季節のない日々に−見えるものと見えないもの−・・・・・・・・・・佐山広平



 時の経過とともに年齢を重ねること、それが成熟を意味するかまた衰微であるかは己れ自身で判断できることではないだろう。しかしかってある意味に見えていたものや、ある観点から見えていたものが、ある時に見えなくなったり、別の形の意味に見えてくることがある。それが生の不安をうむのだろうか。

 卒業ま近、定時制高校の四年の晩、登校した僕の目に、事務室前の掲示板に貼り出されたさまざまの企業の社員募集の要項が印象づけられるようになった。しかしそれらの募集要項には決まって、定時制高校の生徒には関係ない旨の表記が記されてあった。そんな表記を見ながら僕は、微かな怒りとともに『これは差別ではないのか。』という思いに駆られつづけていた。そして薄暗い工場の鉛の活字を前にして、僕は大学に行こうという思いを持った。だが大学に受かる自信はまるでなかった。まさしく僕は受験に失敗した。

 僕は高校卒業後の一年間を大学を受ける準備に費やすことにした。だが、高校時代、文学いうものに心惹かれ、工場での昼の休憩、学校から帰った夜の睡眠時間までの時間、英語の予習を少しするだけで、ほとんどの時間本を読んで過ごしていた。その報いであろう、数学や理系の教科は初歩からはじめるに等しかった。

 工場から帰ると食事の時間を除いて、夜の十二時ごろまで時間割りを決めての受験勉強をはじめた。が、なかなか思うようにはすすまない。参考書に終了の日時を書きこんで学習を確認しながらのすすみ方をはじめたが、数学などは一問の解答に、二日も三日もかかってしまうことがあった。そうした学習をつづけていたある日、僕は工場を罷める決心をした。それは八月の末日であった。

 失業保険を手に入れられる期間は六ヵ月である。失業保険でもらうことのできる金額の半分ほどを食費として母に渡しても、ほとんど外出することのない生活をしていたこと、それをつづけるだけだからうまくいくはずであった。こうして僕は朝起きてから夜眠るまで勉強することができるようになった。

 しかし僕には困難な事柄が待っていた。それは時々職業安定所に行き、失業保険を受けとるときに起こった。係りの人に、どんな職業を求めているのかを書類で提出し、紹介を受けた時には企業を訪問せねばならないことであった。就職する気持ちがないために僕は学歴に見合わないない職種を希望した。

 「君は定時制高校の卒業だろう。事務職は難しいよ。」

 係りの人はそんな言葉を発すると、冷ややかな目で僕を見た。しかし僕は大学受験のために、また工場での経験から事務職に固執した。

 僕の勤めていた工場では、事務職の人は、すなわち高等学校卒業以上の学歴で入社した人は月給制であり、僕のように中学校を卒業しただけの学歴で入社した工員は日給月給という制度、会社で決められた日時を、残業を含めすべて出勤したものには、出勤日数の日給以外にほんの少し報奨金が支払われるいう制度であった。

 僕はたった一度だけ企業先を紹介された。しかし企業からはあっさり断られた。

 だが、僕がいちばん暗く嫌な思いにさせられたのは、順番を待ち失業保険をもらうまでの時間と失業保険をもらう時の面接であった。待ち時間はかなり長く、時間を利用しての英単語の暗記は隠れるようにしなければならなっかたし、保険をもらう時の面接では、就職する意志があるのかとしっこく問いつめられることであった。

 そうしたある日、待ち時間に倦んだ僕に、誰かが忘れていったらしい雑誌が目にはいり、その雑誌を手にとり開いた僕にある詩が語りかけてきた。それは「雲の蔡日」と題された立原道造の詩であった。その詩を読みはじめた僕はいつのまにか詩の世界に吸い込まれていた。

