万両の花・・・・・・・・・・・・・・・・・・大芙晃輔



 夏の陽射しが本来のものではなく、梅雨のような蒸し暑さがいまだに残る初夏。私は息子の晃を乗せて帰りを急いでいた。前を、最近流行のエコカーが気持ちよさそうに走っていた。
「父さん、あれが今、流行りのエコカーだよね?」
「ああ、エコカーの最先端だね」
「お父さん、なぜ買わなかったの?」
「高かったから、買えなかったんだ」
「でも、エコに役立つから無理しても買えばよかったのに……」
「そうだね。前の人、紅葉マークだから年輩の人だけど、自分の子どもや孫のために、そして地球のために、あの車に乗ってるんだよね? えらいよなあ……」
 走りながら、息子とのやり取りに、気恥ずかしい思いで一杯だった。しかし、大学生、高校生、中学生という三人の子ども。まだまだ金のかかる時期だ。とても車に金をかける余裕なんてない。“君たちが大学を出たら、エコカーで走って見せるさ”前を悠々と走るエコカーを見ながら、心の中で呟いた。法定速度で走るエコカー。車間距離を十分に取ってついて行った。私の後ろにも二台ほど車がついてきた。少し遅いが、法定速度なので仕方がない。そのうち、前を行くそのエコカーの窓が、するする開いた。その窓から腕が伸び、その手に握られたペットボトルが、道路脇に向かって、何のためらいもなく投げ捨てられた。私も息子も、一瞬我が目を疑った。
「父さん……」
「う・そ・だ・ろ!?」
 私は、言葉を失った。
「エコカーに乗ってる人が……どういうこと? 父さん!」
「晃……あんな人もいるんだよ……」
 歯切れの悪い言い方ではあったが、他にことばは見つからなかった。
 “何のためのエコカーなんだよ……”しかも、後ろに車がいることは分かっているはずだ。人の見ている前で、平気でしてはいけないことをする。ハンドルを握りながら、答えを見つけてみたが、容易には見つかりそうもなかった。今や小学生や園児でだけでなく中学生や高校生でさえ、エコの意識を高めるために、ボランティアや体験活動をしていると言う。地球にやさしい人になるように、勉強をしていると言う。それを、こともあろうに〈エコカー〉の代名詞みたいな車に乗った人が、環境破壊を平然としている。しかも、それをしたのが、私よりも先輩の人間である。怒りが倍増して、何とも言いようのない怒りとなって込み上げてきた。何という矛盾したことを……。ぶつけようのない怒りは、また、その行動の理解も、なかなかできなかった。 
 第二次大戦で失った多くの尊い命と豊かな自然の代償として、昭和三〇年代になり、平和とともに心の豊かさをゆっくり感じられる時間を得た。高度経済成長に目がくらみ、一度壊しかけた人間が、自然のしっぺ返しに気付き、再び自然保護の運動が高まり、各地で豊かな自然が嘗ての姿を取り戻しつつある。みんなが、この豊かさに感謝していると思っていた。いや、しているはずだと思ってきた。まして、自分より年上の人は、絶対そうだと思ってきた。母から戦争体験の話をよく聞かされ、きれいな川の水、豊かな山の緑、澄み渡る空。そして、その自然を感じることのできる豊かな時間。戦争で奪われ、長い時間をかけてゆっくりと復活し、そしてやっと取り戻した大切な自然と時間。壊したくないはずだと思っていた。しかし、目の前の現実は、その気持ちを砕いた。たかがペットボトル一本ではあるが、自然に還るまで、数百年掛ると言われている。自分さえよければいいのか? そんな風潮は、自然に触れることの少ない、周りの人間と触れ合うことの少ない、都会だけのものだと思っていた。自然の良さを忘れ、自分の故郷への愛着も薄れ、当たり障りのない人間関係を保ち、できるだけ無難に毎日を過ごす、都会の人のすることだと思っていた。“人情の島”と言われるくらい、人にも自然にも優しいこの島で、このような傍若無人なことがまかり通っていいのか…? 不器用な上に“くそ”がつくぐらい、まじめで実直な天草の民が、そんなことをするはずがない。いや、私の中では“してはいけない”のである。
