引っ越しの記・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤 建

 今は3月。来月は4月。「そうか、早いものだ。もう1年になるんだ」と気が付く。丸7年住んだ長野県から神奈川県の現住所に引っ越して来て、間もなく1年になろうとしているのである。世間が「21世紀の始まり」などと喧伝した8年前の4月に神奈川県から長野県へ引っ越し、去年4月に再び神奈川県に戻ったのだが、神奈川県と言っても前と今度では住所も住む家も違う。

 長野県へ引っ越した時は、Iターンと言われたが、それがまたこちらへ帰って来た場合は何と言うのだろうか。形からすればVターンと言っても良さそうであるが、このVの字はVictory(=勝利)の頭文字のXでもあるから、Xサインと勘違いされるようでおこがましい感じで気が引ける。

 長野県はこちらに比べれば圧倒的に人口密度が少ない。また自然が豊富で美しい。空気や水の美味しさは都会の比ではない。夜空を見上げれば満天の星空で、頭の上いっぱいに星々が煌めく状況は驚きで表現しようがない有様である。朝、東の空が白み始めるとやがて木々の合間から真っ赤な太陽が姿を現し、ゆっくりと昇り出す。その日の出を見ていると、思わずごく自然に太陽に向かって合掌してしまう。

 長野県では新築の2階建てのアメリカンハウスに住み、広い庭の片隅に小さな畠を作って、胡瓜やトマトや茄子やピーマンや春菊を栽培し、時には西瓜も育てる。そして、収穫時期を迎えると全てが一緒で喜ぶと同時に困惑する。そして、採れ過ぎた野菜は箱に詰めて宅配便で東京や神奈川に住んでいる知人に送る。粘土質の土壌で育った採れ立ての野菜は味が良く大層喜ばれる。また、9月、中秋の名月の頃には庭先のまだ穂が開いていないススキを刈り取り、長芋用の細長い空き箱に入れて都会の友人に送る。

 冬はさすがに寒い。灯油の消費量も馬鹿にならず、さらに薪ストーヴも活用して暖を取る。夜のうちに雪が降り、朝、眼が覚めると辺り一面真っ白で、雪景色の美しさは格別だが、周囲の景色をデジカメで撮った後、家の前の道路の雪掻き作業に勤しむ。

 スキー場までは家から車で40分もあれば十分で、長野県に引っ越してから買い換えた四輪駆動の軽自動車の後部座席を倒して作った荷台にスキー道具一式を積み込んで日帰りのスキー旅行を楽しむ。ある時は、現地に着いてからストックを忘れたことに気が付いてトンボ帰りをしたこともあったが、スキーを始めて40年以上になるが、こんなに楽なスキー行きは初めての経験である。

 広々とした大地に時々イーゼルを立て、そこに10号、20号、30号といったサイズのキャンバスを置いて山々の景色を一気呵成に油絵で描く。それは、眼に見える山の姿をただ写実的に描く(写す)のでなくて、対象物と向かい合い、心の中で対話を繰り返して感じた印象をキャンバスに描きあげる作業であるが、煎じ詰めればその作業とは、自分自身を深く見つめ、自分が如何なる人間であるかを探すための行為であると言えるかも知れない。

 こうして、長野県での思い出は話せばいつまでも尽きない位に沢山あるが、去年4月、そうした味わい深い長野県での生活にピリオドを打った。その理由をあらためて整理してみると次の通りとなる。

 ひとつは、私も妻も長野県に子供、兄弟姉妹、親類縁者がいる訳ではなく、先々どちらかが亡くなった場合には大勢に迷惑をかける、まして車を運転しなければ買い物にも病院にも行けない環境であるため、歳を取り過ぎないうちに兄弟姉妹、親類縁者が近くにいる都会へ戻った方が良いと考えたためである。

 1981年の秋、長野県の現地へ初めて足を踏み入れたが、そこは当時、コンビニも交通信号もない人口5千名足らずの村だった。村の花は「山吹」、村の鳥は「雉」で、村の蝶である「オオムラサキ」がよく飛び交っている農村だった。自然が豊かで、遠くには山々の景色が見え、ひと目見るなりその雄大な風景に魅了された。そして、毎年のように休日を利用してその村を訪れ、よく絵を描いた。

 今は近くに高速道路ができ、長野オリンピックのお蔭で新幹線も通った。そして外部環境の変化に合わせるように地域開発が進み、やがて平成の大合併の潮流の中で隣町と合併して市となった。その結果は、初めてこの村に足を踏み入れた当時の雰囲気が次第になくなり、村のシンボルであった「山吹」「雉」「オオムラサキ」もいつしか省みられなくなった。そうした状況の変化に対して以前の魅力ある村の雰囲気や景色が忘れられず、思い入れが強かった分だけ、味わう失望も大きくなった。結局、このことが前述の理由と相俟って長野県を去る決心をさせたのだった。こうして、一昨年の10月に移転を決意し、すぐに移転先を探す行動を開始した。

