わたしはおこっている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・山河まり

 

 

 

二十代の頃、五十の坂を越えればたいがいの事に動じる事なく達観できるだろうと思っていたが、とんでもない。

いまだ未婚で、来年八十の大台に乗る母と暮らしている私は、毎日毎日腹をたてている事が多いようだ。

それは、個人的な事ではないので母に、

「ごまめの歯ぎしり」

と笑われているが、テレビをつけて飛び込んでくるニュースも、また様々な番組も、私をおこらせるが、日常で見る風景、人の様子にも驚く事が沢山あるのである。

唯一被爆国である日本の大臣が、原爆投下を認め戦争終結につながったと発言し、辞任に追い込まれたのも最近の事であるが、安部総理がアメリカの議員の同じような発言に対して、抗議するかとコメントされた時に、

「まだそういう情報を受け取っていない」

と逃げた事も私にはひっかかるものとなっていた。

日本時間で、朝の七時に発言された友好国アメリカの問題発言を、民間レベルで騒いでいる事を総理が知らないと答えるほうが、よほど自分の無能をさらけ出しているように思うのだが、どうなんだろう。

無論、そんな事だから安部内閣はすぐに空中分解してしまったが、かといって今の福田内閣が良いとも思えないのであるが、大体一般のノンポリ人間を巻き込むほど人気のあった小泉内閣に対して、私自身は、こんな者におどらされるんだから日本も先はないかも知れぬと不安に思っていたわけであるが。

空前の小泉劇場とまで言われた、小泉首相に不信感を持っていた理由は、政治はみてくれの良さやスマートさでおこなうものではないと思うからであるが、まつりごとのくろうとである政治家のやっている事、言っている事が、私の単純な頭では、ただ自分の権力の保全と敵対勢力のあげ足取り、としか見えないのである。

政治家になるにはお金がかかるそうであるが、私は、選挙の時に立候補者に投票者は何人でも一人に対して自分の票を一票と考えれば、何票入れても良いのではないかと考えた。最終的に獲得票の多い者に決めれば良いと思う。

また、政治家が特別な存在にならない為にも、一般庶民の心から離れない為にも、国民平均所得を給料とし、何か国賓として招かれた時なぞは特別に手あてとして支給されれば良いと思うのだが。

消費税の事も毛皮や宝石などのぜい沢品には大きくかけ、食料品、必需品は低くすれば良いと思っている。

あの戦争で立ちなおれぬほどの打撃を受け焦土の中から食うためにはい上がってきた我国の人々は、現在あふれかえる物質と情報の中で、自分を見失ないおかしくなっているようだ。

長い間、デパ地下で接客業をして来て、さんざん外国人に弱い日本人を見てきたが、日本旅行用のガイドブックに、一食はデパ地下の試食ですませよう、とあるように特に白人系の人種は、買うつもりもなくパクパクと嬉しそうに試食してゆく。

試食魔と敬遠してもあちらの旅行ガイドに堂々とのるほど、この国のデパ地下のただ飯が有名ならばしかたないが、ひと昔の日本人のように彼等が店内をパチパチと撮影してまわる事に、何一つ抗議できないというのは、何なんだろうといつも思う。

ディスプレイも商品と値段も、大切な企業秘密ではないのだろうか。

また、このごろ以前のように売れゆきが思わしくない大手百貨店は、接客中に発生するクレームに敏感ですぐに店員をくびにする。

どう考えても売子に因がないような問題でもである。(工場で生産中に入った異物混入などでも、その時、接客した者がやめさせられれている)

しかし、私に言わせれば、本来日本の土壌でのびて来た商売のこの国らしさに注目せず、外資系の上面をまねたような、前年対比という数値だけで見る、目標達成のみを重視した長年の結果が、大型店から人を離す事となっていると思うのだがどうだろう。

現在デパートはおおよそ、ただの大屋のようなもので各メーカーに場所を提供しているだけであり、デパートの正社員は非常に少ないから、赤字にならないように、各テナントに売り上げのマージンを要求し人件費も維持費ももたせているから、売り上げをのばす為に営業時間をのばしたり、クレームがくれば店員を即やめさせたりできるが、この事はかえって現場を悪くしていると、私は思う。

メーカーであるテナントがやりきれなくなれば撤退して、新しく違う店が入る。

これは、去年あった店がもうないという事になるが、人と人との信用を重んじて成り立つ物とした我国の商道のあり方が成立するわけはないのである。

のれん、と言われ、命がけでのれんを守るという言葉を幼い時に聞いた覚えがあるが、現在ブランドと言われ、それゆえ売れる商品のほとんどが、その名ゆえの高値に、私は価しないと思っている。

その道のプロを育てる環境がないのだから土台無理なわけである。

この国が物を作り育てる職人や技術者をかえりみる事なく、営業のみを重視してきたように、あらゆる分野で人々がサラリーマン化してしまったようだ。

金の為に働くのであるから、その仕事を追究し自分の世界を発展させようなんて思わないだろうし、誰も彼もマニュアル化された中で自分の保身でいっぱいいっぱいの現状である。

また多くの人々の買物の様子を見ても、若者のしつけのなさをうんぬんするどころか、いい年をした大人が実に常識も他人に対しての心配りもない事にあきれるばかりである。

卵料理や生物(なまもの)について、日持ちがし、安く添加物が入っていない事を要求したり、いくら自分の後ろに待ち人がいても、まったく配慮に欠け、消費税の為の小銭を体中ひっくり返すようにしてつり銭用のじゃら銭をへらす事のみに集中する人。自分が選ぶ時間はたっぷりと使うのに、決めたとたん、いくら、早くしてね、と要求する人。

こんな事ばかり書いていくと、日本人はどうなってしまったんだろうと悲しくなるが、だいたい自給自足すらできないこの国で連日連夜、大喰いであるだけでスターになれたり、グルメ番組や食材をおもちゃにするような番組を作っているというのも、身のほど知らずに思えてならない。

人との和を尊び、人の心を無言でさっする事に喜びをみいだす、この島国の人々に、欧米の哲学で練り上げられた、個人主義がやれるわけはなく、履き違えた身勝手な主義となっているようだが、身体感覚がにぶい欧米人種と違い他人の喜怒哀楽が皮膚感覚でわかる、やまと民族は、このような時代、自分を閉じなければ生存がつらくなるというのもわかるような気がする。

 

 

※このエッセイは2008年冬〜春に執筆されている