだった。
 タクシーに乗り込むと、私は我が家への地図をバッグから取り出して運転手さんに渡した。「停車位置の印が書いてある所で降ろしてください」と言ったところまでは覚えている。その直後に、私は暖房の効いた車内で眠りに落ちたのだろう。
 「ここは、停車位置の印が書いてある所ですよね。山口運送の前で間違いないですよね」と念を押してから、料金を払うと、「暗いから気をつけて」と運転手さんが言った。「目の見えない私には暗くても関係ないんだけど」と心の中で笑いながらタクシーを降りた。
 その瞬間、息も止まりそうな寒さに襲われた。山口運送から我が家までは20メートルほどだ。私は、凍えそうになりながら急いで歩き始めた。だが … 、どうも様子がおかしい。いつもの道とは違う。わずかに傾斜しているはずなのに、どこまで行っても平坦なのだ。いったい、どこで降ろされたのだろう。もしかしたら、ちゃんと停車位置で下ろしてもらったのに、酔いのせいで歩き出す方向を間違えたのかもしれない。道の両脇には、冷たくて背の高いコンクリートが続いている。手が凍えて、何度も白杖が地面に転がった。だんだん不安になってきた。携帯電話などなかった頃だから、もうとっくに寝ているであろう夫や子供に連絡もできない。このまま凍え死ぬのだろうか。
 耳を澄ましてみたが、手掛かりになるような物音もしない。それもそのはず、真冬の深夜、しかもお正月ときているから、葉を落とした木は葉ずれの音も立てず、人々は暮れから田舎にでも帰っているらしく、生活音も漏れてこず、車の音もしない。

 それまでにも、終電を降りてから家にたどり着くまでの道で、深夜に迷ったことは何度かあるが、あまり不安を感じたことはなかった。どうせ、すぐに帰れるという確信があったからだ。手掛かりになる音もたくさんあったし、遠くに聞こえる車の音を頼りに通りに出れば、例え深夜でも誰かしら歩いていて、道を聞くこともできる。ときには、非日常的な「深夜の独り散歩」を楽しみながらさまようことさえあった。
 ジンチョウゲの咲く頃には、どの道を行っても、その香りに誘惑され、もう少しさまよっていたいと思ったりする。虫しぐれの季節には、虫たちが、草むらのある場所や、その広さや形、そして道との境目を、まるで音の地図でも描くように教えてくれる。ちょっと風でも吹けば、葉っぱが揺れる音で、木や草が立体地図を描く。
 もちろん、昼間のほうが、はるかに様々な音に満ち、しかもその音は活発に動いている。それに比べ、深夜の音は密やかで、種類も動きも少ない。だからこそ、かえってそれらの音風景は、昼間よりくっきりしたシルエットを描くのだ。そして、今この風景を味わっているのは私一人だと思うと、益々その風景は魅力的なものに感じられてくる。深夜に道に迷えば、確かに一抹の不安は覚えるが、その不安が加わることで深夜の独り散歩に、かえってワクワク感が加わるのかもしれない。

 だが、今は真冬の深夜、風ひとつなく、凍りついた大気は何の音も何の匂いも運んではこない。「暗いから気をつけて」と運転手さんが言ったのは本当だった。音も匂いも、全て闇に飲み込まれてしまったようで、生活の多くを音や匂いに頼っている私にとっては真の闇になってしまった。
 道は何度も曲がり、迷路に入ったようだった。このまま朝までさまよっていたら、本当に凍え死ぬかもしれない。
 ふと、こんな話を思い出した。雨水の溜まった桶の縁を、1匹の毛虫が這っていた。昼間も夕方も、夜になっても、ぐるぐると這い続けていた。そして、朝になると、毛虫は水に落ちて死んでいたというのだ。いったい毛虫はどこへ行こうとしていたのだろう。永久に終わらない道であることなど知る由もなく、目的の場所に向かって一途に這い続けていたのかもしれない。この話は、気色悪い毛虫のイメージと、メビウスの輪に迷い込むような不快な連想とで、私の記憶の底に染みのように残り、何かの折に時々表面に現れてくることがある。こんなときに、なにもこんな嫌な話を思い出さなくたっていいのに、まだ酔いが残っているせいなのだろうか。
 ここは東京23区、山奥の樹海などではない。こんな所で死んで、明日の新聞にでも載ったら、「笑うに笑えぬ前代未聞の話」として語り継がれることになるかもしれない。
 そう、大きな声で助けを呼べば済むことなのだ。誰か1人くらいは聞きつけてくれるだろう。まさか「私の家はどこでしょうか」なんて叫ぶわけにもいかない。でも、死ぬくらいだったら、恥ずかしいなんて言っている場合ではない。「助けてえ」、「泥棒」、「火事です」……と何でもいい。でも、やっぱり声を出す勇気はない。
 叫ぶのが嫌なら、ローレライ気取りで歌でも歌おうか。だが、ライン川のほとりならともかく、こんな所で歌なんか歌ったら、人を引き付けるどころか、酔っ払いと間違えられるだけだ。いや、かなり覚めているとはいえ、酔っ払いには違いないのだが。それに、全身が震えて、息をするのもやっとの寒さの中では、歌なんか歌えるはずもない。
 結局のところ、こんなことで死ぬわけがないという確信のようなものがあったからこそ、声を出すのを躊躇したのだ。