 天草は、熊本県の西の端に位置し、県庁所在地の熊本市から、約二時間半かかって天草の中心地、旧本渡市(現天草市本渡町)に着く。そこから、バスでそれぞれの家路に着く。国道が通ってはいるものの、天草五橋、瀬戸ループ橋を渡らなければ、島に入れない。車、バス、バイク等が主要な交通手段となっている。島民の暮らしは、昭和、平成と時代を経るに従って向上はしたものの、まだまだ経済的に裕福な家庭は多くはなかった。事実、土日を休める家庭はほんの一握りで、民間の会社勤めをしながら、田畑を世話している生計を立てている家が多かった。旧本渡市とともに、活気ある頃の天草の代名詞だった旧牛深市(現天草市牛深町)も、イワシ漁ができなくなり、火が消えたように静かな町になってしまっていた。 
 しかし、それでも天草の島民は、江戸時代から痩せた土地で作りやすい「さつまいも」を主な食材として、我慢強く生き抜いてきた。贅沢を戒め、ひたすら土を掘り起こしながら質素に、しかし、しっかりと大地を踏みしめて暮らしてきた強さは、今も島民の心に強く残っていた。時には〈ハイヤ節〉のメロディに乗せて漁民たちがにぎやかに、そして時には、〈隠れキリシタン〉と呼ばれた信者たちが、ギヤマンのメロディに重ね、見事な夕日に染まる海岸に向かって静かに祈り、耐えながら生きてきた。自然から得る食料に頼らざるを得ないこの島は、自然の移ろいに合わせ、季節に応じて自然に対応をし、食糧を確保してきた。当然、自然に対する感謝の気持ちは相当なものである。その象徴が〈祭り〉の多さである。今も、天草の各地がそうであるように、まず土地の中心の神社があり、その〈祭り〉が終わると、今度はその土地の小さな区でそれぞれ〈祭り〉を行う。それも、収穫祭がメインの日本の祭りだが、私の住む天草は〈豊作を願う祭り〉の段階からいくつも存在する。これこそ、食の確保が困難だった証明かもしれない。島の人口が半減したと言われる「島原・天草の乱」以降は、第二次大戦の終焉を迎えるまで、その生活は、さらに厳しいものだったと言う。その中で「がねあげ」「コッパ餅」と呼ばれる天草独特の「さつまいも(天草ではカライモ)」料理は、その歴史に翻弄された島民の、自然からわずかに恵まれた〈カライモ〉で、創り上げた粘り強さの象徴であった。しかし私は、自分も島民でありながら、そんな我慢強さはなかった。しかも、「生真面目さ」「我慢強さ」が、そして何回も神にお礼する小さな〈祭り〉が、数百年もの間、島民の中に息づいていること自体、逆にナンセンスに思えてならなかった。いいことなのかもしれない。しかし、時代は進んでいる。いい加減、合理的な生活を望んでもよいのではないかと、いつも思っていた。人から何を言われても、省くことなく、“ずる”をすることなく、ひたすら言われたことだけを黙々とこなす。“なぜ、そんなに生真面目なんだろう? 融通が利かないんだろう?”と、半ば呆れていた。ただその反面、尊敬しているのも事実だった。到底、自分には真似のできない強さがあった。天草の民はそういうものだった。
 その夜の我が家は、昼間の話題で持ちきりだった。
「晃、今日のことは、よく覚えておきなさい」
「ああ、今日の車のことだね。ちょっとびっくりしちゃったよね」
「ペットボトルのこと?」
妻は、ビールを注ぎながら、話してきた。
「どういうことなんだろう……? 解らないよ」
「そういう人もいるんじゃないの?」
「そりゃそうだろうけど……エコカーに乗ってるのに……」
「エコと環境破壊がつながってないんじゃないの、その人……」
私がビールを注ぐと、妻は漏らすように言った。
「エコカーに乗っているだけで、環境を保護しているつもりでいるんじゃないのかなあ?」
 息子の晃も、それなりに考えている様子だった。
 次の日の朝、いつものように犬の散歩に早起きした私は、庭を回りながらふとある植物に目が向いた。背の低い低木だったが、そのきれいな花に目を奪われた。慎ましやかな淡い白と薄いピンクを混ぜたようなその小さな花は、私をその場に釘付けにした。万両の花だった。私にとって、万両は赤い実を付け、冬場の寂しい庭を飾る植物というイメージでしかなかった。初めて見るその花が、こんなに綺麗なものとは想像もしなかった。周囲に綺麗な花がたくさんある夏にも、負けないくらい綺麗な花を咲かせていた万両。見る者が気づくかどうかだった。私は心を洗われた気がした。
