ライオン丸



私の恋愛経験

 

 私は、小学校6年の頃、Yちゃんという女の子と同じクラスでした。とても、かわいい子で、ロングの髪の毛が似合う女の子でした。卒業が近くなり、サイン帳にひとこと書いてと頼まれました。そのサイン帳に「おっぱいみせて」とラクガキがしてありました。そのラクガキを見つけたのは、私でしたが、Yから、「あんたが書いたんだろう。もうサイン帳には書いてもらわなくていいから」といわれました。私は、嫌われたと思って、泣きだしてしまいました。私は、すっかり落ちこんでしまいました。その後、保護者会があり、私の親がYの親に「あのラクガキを書いたのは、うちの子じゃない」といってくれました。そのこともあって、「もう清水君が書いていないことがわかったから」とYが言ってくれました。その日以来、私はYのことを意識するようになりました。特にYの胸や乳房に固執するようになりました。Yのことを女の子として、意識するようになりました。
 中学生になりました。Yは水泳部に、私は、郷土研究部に入りました。1年のときは、同じクラスでしたが、2年、3年の時には、別々のクラスになりました。時々、学校のプールにて、Yの水着姿を見かけました、私は、ますます彼女を意識するようになりました。その後、高校へ進学しました。Yは、神奈川県内の公立の高校に、私は、都内の多摩地区の私立の高校に進学しました。高校の通学中のときにも、何回かYの姿を見かけました。また、Yの高校の文化祭や体育祭にも行きました。体育祭の時に盆踊りが開催されており、着物姿のYの姿を見かけました。
 私の通っていた高校は、駅から、バスで行く郊外のところにありました。私の通う何年か前から、男子校から、共学の高校に変わった高校で、私の通っていた当時は、圧倒的に男子の数が女子の数より多く、そのためか、男子だけになると、女子に関する話でもちきりでした。
 バス内で私は、Mを見かけました。Mは、テニス部で、さわやかな感じのする女の子で、スポーツ万能で、勉強も良くできる女の子でした。バスでは、いつも、友達の女の子たちと数人で一緒に帰っていました。私は、歴史部に入っていました。高校二年の時に、コースが文系、理系に別れましたが、私は、文系に、Mは、理系に入っていました。私は、生徒会長もやりました。そして、いつも、通学途中で、バス内でMの姿を見かけるのが、とても楽しみでした。
 しかし、Mが彼氏らしき男の子と一緒にいるのを見て、とてもショックを受けました。その後、大学受験の時期となりました。私の通っていた高校は、某私立大学の付属高校でした。私は、その大学には行かずに、一般受験で、他の大学を受験しようと思いました。
 結局、浪人することになってしまいました。それでもMのことを思いつづけていました。私は、映画に関心があり、某映画会社の系列の映像科や俳優科のある映画の専門学校の進学説明会にも行きました。その学校は、東京都の多摩川沿いにあるところでした。その後、Mのことが忘れられなかった私は、多摩川沿いにあった高層建築物であるマンションのMの部屋の前まで、雨の中、行きました。そして、ブザーを押して、彼女に会おうと思いましたが、出来ませんでした。偶然にも、Mの住んでいるマンションは、その映画の専門学校のすぐ後ろにありました。周辺は、多摩川沿いにサイクリングコース、テニスコート、市民プール、野球場などのスポーツ施設が点在する、風光明楯なところでした。その市民プールへも何回か泳ぎにいきました。例のサイン帳の事件以来、女性の胸に固執するようになった私は、Mの水着姿やMの胸を想像していました。
