斎藤 望
哀車
十四年乗った「愛車」と別れの日が来た。春の陽光の中、長年乗った車を手放す日であった。
自分の心の中には哀しみはない。十四年間、自分の心を癒してくれた車に感謝の気持ちを深く抱くと共に、様々な想いが交錯していた。
十四年前、長年、意中であった女性と結婚の約束をし、その挙式に向けて人生の幸福を目指して心を弾ませていた日々であった。
しかしながら、周囲の、とりわけ母の二人の結婚に対する風当たりは逆風であった。
泥沼ともいえる環境が若かった二人に降りかかっていたのである。
私は地元では旧家を継ぐ一人息子であり、幼い時から、母の私に対する愛情の注ぎ方は激しいものであった。母の期待に応えるべく努力した事も多々あった。
我が家は、代々、見合いにより婚姻が成立して来ていた。
見合いではなく、子供同士の恋愛による結婚には大きな抵抗がある事は、我が家で育った自分でもその気持ちは理解は出来ていた。
同時に、六年に及ぶ交際から、自分個人にとって人生を共にできる女性は彼女しかいない事も強く感じていた。
母の我々の結婚に対する反対は、女の意地とも化していた。
私に兄弟がいたなら、兄弟に家を託して家から離れる事も可能であった。
しかし、一人っ子の私には、それがどうしても出来なかった。
そのような私と結婚したら彼女に辛い日々を送らせる事は明白と感じられた。
だが、彼女を深く想い続けていた私には、彼女に辛い思いをさせる事が多いと予想される渦の中に巻き込むのはあまりにも酷と判断せざるを得なかった。
心が哀しみで満たされた状態で彼女に別れを告げたのである。泣きながら私との結婚の破談を承諾してくれた彼女の姿に涙が止まらなかった。
当時の私には、それが彼女に、その後、より深い悲しみを与える事になるとは予想できなかった。
人生で大きな空虚さを味わった自分は、彼女との結婚資金として少しずつ貯めていたお金を新車を買う事で癒そうとした。
私の手に握られたのは彼女の手ではなく新車のハンドルだったのである。
春風の中、新車は走る。雪が溶け乾いたアスファルト、沿道の緑の木々、赤や黄色の野花、新車の加速感も良い。軽快にハンドルを握る右手、空しい左手。
車の助手席に彼女はいない。そして乗せる事もかなえられない。それどころか、今頃、彼女が別の男性の車の助手席に乗っているかもしれない姿が想像され自分にとっての悪夢となって降りかかっていた。
ある時、旧友の男友達を助手席に乗せて走る時があった。彼は私の悩みを聞いてくれた。「いつまでも考えるな。」過去は過去、未来を見つめろ」という言葉が返ってきた。自分は気持ちに区切りをつけようと努力していた。忘れゆく思い出として。
ある時、別な女性を助手席に乗せて走る時があった。その女性との会話は楽しい。新車と新しい女性。辛い思いを無理に忘れようとしている気持ちを自覚していた。しかし、胸中は複雑で重いものがあり、心が晴れる事はなかった。
月日は流れ、新車は新車ではなくなった。自分の悩みを語れる親友となっていたのである。車体についた細かな傷を何度も磨く自分がいた。
車体の色はセピア色と茶色のツートンカラー。購入の時、心は重く、その気持ちを連想するような黒に近い色は好ましくないと思い、逆に白などの明るい色を選ぶ気持ちにもならず、彼女をセピア色の世界に封入しようとする心持ちが表れていたのだろう。
数年後のある時、街で彼女らしき女性が運転する車とすれ違った。すぐに車を止めUターンし、その車を追いかけた。自分の顔がわからないようにサングラスをした。