  羊の雲の過ぎるとき/蒸気の雲が飛ぶ毎に/空よ おまへの散らすのは/白い しいろい絮の列

  帆の雲とオルガンの雲 椅子の雲/きえぎえに浮いているのは刷毛の雲/空の雲……雲の空よ 青空よ/ひねもすしいろい波の群

  ささへもなしに薔薇紅色に/ふと蒼ざめて死ぬ雲よ 黄昏よ/空の向うの國ばかり……

  また或るときは蒸気の虹にてらされて/眞白の鳩は暈となる/雲ははるばる 日もすがら

 僕はいつのまにか微かに涙ぐんでいた。そして現実の向こうにある、澄んだ明るい夢想の世界に溺れこんでいた。その時の僕の、季節のない日々からは、季節に溢れた爽やかな世界が詩の中には輝いていた。

 その日、失業保険を手にいれると早速僕はK文庫の「立原道造詩集」と「鮎の歌」を買い求めた。その後その二つの書は、受験勉強に疲れた僕を慰めつづけた。そして僕はひたすら夢想の世界を彷徨った。しかしそうした夢想の中で僕には詩集の中の一つ、『萱草に寄す』という詩集の題の意味が解りかねた。その「わすれぐさ」とは辞書によると、「身につけると憂さを忘れられると考えられていたところからの名」とあったからだ。そして万葉集の大伴旅人の和歌が引用されていた。

 万葉・三三四 萱草吾が紐につ付く香具山の古りにし里を忘れむがため  大伴旅人

 大化の改新後、台頭する中臣氏(藤原氏)におされ、斜陽していく名門大伴氏の状態に旅人が「憂いを忘れよう」と詠むのは、ささやかな文学史的知識しかなかった僕にも何となく理解できたが、東京帝国大学の建築科を卒業し石本建築事務所に入った立原道造にどんな憂いがあるのか、当時の僕には全く理解できないことであった。

 もし理由を探るとすれば、K文庫「鮎の歌」の中の『鮎の歌』、

  別れは、はなはだかなしかった。……透きとほった十字架には少女の胸のあたたかさが不思議な血のやうにまだかよってゐた。……

とある少女との別れであるかもしれないが、そうした少女と出会えることのできた立原道造が、季節のない日々の僕にとっては眩しかった。

 そんな日々の中、当時僕は失業保険をもらうことは当然の権利だと思っていた。そしてただ、大学へ行こうという意志の悟られることだけを恐れていた。そうした思いのまま僕は、二月末日の最後までなんとか失業保険を手に入れた。そして三月の大学入試を受けたが、結果は失敗に終わった。その後二年ほどアルバイトをしながら受験し、大学に合格したのは定時制高校を卒業した三年後であった。

 大学を卒業してからの僕は、己れの能力以上に、時代の運に恵まれ県立高校の教諭として過ごすことが出来た。

 そうした僕はある時、それは戦火で悲惨な国々の少年や少女たちの言葉に出会ったからであろうか、また文学や哲学のような書を読み耽ったからであろうか、己れの生の軌跡を反芻しながら微かに見えるものの変化を感じざるをえなくなった。

 その戦火で荒廃した国々の少年や少女たちが、学校で勉強したいと言い、それも人のために勉強したいと話すのを聞いて僕は衝撃を受けた。

 彼らは医者になって人を救いたいと言い、先生になって人に明るさを与えたいと言う。彼らは他者のために生きようとしている。無論僕の中にも他のためということがまるでなわけではない。しかし彼らのほとんど無私とも言い得る発想と僕の中の他者への思いとには大きなひらきがあると僕には思われた。

 僕の他者への思いは、我に執着しつづけることを捨てきれない状態の中でのことだ、と僕の内部で囁きつづける声を僕は聞かざるを得ない。

 そうした僕が就職する意志がないのに、失業保険を最後まで手に入れつづけたことは、他者の労働を掠め取ったことに等しいと言い得る。そんな思いが今はある。また職を持っている定時制高校生の就職を拒否した企業も、最後まで定時制高校に通学することを許した企業も、ある種、事象を多面的に見る視点があったのではないかとも思うようになった。

 こんなふうに、見えていたものの変位がおそらく見えているものの曖昧さをつくり、それが生きる不安を僕に生み出すのかもしれない。

 今見えているものもいつか変位するだろう。それは不安だ。だが、そうした不安を抱えたまま生きるのが僕の生であるとしたら、僕はその不安に耐えて生きるしかしかたがないのだろう。そうした思いが今、僕を支えつづけている。

(2007年)