 一年後、私は、某私立大学へ進学しました。私は、それでもMやYのことが忘れられずにいました。Mは、地方の国立大学を受験していたとは聞いたものの、進路がどうなったかは、わかりませんでした。また、現役の受験生のときに、Mが彼氏と一緒にセンター試験を受験しているのは、知っていました。
 私は、最初は考古学研究会に入りました。そして、MやYのことが忘れられずに、MやYに自分の気持ちを伝えるラブレターを書きました。そして、一通では、返事がこなかったので、何通も何通も書きました。三通目で、Yから返事が来ました。「はっきり言って迷惑です。はっきり言って、あなたのことは、何回か同じクラスになった人としか思っていません。私には将来、結婚を約束している人がいて、その人もあなたから、手紙が来ていることは、知っています。」と書かれていました。そして、Mにも手紙を何通も何通も書きました。しかし、返事はいっこうに来ませんでした。そして、何通も何通も書きました。苦しくなってしまいました。せつなくなってしまいました。そして二十五通目になって、やっと返事が来ました。それには、こう書かれてありました。「今までにお手紙を何通も何通ももらいました。もっと早く返事を出すべきだったと思います。しかし、現在、私にはつきあっている人がいます。清水君のお気持ちにお答えすることは出来ません。ごめんなさい。」
 今、問題になっているストーカーみたいなことをしてしまったのだと思います。
 私は、考古学研究会を半年ほどで、やめ、日本文学研究会というサークルと柔道同好会というサークルに入りました。日本文学研究会では、文芸誌をつくって、個人が執筆した詩やエッセイ、小説などを発表したり、読書会などをしていました。私は、そこで、YやMとのことを恋愛小説というか私小説として、書いたりしていました。しかし、一年半ほど所属していました。しかし、私のことをEという部員が小説に書いたり、サークル内での人間関係がうまくいかなくなってきたこともあって、サークルをやめてしまいました。
 その後、教育研究サークルにはいりました。また、自分の学部のゼミナールをやめてしまったこともあって、教育学科の教授のゼミナールにもはいりました。その教育研究サークルで私は、部長をしていたTという女性に会いました。Tは教育に対して、熱心で、将来、教師になりたいという希望を強くもっていました。そして、リーダーシップを強くとれる子でした。私は、Tに強くひかれていました。そして、手紙や電話で何度もアタックしました。
 しかし、うまくはいきませんでした。そして、Tが「人間関係を悪くしたから、もうサークルには行きたくない」というところまで、いってしまいました。私は、ショックでした、もう嫌われてしまったかと思いました。
 さらに、日本文学研究会のサークルのEから、「個人文芸誌をつくった」といって、その人が書いた詩やエッセイ、小説のおさまっている冊子を送ってきました。それには、「私はある人を傷つけた」とか「ある人をすみにおいやった」などと書かれていました。
 私はさらにEのことで、すごく悩みました。
 私は、今までにいろいろな恋愛をしてきました。今から考えると、私は、ストーカーだったのかと思うこともあります。でも、純真に一生懸命に活動してきたのだと思うのです。




