ばあさん、もう一杯・・・・・・・・・・・・・・・・・・小田由紀子


 おいしいお酒は、いいものだ。口がうまみを味わったあと、じわじわ内臓に染みていき、身も心もとろりと別世界に遊ばせてくれる。この心地よさが自ずと「もう一杯」を所望させ、一合から二合に、二合からさらに…と誘う。私はあまり酔っ払うことはないので、家族も黙認してくれ、だれにぶつくさ言われることなく堪能できる。
「もう一杯」をつぐとき、決まって思い出すのが、在りし日の祖父のことだ。
 祖父はお酒が好きで好きでならなかった。晩酌に賭ける思いは、私よりずっと熱く重かったであろう。
 だが、一合をあけて、
「ばあさん、もう一杯…くれんか」
 と言うと、
「いけません」
 祖父の切なる願いは、祖母のひとことで砕かれた。自分で「もう一杯」を用意すればいいのかといえば、それも許されない。祖父の飲酒に関しては特に、祖母の強さは徹底していた。無理と知りつつも、毎日「ばあさん、もう一杯…」と、もごもご言ってみる祖父の姿は、子どもだった私の目にも滑稽であり、また少し物悲しくも映った。私は、勤めで帰りの遅い両親よりも、そんな祖父母を身近に見て育った。
 祖父はまじめな人だった。毎日田畑に出て、よく働いた。しかしときどき、本当にときどきなのだが、仕事を少し早めに切り上げることがあった。
「わしはちょっと出掛けてくるからな」
 私に小声でそう言うと、身を縮めるようにして、急ぎ足で石垣の向こうの道に消えていく。
 しばらくして、用事で町まで行っていた祖母が帰ってくると、
「ははーん、おじいさん、さては…」
 祖母は、かっぽう着のひもをキリッと結びながらつぶやく。
 夕日が西の空を染めるころ、祖父はその色が映ったようなあかね色の頬で帰ってくる。
「おじいさんっ」
 庭先で、塩を振りながら大根を樽にぎゅうぎゅう詰めていた祖母が、うっと腰を伸ばす。
「どこに行っとったか、ちゃーんとわかっとるんよ」
「今日は…か…鎌の砥石がちびたから買おうと…むにゃ…むにゃ…」
「ほかの所にも行ったと、顔に書いてある」
「いや、わしは…むにゃ…」
 祖父は近所の農協に買い物に行くついでに、いや正確には、どちらがついでかわからないのだが、その近くにある酒屋に寄って、少しだけ飲んでくるのがささやかな楽しみだった。
 いつごろからか、左手にしびれが出るようになった祖父は、医者から晩酌の量を制限され、それを祖母がきっちり守った。祖父もわかってはいるのだが、ときに我慢できなくなって、祖母の留守を見計らって出掛けるのだ。しかし、顔の色やら、目尻の下がり具合やら、足のふらつきなどで、ほとんどいつも瞬時にばれてしまうのだった。
「今晩はうちでは晩酌ぬきよ。もう飲んだんだから」
 そう言うと、祖母は漬物樽にどすんと重石を乗せた。祖父は大根のようにしなびていく。
 その晩、祖母が作った里芋の煮ものはとてもおいしかったのだが、祖父にはちょっと寂しい食卓だった。
 祖父は村の秋祭りを楽しみにしていた。お御輿や獅子舞の賑わいもさることながら、親戚がきて、この日ばかりはいつもより多めにお酒が飲めるのが一番のようだった。ほろ酔いの祖父は、手ぬぐいをかぶり、竹ざるを持って、安来節を歌って踊った。私に自慢話もした。
「おじいちゃんはな、平泳ぎならなんぼでも泳げるぞ。戦争のときは甲種合格で、海軍に配属されたんじゃ」
 と敬礼のまねもした。こんなに楽しそうなんだもの、飲ませてあげてもいいのに――いつも祖母に管理された量を、あんなに大事そうに飲む祖父がかわいそうに思えることもあった。
 初冬のある日、祖母が縁側で大豆の選り分けをしながらぽつりと言う。
「おじいさんは最近、夜中にうなされることが多くて…」
 敵が来た! 殺される! と叫んだり、起き上がって、柱や襖をたたいて回ったりするという。大豆をつまむ祖母の右手首にも、紫のあざが見える。暴れるのを止めようとしてとばっちりを受けたり、妄想のなかで祖母を敵とまちがえてなぐろうとしたりもあるという。祖父は若くして出征し、なんとか生きて帰ったものの、とき折そんなことがあり、近ごろは頻繁になってきたのだそうだ。朝、祖母から聞いても自分では覚えていなくて、本当にすまなそうにうなだれる祖父を見ると、あまり責めることもできないのだという。
