完璧な午後・・・・・・・・・・・・・・・・・・落合友見





 その日の午後、洗濯を終え、愛犬ほたるに急かされながら忙しく煙草を吸い終えると、私達は散歩に出かけた。

 風ひとつ吹かない、穏やかな野道を、私達は、まるで違う意志を持ちながら歩いた。ほたるは外に出たくて出るのであり、私はといえば、家にいたくないから出るのであった。

 それでもその日の午後は、二月の半ばとしては、奇跡的な穏やかさと優しさでもって我々を向かえ、そして慈悲深いほどの不干渉を貫きながら、我々に道を開いた。

 それは、完璧な午後だった。

 私は中原中也の「早春散歩」を思い浮かべていた。それは私が彼の作品の中で、一番初めに好きになった詩だった。

厳しい冬の名残も濃い、ある早春の日の午後。

いつもの散歩道に落ちた柔らかな陽の光が、ほんの一瞬覗かせる春の気配。それを敏感に察知した彼は、光と影のコントラストに、また深い憂鬱を覚える。再び繰り返す日々を思い、深い孤独を抱えた青年は、そうでしかありえない己の宿命を、改めて思い知らされるのだ。

「……さうしてこの淋しい心を抱いて、

今年もまた春を迎へるものであることを

ゆるやかにも、茲(ここ)に春は立返つたのであることを

土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら

土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら、

僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……」




 私達はまだつぼみも固い、梅の樹の群れを過ぎ、鬱蒼とした竹やぶを抜け、椎の樹の下に転がるドングリたちを拾って弄びながら、薄暗い樹々のトンネルを抜ける。

 すると突然、陽は温暖に降りそそぎ、強い風になぶられたまま固まってしまったような格好の、ハッサクの樹々が群がる、小さな広場に出る。低い樹々の下に広がる緑には、まだ瑞々しい色をたたえたハッサクの、濃い黄色の実が、ごろごろと落ちている。

 土地自体が斜めなのか、樹の枝が斜めに固まってしまっているためか、それはまるで、シュールな夢の中の景色のようである。ダリの絵に出てきてもおかしくないような、平衡感覚を奪う眺めだ。
 その先に分かれ道がある。ほたるはいつも、その十メートルほど手前に来ると、速度を緩め、チラと私を振り返り、いよいよ分岐点にさしかかる地点まで来ると、一気に右へ走り出す。それは家とは別の方向、もっと遠回りしよう、との提案なのだ。

 私はちょっと笑いながら、ほたるに導かれるまま、その道をゆく。

 それにしても、人に会わない。ほとんど気配が感じられないくらい遠く離れた所に、畑仕事をする老人たちが時々見えるだけだ。

 畑を燻し、うっすらとたなびく煙の向こう、ゆっくりと傾きはじめる冬の太陽が、田畑の作物や土を、金色に輝く慈愛の色で染めてゆく。

 私達はさらに足をのばす。

 最近みつけたその小路は、萩原朔太郎の「猫町」を思わせる。

 道の右側に小さな赤いポストがあり、その先のT字路の正面には、やけに目を射る白い漆喰の壁と、黒ずんだ板塀が続いている。素朴で懐かしい、それでいてどこか不吉なほどの整然さをたたえた、ひっそりとした小路である。

 T字路を右に曲がると、狭い上り坂になっていて、その入口にはお地蔵様が奉られている。一度、その先に行ってみたことがあるが、私道らしきおもむきに気が退けて、五分もいかないうちに引き返してきた。
 その日はT字路を素直に左に曲がり、いつもの散歩道へと戻った。その先にあるのは、秋にはススキの大群が揺れる、畑の中の農道である。

 そこで初めて人と会った。軽トラで後ろから走ってきた老人だった。

「こんにちはあ。今日はいいねえ」

 老人は少し黄ばんだ前歯をくっきりと見せて、人の良い顔で笑った。私はとっさに完璧な笑顔を作り、その日の穏やかな天気を称えながら会釈した。

 自分を都会の人間だとは思わないが、それでも、こういった田舎特有の、のんびりとした挨拶にはいまだに慣れない。仮住まいの余所者であることを、後ろめたく思う気持ちがどこかにあるのかもしれない。

 私には「根」がない。生活とは何かしらの「根」を基盤に、作り上げられるものではないだろうか。それは、生まれついた土地かもしれないし、護るべき家族の存在かもしれない。

 だが、私は見ているだけだ。彼らの「生活」を。

 流れることなく、そこに暮らし続ける人々を、ほとんど驚異の目をもって見ている。

 変化に乏しい落ち着いた暮らしを、安定ではなく、拘束と捕えてしまう頑なな自分を持て余しながら、そして黙々と田畑を耕し続ける、老人たちのひたむきさに打たれながら、決してその土地に染まることは出来ない、己の宿命みたいなものを思うばかりだ。



 ほたるの歩みが遅くなり、散歩に満足した様子が窺えると、私達は家までの、あと少しの道をのんびりと辿った。

 どこかでニワトリの鳴く声が響き渡っている。電線にとまった孤高のカラスは、時折、我々を俯瞰しながら、凛として遠くを見つめている。

 気がつけば、風は完全に止まっていた。

 夢のような非現実的感覚に、身体中が弛緩してゆくのが分かった。

 はがれたアスファルトの、埃っぽい農道の上には、金色の光が降り注ぎ、時おり啼く鳥の声と、遥か遠くに行ってしまったあの老人の、畑を耕す小さなシルエットが見えるだけだ。

 静寂が、辺りを完全に覆っていた。

 家はもう目と鼻の先である。しかし私はそのまま家の中に戻るのがもったいないような気がして、隣家の駐車場との境に置かれた、低いブロックの上に腰掛け、ほたるを遊ばせたまま、ぼんやりとした。
斜め後ろからの陽の光が、私の前髪を金色に染めているのを、なんとなく悲しく思いながら、いつになく弛緩した有り様で、遠くや近くを眺めた。

 思い浮かべる詩は、「早春散歩」から、「ゆきてかへらぬ」に変わっていた。

「僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒(そそ)ぎ、風は花々揺ってゐた。

木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々(あかあか)と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停まつてゐた。

棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者(みより)なく、風信機(かざみ)の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。……」




 それはまるで、地上を眺める神々の気まぐれがもたらしたかのような、溢れるほどの柔らかな光、染み入るほどの静寂、白昼夢のような恍惚感だった。

―それほどその午後は、完璧であった。


 
「なんだか、遠くまで来てしまった……。」

 野道を歩き、遠い空を見ながらいつも思うのは、そんな言葉だ。

 少なくとも、何もかも一様に幸せでありたいと願っていた、あの頃の私はもういない。

「夕方、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて、文句はないのだ― 」

 そんな中也の潔い言葉を思い出しながら、ブロックに背を丸めて腰掛けた私は、唇を結び、目を細めながら、遠く輝く夕陽に向って、青白い手をかざすばかりである。