しかし、彼女が今、自分をどのように思っているか分からない。あの別れの日よりも人生を先に進んでいるかもしれない。自分はあの日のままの気持ちでセピア色と茶色の車体の車を運転している。
急に心が寂しくなり、追いかけるのをやめた。遠くに走り消えていくその車の後ろ姿をしばらく見つめていた。
そのような私に対して、ついに本格的な見合いの話が来た。
複雑な心境で会うと、相手は好感を持てる女性だった。
その女性を乗せてのドライブ。やっとこの車を手放せる思いを感じた。周囲や自分自身、そして相手の女性に対する人としての思いやり。様々な事柄を考慮していた。
辛い記憶は封印できるか。できなかった。
このような見合いを今後も繰り返すと、失礼な思いをさせてしまう女性が増えていくのである。人の脳裡は便利である反面、酷でもある。酷な気持ちを消せない。そして、これからも刻む場面が訪れてくるのを予感した。自責の心中をより強く痛感していた。
母が死んだ。脳血管による急死だった。
母の葬儀の間、私自身の心に問いかけていた。もう甘ったるい息子ではなく、我が家を支える柱とならなくてはならない。自己に強い人間となる必要性が要求されるのである。
そして、それが見えない力となった母の私に対する願いであり叱咤でもあったのではあるまいか。
車が事故にあった。車体の損傷は強く、廃車を薦められた。この機会に車を手放して、辛い事を忘れ心を新たにできるかと考えた。眠れない一夜。
車が廃車となり消えていくかどうかの瀬戸際の状況の中、自分の辿り着いた結論。
それは、人生は積み重ねである。楽しい事、辛い事の繰り返しなのである。辛い事は忘れようとするのではなく、乗り越える事が大切。という答えであった。たとえばそれが数ヶ月であろうと一年か二年であろうと、十年や二十年であろうと。車の会社には「自分が新米の社会人となり、少ない給料の中こつこつと貯めたお金で買った車なのでなんとか修理して活かして欲しい」と切願した。「そのような理由であればなんとかしましょう」という言葉が返ってきた。車は蘇り、またそのハンドルを手に走る自分があった。しかし、この時の自分は従来と異なっている事を自覚していた。
「辛い事は忘れようとするのではなく乗り越えろ」
この事にやっと気づいたのである。長い時間をかけ大きな心の切り替えが出来る光明が見えてきた予感がしていた。何か見えない力が長年この事に気づく自分を試していたかのような心持ちであった。その見えない力は自分に褒美をもたらしてくれた。
幸福を得ることは極めて厳しいものである。まさしく人生の試練として試されていたのである。
意中の女性と別れて十二年。その彼女と久しぶりに二人だけで話す機会が偶然のように訪れた。彼女も独り身であった。わずか二十分程の会話に凝縮されたお互いの長年の想いは近似していた。
その後、電話で話す機会が増し、十二年前、お互いが出来なかった事を果たす話が具体的に進んだ。もう愛情表現の言葉は必要なかった。
それからまもなく、彼女と別れて哀しみの中購入した車に、十二年後、その彼女を初めて助手席に乗せて役所に行き入籍の手続きをしてきたのである。
彼女と遅い新婚生活が訪れた。そして、二年後、我が家に入った彼女との生活が落ち着いた様子を自覚し車を手放す決心がやっとついたのである。
十四年乗った「哀車」と別れの日が来た。春の陽光の中、長年乗った車を手放す日であった。
自分の心の中には哀しみはない。十四年間、自分の心を癒してくれた車に感謝の気持ちを深く抱くと共に、様々な想いが交錯していた。
私の手にはそのハンドルではなく、妻の手が握られていた。
(2008)
ゴジラが来た!見た!去った!
