大杉栄に会いに行く・・・・・・・・・・・・・・・・・・しだのりこ



 新潟平野は一面黄金色に輝いていた。あと十日もすれば、稲は刈り取られ新米が市場に出て行く、秋も深まって来た。私は小出駅から上越線に乗り、長岡で信越線に乗り換え、新津で羽越線に乗って新潟平野を走った。
 新発田市で行なわれる「大杉栄の会」に出席し、大杉栄の思想「生の哲学」に接したい。そしてアナーキスト大杉栄を知り尽くしたい。
 何故私はこのような気持ちになり、此処に立っているのかふと駅頭で考える。中越大地震の震源地に住んでいた私は、あの瞬間虚無に落ちた。そのショックは気負いではなく、私の生き方を変える大きさがあった。
 そして現代の日本の格差社会の厳然たる事実による痛みが広がる時に、繰り返される政治家の空疎な言葉が癇に障り怒りとなっている事だと気付く。棄民は国を滅ぼす、その嫌悪感をどうすることも出来ない。すると「真実を知れ、自分を知れ」と大杉栄の声がした。「日本の近現代史の一端に触れたい。」アナーキスト大杉栄を通して知りたい。この自分の中の混沌を払拭するには、それしかないと、なぜか確信したのだ。一直線に大杉栄に会うために鈍行でやって来た。

 1923年9月16日、社会主義者大杉栄は関東大震災の混乱に乗じ、伊藤野枝と共に虐殺された。38歳である。大杉栄は38年間の濃密な人生のうち、4歳から14歳の幼少期の10年間を新潟県新発田市で過ごし、此処を故郷と言っていた。即ち大杉栄の思想行動の原点が此処にあると言って間違いない、と私は思う。
 大杉栄は『生の拡充』のなかで言う。
「生の拡充の中に生の至上の美を見る僕は、この反逆と破壊との中にのみ、今日生の至上の美を見る。征服の事実がその頂上に達した今日においては、諧調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。諧調は偽りである。真はただ乱調にある。」
 と、まさに現代社会にそのまま生きている言葉である。私にはこの言葉の息使いが迫り来ることが解かるのだ。だから私は震える。
 新発田駅から「大杉栄の会」の会場まで、私は若かりし頃、恋人に会いたくて足早に歩いたその速さで歩いた。早く大杉栄の世界にのめり込みたくて歩いた。落ち着いた町である。シックな家並の町に私の靴音が響いている。私は不思議な気持ちで自分の足音を聞きながら歩いた。
「大杉栄 メモリアル―映像と言葉で日本の近現代史を振り返る―」と会場の入口に毛筆の看板が立てられていた、私は足早にその横を通り中に入った。
 講師は大杉豊氏、大杉栄の甥である。実は私はこの会に出るにあたって事前に三十年来の友人、近藤千浪さんに連絡をしていた。その彼女から大杉豊氏に「よろしく」と伝言を携えての出席であった。
 千浪さんは「十六日は静岡の大杉さん野枝さんの墓参りをし、名古屋の大杉夫妻と共に殺された橘宗一さん(当時7歳)の墓前祭に行くことにしています」と手紙に書かれていた。千浪さんは静かに祈っていた。
 人生の巡り合わせと言うのは時として不思議で面白いものだ。私が近藤千浪さんと友人になったのは三十年以上前のことで、あの時千浪さんは母上と一緒だった。場所は東京の婦選会館だった。私は近藤さんのお母さんに強く惹かれた。その顔立ちには力があり歴史が刻まれている。着物姿には意志と品格がある。私の好奇心は興奮した。
 近藤さんの母上は「真柄」さんと言った。珍しい名前だなあと思い私は聞いた。すると、「父がマーガレットが好きで真柄と名付けた」とのこと。なんて素適なこと、と、感心して絶句したことを思い出す。そしてその父上が「堺利彦」氏と聞いて短い時間で二度びっくりした。この瞬間にお付き合いが始まった。
 堺利彦氏と言えば、1903(明治三六)年平民社を興し、「平民新聞」を発行する。そこで非戦論・社会主義運動を展開した人だ。大杉栄も此処で合流する。
 堺利彦は更に、日本で最初に「共産党宣言」を幸徳秋水と共訳し発表した。そして日本初の翻訳会社「売文社」を大杉栄等と立ち上げて、多くの翻訳書を世に送り出すことになる。
 堺利彦の人生は多彩で粋で、娘の真柄さんも孫の千浪さんも苦笑するが、私はその足跡に驚き、目を見張る。社会主義者であり、思想家、作家、小説家等、ダイナミックで、最後まで非戦・反戦の人であったとある。
 千浪さんのご両親は近藤憲二、真柄夫妻で、大杉栄と伊藤野枝が残した幼子五人が成長するまで後見人として心配をし面倒を見て下さったと、大杉栄の次女「菅沼幸子」さんが話している。それだけでも尊敬してしまうが、そのご両親を持つ千浪さんと友人でいられる私は何だかとても幸せな気分が湧くのである。
 日本の近代史を振り返る、大杉栄が求めたこと「自由と非戦と」大杉豊氏の講演が終わった。スライドを用い大杉栄の時代と思想・哲学そして人間が優しく語られた。
 その後、私はまだ壇上で書類を整理する講師大杉豊氏に講演のお礼と千浪さんのことを話した。氏は優しい笑顔で「近藤さんは今日は静岡・名古屋ですね」と言った。