 朝食後、私は妻を助手席に乗せて、趣味である写真を撮りに、河浦町から天草町へ車を走らせた。大江の教会を横目に見ながら、高浜の白鶴ヶ浜を見下ろす、十三仏の岸壁に立っていた。海岸から百メートルはあろうかという断崖に、祠が立ち、仏をまつってあった。断崖に立つと、遠く東シナ海から吹き上げてくる強い風に、思わず足がすくむ。その断崖から、遠く中国に思いをはせた〈五足の靴〉の一人、与謝野鉄幹と妻晶子(鉄幹再訪の際に随行)の句碑は、隣の公園に立っていた。そこからは、妙見ヶ浦(みょうけんがうら)という、奇勝も見ることができた。二つ並んだ島に開いた大きな洞。その中を漁船程度ならくぐって行ける。さらにその先には、苓北町の富岡。天草・島原の乱の時に、天草下島最大の戦場となった所である。一揆軍は居城として奪取しようとしたが、幕府軍の必死の抵抗に合い、攻め落とすことができなかった。そこで一揆軍は富岡を諦め、島原の原城に拠点を構えた。結局、二万数千人が斬首されるという、悲しい結末を迎える乱は、その反乱軍を抑えられなかった幕府が、その後「鎖国」へと方向性を決めていくという程度で、日本史にはあまり大きく取り上げられることはない。しかし、それまでの幕府の禁教政策や弾圧、圧政や過重な年貢等に、必死に耐えていたという経緯を知れば、この生真面目で不器用な島民がなぜあんなことをしたのか、分かるような気がする。ぎりぎりまで我慢しているからこそ、その糸が切れたら終わり、ということであろう。幕府にどんなに唾を掛けられようとも、顔を踏みにじられようとも“お侍さまに反抗してはいけない”という親からの教えであれば、必死に守っていたに違いない。だからこそ、自分たちで“もう終わり”と決めたら、最後の一人だろうと降参はありえなかったはずだ。それが天草の民だったのではないか。平和な今、平和な海からの風に揺れるフェニックスを眺めながら、三百年前に、思いを馳せた。私たちは、苓北町、富岡の〈頼山陽〉の句碑〈雲か山か呉か越か〉を読み、与謝野鉄幹らと同じように、中国に思いを馳せ、青い海に感動しながら五和町を抜けた。ほどなくして、旧本渡市の大型量販店の駐車場に車を止めた。いい具合に、入口の近くのスペースが空いていた。バックしてエンジンを切ろうとした私たちの目の前に、一台のワゴン車が入って来て、何のためらいもなく駐車スペースに入る。そしてエンジンを掛けたまま、一人の男性が店に入って行った。私は、その車を凝視したまま、うめくように妻に言った。そこは、障害を持つ人のためのスペースだった。中には母親と子どもたちが乗っていた。店に走るドライバーを睨みつけて、精いっぱいの嫌味をしたが、〈頭に来たから〉〈カッとなって〉殺されてしまう時代。私にとっても精いっぱいの抵抗だった。特に気になったのは、中に乗っている小さな子どもたちだった。そんな親に育てられたら、とても他の人を思いやる子どもには育つまい。〈自分さえよければ、他の人が困ろうが、苦しむ人がいようが関係ない〉という風潮。気になっている人は多いはずだ。
「これだよ……。障害者のスペースにためらいもなく止める身勝手さ。エコに関しても、エンジンは掛けたまま。車内が涼しければ、自分たちが良ければ……自分ひとりくらいは……この風潮は、大人としてはもちろん、人間として、やってはいけないことだよね。」
 私は強い口調で言った。もちろん、妻もうなずいた。そんな悶々とした気持ちの中、買い物を終え、私たちは帰路についた。その車の中で、会話は必然的に、今日の出来事だった。
「あんな親に育てられれば、身勝手な子どもになるはずね」
「推測でしかないけれど、あんな親は、可愛がってるつもりでいるから、たとえば、暑い時はクーラーの効いた部屋の中にいさせてるはずだよ。熱射病にでもなったら大変……とか何とか言いながら……。」
