コーヒーをお持ちしました・・・・・・・・・・佐藤真由美
携帯が鳴った。前の勤め先の上司からである。
「もぉしもし。もぉしもし」
「しばらくです。常務。もう出来上がっているんですか?」
「そうだよ。出来上がってるよ」
「すごいカラオケの音ですね」
「うん」
「なんだか、元気がないようですけど」
「そうでもないんだけどね。他には知らせていないんだけど、アナタには伝えておこうかなと思ってさ」
「なにかあったんですか」
「喬が死んだんだ」
「うそ! どうして」
「自殺だよ。去年の八月二十九日頃でないかと警察が言っていたけど。アパートの保証人を菊池さんに頼んでいたから、菊池さんから連絡が来て引き取りに行ったんだよ」
「どうして死ななきゃならなかったんですか」
「どうしてだろうね。それまで長髪だったのに丸刈りだったよ。兄貴や母さんに報告してからだろうね。墓のあるすぐ近くの雑木林で首を括っていたんだ。山菜取りの人が見つけたって」
「死ぬなんて…」
「喬は勇気のあるやつかな」
「いいえ、生きる勇気のない人ですよ」
「そうか。生きる勇気がないか」
五年以上も前の事だった。喬さんが一千万円の現金を持って姿をくらました時、自殺するのではないかと心配した常務に、「死ぬ勇気なんてないですよ。死ぬ人にお金は不用ですもの」と暴言を吐いた。常務はその言葉を思い出したのだろう。
遅い春のきざしにクロッカスの花が身を硬くするようにつぼめていた。喬さんが選んだ場所にはどんな風景が映っていたのだろう。
喬さんは三十人程の季節労働者を抱えた舗装会社の社長で、私は経理事務員に過ぎなかった。先代の社長であるお兄さんが癌で逝き、当時喫茶店を経営していた弟の喬さんが継いだ。しばらくは生命保険金が下りたので羽振りも良かったが、不景気の風が吹いて下請業者はまともにあおりを受けた。なぜ、喬さんという呼び方になったかというと、亡くなられた喬さんの母親の口振りを真似てのことが最初だったと思う。常務は血縁ではないが親類にあたる。公務員を定年退職したあとに入社していた。回りは私と喬さんを結婚させて、実権を私に握らせて切り盛りしてほしかったらしい。私に経営能力の技量があるとは思わなかったし、喬さんが固執して実権を妻に渡すような人にも思えなかった。赤字額を見るといずれ行き着くところは倒産ということなのかとも思った。それでも、元請け会社に日参して頭を下げ、仕事をもらいに走りまわっていた喬さんの姿を見て、なんとか切り抜けるのではないかと期待をしていた。
一千万円というのは資本金と同額で自分の権利だと言わんばかりに感じた。会計事務所の人の説得で姿を現した時には怒りの気持ちしかなかった。盆休みを返上して書類の作成に出勤していたので、見捨てられたような気分だった。信金からバックアップするので整理しないでほしいという要望もあった。同業者の中では計画倒産ではないのかと言ったものもいた。母親の葬儀を出した後は、守るものを失い気力も失ったのだろう。困難な状況から早く逃げ出したかったのかもしれない。
こんなに涙が出てくるのはどうしてなのだろう。三年半もの間毎日のように顔を付き合わせていたのに、異性を意識したそぶりも見せてくれなかった。私とて喬さんの生活態度には苛立ちを感じていた。絶対に亭主にしたくないタイプと回りを牽制する為にも豪語していた。喬さんを思い出すことはあっても、積極的に会いたいなどと思ったこともなかった。噂では「タクシーの運転手をしている」とか、「いいや彼はパチプロだよ」という者もいたから、自由で気楽な生活をしているのだと思っていた。パチプロなんて聞こえが悪いし、せめてタクシードライバーであってほしいと願っていた。
いずれ誰にも死がやってくるというのに、自ら命を絶つなんて悲しすぎる。享年五十四才。私より一才歳下だった。お兄さんから会社を継いだことが、喬さんにとって重荷で不幸の始まりだったのかもしれない。ふざけてひんしゅくを買うような言動や弱気になった情けない姿が思い出されてきた。友達はいなかったのだろうか。買い被りかもしれないが、罵り合っても口論していても、喬さんに関わっていたら自殺をするようなことにはならなかったのではないだろうか。
その夜、喬さんが夢に出てきた。ただニコニコしているだけだった。
次の日、常務に電話を掛けた。
「昨日はどうも。常務は相変わらずなんですね」
「いいや、朝までというのはもう無理だね。最近は自粛しているよ」
「そうですか。安心しました。実は喬さんの夢を見たんです」
「そうか。夢に現れたか…」
「ニコニコしてました」
「そうか。ニコニコしてたか」
「今年は初盆ですね。お参りさせていただきたいのですが、一人で行けません」
「そうだな。一人で参ったら引っ張られるぞ。喬、寂しがってな」
「そうですね。引っ張られたら困りますもの」
私は熱いコーヒーをポットに入れてお参りしようと思った。
最後の日、喬さんが言った言葉を思い出していた。
「コーヒーメーカーと粉を持って行けよ」
「いいえ、ガスも止められていますよ。電気はしばらく使えますからコーヒーメーカーは置いて行きます」
「そうか。置いて行ってくれるか。ありがとう」
ありがとうなんていわなくてもいいのに。