「戦争を知らない子供達」
昭和四十年代中旬のヒット曲だ。
昭和三十三年に生まれた私は、当時、小学生か中学生。この曲の中にある意味がよくわからなかった。
小学生の頃、本屋に行き、漫画の本をよく読んだ。「零戦」に乗る格好の良いパイロットや日本の誇りとして絶賛されていた「戦艦大和」
おもちゃ屋に行ってみた。零戦や戦艦大和のプラモデル。
レコード屋に足を運んだ。逞しく聞こえてくる「軍歌」
パチンコ屋からも「軍艦マーチ」が鳴り響いていた。
映画館に入った。人間の味方、子供達のヒーローとして場面を素軽く動き回っている「ゴジラ」の姿。
「怪獣ごっこ」を友達とやった。皆、「正義の味方・ゴジラ」になりたがっている。
昭和三十一年度の「経済白書」では「もはや戦後ではない」と規定され「今後の成長は近代化によって支えられる」とされていた。
街中では「好景気」「所得倍増」更に「東京オリンピック」など華々しい話題が溢れていた「高度成長期」と呼ばれた時代に、私は生まれ幼少期を過ごしていたのだった。
中学生の頃、テレビでは毎日のように「映画劇場」が放映されていた。
ある日、昭和二十九年公開の「ゴジラ」が放映された。
白黒の画面で重い動きをするゴジラ。
-----全然面白くない。何故、この「ゴジラ」が良いのか?ゴジラは素軽い動きをする正義の味方であるはずなのに………。
私が中学生から高校生にかけて、日本では様々な事件が起きていた。
「七十年安保闘争」「東大安田講堂事件」
「よど号ハイジャック事件」「三島由紀夫事件」「連合赤軍による浅間山荘事件」等々
この頃、新しいゴジラ映画はほとんど制作されなくなっていた。
大学受験の時期となった。受験生を見つめるヘルメット姿の大学生。そして、彼らを睨みつけている機動隊の姿が目に映った。
「まだこのような事をやっているのか」と感じた。
やがて大学を卒業し社会人となり月日が経過していた。
映画会社では、日本が誇るあの大スターを復活させようとして、「ゴジラ」のリバイバル上映を行っていた。
私には「あの面白くないゴジラを今更-----」
という気持ちがあった。
ある日、オールナイトで上映している映画館の前を通った。
翌日は自分の仕事が休みの日でもあり、暇つぶしに入ってみた。
「ゴジラ」(昭和二十九年作品)このポスターに特にひかれるものはなかった。
中に入ると、深夜であるにもかかわらず、会場の半分以上、人が集まっている。年齢は、私と同年代か少し上と思われる人達が多い。
「このような時間に、あのようなゴジラを見る為に、随分と人が集まっているものだ」という感覚で見つめていた。
上映が始まった。
いきなり古くさいタイトルが映り、昔、耳にしていた「ゴジラのテーマ」が流れる。
正義の味方の素軽いゴジラではない事はわかっていた。また、映画を深く見つめる目に関しては、この頃の私には少しは備わっていたのではあるが-----。
上映の時間が進むに連れ、「このゴジラは怪獣映画ではなく、反戦映画だったのだ!」という事が理解出来ていた。
-----この「ゴジラ」は本当に怖い。
昭和三十年代生まれの私でも、ゴジラの背後にある「戦争の悲愴感」「原水爆の恐怖」が生々しく植え付けられていたのだった。
現在のビデオでは、何故かカットされているが、ゴジラが壊す建物の下敷きになる寸前の母子。母が子供に言ったセリフ「お父さんのところへ行こうね………」この言葉が特に印象に残った。
そして、昭和二十年代の後半、まだ戦争の後遺症が強く残る日本が世界に放った強烈なメッセージを痛感していた。
映画の上映が終わった瞬間、会場全体から一斉に拍手が沸き上がった。
私も一緒に拍手を送っていた。
昭和二十年代生まれの「戦争を知らない子供達」の次の世代である、昭和三十年代生まれの「高度成長期生まれの子供達」の一人に「戦争」の生々しさが強く伝えられた場面であった。
映画館を出た。外は暗く、人も歩いていない。
私の脳裡では、それまで痛快に聞こえていた「軍歌」や格好良かった「零戦」のパイロットの姿が、不安と悲しみに溢れる「哀歌」となっていた。