「子どもも、外に行かなくて良ければ、当然、おとなしく涼しい部屋でじっとしているはずよね?」
「外には行かないだろうね。ゲームしたり、テレビ見てれば済むんだから……」
「大人だって、暑い時には涼しい部屋の中がいいわよね?」
「そんな子どもが増えるから、外で遊ばなくなる。自然の中で遊ばなくなるから、故郷のよさを見失ってきてる。つまり故郷を好きになれない人間が増えているんじゃないか、そんな方程式が、成り立ちそうな気がしてならないんだ」
「そうよね。故郷じゃなくても、自分が住んでいるところが好きなら、大事にするはずだしね」
「そうさ、汚したりしないはずだよ」
「都会のゴミ置き場が、分別がめちゃめちゃになったり、ひどいときには放火されたりするのも、地方から上京して、都会を好きになれない人が多いからじゃないかな?」
「極端な話かもしれないけど、確かに“都会を好き“と言う人は、そう多いようには思えないわね?」
「ただ、好きになれなければ、田舎だって同じだと思うけど……ね」
「確かに、住んでいる土地を好きになれなければ、大切にはしないわよね? そこは、都会でも、田舎でも同じなのかもしれないわ……」
「それと、ファーストフード全盛の、いわゆる“スピード化”も、現代人の道徳性の欠如につながってる感じがするんだ。スピードや便利さだけを追求してきた、なれの果てなのかも知れない、ってね」
「何か忙し過ぎるような気がしてならないわ」
「うん、だから待つことが苦手だ。早く、自分のほしいものを手に入れたい。気に入らなければ捨てる。食べ物に関して、その進歩はすごい」
「こんな時代になって、さらに我が儘で、我慢ができない人間が増えてきてる。だから、あなたが見たような〈エコカー事件〉や〈今日のワゴン車〉のようなことが起きるのかもしれない……」
 妻は、軽く溜息を吐き、窓の外の景色を見ながら呟いた。そんな会話の中、我が家に着いた。その時私は、昨日の「万両の花」を思い出し、妻をその場所へ連れて行った。
「これさ、昨日僕が言ったの……万両の花だったんだ」
 楓の木の下に、静かに佇む“万両”を指さしていった。
「ああ、この花ね? 私、知ってはいたけど、見たのは初めてだったわ」
「僕は、知ったのも、見たのも初めてだった。冬場の花が少ないときに、赤いきれいな実を付けてるのは知ってたけど……」
「きれいね……」
「清楚で、上品だよね」
 “目立つ時は美しい。しかし、目立たない時でも、その時を待つかのように、静かに、ひっそりと佇む花、万両。周囲の、目立つきれいな花に目を奪われて、その美しさに気づかない時は、緑の葉っぱだけだと思っていた。しかし、気がついて見ると、周囲の花が目立つこんな季節でも、自分なりに精いっぱい美しく咲いている。見ている私が見えていないだけだった。故郷だって、その自然だって同じかも知れない。いつも優しく、そして時が過ぎても、きっと変わることなく、温かく、待っていてくれる……”
「万両の花に、教えられたよ。故郷は変わってはいない。きれいなままだったんだ。何十年たっても、故郷の自然はそのままの姿で佇んでいる。まるで、いつ帰ってきても、温かく受け入れてくれるように……。変わってるのは人間だけなんだって……。」
「だから、もっと故郷に触れて、故郷や自然を、思い出してほしいのね? 故郷、天草の……。そして、その良さを感じて、もう一度自分の中に流れる、天草島民の生真面目さや優しさを……」
 妻の言う言葉に、私はうなずいた。
「だから、あの〈エコカー〉や〈ワゴン車〉の人達が天草の島民なら、早く忘れた心を取り戻してほしいし、天草の人でなければ、島民の心を傷つけないでほしい。できるなら、天草の優しさにふれて、元々自分の中にあるはずの、優しさを思い出してほしい……」
「天草が好きなのね……」
 微笑みながら万両の花を見て、呟くように妻は言った。
(2010)



おにぎりのおばちゃん・・・・・・・・・・・・・・・・・・大芙晃輔