「製紙工場の女工の就業形態およびそれに基づく生活 ―群馬県旧北群馬郡子持村(現渋川市)を事例として―                                  

 群馬県は、明治期に日本で最初の官営製糸工場である官営富岡製糸工場が設置されたり、かつては、日本一の養蚕生産高を誇っていた時期もあったほど、製糸関係では由緒のある県であった。私は、群馬県旧北群馬郡子持村大字白井のご出身で渋川市や前橋市、旧子持村などの製糸工場で、実際に女工として働かれていたA氏(大正十一年生)にお会いし、製糸工場で働いていた経験や当時の生活についてのお話をお聞きする機会を得た。また幸いにも、A氏のご出身地である旧子持村大字白井の郷土史家であるK氏にもお会いして、かつての女工の生活についてお話をお聞きすることができた。A氏とK氏からの聞き書きをまとめていきたいと思う。
1、 A氏のライフヒストリー
 A氏は、大正十一年六月十六日、旧群馬県北群馬郡子持村大字白井(当時は群馬郡長尾村大字白井)にお生まれになられた。尋常小学校を十三歳のときに卒業し、十四歳より、製糸工場で働いていた。最初は渋川市(当時渋川町)のマルチュウという製糸工場で働いていた。当時、渋川には、マルチュウ、マルキュウ、ミネイシなどの製糸工場があり、戦争前には渋川には、二十件くらいの製糸工場があったという。マルチュウは戦前間近、吉野組というところに買収されてしまったという。ミネイシというところには、若い子が多かったという。
  当時、尋常小学校を卒業した女子のなかで、尋常高等科に進学するものはごく僅かで、大部分の者は働きに出た。五割が女工になり、五割が農村に奉公しに行った。
 A氏は、朝五時に渋川まで歩いていったこともあったという。
 十四歳で製糸工場に就職したA氏は糸ひきの仕事からスタートした。この製糸工場は先輩が、後輩に教えるかたちで仕事を行っていた。入社すると、即本番で仕事が始まる。朝八時より、夕方五時くらいまでの勤務時間である。一時間くらい、歩いて通ったと思う。三十分ぐらいお昼休みがあり、お弁当などを食べたという。三時と十時に十分ぐらい休憩があり、おやつなどを食べたという。初任給は当時のお金で六円、ベテラン(二十歳くらい)になると最高で十八円ぐらいもらえたという。大部屋で五十人くらいの人数で仕事をしたという。この工場は最盛期で七十〜八十人ぐらいの女工が働いていたが、タママイと呼ばれた二流のやりかたでおこなっていた。この会社に二〜三年働いていたが、旧子持村鯉沢の碓氷社というところに移ったという。この碓氷社は軍需工場になったという。この碓氷社はリッソウという一流のやりかたで作業をしていた。碓氷社は、碓氷郡原市町や藤岡、沼田にもあったという。その後、前橋市のマルトというところに移った。その後、碓氷郡原市町の碓氷社に移った。ここは安中の手前にある工場であった。ここも軍需工場になった。その後、藤井製糸というところで、働いていたが、ここも昭和十七〜十八年頃に軍需工場になった。この時に空襲にあったという。その後に旧子持村鯉沢の個人経営の橋本製糸というところに移った。ここはリッソウというやりかたでおこなっていた。
 当時、前橋のマルトは、二百人〜三百人の女工がいて、寄宿舎もあり、信州より多くの女工が働きに来ていた。泊り込みで働いていた。工場長は厳しくなく、家庭的で、女工がえばっているような感じであったという。夜は女工同士で百人一首やトランプなどをしたという。信州から来た女工は、親の借金のかたにここで働かされる場合が多く、お金をためて、帰ったという。A氏の頃の作業着はスカートだったが、それより前は、はかまだったという。マルトは最近潰れたが、群馬大学の近くにあり、群馬では、最大の工場で最盛期には五百人ぐらいの女工がいたという。食堂では、麦飯におかずや卵などがでたという。
 碓氷郡や藤岡や沼田にあった碓氷社は、リッソウというやりかたでやっていたが、百姓の子どもが働きに来る場合が多かったという。