 どのくらいさまよっただろうか。どこか遠くのほうで、かすかな音がしているのに気づいた。無音の中のかすかな音、それは、まさに闇の中の光明だった。連続した低音は、駐車中の車のエンジンに違いなかった。
 「すみません」と言いながら、私は車の窓をノックした。何度も試みたが反応がない。無人の車なのだろうか。それなら持ち主が戻ってくるまで待つことにしよう。
 突然ドアが開いた。よほど驚いたのか、相手は無言のままだ。私は、手短に事情を告げ、私の家を捜してもらえないだろうかと頼んだ。車の中からは、若い男性と女性がヒソヒソと相談する声が聞こえる。やがて男性が出てきてくれた。
 「この辺に山口運送というのはないでしょうか」。女性も出てきて、2人で手分けして捜し始めた。間もなく「ありましたあ」と言って、2人は戻ってきた。なんと、それは車から数メートルと離れていない所にあった。
 とんだ邪魔者が現れたうえに、いきなり寒さの中に引っ張り出された彼らには、気の毒なことをしてしまったものだ。私は、遠ざかっていく車に頭を下げた。
 忍び足で家に入ると、私の遅い帰宅に慣れっこになっている家族が平和な寝息を立てていた。
 いったい私は、あの毛虫さながら、我が家の周りを何周したのだろう。あの夜の樹海は、都会の一角に現れた蜃気楼だったのかもしれない。
(『2010年版ベスト・エッセイ集』(文芸春秋)収録作品)






光と闇の狭間



 最近、面白い記事が新聞に連載された。そこには、1人の記者が、1週間アイマスクをしたままで生活した体験が書かれていた。「見えない世界をみてみたい」との思いにかられて、このような体験をすることにしたそうだ。全盲である私としては、なかなかユニークな試みだと思い、楽しく拝読した。
 その記者氏は、アイマスクをしたまま、白杖をついて街を歩いたり電車に乗ったり食事をしたり登山をしたりしたとのことだった。もちろん介助者と一緒にである。
 「1週間で何が分かるか」との指摘があるのではと、記者氏は心配されていたようだが、そんなことを気にする必要はないと思う。なぜなら、この体験記は、失明疑似体験ではなく、目の見える人が、アイマスクをつけた瞬間から、それを外すまでの間、それまでほとんど気がついていなかった音やにおいや手触りをどのようにして感じ始めていったかを綴った、貴重で興味深い体験記としての価値があるからだ。
 言うまでもなく、この記者氏の1週間の精神状態と、失明したばかりの人のそれとでは、決定的な違いがある。前者には、未知の世界への好奇心があり、しかも数日後には元の世界に戻れるという保証がある。だが、後者にはそれがない。その意味でも、これは、失明擬似体験とは違うのだ。
 連載の冒頭に、アイマスクをつけた瞬間「失明の真っ暗な世界」に入ったと書かれている。そして、その「闇」は、1週間ずっと続いたようだ。最後の日に山に登ったときも、空にかざした手のひらに降り注ぐ太陽のぬくもり、足元でサクサクとささやく霜柱の音、枯葉のカサコソという乾いた音色、谷を渡る風が届けてくれる梅の香り、それらを、真っ暗な空間の中で体験したという。
 私は、この連載を読んで、「完全に失明している人の日常は闇であると言えるのか」について述べてみたくなった。