 高校三年生の二男が、高校生活最後の弁当を持って出掛けて行った。体調を崩している妻に代わって、三年間弁当を作ったが、それも今日で最後だ。ほっとするのと同時に、寂しい思いがする。弁当のご飯は、必ずおにぎりだった。優しく握り続けた。それは私のこだわりだった。その理由は、ちょうど十数年前にさかのぼる。
 子どもたちの夏休み、家族旅行に行った。四国は香川県。ちょうど研修大会があり、それに合わせて出掛けた。四国などに来ることはまず無かろうと、受験の長女を含む、長男、二男、三男と妻の六人の旅行だった。
 ただ、気になることがあった。妻は産後の肥立ちが悪く、体調を崩してしまったのだった。三男出産後、半年後には休職。そして、その一年後には退職していたのである。しかも、自律神経をやられたため、見た目には分からず、恥ずかしながら、夫の私が理解できずにいた。妻が退職してから、早くも二年が経とうと言うこの時期でさえ、症状をうまく理解できず、気分転換でもすればひょっとしたら快方に向かうかもしれない、くらいの甘い考えだった。そのため、今回の遠い旅程を相談する時も、
「少し遠いけど、ぼちぼち行けばそう大変じゃないかもしれない……」
 と、いつの間にか努力を求めていた。自分の主張を控える優しい妻に、甘えていた自分に気が付かなかった。
 天草から車で大分まで五時間。高速をとばしてもやっとの思いで辿り着く。朝、天草を出発し、別府から分岐して臼杵に着いたのは午後三時過ぎだった。あいにく、天気が悪くなり、フェリーの外には出られないくらい雨がひどくなった。出港してすぐは、揺れもそうひどくなく、夕食までの間、四国へ渡るフェリーだし、うまいのではないかと、うどんを食べてみようと買ってみた。しかし、国東半島の影を抜けたのか、揺れがひどくなった。子どもの頃から、海で遊ぶ時は、漁港の船から飛び込んだり、天馬船を漕いだりと、船には慣れているつもりだったが、さすがに太平洋の波の揺れは大きかった。私でさえ、恐怖心が出て来るくらい大きな揺れだった。しかし船員は、拍子抜けの顔をして、
「そうですね……今夜は揺れない方ですかね?」
 と、気にも留めない様子だった。ふと周りを見てみると、乗客は慣れているのか、静かに本を読んだり、寝転んだりして、時間を潰していた。また、良く見るとうどんを注文しているのは、私達家族だけであった。乗り慣れた人たちには、この時間帯が、食事には適さない時間帯であることは常識だったのだろう。
 揺れも収まり、ようやく八幡浜港へ着いた。『一刻も早くホテルに着こう』と、スピードを上げて車を走らせ、午後七時前、高松市内のホテルに着いた。街の真ん中ではあるものの、川の側で、落ち着いた雰囲気のホテルだった。部屋に入ると、妻はすぐさま座布団を枕に、横になった。それを見ていたホテルの仲居さんが、
「大丈夫ですか? すぐ蒲団を敷きましょうか?」
 と声をかけてくれた。私より十歳くらい年上の、しっかりして、しかも優しそうな女性の方だった。
「ありがとうございます。ではお願いします」
 食卓を部屋の脇へ寄せ、妻の蒲団だけを敷いてもらい、残りの家族は仕方なくテレビを見たり、ゲームをしたりしていた。そのうち、食事の準備が始まった。食事は部屋食にしてもらっていたので、その脇の食卓へ並べてもらった。三才の三男を膝に座らせ、夕食を食べ始めた。しばらく休むと、妻もようやく起きて来て食事を摂ることができた。子どもたちはすっかり元気になったが、妻は相変わらず青い顔でひと口、ひと口ゆっくりと口に運んでいる。
「どうですか? 高松のごはんは……。坊っちゃん、お代り、あげましょうか?」
 様子を見に来たさっきの仲居さんは、子どもたちに声を掛けたものの、妻の食事の少なさに、心配そうに声を掛けた。
「奥さん、どうしたの? 車酔いかね? 全然入らないですね?」
「済みません。決してまずかったのではないのです。ここ数年、体調を崩してしまって……。食べ切れないのです」
「そりゃあ大変です。これくらいの量で大丈夫ですか?」
「今日は特に、太平洋の大きな揺れに、疲れ切ったのでしょう。大丈夫だよね?」