 女工たちの娯楽としては、当時、渋川に松本座という芝居小屋があり、着物コンクールなども催された。群馬は八木節が盛んで、五月一日の子持神社の祭礼にも八木節が催された。旧子持村も鯉沢にも橋本座という芝居小屋があった。当時の流行歌としては、「赤城の子守歌」などがあり、それらの踊りも催された。松本座では、一年に何回か、百姓たちによる田舎歌舞伎も催された。当時、渋川には二軒の松竹系の映画館があった。浪曲も人気があった。ドーナッツ版のレコードを持ち寄って、蓄音機を借りて来て、ある家に集まった。地域の集まりであった。広沢虎造などが人気があった。渋川の祇園祭も古くから、娯楽の一つであった。五十年前は山車が十八もでて、「ハマンマイリ」とか「ハマンノボリ」とかいわれ、みんなで踊った。帰りは「ハチマンタダリ」などといわれた。工場では二十人ぐらいの十代の女子が芸者館のはっぴを着て、踊った。
2、 K氏よりの聞き書きから
  まず、K氏が、旧子持村在住の女性から聞き書きした話を基に昔の女工としての就業形態をみてみよう。
  K氏がお話をお聞きした女性は、明治四十四年生まれの方で、群馬県長尾村北牧(旧群馬郡子持村北牧)の出身である。ちなみに中郷と代郷井と長尾村が合併して、旧子持村になった。この女性は長尾村立長尾尋常高等小学校高等科を十五歳で、卒業した。当時は小学校六年生でも卒業可であったという。大正十二年に碓氷社に入社した。当時は組合員の子女のみ採用したという。
  碓氷社の正式名称は、社団法人有限責任信用販売組合碓氷社長尾組(代郷井村、長尾村)といい、従業員は百人いた。(ほとんどが女子で、村外従業員はいないという。)本社は原市にある。原市は現在、安中市に属しており、明治三十八年(一八九九)に創設された旧碓氷社本社は、群馬県の重要文化財に指定されている。大きな製糸会社であった。旧碓氷社本社の事務所の建築物については、上毛新聞平成五年(一九九三)一月二九日号に詳しい記述がある。
  長尾組の組合長は、金井芳五郎といい、現業長は、小菅利徳であった。事務担当は、鴻田高近が勤めた。女工の就業時間は、六時より十七時までで、三十分くらいの休みがあったという。年齢制限は、なく、子どもを持っている方も勤務していた。給料は、記憶に残っていなく、個人の生産高、品質によって決まったという。休日は一ヶ月のうち、一日と十五日であったという。
  操業期間は、六月より十二月までで、一月より五月までは、休業であったという。休業期間のすごしかたは、裁縫などの習い事が主であり、家庭により差異があったという。
  給食についても述べておこう。昼食は、勤め先で支給された。主にご飯ものであった。宿舎もあった。上白井方面など、遠距離の者は寄宿したという。
 労務管理、技能指導についても、ふれておこう。教婦(寄宿舎の舎監)がいて、労務管理や技能指導にあたっていたという。躾は厳しかったが、虐待などはなかったという。
 群馬では、富岡製糸場が有名だが、この工場に行けるのは家柄のよい娘であったようだ。
 また、当時の女工の娯楽としては、渋川町(現在、渋川市)に二軒、映画館があったという公園館、帝国館である。弁士付きで、トーキーは、まだなかった。芝居としては、渋川町にみこま座(のちの市松座)があった。旧子持村大字鯉沢には、橋本座があり、松本綿枝一座などの旅廻りの役者たちが、来て、演技をしていたという。K氏のご自宅は、酒屋を営んでいたが、その小僧が、松本綿枝一座にはいって、役者となり、出世して、座長となり、招待券をK氏の自宅までくれたという。この一座は終戦後まで存続していたという。
 鯉沢の橋本座には、臨検席という席があり、駐在所のお巡りさんが、内容が反戦的、左翼的でないか、とりしまっていたという。 
 その他、女工の娯楽としては、渋川の祇園祭りがあった。当時、山車が十六台より二十台ぐらいまで、でたという。その他に旧子持村の子持神社のお祭りがあった。五月一日が祭礼の日であり、代郷井村、長尾村、子持村(これらの地域が合併して、旧子持村となっている)の総鎮守であり、五月一日は、山開きも兼ねていた。この祭礼の日には、太々神楽も催されたといい、現在でも続いている。昔は、この日は子どもの学校が休みになったという。
 北群馬郡子持村は、平成十八年に渋川市に吸収合併された。
 (2010)





