サマードリーム2005―ミャンマーの匂い― ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 竜ヨーコ
お盆が近づいてきた。
早朝のランニングとテニスとジムで、沢山汗を流して疲れて帰宅したら、電話が鳴った。
兄だった。日曜に高野山へ行く話。ビルマ(ミャンマー)戦死者を供暮している寺院へ兄は母の死後、親に代わって毎年慰霊祭に参加している。私は祥月命日である四月に参っているので、夏は行ったことがなかった。しかし今年は春に行かなかったので、七月下旬の日曜日、兄と一緒に出かけることにした。
院主さんは私と同い年で、私と同じく相変わらず独身を続けている。少年のように純な大きい目をしているのに疲れた大人のセリフを兄に呟いた。それぞれの山の頂上に登りつめた殿方への説話は私にはできないが、若々しい心と体力は私のほうが勝っているかも。
「ヨーコちゃん、相変わらず元気そうやな」と同い年の院主さんが言う。
「ミャンマーへ行かへんか? 前に行ってからもう大分経つやろ」
私が初めてビルマを訪れたのは三十八歳の頃。そして二回目は四十四歳の時で母が亡くなった年。
「早いですね。母が亡くなって十三年経ちました」と兄が言った。
院主さんは、年齢と共にどんどん月日の経つのが速いという話を…。兄は共感して相槌を打ち、私はただ黙って聞いていた。
母と慰霊の旅に参加した時から兄は院主さんファンで、しばし二人で当時の旅行話を懐かしんだ後、兄が私に言った。
「ヨーコ、参加させていただきなさい。費用は私が出してあげるから」
十三年ぶりに向かうミャンマー。冷えた白ワインと七面鳥がおいしい。夏なのに七面鳥? 二回目の帰国の機内でシャンパンとターキーが出た。クリスマスイブだったから。おいしくて幸せだった。初めてビルマに向かう機内で飲んだ白ワインはもっとおいしかった。初めて一人で参加する海外旅行。周りは知らない人ばかり。なのに私は、親と一緒に初めて遠足に出かける幼稚園児のように心弾んでいた。
三十八歳という大人だったのに海外旅行に出かける経済的余裕もないハングリーなフリーライターだった。だから旅費は母が出してくれた。母が薦めた旅だったから。高野山の院主さんとはこの時知り合った。
あれから十九年、私は五十七歳になった。院主さんはさらに偉いお坊さんになり、兄は社長〜会長を経て現在は相談役、一家で一番元気だった母は嘘みたいに肺癌で亡くなり、そして私は、ますます貧しくハングリーな独身中高年者。でも周りの人達のおかげで結構豊かな暮らしを送っている。
「感謝しなさい」と言う母の声が聞こえる。「ありがとうございます」と私は呟いた。
空港へ降り立ったとたん、ミャンマー特有の匂いが鼻に纏わりついた。レストランの匂い、市場の香辛料の匂い…。
乾いた風の感触も懐かしい。「ミンガラーバ」と私は挨拶した。
「ヨーコちゃん、初めて会った頃と全然変わってないね」と院主さんが言って私の手を握り締めた。私はその手を払い除けなかったけれど、ベッドヘの誘いは拒絶した。
「どうして拒んだの?」と知らない女性が私を責めている。「お互い独身同士なんだから結婚したら?」と顔見知りの男性が言う。
どうして拒絶したのか…語りたくない。尊敬している院主さんだから。
「考え事?」
「いいえ、今は何も考えたくない」と私は乾いた風のなかで呟いた。
大きなカップに並々と注がれたコーヒーがおいしい。ちょっと欠けている受け皿にコーヒーがこぼれて、私はそれを地面に捨てた。コップに注ぐ冷酒のように、それがここでのサービスなのに(この時は知らなかった)。
「貴女には特別のサービスらしい。美人だから」ミャンマー文化協会の元会長である男性熟年者がそう言って店主と会話した。彼はミャンマー語が堪能、知り合いの現地人が沢山いて、行く所行く所で会話している。
コーヒーをビールに換えた夕刻、突然心が濡れて、ミャンマーの若い男性に微笑んだ。
私が四十代初めの頃、彼は二十代前半だった。ミャンマー文化協会に入会した最初の集いで知り合ったミャンマーの青年。彼は母国ではリッチな家庭の長男で、木材を輸入している企業の研修生だった。彼が私に名刺を渡したので私も渡した。すると電話が掛かってきて、そして私は、異国の若い男性に恋をした。彼のアパートを訪れ、私達はベッドで愛し合った。
狭いフローリングの上でキシキシと鳴る小さな木製のベッド。彼の声…匂い…。大きな目の中の真っ黒い瞳。真っ黒い髪。色黒い肌。
「ヨーコさんは匂いがしない」と言った彼の言葉を思いだしたら頬が染まり、その顔を覗き込んで見知らぬミャンマー人が囁いている。
「スコシ ヨイマシタ?」
私は笑って、「楽しいです、おいしいです」と男の耳元で言った。
「ヨーコちゃん、場所をわきまえて。他の男を見ないで。僕だけを見て」
酩酊してすっかり思考力を失った私の前に院主さんがいる。私に囁き、私を叱っている。
あれ? このセリフは他でもどこかで聞いたような…。僕だけを見てと言った人は院主さんじゃなかったような…。叱られたのはミャンマーではなかったはず。思いだせない。わからない。私は酔いすぎている。昔のように…。
母が亡くなってから後、私は酔いすぎた記憶がない。外で飲んでも少しだけ。そして自然にタバコも吸わなくなった。一度も男性を自宅に招いていない。母が天国から私を管理しているかの如く…。
なのに、時間が戻ったかのように、私は酔っている。リッチなミャンマー人の庭で開催された親善パーティで沢山ウイスキーを飲み、タバコを吸って、下半身を濡らし恋心に耽っている。私は今何歳で、どこで誰と何をしているの?
