酒井恵三



「草原の国」を旅して


 夏だと言うのに、この国を旅行していると朝晩の冷え込みには身に応えるものがあった。ゲル(遊牧民の移動式住居)の中で暖を焚き、昼間は外国人用のツーリストキャンプから遊牧民の集落まで馬に乗って遊びに行ったり、駱駝乗りに興じたりもした。丁度横綱朝青龍の問題がクローズアップされていた時期だっただけに、この国へ旅行した事はタイムリーだったのかもしれない。勿論、モンゴルの事である。

 深夜、首都のウランバートル国際空港に降り立つと、石炭の匂いが濃厚だった。国際空港と言っても日本の地方空港以上に設備が貧弱で、驚いた覚えがある。ここから宿泊先のホテルまでバスで移動したのだが、途中の道は悪路だった。と言うのも、決して舗装されていない訳ではなく、一日の寒暖の差が余りにも激しくアスファルトがひび割れし、車が走りにくくなるのだ。国家予算が少ないので、修繕する事もままならない。考えてみると高緯度の上、ウランバートルの標高は千五百メートル程あるのでこれは仕方の無い事なのだ。しかしこの悪路と言う言葉は、それからの旅行にも付いて回るものになろうとは、その時は思いもよらなかった。
 翌日以降はウランバートルを出発すると、草原の真ん中をずっと走り続け、古都カラコルム(ハラホルン)や、ブルドツーリストキャンプを目指した。
 途中の道は文字通り悪路だった。草原の真ん中を何時間にも渡って走り続ける為、壮観と言えばそうも言えるが、同じような景色が延々と続くので飽きるのを通り越して呆れてしまった。勿論舗装はされていないし、町どころか小さな村すらなかった。稀に遊牧民のゲルが散見される位で、兎に角草原ばかりがずっと続くのだ。
 昔、井上靖氏の「蒼き狼」を読んだ時、その背景が本当にイメージしづらかった事を想い起こしていた。確かに自分で実地に行って見てみなければこう言う事は分からないのだ。恐らく映画やテレビ等の映像メディアで見ただけでも、殆んどの人は良くは分からないのではないか。と言うのも、大陸的な、乾燥した空気と三百六十度の視界の中で見て感じる性質のものだからである。
 カラコルムではチベット仏教(ラマ教)の寺を見学し、ブルドのツーリストキャンプでは色々な遊びを楽しむ事が出来た。だが、前に通った道をウランバートルに向かって戻って行く時、実にいくつものハプニングに見舞われた。途中で穴にはまったりして、バスが立ち往生した事が何回もあったからだ。その為ウランバートルに帰着するのが遅れ、モンゴル軍による「チンゲス・ハーン八百年記念パレード」も見る事が出来なくなってしまった。(パレード自体は翌々日に改めて見る事が出来た。)今まで色々な旅をして来たが、ここまでハプニング続きの旅もなかったと思う。
 「草原の国」と言うだけあって、モンゴルは本当に見事なまでに草原しかない国と言えるが、首都のウランバートルだけは近代的な都会だった。この都会は丁度碁盤の目のような道路と旧ソビエト式の都市計画を基調としている。町の中を歩くとロシア文字で書かれた看板が目に付き、(現代モンゴル語はロシア文字だけで表記される為。)実質的にこの国は旧ソビエト、そして現在のロシアの南端である事を思い知らされる。中国とは伝統的に不和である為、中ソ対立の激しかった時期には地政学的に重要な国だったが、現在ではチンギス・ハーンを国家の象徴とし、歴史的な遺産で売り出していこうという意気込みが感じられた。
 乗馬が趣味なので、モンゴルの馬にも乗ったが、日本の乗馬クラブで乗るようなサラブレット種やアングロアラブ種の馬と違い小型なので、勝手が違いとまどった。馬のあぶみは実はモンゴル発祥である事は初めて知り、興味深く思った。モンゴルへの旅は、乗馬を中心として実に得る物の多い旅だった。

(2009)