思い出に残る活動・学園    

 私は、大学時代に部落解放研究会や教育研究サークル、教育学科教授の自主ゼミなどに所属しました。部落解放研究会では、狭山事件で冤罪とされた石川一雄氏のことや、被差別部落の民俗、部落問題の歴史的側面などについて、学習会をおこなっていました。学習会では、原田伴彦著「入門部落の歴史」解放出版社や柴田道子著「被差別部落の伝承と生活」三一書房などの文献をテキストにもちいていました。また、阪神淡路大震災の義援金を集める活動や障害者の生活を助けるボランティア活動もやっていました。子ども会で、小学生に勉強を教える活動もしていました。また、学園祭では、部落問題の研究者を招いて、講演会も開催しました。教育研究サークルでは、教育問題や学校教育について、みんなで討論をしたり、教育実習や教員採用試験などについての報告会を開催したりしました。教育学科の自主ゼミでも、いじめや不登校などの教育問題について、みんなで討論をしたり、教育学科の合同ゼミ合宿にも参加しました。合同ゼミ合宿では、人権問題をテーマに、グループに分かれて、寸劇を上演しました。また、大学時代には、マスコミ講座にも参加して、就職にもそなえて、勉強をしました。

 その後、別の大学の大学院に進学し、民俗学を専攻しました。そこで、日本民俗学と教育を統合した研究をしました。また、人間と性教育研究協議会かながわサークルにも参加しました。横浜の神奈川県の県民活動サポートセンターで開催された学習会にも参加しました。テーマとしては、同性愛、性転換手術の問題、性同一性障害などの問題もありました。このサークルに参加したきっかけは、平成九年の夏に国立オリンピック記念青少年センターで開催された人間と性教育研究協議会の学生セミナーに参加したことでした。また、平成十年に国立オリンピック記念青少年センターにて、開催された関東教育系学生ゼミナール大会にも参加しました。同大会は、平成十一年に千葉大学にても開催され、その際に中央議事運営委員をつとめたり、「地域の教育」に関する分科会を担当しました。平成十一年には、国立オリンピック記念青少年センターで全国教育系学生ゼミナール大会も開催され、参加しました。大学院では修士課程の二年間を修了した後、社会に出ました。特別養護老人ホーム長沢壮寿の里で寮母補助職の臨時職員をしたり、不二家池袋パルコ店にて、ウェイターのアルバイトをしたり、成城風月堂という菓子メーカーの経営する成城散歩という甘味喫茶にて、厨房のアルバイトをしたり、ニチレン出版という出版社で、月刊誌「現代仏教」編集部に勤務したり、ラーメンショップ川崎水沢店や龍九麺というラーメン屋で働いたりしました。また、就職活動における女性差別に反対する運動を続けている就職難に泣き寝入りしない女子学生の会に賛助会員として参加し、活動にカンパをしたりしました。また、人間と性教育研究協議会関東学生青年サークルでは、幹事をつとめました。笹塚の人間と性教育研究協議会の本部で開催された幹事の集まりにも参加しました。また、関東学生青年サークルの公開研究会も下北沢の世田谷区女性センターらぷらすなどで開催され、参加しました。

 また、調布市染地にある日活芸術学院という映像にかかわる人材や俳優などの養成をおこなっている専門学校の進学説明会にも参加しました。この学校は、日活撮影所のなかにあります。染地は、多摩川沿いにあり、周辺には、ライオンズマンションや調布市民プールがあります。また、かつて、染地遺跡という遺跡がありました。日活芸術学院の卒業公演や卒業作品上映会、学院祭なども行きました。また、日活芸術学院の進学相談会には、高校三年生のときにも行ったことがあります。これらの経験により、にっかつロマンポルノにも関心を持ちました。松島利行著「日活ロマンポルノ全史 名作・名優・名監督たち」講談社という文献も読みました。渋谷のシネマヴェーラ渋谷という映画館で開催されたにっかつロマンポルノの特集上映会などにも行きました。

 また、就職活動の際に、相模原市当麻にある光明学園相模原高校という高校の社会科の非常勤講師の採用試験に応募し、面接を受けたことがあります。この学校は周辺にある時宗大本山無量光寺の第六十一世山崎弁栄聖人によって、大正時代に創建された共学の高校です。仏教の学校です。以前、光明青年部という仏教を研究するクラブがあって、「光明祭」という学園祭でも、インドの仏教の聖地に関する研究発表をおこなっていました。また、社会科研究部鉄道班でも「光明祭」において、鉄道模型の展示をおこなっていました。現在は、民俗文化研究部というクラブがあります。他に硬式野球部、柔道部、空手道部、陸上部、テニス部、和太鼓部などの運動部の活動が活発な学園です。

 また、就職活動の際には、玉川学園中等部の社会科の非常勤講師の採用試験に応募しました。その後、玉川学園の小原国芳の全人教育にも関心を持ち、全人教育や玉川学園や小原国芳に関する著作もいくつか読みました。玉川大学生涯学習センターの公開講座を受講したり、玉川大学のコスモス祭、玉川大学美術部の展覧会などにも行きました。