上半身が寒い。冷たい風が頬に当たり、私は「寒い…寒い…」と言って、目が醒めた。
すぐ傍で扇風機が軽い音を立てて回っている。私は上半身裸でソファの上。下半身にバスタオルを巻いてソファの上で眠っていた。
思いだした。シャワーを浴びて、ソファに座り、バスタオル姿で扇風機の風に当たっていた。今朝はあまりに暑くて疲れて、服を着る前に眠ってしまったようだ。
夢を見ていたのだ。どこから夢? 兄から電話がかかってきたのは現実。日曜に高野山へ行く約束をした。
夢は高野山から……。
母が十三年前に肺癌で亡くなったのは事実。二度ミャンマーヘ行ったのも若い研修生への恋心も本当。兄が現在会社の相談役で周りの人達のおかげで結構贅沢に暮らしているのも現実。そして、借金を抱えて経済的困難な日々も真実。経済的困難はさらに拡大して、半年後、長年契約受注している企業からの仕事が消滅する。つまり私は失業する。裸で海外旅行の夢を見ている場合ではない。
『前向きに…元気に今日を過ごせば、将来は何とかなる』という気持ちで今日まで暮らしてきた。「今日も無事元気に過ごせました。ありがとうございました」と天に向かって礼を述べ、「今日も一日無事元気に暮らせますように」と太陽に祈って、母の死後十三年、元気に無事生きてきた。私は恵まれている。
振り返って考えれば、母と一緒に暮らしていた日々はもっと恵まれていた。昔の職業婦人として懸命に生き経済的余裕もあった親の傘下で大人になりきれなかった私。フリーライターとして仕事がない間は、同居者としての生活費を免除していただき、旅行も年老いた親が二人分払い外食も母の奢り。そして世間で言う独身貴族で、乗馬倶楽部に通って自分の馬を持っていた時期もあった。
なのに、恵まれている自分の状況に気づきもしないで、また若いというだけでも幸せなのに、不倫をしていた二十代、私はいつも蒼褪めた不幸せな顔をしていた。
お金のことも未婚も母親を責める人がいたが、決して親のせいではない。分不相応に自営業を拡大させようとしたり雇い人の人数が増えたり、発注会社が倒産して損をしたり…自営が甘かったから、経営能力に欠けていたから。
夢ではなく、本当に三度目のミャンマーヘ出かけることができますように…と願い、そして今日も一日無事で元気に過ごせたことに感謝してベッドインした。
すると、夢のなかで、ミャンマーの村を走る大好きな馬車に乗っていた。
長い顔した白い犬がのんびり歩き、黒い豚が道路を横切り、鶏が追いかけ、白い牛が畑で黙々と働いている。
馬車は突然大勢の人間を乗せたトラックに変わり、沢山の星が夜空から降ってきた。山道をジェットコースターのように走るドライブに歓声を上げたら、星が夕陽に姿を変えた。私達は高いパコダの上で、神妙な顔して沈む太陽を眺めていた。広い大きな一本の道を護衛付きで走った早朝のサイクリングも楽しかった。
振り返ったら、慣れないタイ製の自転車がぐらついて、見知らぬ異国の男性とぶつかり、私は倒れた。
痛っ!
自分の声に驚いて、目が覚めた。
※私は四人きょうだいの末っ子。姉兄の父はビルマで戦死。私は幼少の頃に実父と生き別れ。長年母と二人で暮らし、母の死後も仏壇はそのまま我が家に。毎年お盆は姉兄が私の家に訪れる。