翌朝、目が覚めた私には、かつての「七十年安保闘争」を始めとした日本の様々な事件の背景。そして、私の記憶にはない、その前の「六十年安保闘争」に参加した人々の心が浮上していた。
特に、「六十年安保闘争」は、終戦を経て十年以上経っても、日本の人々の心に「戦争の悲愴感」を忘れないように改めて刻みつけるものだったのではあるまいか。
デモに参加した人々も、更に、新・安保条約の提携に踏み切った政治家達にも………。
「ゴジラのテーマ」の後に続くかのように、昔、レコード店から聞こえていた唄が蘇っていた。「アカシアの雨がやむとき」-----。
昭和六十三年、昭和天皇の容体の悪化が報道された。
多くの日本人の心に浮かんだのは、「天皇陛下の容体」「元号が変わるかもしれない」という事の他に、「戦争の悲愴感を経験し、立ち直るのに長い歳月を要した試練の時代の終焉」であったのではなかろうか。
年が明けてまもなく、「新しい元号は平成であります」の場面がテレビに映った瞬間の「平成」という文字は、激動の時代を脱却するのにまさしく適切な文字と目に映った。
平成となってからの各メディアは、原水爆の驚異を「恐怖」として伝える事はほとんどなくなっていた。
むしろ、最新のバイオテクノロジー技術により現代に蘇った恐竜や、科学の進歩により明らかにされた、その恐竜を滅ぼした大隕石の地球衝突の再来による惨劇が、リアルであり恐怖感に襲われた人が大部分であろう。
そして、平成となってから新たに制作された「ゴジラ」の映画は、私にとっては幼い時の郷愁の範囲であり、面白いのだが怖くないのだ-----。
「沖縄米兵少女暴行事件」「イラク戦争における自衛隊の派遣」等、以前であったなら騒動となったかもしれない出来事があった。
だが、大きな騒ぎは起こらなかった。
「戦艦大和」の沈没した位置が明らかになり、最新式潜水艇により、海底で眠る「昭和二十年の時そのままの大和の姿」がメディアに流れた。「このような多くの人々の悲劇があり、それが時代の礎となっているが故に、我々は平和な時代を生きている事を忘れてはならない」というメッセージが伝えられた。
私も複雑な想いで、その語りを聞いていた。
自分達の世代は、戦争を体験していなくても「戦争の悲愴感」を少しはまだ理解できる世代なのだろう。
しかし、近年の若者達と呼ばれる世代からは、「ニート」「新・貧困」という言葉などが発せられている。
そして、私の子供も「平成生まれ」なのだ。
もうすぐ成人となる。
昭和三十年代生まれの私からでさえ語りたくなる。
「さほど遠くない昔、人々は現代と比較して遙かに悲惨な体験をし、多くの人が亡くなる中、自らの生死を隣り合わせにして生き抜いていたのだよ………」
「戦争の真の悲惨さ」を切実に体験した世代は既に老いており、多くを語る事が出来ない状況にある人が大勢を占めている。
「六十年安保闘争」のデモに参加した学生の人達でさえ、七十歳前後の年齢となっているのだ。
昭和の「高度成長期生まれの子供達」の一人であり、戦争の悲愴感と現代日本の狭間に育った人間として、私の脳裡には、かつて悲惨な時代を泥まみれとなり駆け廻った人々の声が「時のシュプレヒコール」として鳴り響き続ける。
ゴジラが来た!見た!しかし戦争は遠くなりにけり――「真のゴジラ」は時代の彼方に……………。
(2009)
純白の船
久しぶりの早起きだった。
外は朝霧が立ちこめている。
慌ただしい日々が続く中、私は気分転換のつもりで外に出てみた。
近所でありながらも見慣れぬ景色。自分の周りにはこのような空間があったのだろうか。静寂の中を私は歩いた。
気がつくと港に足を運んでいた。
埠頭に停泊する船を見つめながら更に歩き続けた。
朝霧の向こうに一隻の白っぽい船が視界に入った。
私は歩み寄っていった。
波の音が聞こえてきた。
船に近づくに連れ、船体の色が白から、錆びついた茶褐色が強くなってくる。
やがて、私の網膜には、その船の色が、白と茶褐色の入り混じるセピア色に見えてきていたのだった。
*
小学校に入る前、砂浜で無邪気に遊んでいた少年の頃のボク。
浜に行く途中のある日、港に新造されたばかりの純白の巡視船が停泊しているのを見つけた。
好奇心が湧き、船の中に入ろうとした。