 また、学習院大学にも関心がありました。私は、大学受験のときに、学習院大学の経営学科を受験し、補欠で繰り上げにはならず、あと一歩のところで残念だった思い出があります。それで、学習院大学の学園祭に行ったり、学習院大学の写真部の展示会に行ったり、学習院生涯学習センターの公開講座を受講したりしました。

 その他に思い出に残っている学校といえば、東京立正短大および中学・高校、アルファ医療福祉専門学校、佼成学園中学・高校です。東京立正短大および中学・高校は、杉並区堀ノ内にあり、付近の日蓮宗本山妙法寺(堀ノ内の厄除けお祖師さまで知られる)が経営している仏教の学校です。短大は以前は女子のみですが、現在は共学化しており、アナウンサーも輩出しています。中学および高校では、歴史研究同好会などの活発なクラブ活動が知られています。私は、東京立正短大の学園祭および中学・高校の学園祭に行ったことがあります。アルファ医療福祉専門学校は、町田市森野にあり、介護福祉士やはり・灸などの専門職を養成する学校です。ここの学園祭にも行ったことがあり、また、町田市民ホールにて、俳優の長門裕之氏の講演会を開催しているのにも行ったことがあります。佼成学園中学校および高校は、杉並区和田にあり、立正佼成会の学校です。周辺には、立正佼成会大聖堂、佼成病院、佼成出版社、佼成図書館、普門館など、立正佼成会の施設が立ち並んでいます。佼成学園中学および高校では、鉄道研究部などのクラブが雑誌で掲載されるなど、活躍しています。また、私は、佼成学園中学および高校の世界史の非常勤講師の採用試験に応募したことがあります。また佼成病院でもボランティアをしたことがあります。

 また、東京都国分寺市光町という地域も思い出に残ります。光町には鉄道総合技術研究所があります。この地域は、昔は平兵衛新田という地域でしたが、鉄道総合技術研究所で新幹線ひかり号の研究がおこなわれていたために、光町となったと伝えられています。この研究所では、毎年十月の中旬に「平兵衛まつり」というイベントが開催されます。このイベントにおいては、普段非公開となっている研究所の施設が公開されます。ミニ・コンサートもおこなわれたり、露店も数多くでます。また、庭には、ミニSLも走ります。また、当日には、研究所の前で、地元の商店街によるお祭りも同時開催され、露店も数多くでます。施設の前にはひかりプラザがあります。ひかりプラザは、ライツこくぶんじ男女平等推進センターや市民課光町サービスコーナーなどを兼ねた建物です。ひかりプラザでは、鉄道資料や鉄道模型の展示もしています。光町の稲荷神社には、不動明王の石像があり、夏には盆踊り、冬には消防出初式がおこなわれます。光町の隣の西町には、観音寺、神明神社、弁天八幡宮などの史跡があります。観音寺には、宝寿観音の石像、神明神社には、庚申塔の石像や弁財天の石像、弁天八幡宮には、庚申塔の石像などがあります。

 その他、社会人となった今でも、いろいろな活動をしてきました。環境パートナーシップかわさきの市民委員をつとめ、市の環境問題について、討論をしました。東京都多摩市の石仏調査会のボランティアもしました。川崎の男女共同社会をすすめる会にも参加しました。川崎市宮前区の宮前日本史研究会にも参加しました。これらの経験を今後もいかしていきたいです。

(2011)