 大杉栄の活動はその情熱とエネルギーで、ファーブルの「昆虫記」や「種の起源」の訳書から、多くの著作・論文を発表した。閉塞した時代の中で、社会のあり方を示した。その思想・社会活動は、ダイナミックであり、無限で刺激的だったに違いない。今日なお新鮮で魅力的だ。
 当時の運動家はドラマチックに交錯し社会活動をして、自由を求めた、それが不自由な時代、日本の近代であった。が、しかし不自由な時代であったからこそ監獄生活を強いられても、明確な運動を示すことができたのだろう。それこそ身を呈してである。だからその情熱、その言葉、その行動が今私を捉えて離さない。
 時は経ち、確かに時代は流れて行き、昭和を過ごし、平成の時代に私も千浪さんも生きている。格差社会、情報社会、監視社会となった自由な時代の底知れぬ不自由は、息苦しく不快で、じわじわと人々の首をしめている。この不安な実感は私ばかりではないはずだ。

 思った通りだった。会場はいっぱいで、どの人も思考を持って来ていた。その雰囲気に新鮮な感動を覚え、会場を見回してから私は腰を下ろした。十代から九十代まで居る。私は素直にうれしかった。殆どが新発田市の人々と思う。「新発田の自由な空」と大杉栄は自伝に書いている。此処に聴衆として講演を聞く人々も同じ空の下に生きる。大杉栄を憧憬し、大杉栄の理論に溜飲が下がるが如く感覚をこの人たちも得たと思う。明治後半から大正時代に鮮烈に走った閃光は、八五年前に消えることなく今もなお光を放つ。

 新発田市の市民が心配している事がある。大杉栄ゆかりのイチョウの木が元気が無いのだそうだ。樹齢200年と言われる2本の木は、軍人だった父親の転勤に伴い幼少期の十年を新発田で過ごした大杉栄の遊び場だった。そして新発田大火のとき大杉少年は母の言い付け通りイチョウの木の下に避難した。その木が今年の夏はいつもの青々とした葉を付けない、元気が無い。イチョウの木がある城跡公園は練兵場だったが1999年市が用地を取得し、昨春公園部分が完成した。その工事の影響ではないかと市民は思い、そして心配して眺めている。
 日本中公共事業は自然を破壊してきた。イチョウの木も呼吸できなくなってしまったのか、市民は大杉栄の足跡を偲ばせるイチョウの木を見ながら溜息をついている。私も何とか元気になって欲しいと願う。銅像よりも生きている木々の方が価値がある、感情もあると思うのだ。生きる人間との共通があるのだと。
「たすけて」と大空に言いたい。

 薄暗くなりだした。新発田駅発午後5時7分の列車に飛び乗って、私は帰路に付いた。私の家は新潟県の中越地方守門町という、日本有数の豪雪地帯で山間僻地だ。そこから新発田まで100キロ以上あることが来るとき解かった。
 来たときと同じコースを逆に、羽越線で新津まで、信越線で長岡まで、上越線で小出まで鈍行の乗り継ぎは現実離れして楽しい。
そして、最後の鈍行只見線の最終列車に乗った。乗る時デッキに足をかけるとドドーンと爆音がして振り向くと秋の夜空に花火が散った。
 散る花火を見届けてから、只見線はガタンと動き出した。