花によせて・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡田道子



 今年も桜の花がみごとに咲きました。東北では、五月の連休までもちそうにないとのことです。毎年のように桜の花を見上げては、いろいろな想いにいたります。何故にこんなに人の心をひきつけるものなのか。また、桜は人の心を狂わすものともいわれています。花見の宴会、花よりだんご、その中で私は、いつも悲しい心で桜の前に立っている自分を見ています。この花の散る姿が春を惜しんでいくのか、人の命の無常をさそわせるものなのか。この頃つくづく、命のつながり、地球という生命体の中で生きている我々の存在、この花のように目前にある山々、木々、川、そして海や大地、みんな循環してつながっているものだと感ずるようになりました。私達が生きているように、この世の中の生あるものもまた同様に生きている存在だということです。自分の命を大切におもうのと同時にまた他のものの命も大切であり愛しまなければならない存在であるということです。このあたりまえの事が、あたりまえにできない世の中になってしまっているように思います。
 地球温暖化の問題がずっと以前から叫ばれていましたが、まだ、本当の恐ろしさがわかってないのではないかと思えてなりません。私はともすると悲観論者なのかもしれません。北極の氷がとけ、氷の中を河が流れ、この氷の世界の北極の地帯が失われていく報道をテレビで目にした時、本当に涙がこぼれ悲しくなりました。北極グマも餌を得ることができなくて餓死していく様子は、私達人類の未来をみているような気さえしてしまいました。その一方で、北極の氷がとけてきたことをいいことに、油田開発にのりだして拝金主義にとりつかれてしまっているような報道もされていました。私達は、もっともっと深くこの地球温暖化の問題も考えなければならない時期にきているのではないでしょうか。
 二酸化炭素の排出削減のためエネルギー転換を試み、さまざまの努力を重ねていることは承知しています。確かに、エコと経済発展を両立させられたらという方法は、一挙両得で有効なように思います。しかし、果たしてそうなのでしょうか。エコという名目のもとに拝金主義ばかりが踊りでてはいませんか。何が一番大切なことなのかを見失っているように思えてなりません。生きていく地盤を失ってまで守らなければならないものは何ですか。人間欲ばりになりすぎていませんか。今一番大切な事は足るを知るということ、そして、自分の命と同じように他をいたわることではないかと思います。何かいきすぎてしまっている、人の道を忘れ、あなたは何ですかと問いかけたくなります。
 鳥インフルエンザ、豚インフルエンザと騒がれています。他の命を食し、おいしいとかおいしくないとか、安いとか高いとか、いいたい放題の己の存在もあさましく思えてきます。どのようにして鳥や豚が飼育され、私達の食卓にやってくるのか。鳥の場合でいえば、朝から晩まで電気のコウコウとした中で、卵を生みつくし、そして今度は、肉として食べられてしまう鳥の存在は、一体何なのだろうと考えてしまいます。いくら人間の食物のために飼育されているとはいえ、あんまりすぎると思うのは私だけなのかと考えてしまいます。
 私は、輪廻転生という言葉を言葉として知っていました。人間として生まれ変わるのは何億分の一の極めて少ない確率だということも聞いています。最近、手塚治虫氏の『火の鳥』という漫画を読む機会を得ました。この偉大な先生も、この私達の存在について深く考えていたということを改めて知って驚きました。私も、この世の中のこうした事を考えてみたら、あの花の命も、あおの鳥も、そして山の木々の命も、もしかしたら同じ命なのかと思ったら、恐ろしく、本当に悲しくなってしまいました。安くておいしい卵、私達消費者にとっては、これはありがたいことです。そしてこの卵からたくさんの恩恵をうけていると思います。だからこそ、この鳥の命にもう少し感謝すると同時に、もう少し飼育の方法を考えてやれないかと思えてくるのです。鳥インフルエンザという人類に対する恐怖は、こうしたことへの警告のように思えてなりません。もう少し私達人類の生き方に、考えなければならない事があるのではないかという警鐘ではないでしょうか。
 欲をだせばきりがないという事、結局はお互いをとも食いするような戦争を引き起こしていくことになりかねないのではないですか。オバマ大統領が、対話重視で核開発をやめさせていく方策をとっています。どの国も、核廃絶していくようにできないものかと思います。戦争が、核実験が、どれほど地球環境を壊すものなのか、もう一度考えてほしいものです。
 最近のニュースで生活保護をうけている認知症患者のお金を強奪するような特養ホームも現れる始末。役に立たなくなった人間はゴミなのですか。昔の楢山節考の姥捨山のようなものです。格差のない世の中なんて無理だよと簡単にいいますが、明日は我が身ということではないでしょうか。こんなことを、この花の散る姿とあわせて、この春を惜しんでいます。美しいものを美しいと感じ、もう少しいたわりの気持ちで生きていきたいものです。

  泣きそうな花びら散らす桜かな
  満開の花の下にて我一人