東京都国分寺市光町の民俗およびそれにまつわる女性問題学習サークルの思いで

 東京都国分寺市光町は、JR中央線国立駅の北側にあります。光町の中心街である光商栄会という商店街があり、はずれると、鉄道総合技術研究所や国分寺市ひかりプラザがあります。光町は、享保の改革の頃、上谷保村の平兵衛さんが、新田開発を願いでたため、平兵衛新田と呼ばれていました。鉄道総合技術研究所にて、新幹線のひかり号の研究がおこなわれていたために、昭和四十一(一九六六)年に光町となりました。研究所では、十月の「鉄道の日」に近い土曜日に「平兵衛祭り」というイベントが開催されます。当日は研究施設の公開の他にミニ講演会や試験車両の展示、体験実験コーナー、各種アトラクション、ミニコンサートなどもおこなわれます。ミニSLや鉄道模型の公開運転もおこなわれます。多くの模擬店もでます。研究所の正門前では「光商店会祭り」が同時開催され、青空市やもちつき大会などの催し物があります。阿波踊りの演技も披露されます。また、光町には鎮守の稲荷神社や光図書館などがあります。稲荷神社の境内には狐の石像や不動明王の石像があります。祭礼は九月十九日ですが、現在は、その日に近い土曜日から日曜日にかけておこなわれます。この神社では初午祭りも催されます。また、この神社の境内を利用して、夏は盆踊り、冬は消防団出初式も開催されます。稲荷神社の境内の西北の八雲神社は天王様とか呼ばれ、天王様を信仰している人の家では、天王様の紋に切り口が似ているために、きゅうりをつくってはならないといういいつたえがあり、天王様の祭りは七月十五日です。また、前述のひかりプラザは、市民ひかりスポーツセンターやライツこくぶんじ男女平等推進センター、国分寺市立教育センターを兼ねた多目的施設で、鉄道関係の資料の展示もあります。「あずま」という喫茶室もあり、私は、たまたま、そこを訪問していたので、ざるうどんを食べました。また、ひかりプラザでは、国分寺市レクリエーション協会などの団体の行事もおこなわれています。

 光町の隣の国分寺市西町には、観音寺、弁天八幡宮、神明神社などの史跡があります。観音寺には、宝寿観音の石像、弁天八幡宮には庚申塔の石像、神明神社には、弁財天の石像や庚申塔の石像や地蔵の石像があります。また、観音寺には境内に六地蔵の石像や観音の石像、墓地にも馬頭観音の石像や地蔵の石像があります。
 また、光町の隣の国立市北町には、全日本学生自治会総連合や、就職活動における女性差別に反対する運動を続けている、就職難に泣き寝入りしない女子学生の会の本部があります。

 ざっと、国分寺市光町およびその周辺について、「平兵衛祭り」を中心に、紹介してきました。なぜ、この地域に関心を持ったかというと、私が、学生時代に参加した「東京女子学生セミナー」というサークルが、このひかりプラザを会場として、学習会をおこなっていたからです。「東京女子学生セミナー」は、月に一回、女性史や女性問題に関するテーマを決めて、学習会をおこなっていました。全日本学生自治会総連合や東京都学生自治会総連合などのバックアップをうけて、おこなわれていました。会場もひかりプラザ以外にも、お茶の水女子大学(東京都文京区)、一橋大学(東京都国立市)、東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区)、東京経済大学(東京都国分寺市)など、会場を変えて、おこなわれました。年に一回、「全国女子学生セミナー」という大会もありました。講師としても、文化人類学者の原ひろ子氏を招いて、「性の商品化」というテーマで、学習会をおこなったり、日本国憲法二十四条に男女平等の条項を書き残した、もとGHQのベアテ・シロタ・ゴードン氏を招いて、「ベアテ・ライブ」という講演会を企画したりしていました。また、このサークルの忘年会が、国立市内の公民館で開催され、ゲームなどの交流をして、楽しんだ経験があります。

 前述の就職難に泣き寝入りしない女子学生の会も、この「東京女子学生セミナー」と連動して、就職活動における女性差別に反対する運動をおこなっています。私は、社会人になってからも、この会に賛助会員として、参加し、活動にカンパをしたりしました。
 その後、川崎の男女共同社会をすすめる会にも参加し、女性史や女性問題に関する学習を続けています。この会は、川崎市男女共同参画センター(すくらむ二十一)などを会場にし、女性史や女性問題に関する学習会や講演会を企画しています。もと国立市長の上原公子氏などを講師に招いています。
 以上、国分寺市光町の歴史的な背景やそれにまつわるサークル活動などについて、書いてきました。今後も女性史や女性問題の学習を続けていきたいです。

(2012)