 移転先を選ぶに当たっては、神奈川県に住んでいる義妹夫妻の家からあまり遠くない場所にあり、食料品等の日常品の買い物が容易にできるスーパーが近いような生活が便利な中古マンションに狙いを定めた。そして、長野県からインターネットを使ってそのような条件に合致する物件情報を探索した結果、適当な不動産業者が見つかり、以後、その業者から中古マンションの売り物件情報が次々と提供された。その都度、義妹夫妻に連絡し、実際に現地現物の事前調査を依頼したが、最終的には義妹夫妻のスクリーニングを通して残った5件の中古マンションを実際に私たち自身で見て確かめ、11月に現在の居住マンションを選定し、12月に購入契約を締結、翌年の4月下旬に長野県から引っ越して来た。

 引越しに際して最も困ったことは、今までは広い2階建ての一軒家に住んでおり、それが今度はずっと狭い中古マンションへの移転だったため、収容能力がずっと少なくなって収めきれない物が沢山あり、思い切って整理する必要に迫られたことである。例えば、衣類、履物、書籍・書類の他、スキー道具、最近はさっぱりやらなくなったゴルフ道具を含む多くの物が処分対象となった。

「引越し貧乏」とよく言われるが、全くその通りで、引っ越しをする度に必ず多くの物を捨てることになるが、これも生活上必要な一種のダウンサイジングである。先々のことを考えると、歳を取れば取るほど、たとえ個人的に思い入れの深い物であっても思い切って処分する覚悟が必要である。

「先に逝った方が勝ちだね」などと妻と冗談交じりに会話を交わすことがあるが、今度の引っ越しで多くの物を整理せざるを得なかった体験からすれば、この言葉は今後ますます真実味を帯びたものになるに違いない。

 幸いにして、長野県の家も無事に買主が決まって処分できたが、去年10月のアメリカ発の世界大不況の影響を免れることができたのは運が良かった。以前から「石橋は叩いて渡るのではなく、跳び越えるべきものである」と口癖のように言って来たが、その通りだった。時間が存分にある場合には冷静に心を落ち着けて熟考することは間違ってはいないだろうが、失敗やリスクを恐れるあまりに慎重にあれこれ考え過ぎるのは「百害あって一利なし」ともなる。

 結局、行動しなければ何も変わらず、変わりようがないと常々考えているのだが、実際、2〜3年あるいは3〜4年遅かったら、加齢に伴う体力・気力の低下により思い切った行動を起こすことが叶わず、あのままずっと住み続けていたに違いない。果たして、引っ越したことと引っ越さなかったことのどちらが良い結果をもたらすかは不明だが、人生ではその時その時で最良と思う生き方を恐れずに選択するしかないのだろうと思っている。

 去年の4月から住み始めたマンションの3階が新しい我が家である。南側に面してベランダがあり、外を見るとすぐそばに広い作業庭のある工務店が存在している。そのため、朝、ベランダに面した居間のカーテンを開けると、否応なしにその工務店の様子が眼に入る。土曜日も含め、朝7時ともなれば作業庭で仕事が始まる。そこにはトラック、複数の乗用車、シャベルカーの他、あちらこちらに機材・材料が色々置かれている。去年の秋口までは工務店の動きはいつも忙しそうに見えたのだが、10月も終わりの頃から様子が変わり、忙しさが消えた。工務店のこうした状況は、まさに現在の不況下にある日本経済の状況を現わしているように感じる。

 最近は、この工務店の仕事の繁閑状況を眺め、忙しそうに仕事を始めている様子が見えると、思わず「頑張れ、頑張れ」と叫びたくなるが、こうした中小の会社には不況にめげずに是非とも頑張って欲しいと応援したい気持と同時に、もし倒産して売りに出され、せっかくの見晴らしの良い我が家の南側に高層マンションができたら困るなどと考えるのである。万一そうした事態となったら、せっかく今の所に落ち着いたのに再びどこか別の所を探して引っ越す羽目になりかねない。

 今年12月で結婚して43年になる。この間、東京から埼玉へ、埼玉から東京へ、東京から神奈川へ、神奈川から長野へ、そして再び神奈川へと5度引っ越しをしたが、今はもう若い歳でもなくなり、引っ越しには体力と気力の両方が不可欠であることを思うと、引っ越しはできればもうしたくないと願っている。