随想・清里から ワイルド・フラワーを植える・・・・・・・・・・・・・・・・・・野本耕作


  序

 八ヶ岳と富士山、そして南北アルプスの山々に三百六十度囲まれた、ここ山梨の清里に彼と妻、長女のジャスミンと里子のユウとケン、そしてゴールデンレトリバーのナナが東京より移り住んで、二度目の冬を超えて春を迎えた。
 彼は三年前に「失声症」を患った。そして、声が蘇り、言葉がぽろぽろとこぼれ始めた。

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 牧場を、建築中の清泉寮国際交流棟まで彼は歩いた。鳳凰三山から甲斐駒ケ岳まで連なる南アルプスの山々がくっきりと見えた。建物は出来上がり、外構工事のためにユンボが動きトラックが出入りしていた。半世紀前に青年の修道場として建築された本館は、赤い屋根に茶の木造の二階建て、窓枠は木枠で白く塗られている。新館の国際交流棟は黒い屋根に明るい茶色の木の外装、屋根には太陽光発電パネルが乗る。富士山を望む会議場は、山間地が八割を占める日本列島のほぼ中央、日本の心臓部にあたると言えるかもしれない。
 昨年、長坂聖マリア教会のシスターを囲む集まりに彼と妻は出席した。清泉寮を設立しここから戦後日本の復興を夢見たポール・ラッシュと親交の深い、澤田美喜が創設した「エリザベス・サンダース・ホーム」で、長年保母をされたシスター。当日はホームで育った福田(仮名)さんと共に、当時の写真を見ながら話をした。ホームは戦後まだ間もない頃に、日本に駐留したアメリカ軍兵と日本の女性の間に生まれた子どもたちを受け入れ、延べ千四百人を育て上げた。
 福田さんはホームから大学まで進学し、百貨店勤務を経て、抱き続けた音楽の仕事への願いを、現在ピアノ調律士として実現している。大柄で肌の黒い福田さんは温厚な六十歳くらいの男性だ。澤田美喜を「ママちゃま」と呼び、一緒に風呂に入った思い出などを語るのを彼と妻は聴いたのだった。最後にシスターと福田さんが、当時歌った歌を二人で合唱する姿が彼の印象に残った。

 彼は五十年後の清泉寮を想像する。もちろん現在の本館はもうないだろう。彼もまたこの世にいないだろう。福田さんと同じ歳になったユウとケン、二人がこの南アルプス連峰を見るかもしれない。

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 赤岳が煙って霞んで見える。午後は雪になるかもしれない。

 彼は物置になっている大きい方の浴室を部屋として使えるように(彼の家は元会社の保養所のため浴室が二室ある)、荷物を片付け、壁とコンパネで蓋をするバスタブの寸法を測った。既に部屋内の水道管は金のこで切り、シャワーのフックや鏡などは取り外してある。床をカーペットにするか木床にするかを妻と相談した。彼は畑仕事の始まる前に、子どもたち用の図書室に使えるように完成させたいと思っている。美しい家は大切だ。

 妻が心配していた、真冬には零下十五度になる「清里村」でただ一人のホームレス、車中生活をしていた男性が、社員寮に引っ越した弟の家に暮らすことになった。
 男性は都内の有名私立大学に学び、写真雑誌などのフリーライターをし、光学式カメラについて大手出版社より発行された数冊の著書もある。しかし、デジタル化した2009年の社会の中に、居場所を見つけることが出来ないようだった。