「おじいさんは何も話さんけど、戦争の最前線におったらしいから、そりゃあ、むごいもんじゃったと思うよ」
 そう言えば、祖父は昼休憩のとき、上がり框で首をひょいと持ち上げたまま昼寝した。
「枕はいらんの」と尋ねると、「いらんよ。戦地ではいつもこうじゃったから、鍛えられとる」と、軽く笑った。カエルがご馳走だったことも聞いた。しかし、笑うことのできない生臭い苦しみの部分は、話してもらった記憶はない。
 これは後々に知ったことだが、復員兵は戦地での具体的な任務について、黙り込むことが多いという。あまりに悲惨な体験でぼろぼろになったうえに、それをひとりで抱え込むことで、妄想や精神障害を起こす人もいるという。当時、祖母は、もう少しは何か知っていたのだろうが、手立てのない無念さを押し殺すように、神棚に手を合わせるばかりだった。この日もそうやって、また黙々と大豆の入った手箕に向かった。
 その後の祖父は、お酒は控えているにもかかわらず、症状は進行し、手が震え、足も動かしにくくなった。妄想の度合いも進んだが、日中の畑仕事はなんとかこなし、晩酌が楽しみなのも相変わらずだった。震える手で杯を口に運び、一滴もこぼすまいと力むあまり、かえってこぼしてしまう。それを見て、祖父はむせび泣いた。
 ある晩の一合は、祖父を異様に酔わせた。こたつのそばにすわると、たがが外れたかのように、急に話し始めた。
「ゆきちゃん、わしはな、海軍に入って南の海に行った。そこで敵に襲撃されて、船が次々に沈没した…。仲間が海に投げ出されて…」
 祖父の全身は、がたがた震えている。
「…助けてくれぇ、助けてくれぇと…」
 顔は涙と鼻水でぐちょぐちょだ。
「…血まみれで…わしらの船に向かって泳ごうとするのを…わしらは…」
 私も泣き出す。
「…そいつらが…海に沈むとき…最期の…なんとも言えん目が…助けてくれぇという声が…波のなかから…」
 祖父と私は向かい合って泣きじゃくる。祖母と父と母は黙って聞いている。
 祖父の言葉は切れ切れになり、もう聞き取れない。
「おじいさん、もういいよ、もういいよ」
 祖母は、やせた腕でこたつにしがみつく祖父を連れて行き、床に就かせると、居間に戻ってきた。
「このごろは、少しのお酒でも変に酔うようになってしもうて。おじいさんは酔っ払いすぎると、つらい思い出が余計に迫ってきて、つまりは自分が一番苦しむことになる…」
 祖母が祖父に厳しく言うのは、医者に言われたからだけでなく、ましてや冷酷なわけでもケチなわけでもない。祖父にもそれはわかっていて、夜中の妄想の件とも合わせて、祖母に対して頭が上がらない気持ちがずっとあるのだろう。戦後何十年たっても、戦争は、あらゆるところに癒えることのない傷を刻んでいる。祖父の病気は、当時、あまり症例のない脳の病気で、それまでの不摂生が原因の自己責任と言われていたが、実は戦争病ではなかったか。
 祖父の畑は祖母が受け継いだ。それを遠くから見ているだけの祖父は、自分で自分の左手と足を、ビシッ、ビシッと杖でたたいた。私が止めると、声を上げて泣いた。
 それでも、夕飯時はやっぱり晩酌を楽しみにした。杯についであげると、いい顔をする。震える手が半分近くこぼしてしまい、テーブルに散ったお酒を見ては、また泣いた。祖母は笑い飛ばすふりをして、頭の手ぬぐいをむしり取って目頭を押さえる。
「おじいさん、元気になったらなんぼでも飲めるよ」
「…元気になったら、もう一杯、もらおうかのう。うまいじゃろうなあ」
 そんな祖父は、お酒を欲しがることもなくなったある日、息を引きとった。

 今宵も美酒を気ままにつぎながら、祖父を思う。その生涯を大きく支配した時代の傷は語られないままだったが、そのまわりをゆらゆらと漂ってみる。私のなかの思い出のほとんどは、穏やかな笑顔で覆われている。杯を口に運ぶときのいい顔や、安来節のおどけた仕草、そして「ばあさん、もう一杯…」の遠慮がちな声も、ゆらゆら流れていく。
(2010)