 全く目の見えない状態を「暗黒の世界」とか、「漆黒の闇」などと表現することがある。目の見える人だけでなく、失明者自身もこの表現をしばしば用いる。確かに、物理的には光が届いていないのだから、その状態を表すのには、便利で分かりやすい言葉だからだろう。だが、果たして、そのように言っていいのだろうか。
 私は、この言葉になんとなく抵抗を感じている。それには、「暗黒時代」、「闇に葬る」などの言葉が持つイメージも原因しているが、それよりも、この言葉が失明者の日常を正しく表現していないと思うからだ。実際、それぞれ表現方法は違っていても、「自分たちの日常は、目の見える人が想像しているような闇ではない」というのが、失明者の一般的な実感なのだ。おそらく目の見える人のほとんどが、闇であると想像していることだろう。そう思うのは無理からぬことかもしれない。なぜなら、突然真っ暗な空間に置かれたとき、突然アイマスクをしたとき、突然失明したとき、確かに目の前にあるのは闇なのだから。けれど、その闇は永久に続くものではない。しばらくその状態に置かれているうちに、そこは「闇」ではなくなっていくのだ。物理的な意味では闇かもしれないけれど、感覚的には闇ではなくなっていくのだ。
 光を見ているときに突然その光を遮断されれば、光と対極にある闇が見えることになる。だが、長い間光を見ていなければ、その対極にある闇もなくなっていき、やがて「明るくも暗くもない状態」に入っていくのだ。「明」があるからこそ「暗」があるのであって、常に「明」がない者にとっては「暗」もないのだ。つまり、失明者の日常は、明るくも暗くもない状態と言ってもいいだろう。その意味では、「失明」という言葉は、正しくは「失明暗」というべきかもしれない。
 また、突然でなく、徐々に見えなくなった人の場合は、「闇」というプロセスをあまり意識することなく、いつの間にか、明るくも暗くもない状態に入っていくのだ。私も、幼いころに少しずつ見えなくなり、8歳くらいで完全に失明して以来、そんな状態が何十年も続いている。
 「暗黒の世界」、「漆黒の闇」という表現に私が危惧を抱くことがもう一つある。それは、いずれ完全失明することを医師から宣告されている人たちのことだ。物を見ることができなくなるという事態に加えて、彼らの多くが、永久に続くことになるであろう「闇」への恐怖におびえているのだ。私は彼らに言いたい。「そんなに怖がらなくても大丈夫。いずれ闇は薄らいでいくのだから」と。

 「明るくも暗くもない状態」についての表現は、人によって様々だ。グレーの霧の中にいるようだと言う人、その時々に想像した映像が白っぽいスクリーンに映っている状態と言う人、体調や精神状態によっていろいろで1日中闇のベールがとれない日もあると言う人など。
 また、いつ視力を失ったかによっても、その表現は違ってくる。見た記憶が全くない人の場合は、視覚以外の感覚を組み合わせることによって、視覚的な言葉では表現できない風景を作り上げているのだ。
 大人になってから失明した人のスクリーンに映る風景に比べれば、私のそれは曖昧で、夢の中に現れる蜃気楼程度のものだろう。それでも、暖かい日差しを受けて晴れやかなヒヨドリの声を聴けば、私のスクリーンには例え朧げであろうと青空が映る。風が冷たくて小鳥の声も少なければ白っぽい空が、雨が降っていれば灰色の空が映る。ときには、雨や日差しに気づかずにいて、実際とは違った空が映っていることもあるが、所詮は蜃気楼のようなものだから、いつの間にか修正されていることが多い。
 もしも、失明者の日常が漆黒の闇に覆われていたとしたら、黒いキャンバスに絵を描くのが難しいのと同じように、闇のスクリーンに風景を映し出すのは困難なことだろう。そして、その闇から常に逃れられない状態にあるとしたら、きっと圧迫感に耐え切れなくなることだろう。そうならないのは、生きていくための自然の摂理によるのかもしれない。

 「想像ではなく本物の、光と色に溢れる世界をもう一度見たい」とは、失明者の偽らざる気持だが、それと同時に、「本物の闇が恋しい」と思うこともあるのだ。もし、常に闇の中にいるとしたら、そんなふうには思わないはずだ。失明者が闇を恋しがると言うと奇異に思われるかもしれないが、明るくも暗くもない状態にある「失明暗者」にとっては、本物の光と同時に、ふと本物の闇が恋しくなることもあるのだ。もはや体験することのできない、突然目隠しをしたときの闇、真夜中の森を覆い尽くす闇、夜の路地裏のあちこちに潜む闇、カーテンを閉めて明かりを消した寝室に漂う闇が……。
(「第6回文芸思潮エッセイ賞」当選作品)