『沸騰都市』ドバイ


 一昨年NHKスペシャルで「沸騰都市」と言うシリーズが放映された。その第一回がアラブ首長国連邦(UAE)の都市国家、ドバイであった。今でこそ、金融危機が本格化し、それまでのドバイの空前の建設ラッシュがスローダウンした事により、「ドバイの成長はもう終わったのではないか。」とも言われている。しかしそれまでが余りにも異常だった訳で、私個人としてはその程度のことで成長が止まる程、ドバイの繁栄自体底力の無いものではないと考えているし、またそう信じたいのである―。
「沸騰都市」のシリーズを見て、中東諸国をはじめ、世界中の潤沢な資金がこの都会に投資される背景を改めて知った私は、一昨年の九月、ドバイへ旅行した。深夜の十一時過ぎにエミレーツ航空に乗り、関西国際空港を出発した。ちなみにエミレーツとは英語で王族とか首長一族と言った意味で、その名の示す如く、ドバイの首長一族が経営している航空会社であるが、そのサービス内容、そして飛行機の内装共豪華であった。
 夜間飛行に入ると、砂漠の星空をイメージしたと言うイルミネーションが天井にさんざめきはじめるのである。そうこうしている内に、翌朝の午前五時過ぎになると、真っ暗な砂漠の彼方からドバイの市街の明かりが見えて来た。日本とドバイの間には五時間の時差があるので、関空からのフライトは約十一時間かかったことになる。
 実際ドバイは沸騰していた。現在でこそ「ドバイの成長は終わった。」と報ずる日本や欧米のメディアは多いが、それは以前の賛美一色、礼賛一色の報道からの反動もあろう。アメリカ発の金融危機は、この中東の小国にも少なからず影響を与えたからである。しかし様々な人種が行き交い、おびただしい数の免税店に吸い込まれるこの二十四時間対応型の巨大ハブ空港に降り立った時、(そしてこの模様が現在でもテレビでも放映されるのを見る時)それは筋違いなのではないか、と考えてしまう。ドバイの成長は終わったのではなく、人間に例えると幼児期のそれから、少年少女期のそれに質を変化させただけの事なのだ。ドバイの成長がいまだ続いている事を示す一つの例として、現国際空港は増大する一方の乗降客をスムーズにさばけず、パンク状態になっているため、新たに六つの滑走路を備えた新空港を現在建設したという。
 空港から出て、ハイウェイから眺めたドバイ市街の光景は、異様でもあり美しくもあると感じた。ドバイは中東のシンガポールであるとも言われているが、その規模の大きさや、活気から言っても、シンガポール以上ではないか。砂漠のスカイラインを切り裂いて林立する超高層ビル群は、目がくらむような高さといい、奇妙なフォルムといいとてもこの世のものとは思えなかった。ハイウェイ沿いには、空港と市街を結ぶ新交通システム(モノレールなのだろうか)が急ピッチで建設中だった。その工事には、ブルドーザーやユンボなど世界中の重機の四分の一が集められたと言う。
 遠くにはドバイの発展を象徴する超超高層ビルのブルジュ・ドバイが、霞んで見えていた。完成すると八百メートルを超すこの現代の「バベルの塔」は、私にとって旧約聖書の物語を彷彿とさせるものであった。この時は九月であったが、気温は四十度を超えており、しかもラマダン(断食月)であった。二〇〇五年にオープンした中東一の巨大ショッピングモール「モール・オブ・ジ・エミレーツ」にも行ってみた。ここには地上二十五階建てに相当する高さ八十五メートル、ゲレンデの長さ四百メートルを誇る人口スキー場(スキードバイ)が併設されている。黒いブルカを着て目だけ出した母親が、スノーボードで遊ぶ子供を室温零下一度に保たれたゲレンデで見守る姿を眺めていると、時代錯誤のような、何か訳の分からない気持ちになった。
 真夏(七、八月)には気温五十度を超える灼熱の国に何故人工雪を降らせるのか、その矛盾が気にかかり、落ちつかなくなったのである。
 ドバイの観光名所の一つに、アラビア海につながるクリーク(運河)沿いのスーク(市場)がある。かつてインド商人やペルシャ商人が激しく行き来した時代の名残が漂うスークこそ、アラビアンナイトの世界が彷彿としていて、落ち着ける場所であった。
 ドバイは急激に発展を遂げたせいか、新旧混在している所が矛盾に満ちていて、また面白いのである。ドバイを象徴する奇抜なフォルムの超高級ホテル「パージュ・アル・アラブ」の横にいて、近くのモスクから流れるコーランの朗読を聞いた時、この国の現在、過去、未来に思いを馳せない訳にはいかなかった。本当にドバイは沸騰し続けているのだ。

(2010)





穴水へのワイン・グルメツアーに参加して


 最近、ワインを自宅でも良く嗜むようになった。実はこの文章を書きながらも飲んでいる。ワインの世界は奥深く、その知識は無限大とも言って良いほどの広がりを持っている。ワインはある意味で、その素養がないと飲めないという考え方があり、実は本場フランスでは若年層のワイン離れが進んでいるというニュースを以前聞いたことがある。それとは逆に日本ではワインの普及は凄まじいものがあり、わたしの大学時代(バブル時代)日本に輸入された「ボジョレー・ヌーボー」の習慣はとうとうこの極東の島国に根付いてしまった。実際「ボジョレー」の解禁日(毎年十一月の第三木曜日)に、私はいつもホテルに行き、美食会のイベントを楽しんでいる――