 東京から妻が持ち帰った雑誌『ビッグ・イシュー日本版』に、作家で反貧困ネットワーク副代表の雨宮処凛が、農業が派遣切りなどで失業した人たちの新たな生き方の一つとなるかもしれないと書いていた。
 東京都のホームレス自立支援センターがまだ始まる前のことだが、企業家の塾でビジネスプランを立て、自営店で絵画も扱っていた妻が、上野公園に暮らす山本さんというホームレス男性の切り絵の技術に出合い驚き、表参道の路上で切り絵を制作販売するという就労支援をしたことがあった。テレビのニュース番組で何度か特集されたこともあり、山本さんはロサンゼルスまで行き展示会に出品するまでになった。
 その次に考えたのが就農で、実際にこの県の韮崎に宿舎用の古民家を購入した。結果は、改修のために渡した権利書を持って当事者の田村一男(仮名)さんが行方不明になってしまい、頓挫してしまったのだが。
 彼自身はその以前に、田村さんと初めて出会い相談を受けた時のことを良く覚えている。ボランティアとして新宿の福祉事務所詰めをしていた彼に、田村さんは「私はGAなんです」と一枚の印刷物を見せ、そこにある会に行ってみたいとも話した。良く聞くと、GAとはアルコール依存症の人たちの自助グループであるAA(アルコール・アノニマス)ならず、ギャンブル・アノニマスのプログラムのことだった。
 彼はボランティア医師より路上に暮らすアルコール依存症の人たちの自助グループを作れないかという依頼を受け、当時テント村がいくつもあった新宿中央公園の芝生の上に、ブルーシートを敷いただけの集まりを立ち上げたことがあった。医師は何時間も掛けて新宿まで出向いた。彼は活動を途中で止めてしまったわけで、詫びる言葉もないのだったが……。
 元に戻るが、現在例えばこの県では、白州のNPO法人などが、耕作放棄地や森林作業の仕事に、都市から新たな人が参加できる取り組みを行っている。作家の雨宮処凛の言う方向は可能性もあり、必要なことだと彼も思った。しかし、一方で言葉にし難い奥深い課題もあるに違いない。

 ところで、どういうわけか児童養護施設を退所する青年の自立の問題が、この百年に一度と言われる厳しい経済環境の中でどうなっているのか、それらが報道などに現れてこない。児童養護施設の小舎制への移行、里親委託の推進、里親ファミリーホームの制度化などが取り上げられる中で、虐待や要保護児童の原因にあると思われる貧困問題そのものと共に、現在の(これまでも)要保護児童の自立の状況にはなかなか目が向けられず、自立後の追跡調査も行われていない。ホームレス問題と要保護児童の問題、それは同じコインの裏と表に彼には見える。

 彼がケンを保育園に迎えに外へ出ると、吹雪くように雪が降り、国道も一寸先が見えない白い靄の中にあった。妻は改装する浴室の壁の色を黄色やオレンジの暖色系にしてくれと言っている。

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 牧場通りのハナモクレンが咲き、青い空に白く浮き立ち春を歌っている。彼は車のウィンドウを全開にして、風を感じながら牧場通りを下った。一気に清里は初夏の陽気めいて、彼もシャツ一枚になり袖も捲くる。
 鳥たちの声の中に、鶯の鳴く声が一際鮮やかに響いた。

 今、日本列島でかつてない大量失業の事態が起きていることは間違いのないことだった。
 戦争と混乱の予兆を彼は感じるのだった。

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 彼は二年ぶりに初夏の昼時に新宿を歩いた。街行く人の全てが、彼の目にホームレスとして映った。スーツを着るホームレス、カルティエを身に着けるホームレス……。炊き出しの行われる新宿中央公園の広場は、中央が円形の大きな花壇となっていた。その隣で花時計が時を刻んでいた。
 郊外の一面に続く住宅地、それもまた段ボール村に他ならなかった。

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 ラッキークローバー、ローマン・カモミール、マーガレット・プチハートなどの多年草を、彼は玄関とウッドデッキの間の三角形の空き地に植えてみる。ここにワイルド・フラワーを植えたいと思いながら放って置いたのだが、清泉寮で苗を見かけ五種類ほど見繕って買って帰ったのだった。来年の雪が融けた頃に、どの品種が残り、また殖えているのか楽しみだと彼は思った。
 玄関前に昨年植えた野苺が白い花を咲かせている。ウッドデッキのテーブルの鉢のオレンジの薔薇が風に揺れている。

 種は風に乗って遠くまで運ばれる。しかし、人間は種をもっと遠くまで運び芽生えさせることができる。原子力の火で地上を焼き尽くすことができるように。