父の唯一の台所仕事 それはラーメンを作ること・・・・・・・・・・・・・・・・・・作田典子



 これは、わたしの記憶の中で三番目位に古い話で、昭和二十五、六年頃のことである。
 群馬の山間にあるわが家は、食べることには困らなかったが、右を向いても、左を向いても貧しく、わが家も例外ではなかった。
 そんなある日、朝食の席で父が、
「今日は鶏をつぶそう」
 と言った。
 その布告に、あまり年の違わない姪とわたしは、
「うあー、ラーメンだ」
 と、飛び上がった。
「お行儀が悪い」
 家族から叱責されるが、緩んだタガのように迫力がない。
 何しろわが家ではラーメンは大ご馳走で、それだけでハレの日になった。
 その主役は父である。父が全部取り仕切るので、わたしと姪は父から離れない。
 まず、庭の隅にある鶏小屋に行くところから作業ははじまる。タンパク源を補給するために、庭の一隅にずいぶんたくさんの鶏やアヒル、七面鳥を飼っていた。ラーメンの日はそのなかの脂の乗っていそうな鶏が標的となり、晩餐のお相手? をさせられる。
 鶏たちはそんなわれわれの思惑を察知してか、いつもよりはげしく逃げ惑う。だが父は、いっしゅん早く標的をゲットし、鶏自身が「自分の頭が切り落とされた」ことを認識できないほどの早業で首を切り落し、手早く逆さにつるして血抜きに入る。血が抜けると熱湯をかけ、羽をむしる。そんな父を、わたしと姪は息をつめて見ていた。
 解体。これは、あれから六十年も経つのに、今でもあのときのドキドキ感や、自分の体内を見るような不思議感を思い出すことが出来る。普段、寡黙な父が、このときばかりは、おどけたりしながら、わたしと姪を相手に、五臓六腑の説明をし、切り分けていく。
 切り開かれた胃袋には、今朝、自分たちがやったトウモロコシなどが、消化しきれないまま残っていたり、卵巣には卵になる順に小から大へと黄身が連なり、ときには産み出される寸前の卵も見え、それがツルツルピカピカの透明な薄い膜に覆われている。腸は、先にいくほど色が変わり、鶏糞になっていくようすが一目瞭然という具合である。
「えっ〜」
「やだっ〜」
 わたしと姪は、自分の体を覗いているような錯覚に陥り、お尻に手をまわしたり、お腹に手を当てたりしながら大騒ぎをしているのに、目は釘づけだった。
 最後のお楽しみは脚である。筋が二本あり、その一方の筋を引っ張ると、しな垂れ閉じていた指が、生きているように開き、緩めると、またしな垂れてしまう。ただそれだけだったが、まさにそれはラーメンの日の格好の遊び道具で、わたしと姪は得意顔で、みんなに動かしてみせた。
 解体が済むと、台所に届けるのだが、すでにカマドにかけられた大鍋にはお湯が煮えたぎり、なかで長ネギや人参、玉葱などが丸のまま踊っている。
 父はさっそく家人と手伝いの人たちに、ラーメンのあれこれや、スープの講釈をし、指示を出す。
 台所はいつもの台所とは違う活気がみなぎり、家中に鶏の独特の匂いがたちこめ、「今日はラーメンの日」を印象づける。
 昼食時になると、父からおごそかに夕食の時間が告げられる。
「のびてしまうから、必ずその時間には膳に着いているように」
 これは、ラーメンの日のたびに出される、おなじみのお達しである。
 これも大事なセレモニーのひとつで、みんな大きく頷く。通告の時間ちょうどに出来上がる、というのが父の自慢だった。
 粉のこね具合、手回し製麺機から出てくる麺の縮れ具合、すべて父の美学によってすすめられる。
 切り揃えられた麺は、ずらっと並べられた新聞紙の上に次々に並べられていく。家族と手伝いの人たちと合わせて十五〜二十人の胃袋を、完全に満たすみごとな量だった。
 全員が膳に着いたところで、茹でに入るのだが、今のような設備もないうえに大人数、それにきっちり序列順なので、末っ子のわたしの番になるころには、お湯は粉っぽくドロドロになっている。
 そのドロドロした湯で茹で上げたラーメンに、白髪ネギと大切に使っている浅草海苔を乗せ、丁寧にスープをまわし入れて、チキンラーメンの出来上がり! である。
 そのチキンラーメンは、麺もスープも妙に脂でギトギトしていたが、この世のものと思えなくらいおいしく、
「二杯目!」
「三杯目!」
 みんな競って食べた。
 他のおかずは何もなかったが、大満足で食後のお茶をすするのが常だった。

 当時、父は、戦後の農地解放でかなりの土地を失ったうえ、戦争責任者として、公職を追放されて無職、失意の時代だったことを後で知ったが、わたしには、ただただ「幸せなだけの時間」の記憶としてしか残っていない。
(2009入選)