 十一月の上旬だった。MRO北陸放送のイベントで、「女子アナと行く能登ワイン・能登牛・魚介類の穴水へのワイン・グルメツアー」というのがあったので参加した。このツアーに参加した理由は能登ワインの工場見学と試飲をするということ以外に、能登地震で四年前被災した、穴水の中心街の復興の具合を見てみたいということもあった。バスツアーにはMROのアナウンサーの室照美さん以外に、ソムリエの人も乗り込んでおり、道中実に楽しいワイン談義を繰り広げてくれた。私自身ワインを嗜むからには、少しはワインの素養を持ちたいと考えていたこともあり、実に勉強になった。ワインに限らず酒と呼ばれる物は皆そうなのかも知れないが、その民族の食文化の重要な一部分であり、食事と共に発展してきた物であること、そして極端な低温のため発酵現象の起こりにくい所に住んでいるエスキモー(イヌイット)は別として、世界中のどの民族も酒と呼ばれる物を持っていることにまず触れてからワインの様々な知識について、ソムリエの人は語り始めた。
 バスはいつの間にか能登有料道路を順調に走り始めていた。昔のフランスは決して衛生的な環境ではなかったため、ワインは食当たりを防ぐ毒消しの役割を担っていたことや、ヨーロッパは東アジアと比較すると土地が痩せているので、ブドウが栽培されるようになったこと、ブドウの栽培も実はフランス等ヨーロッパよりは南米国の方がより適しており、ワインの本場というべき所は本当は南米なのではないかともソムリエは語った。
 そうこうしている内にバスは穴水ICを出て、能登ワインの工場に到着した。穴水の中心街から見て東郊の高台に位置するこの工場は、四年前の能登地震の際も、地盤が脆弱でないせいか大した被害は無かったらしい。ここで案内役の社員の方からワインの基本的な製法について一通り説明を受けた後、様々なワインを試飲する機会を得た。日本のワインはヨーロッパや南米国のそれほど辛口にはならないため、口当たりは甘く、ジュースを飲んでいるような気分になることが(少なくとも私は)多い。以前軽井沢までのバスツアーに参加した際、小諸で途中下車し、マンズワインの工場で同じように見学・試飲したことがあった。その時もその口当たりの甘さについつい調子に乗り過ぎて飲み過ぎてしまい、軽井沢のホテルに到着した途端、部屋に入り眠り込んでしまった経験がある。以前のこうした失敗(?)もあり、今回は自制したつもりではあったが、やはり少し飲み過ぎてしまった。自分自身では良く分からなかったが、多分赤い顔をして穴水の中心街の方に下りて来たのだろう、と思う。
「能登ワインと能登牛まつりのガーデンパーティー」が開かれていたのは穴水の大島町から東町にかけての辺りだった。この辺りは居酒屋や料亭が多く、かつての歓楽街の名残が感じられる場所だった。旧小又川(真名井川)の北側の地域であり、地盤が脆弱なため、倒壊した店舗や家屋がいくつもあったことが、(新築の復興住宅や店舗が現在建っているため)分かった。
 ここで能登ワインを飲みながら、能登牛を味わった。以前食品表示の偽装事件が相次いだせいか、牛肉の品質保証書が貼り出され、その中には今食べている牛の血統図も書かれていた。青空の下、BBQのようにして食べる牛肉は柔らかくて甘く、ワインと共に胃袋に流し込むのは快感ですらあった。ただこのガーデンパーティーの食材に野菜類は殆んど無く、その点が唯一の不満と言えば不満であった。
 穴水の中心街を歩いていて気付いたことは、あちこちで道路の拡幅工事が行われていることであった。思えばあの日この町は消防車や救急車、そして自衛隊の車両等、多くの災害救助の車で満ちたが、道路が昔ながらに狭いため、渋滞が所々で起こり様々な支障があったのだった。穴水では死者はいなかったからまだ良かったようなものの、日本は地震国と言われている割には、都会だけでなくこうした田舎町も含めて全体的に地震等の自然災害に弱いことをもう一度考え直してみる必要があるのではないかと感じた。穴水、引いては能登の復興にはワイン等、やはりグルメの部分も必要であろうとも。
(2011)




「プリンセス・トヨトミ」と大阪への旅


「プリンセス・トヨトミ」を最近読み、大阪という都会の何たるかを改めて思い知った気がする。この小説は万城目学氏の直木賞候補作であったし、今年に入って映画化もされた。私はこの小説が、架空の国家が日本国から独立すると言うファンタジーとしては井上ひさし氏の「吉里吉里人」に匹敵する程面白いと感じた。(しかし、大阪国の独立の経緯は、東北の吉里吉里国のそれとは比較にならぬ程歴史的に複雑なものとされている点、同列に論じるのは無理があるのかも知れない。)