 布団から、疲れきった顔を出している妻は、
「大丈夫です。片付けてください」
 と、精いっぱいの顔で言った。そう言うと仲居さんは、
「あらあ、大丈夫ですかね……?」
 小さく呟きながら片付け始めた。その日は、みんな疲れて早めに休んだ。次の日の朝、私一人だけ出掛け、研修を終えた。ホテルの受付に着くと、『長く滞在していただけるので、部屋を使っていただいてます』と言うことだった。体調の悪い妻がいて、三歳の子どももいるということで不安な中研修に出た私だったが、ホテル側の思いやりに感謝した。部屋へ入ると、三歳の三男は、
「遅かったね。みんな待ってるよ」
 とみんなの気持ちを代弁してくれた。私は、
「ごめん、ごめん。お仕事でね。体調はどうだった?」
 妻に聞くと、ずっと横になっていたそうで、布団を敷きなおしてくださったと言うことだった。
「おかげで、ずいぶん楽になった」
 そう言う妻の言葉に、私もホッとした。
「とりあえず、香川のうどんを食べさせたいんだけど、君はどうする?」
 と、妻に聞くと、子どもたちと食べて来てほしい、と言う。そこで、車を走らせて本場の“さぬきうどん”を食べに出かけた。屋島の近くのうどん屋さんで、私と子どもたち五人、名物うどんに舌鼓を打った。
「お母さんも食べたいよね? お土産買おうよ」
 長女の言葉に、他の子どもたちも大賛成。珍しいうどんのチップスをお土産に買って、その日は帰った。
 次の日からは、いよいよ高松を中心とした四国巡りだった。しかし、妻の調子はあまり芳しくなく、迷った挙句、その日までホテルで様子を見ると言うことだった。残念な思いのまま、子ども達を連れて高松を回った。屋島をはじめ五色台など、広いスペースの名所を連れて回った。しかし、長男や二男はおろか、三歳の三男まで、全く元気がない。やはりホテルに残してきた母親のことが気になるのかもしれない。仕方なく、少し早目のうどんの昼食。
「お母さん、何食べてるのかなあ……?」
 長女は、やはり母親が心配なようで、自分が食べている時にも案じている。
「そうだねえ、昨日は『自分で何とかするから……』って言ってたけど、今日も何とかするのかな……?」
「お父さん、何か買って帰ろうね!」
 長男の言葉に、大きくうなずく私だった。帰りには、しっかりお土産を買って帰った。その夜、ホテルに帰ると、妻が起き上がっていた。それを見ると母親に抱きついて、今日の出来事を多弁に話している三男。その後ろでは、賑やかな二男も、いかにも話したそうに、もじもじしている。
 落ち着くと、お腹がすいてきた私達は、食事をお願いした。ほどなくご馳走が並んだ。昼間、動き回っている子どもたちは、おなかペコペコ。食べざかりの長男は小学六年生。自分の分でだけでは足りず、私の分も少しもらい、それでもまだ足りないと見えて、たくさん残った妻の分まで欲しそうである。その顔を見て妻は、刺身を少しと、ご飯、海老フライをひと口食べただけで、あとは分けてやった。すると、
「あ〜兄ちゃんだけ、いいなあ…」
 箸をくわえて二男が羨ましそうに言う。
「良輔もほしい?だったら、お父さんのを分けてあげるから」
「あ〜僕も食べるう〜」
 三男まで言い出した。
「あらあら、お父さんやお母さんの分まで食べちゃうかねえ〜」
 その様子を見ていた仲居さんは、ニコニコしながら話した。
「今日は少し良かったみたいですね、奥さん……」
「ありがとうございました。仲居さんのお陰です」
「いやいや、これくらいはお安いご用です。それより、賑やかなご家族でいいですね」
「人数が多いので、当然賑やかなんですが、ここに着いたときは、借りて来た猫のようだったでしょ?」
「確かに、少しおとなしかったですね」
「初めての四国、と言うことで不安だったのでしょうが、それより何より、あのフェリーの揺れが応えたのではないでしょうか?」
「揺れた、って言われてましたね」
「初めての経験でした、あんな揺れ方…」
「うどんが、こーんなに動いたんだよ」
 私と仲居さんのやり取りに、三男も膝の上から話に加わってきた。
「怖かった、僕?」