あの声はもう聞こえない



 その日、私は人通りの途絶えた昼下がりの道を、白杖をつきながら駅から我が家へと向かっていた。よく慣れた道なので、かなりの速さでスイスイと歩いていた。雨上がりの風は心地よく、軽やかな小鳥のさえずりと青葉の香りに、歌でも口ずさみたい気分だった。
 突然、白杖に何かが当たったと思ったら、ガチャーンという自転車の倒れる音がした。「しょうがないなあ。こんな通り道の真ん中に自転車なんか置いて」と心の中でつぶやきながら、倒した自転車を起こそうともせずに通り過ぎようとした。そして、いつものように、そんな自分への一抹の罪悪感を吹っ切ろうとした。こんなところに自転車を置くほうがいけないのだと。
 だが、その直後、何かがガラガラと転がり出す音がした。引き返してみると、足先に軟らかなものが当たった。それはランドセルだった。地面には、鉛筆や筆箱や教科書が散乱していた。私は、はっとしてそれらを拾い集めランドセルに戻した。水溜りに落ちたものはハンカチで拭いた。まだ拾い残していないかと這いずり回って捜した。そうやっているうちに涙が出そうになってきた。この自転車の持ち主と娘とを重ね合わせていたからだ。
 娘は、数ヶ月前に小学校へ入学したばかりだった。私は、娘の学校生活が楽しいものであるようにと願いながら、イソイソと入学の準備をした。今は亡き実家の母も、喜んで手伝いにきてくれた。母は、ランドセルを買い、文房具1つ1つに名前を書き、上履き入れに名前を刺繍しながら、嬉しそうに孫と話していた。娘も、みんなが祝福してくれていることを全身で感じ取っていたに違いない。
 そんなある日、娘が家に帰ってくるなり、「おばあちゃんに作ってもらったネックレスが … 」と言って泣き崩れた。母に作ってもらって宝物にしていたネックレスが、擦れ違った自転車のハンドルに引っかけられ、壊れてしまったという。娘は長い間泣きじゃくっていた。その声は、私の耳にいつまでも残った。
 この自転車の持ち主も、この春に入学したばかりかもしれない。娘のように、みんなの慈しみを存分に受けながら … 。その子が、泥で汚れたランドセルや筆箱を見たらどう思うだろう。水溜りに浮いている鉛筆を見たらどう思うだろうか。泣きながら家に帰り、「誰かが私のランドセルをこんなにしちゃった! おばあちゃんが買ってくれた筆箱が壊れちゃった」と泣きじゃくる声が聞こえるような気がした。その声は、あのときの娘の泣き声と重なっていた。さっきまでの楽しい気分はすっかり消えてしまった。
 私は、自転車を起こしてランドセルを乗せた。「ごめんね」を言おうとしばらく待ったが、持ち主は現れなかった。
 確かに、通り道に自転車を放置するのはいけないことだ。まして、視覚障害者のための誘導ブロックの上に放置するのは危険を伴うことでもある。だが、その自転車にはどんな大切な物が乗せてあるか分からない。それに、やむをえず、そこに置くしかない場合だってあるだろう。子供なら、遊びに夢中になれば、どこにだって自転車を置くだろう。
 このことがあって以来、私は、歩いているとき体に自転車が触れると、反射的に自転車を手で押さえるようになった。それが間に合わずに倒してしまったときは、白杖とバッグを地面に置き、自転車を起こし、落ちた荷物があれば拾って乗せた。そんなとき、「誰かが私のランドセルをこんなにしちゃった」と言う声を、無意識のうちに聴いていた。
 たくさんの自転車が1列になって留めてあるときなど、1台を倒したとたん、けたたましい音とともに将棋倒しになることもある。こうなったら、もうお手上げだ。そんなとき、私は「ごめんなさい」と心の中で詫びながら、その場を後にしたものだ。

 あれから長い年月が経ち、我が家の子供たちも家を出ていった。子供たちは、もう私が守ってやるべき対象ではなくなった。そして、私はいつしか昔の自分に戻っていた。
 「誰かが私のランドセルをこんなにしちゃった」の声も、今ではすっかり遠ざかってしまった。「しょうがないなあ。こんな通り道の真ん中に自転車なんか置いて」と心の中でつぶやき、倒した自転車をそのままにして通り過ぎる。ちょっとばかりの罪悪感を抱きながら … 。
(『随筆春秋』2011年3月号掲載)