 思えば大阪という都会を戦前見事に活写した小説としては、谷崎潤一郎氏や織田作之助氏等の諸作があり、彼の地の人々の気質を、その原点から垣間見る事が出来るのだが、何分昔の小説であるが故に、今から見るとピンと来ない所も多々あった。だが「プリンセス・トヨトミ」は、テレビ番組「秘密のケンミンショー」等でよくテーマとされる大阪とその庶民性を、万城目氏がその客観的かつ淡々とした文体によって描破しているため、却ってその可笑しさが際立つという効果があった。こうした点では江戸期の戯作作家、そして長井荷風氏の系譜を引く井上ひさし氏の文体とは好対照を成しているとも思う。――

 今年の五月、久々に大阪へ旅行した。「プリンセス・トヨトミ」ではこの月に豊臣家の血を密かに引く女性中学生「橋場茶子」(要するに「プリンセス・トヨトミ」である)が拉致されたという思い込みから大阪中の男性達が決起、大阪が全停止したという設定になってはいるが、私が敢えてこの季節に大阪を訪れた理由は、大阪駅が大幅に改装され、新たに「大阪ステーションシティ」としてオープンしたからだった。「大阪ステーションシティ」の最大の目玉は、巨大百貨店「三越伊勢丹」が出来たことであるが、このデパートは要は巨大な宝飾品店であり、ファッションビルでもあり、美術サロンでもあった。いくら目当てとしていた中国人団体観光客等が東日本大震災の影響から来なくなったとはいえ、大阪駅に乗り入れる多くの電車や地下鉄等から吐き出されるおびただしい人々の群れを飲み込む様は、壮観ですらあった。やはり美的な物も、人間の飽くなき欲望やお金の力によって生み出されるのだろうか。倹約家であると考えられている大阪府民も実は、個々人としては平均東京都民の倍近くもお金を使うという統計もある位、大阪人はデパートで買い物をするのが好きだと言われており、私はそのエネルギーに圧倒されっ放しだった。

 今回の旅では「プリンセス・トヨトミ」の主要な舞台とされている空堀商店街へは行かなかったものの、この小説に描かれる大阪の庶民性を色々な所で感じる事が出来てよかった。「プリンセス・トヨトミ」は荒唐無稽なファンタジー小説でありながら、ある面では大阪と言う都会の真実を鋭く突いており、リアリズム小説と言えなくもないとすら今回の旅では思ったものだった。

 今回の旅では大阪のテレビ番組を出来るだけ見ることにも、心を配った。「秘密のケンミンショー」ではよく、大阪府民八百万人は全て笑いの師匠であるという話が紹介されるが、それもあながち間違いではないと大阪のテレビ番組を見て思うのだった。私は世間一般に大阪について語られることには、大げさで言われる事もある一面、実に真実を語っている一面もあり、その両方が自転車の両輪のようになって語られているのではないかとすら考えるようになっていた。

 私は五月のある週末、大阪に来た際いつも常宿としている中之島のホテルに一泊したわけだが、このホテルと大阪駅の間には無料のシャトルバスが日中、五、六分間間隔で運行されており、実に便利だった。ホテルの部屋に荷物を置いてから再び大阪駅へ出掛ける。あるいは少し気が向いたら出掛けた。実際駅のある梅田周辺はあらゆる物が集積されており、敢えて他所の場所へ出掛けなくてもよかった。道頓堀川のほとりの、巨大なグリコの看板に象徴される心斎橋、難波等所謂「ミナミ」に比較すると、梅田を中心とした「キタ」は未だに高層ビルの建設が続き、新しい街であるという印象を受けた。「大阪ステーションシティ」には比較的高層の場所にも広場や庭園があり、大勢の人々がまるでピクニック感覚で憩っている。あるいは巨大な映画館(シネコン)やスポーツクラブがあり、その気になれば一日中遊んでいられる。そして買い物がしたければ三越伊勢丹や大丸、あるいは「ルクア」という巨大なファッションビルや専門店街へ行けばよい。私は敢えて、一つの街を作り出すことにより、賑わいをも創出してみせるJRの手法に一驚を禁じ得なかった。駅のホームを巨大なドームでおおい、その中に空中庭園、否都市を作りだしたJR西日本こそ、秀吉以来の大阪の歴史の中でも中興の祖とも言われるのかも知れない。小説「プリンセス・トヨトミ」ではヒロインの失踪で五月の大阪は全停止したが、「大阪ステーションシティ」の開業は東日本大震災直後の大阪、否関西を五月という時期に、一時的にしろ活気づけることに成功したわけであった。
(2012)