「君、危ないからダメだよ」と後ろから声が聞こえた。
振り返ると、乗組員の人と思われるお兄ちゃんだった。
ボクは寂しく、「ゴメンね」と言って船から離れ歩き始めた。
また振り返ると、お兄ちゃんは優しそうな顔で見つめている。
ボクは少し嬉しくなり、家に帰った。
ある夏の日。
ボクは、また砂浜で遊んでいた。
小雨が降ってきた。海は巨大な怪物のようになり、波が膝の上まで襲いかかる。
怖くなったボクは家に帰る事とした。
途中で巡視船の前を通った。既にずぶ濡れになっていたボクは寒くブルブルと震えていた。
「君、風邪をひくよ。こちらにおいで」
聞き覚えのある声。あのお兄ちゃんだ。
お兄ちゃんは、ボクの体を抱きかかえ巡視船の中に連れて行ってくれて、船の中のお風呂に入れてくれた。
まもなく、連絡を受けたと思われるお母さんがやって来て、そのお兄ちゃんに何度も御礼を言っていた。
優しいお兄ちゃんの笑顔。ボクはとても嬉しく大好きになっていた。
家に帰ってお母さんに叱られたボクは、数日後、雨の降っていない日に、巡視船の停泊する埠頭に行ってみた。
「あのお兄ちゃんに会いたい」
ただそれだけの気持ちで船を見つめていた。
「君、また来てくれたの」
船の中からあのお兄ちゃんが手を振っている。
ボクは夢中で桟橋を渡り船の中に走り寄って行った。今度は誰もボクを止めなかった。
お兄ちゃんや他の乗組員の人達も優しく、ボクは船の舵を手に握ったポーズで写真を撮ってもらった。
その後のボクは、砂浜ではなく巡視船に遊びに行くようになっていた。みんなボクをすっかりと覚えてくれて、仕事で忙しそうな時でもよく遊んでくれた。
ある日、お母さんが教えてくれた。
「あのお兄ちゃんがね、あなたのおじさんになるのよ」
六人兄弟の長女であるお母さんには、一番下の独身の妹がいたのだ。
ボクにとって若いおばさんが、あの優しいお兄ちゃんと結婚するらしい。
後で話を聞くと、お母さんは、予備知識のない子供が純粋に慕う人だから、きっと良い人だろうと、結婚相手のいなかった妹を紹介したという。
ボクは、巡視船に乗った大好きなお兄ちゃんが本当のおじさんになるというので子供心に喜んでいたのだった。
おじさんになったお兄ちゃんは、その後もボクに対して変わらぬ優しい笑顔で、「君には心から感謝しているよ」と声をかけてくれていた。
歳月は流れた。
新しいおじさんは、仕事で配置転換になり、遠く離れた街に赴任していった。
会いたいときに会えなくなっても、親戚となったお兄ちゃんとの絆は離れず、寂しさをさほど感じなかったが、会える機会は十年に一度程度になってしまっていた。
歳月は更に流れていた。
そして、ある日、母が逝った。
母の三回忌が終わった頃、遠くに住んでいた為、葬儀に来られなかったおじさんとおばさんが来てくれたのだ。
私も結婚しており、一家の主となっていた。
年齢を重ねても、優しいおじさんの笑顔。
皆で昔話が始まった。私の小さい頃の話だ。私は保存していた、あの日のお兄ちゃんが撮ってくれた巡視船の舵を握っている写真を見せた。
おじさんが懐かしそうに話してくれた。
「この頃の君の純粋な心が人を動かし、今の私達がいるのだ。ありがとう 」
仏間にある母の遺影も微笑んでいるように見えた。
妻は黙って横で話を聞いていた。
既に老夫婦となっているおじさんとおばさんが帰る時がきた。
仲良く連れ添い、二人は手を握り合いながら振り向き、私に笑顔を見せていた。
妻と二人だけになった時、彼女が語った。
「純粋な心が幸福を引き寄せてくれるのね 」
私は彼女の手を握りしめた。
*
波の音が聞こえる。
私は埠頭に立ち止まったままだった。
目の前には白っぽくも錆の目立つ船が停泊している。あの巡視船は既に廃船となっていた。周囲には人が集まり始め、雑踏の音が耳に入ってきた。現実の世界に戻るのだ。
私は帰宅する事とし、その場から離れ歩き始めた。
振り返り、港をまた見つめてみた。
私の網膜には、錆びついた船が、遠い日の新造されたばかりの純白の巡視船に映っており、再び動き出した世界を歩く心に、新たな活力が湧いていたのだった。
朝霧はすっかり晴れていた。
(2010)