十五分間の顛末



 「これも自然淘汰の一つかもしれないね」。
 Aさんが発したそのひと言に、私はぎょっとして二の句が継げなかった。あと十五分もしたら、私は乗り換えのために電車を下りなければならない。そんな短い時間の中で 反論などできるわけもない。お互いに嫌な気持ちで別れることになるだけだ。
 その数日前、私の盲学校の後輩である全盲の男性が、JR目白駅でホームから転落し、電車にはねられて亡くなるという痛ましい事故があり、広く報道された。Aさんのひと言は、その事故の話題が出た直後だった。
 「ヒットラーみたいなことを言うんですね」と言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。彼は続けた。
 「ちゃんと注意していればホームに電車が近付いてくる音くらい聞こえそうなもんだ。それなのに、なぜ歩いたりしたんだろう。自分の身は自分で守らなきゃね」。
 人も疎らで静かな田舎の駅ならともかく、都会の騒がしい駅では、電車がよほど近付かない限り音など聞こえるわけがないのに、なぜそんなふうに自信を持って言えるのだろう。
 なおも彼は疑問をぶつけた。どうしても合点がいかないというふうだった。
 「危険な場所は、一人で歩こうとしないで周りの助けを借りればいいんだよ。僕も、白杖をついた人に他のホームまでの誘導を頼まれたことがあるよ。それもしないで、安全対策だ何だと要求ばかりするなんておかしいよ。それも、みんな税金から出てるんだからね。自分の身は自分で守らなきゃ」。
 全盲者なら、手助けをしてもらいたくても、人をつかまえること自体が大変だし、まして毎日のように通勤・通学している人だったら、乗り換えの度に手伝ってくれる人を探すのがどれだけ大変なことか、彼には想像もつかないのだろう。
 私は、黙って聞いているのが苦しくなってきた。いい子ぶって何一つ言えず、彼の言うことにうなずいてばかりいる自分が情けなかった。これでは、犠牲になって亡くなった人たちや、重傷を負って後遺症に苦しむ人たち、そして神経を磨り減らしながらホームを歩いている仲間たちに申し訳ないではないか。
 「自分の身は自分で守れって言うなら、踏み切りの遮断機も警報器も、道路のガードレールも必要ないんじゃないの?」と言い掛けてやめた。
 「税金・税金って言うけど、国公立大学、特にAさんが出たような芸術系の大学では、学生一人あたり一年間に何百万もの税金が使われていると聞いたけど」なんて言えるわけもない。もし彼が「芸術は世の中全体に貢献するからね」とでも言ったとしたら、売り言葉に買い言葉で、「それなら、障害者の命を守ることより、Aさんたちが大学で芸術を学ぶことのほうが世の中のためになるのね」と、際限なく泥沼に落ちていくだけだ。
 乗り換え駅がだんだん近付いてきた。「これも自然淘汰の一つかもしれないね」という言葉が耳から離れない。確かに、障害者ゆえに起きた事故なのだから、自然淘汰の一つと言えるのかもしれない。だが、世の中に適応しにくい人間が滅びていくのは、自然の法則だからしかたないということなのか。仲間の自然淘汰をできる限り阻止しようとするのが人間というものであり、そこが他の生物との違いではなかったのか。
 私は、必死になって、なんとか好意的に解釈しようと試みた。おそらく、彼は人間界の自然淘汰を肯定したわけではないだろう。「適応しにくい生物は自然淘汰される」という、生物の教科書の一節でも思い出し、ふと、それが口をついて出ただけなのかもしれない。いずれにせよ、「これも自然淘汰の一つかもしれないね」のひと言に反応して、人間を人為淘汰したヒットラーを引き合いに出すのは短絡的な思考かもしれないと思えてきた。
 そう考えているうちに、ヒットラーのように思えていた彼が、特別な人でもなんでもなく、今この電車に乗り合わせている他の人たちと同じなのかもしれないという気がしてきた。
 私が頼んだわけでもないのに、彼はわざわざ途中下車して、当然のように私を次の電車に乗せてくれた。それでも、まだ興奮冷めやらぬ私は、ドアが閉まる前に、彼に向かって叫んでいた。
 「Aさんも、Aさんの家族も、いつ障害者になるか分からないんだからね。あすは我が身なんだから気をつけてね!」。





塩谷 靖子(しおのや のぶこ) 声楽家

東京教育大学附属盲学校を経て、東京女子大学文理学部数理学科卒業。
日本ユニシス株式会社に入り、視覚障害プログラマーの先駆けとなる。

42歳より声楽の勉強を始める。東京文化会館での2度のリサイタル他、多数の演奏会に出演。
「第6〜8回奏楽堂日本歌曲コンクール」連続入選。
「太陽カンツォーネコンコルソ・クラシック部門」第1位。
「全日本ソリストコンテスト」入賞他。

エッセイ集『寄り道人生で拾ったもの』(小学館)が「第58回日本エッセイスト・クラブ賞」最終候補となる。
『深夜の散歩』が『2010年版ベスト・エッセイ集』(文芸春秋)に選出・収録される。
『光と闇の狭間』が「第6回文芸思潮エッセイ賞」最優秀賞受賞。

ホームページ:http://www.nobuko-soprano.jp/