「ううん、全然怖くなかった〜」
「嘘だあ、怖そうな顔をしとったぞ!」
「僕、怖がっとらんもん」
 二男と三男のやり取りをニコニコしながら見ていた仲居さんは、
「熊本弁が勇ましいわあ! ところで、僕たち、お名前は何て言うがね?」
 と聞いた。
「僕? 晃生」
「僕は良輔です」
「お姉ちゃんとお兄ちゃんは?」
「僕、大です。六年生です」
「六年生? 大きいねえ。食べるはずだわ。お姉ちゃんは?」
「芙美です」
「芙美ちゃん? おばちゃんも、芙美子って言うのよ。野田芙美子」
「ええっ? 本当ですか?」
「ええ、偶然ですね! この子は林芙美子の芙美なんですけど、野田さんは?」
「これも凄い偶然、同じですよ〜」
「へえ〜、おばちゃんと姉ちゃん、名前がほとんど同じだあ!」
 子ども達が喜ぶのを見て、横になっている妻もにっこり微笑んでいた。すっかり打ち解けた感じがした。
 その夕食後、野田さんが部屋に相談に来られた。それは、ちょっとしたご飯と漬物、そして、その日宿で出した食事の中で、後でも食べられるものを添えて、夜食のように持ってこようか、と言うものだった。たくさんは無いものの、少しでもお腹が空けば食べられると言う安心感。ほとんど食べられない妻が気になっていた私には、涙が出るほど嬉しい申し出で、二つ返事でお願いすることにした。
 すると、早速その晩から持って来てくださった。海苔でまいたおにぎりと、ゆかりの小さなおにぎり五つと漬物。それと、汁物。妻は、おにぎり一つと、汁物を少し口にした。残りは、あっという間に、四人の子どもたちのお腹に入った。
 次の日は、ようやく妻も体調が上向いたと言うので、思い切って小豆島へ行った。オリーブで有名な、温暖で落ち着いた時間の過ぎる島。二十四の瞳等でよく知られている。しかし、夏の暑さが妻にはやはり応えるらしく、車の中で待つことしかできなかった。お土産に醤油と味噌、それとホテルで出た醤油豆を急いで買った。私一人で、子ども達を連れて見て回ったが、三男の機嫌がすこぶる悪い。やはり、妻が一緒に行けないのが、とても寂しかったらしい。その夜、ホテルに帰ると、やはり妻はぐったりして横になった。食事も、いつものように少しか口にできず、夜食を持ってきてもらった。
 ところがその夜は、おにぎりにうどんがついてきた。もちろん、おにぎりの種類は違うし、漬物の種類も違う。さらに甘辛い、小豆島で見た醤油豆がついていた。そして極めつけは、おにぎりの数。夕食時に、夕べの話をすると、
「お母さんの分が足りんがね〜」
 と、苦笑いしながら言っておられた。そして出て来たその夜のおにぎりは、何と十個。子ども達の分まで、握ってあった。しかも、明らかに妻の分と子どもの分は、大きさが違っていた。野田さんの思いやりが垣間見えた。
「この醤油豆、おにぎりに合うよ」
 醤油味とおにぎりの塩味が、食をそそるらしく、妻はそう言いながら、珍しく美味しそうに食べた。昨夜のように残りは子ども達が美味しそうに頬張ったが、長男と二男は、おにぎりの取り合いもするほどだった。麺好きの長男と三男は、うどんもあっという間に平らげた。野田さんは、夕食の様子から、多分子ども達の好みまで見抜かれていたのではないか、そう思えるようなメニューだった。
 次の日は、大鳴門橋まで行き、鳴門の渦を見て、家族写真を撮った。この頃になると妻の体調は、前日までよりは、かなり良くなってきた。しかし、良くなったと言っても、健康な人からすると、まだ半分の体力だろう。食事は相変わらず少ししか食べられず、その夜も夜食に頼った。
 その日もメニューが違った。何と唐揚げがついている。おにぎりは当たり前のようについていた。それも十個。そして、四万十川でとれると言う、川海苔を付けたのもあった。妻は、そのおにぎりと漬物、そして澄まし汁を口にしたが、子ども達は、唐揚げに大喜び。これが夕食を平らげた人間のなす業か……と思えるようなすさまじさだった。
「今日はこんなの握ったからね…」
 そう言いながら、部屋に持ってこられた野田さん。実は、野田さん自らが握ってくださったのだった。気持ちのこもったおにぎりは、不思議なほどにうまい。子どもたちはそれを良く知っているかのごとく、短時間で平らげた。
「あの、醤油豆、美味しかったって言ってました。また、川海苔も食べやすかったそうです。清流四万十川だから、美味しいんでしょうね? 天草の川ではとても考えられません」
 そう伝えると野田さんは、
「良かった〜。豆だけど、ご飯にも不思議と合うんですよ。それと、川海苔は、おにぎりにはあんまり使わんのじゃけど、『醤油豆が美味しかった』ってことだったので……ねえ」
 と、いかにも我がことのように、嬉しそうに答えてくださった。
「野田さんが握ってくださってるんだって」
 と言うと、
「芙美子さんだったね?」
 と長男。
「野田さんて、おにぎりが上手だね!」
 と二男。私達家族の中に、野田さんの思いやりが満ち溢れていた。そして、最終日。いよいよ四国を離れる日。野田さんへの思いを忘れないように、お土産をたくさん買った。そして後ろ髪を引かれる思いで、野田さんに何回もお礼を言い、ホテルを後にした。車を見送る野田さんの姿が見えなくなるまで、子どもたちは手を振った。
 帰る途中、瀬戸大橋を渡り、コンビニに寄っておにぎりを買って食べた。すると三男は、
「おにぎりのおばちゃんの方がおいしいよ」
 と呟く。
「おにぎりのおばちゃん?」
「誰、それ……?」
 みんなが不思議そうに聞くと、
「ほら、握ってくれたろ?」
 三才の三男が、言葉足らずで言う。長女が助け船を出した。
「ホテルのおばちゃんのことでしょ? 野田さんだったけ?」
「そうだ、姉ちゃんと同じ名前の人だったね」
 二男も思い出したように言った。小さくうなずいた三男は、
「ね、おいしかったろ?」
 と、突然強くなった。
「そうか、野田さんじゃなくて、おにぎりのおばちゃんなんだ」
「美味しかったよね」
「そうだね…おにぎりのおばちゃんのおにぎりは、 とっても美味しかったね…」
「毎晩出してくれたし、うどんや漬物もあって、お腹いっぱいになった」
 長男が言うと、二男は、
「兄ちゃんばっかり、たくさん食べたよね!」
 本当はもっと食べたかったらしく、少しむくれて言う。自分たちの母親に対する、野田さんの優しい心遣いも相まって、夕飯の後でありながら、よほど美味しかったらしい。そう言う子どもたちを微笑ましく思いながら妻を見ると、妻は、そっと目頭を押さえていた。
「仕事ですから…」
 と、当然のように言われていたが、不安で、きつくて、疲れている時に、人の思いやりと言うのは、とても心に響く。ずいぶんとホテルの幹部にも掛け合ってくださったに違いない。人あってこその仕事。そこに介在するのが{思いやり}ではないかと思った。一番、心苦しく思っていたであろう妻に、気を使わせぬよう、さりげない思いやりをくださった。それを感じたのが、やはり妻ではなかったか…。たかがおにぎり。しかし、それは握る人の心の温かさが、手を通しておにぎりに伝わるのだろう。小さなおにぎりであったが、私達にとっては、家族の絆さえ再認識させてくれる、大きなおにぎりだった。
 あれから十年。末っ子の三男も中学生。当時すでに中学生だった長女はまだしも、三才だった三男は、壁に飾ってある大鳴門橋の、渦潮の前で撮った家族写真さえよく覚えてはいないと言う。しかし、{おにぎりのおばちゃん}のことは、はっきり覚えていると言う。 
 おにぎりの話をすると、私達は、十年と言う年月をあっという間に取り戻し、高松のホテルの一角に戻ってしまう。小さなおにぎりに、温かな人の手で込められた思いやりは、家族の胸の中に、大きく、大切な思い出として残されている。
 私も、そんなおにぎりを目指して三年間、毎日、弁当のおにぎりにこだわった。
「おにぎり、どうやった?うまかったか?」
 と二男に聞くと、
「うん、まあ…」
 と、意味がわからず、ただ、にこっとするだけである。果たして少しは『おにぎりのおばちゃん』の、温かいおにぎりに近付けたのかどうか……。さあ、今年からは、いよいよ三男の弁当の番だ。
(2011)