野口隆司



被告人を懲役16年に処する


苦しかった2年2月半に及んだ勾留もあと僅かだ。2人の弁護人は無罪判決の確信に満ちた笑顔だった。高校時代の恩師康先生は判決の前日から拘置所近くに宿を取り、判決の後茨城のご自宅へ連れて帰ると言い、大学時代の友人達は東京駅で出迎えるはずだった。
午前10時、いつもの二階法廷に入ると傍聴席は満員で立っている者もいた。私は両手錠腰縄姿で傍聴人席の恩師友人達に向って深く一礼し被告人席に行くと手錠を解かれた。
「被告人前へ」と言う裁判長の声に、私は堂々と胸を張って証言台に立った。
「それではこれから判決を言い渡します。主文、被告人を懲役16年に処する……」
それは威厳のないぼそぼそとした小声だった。私はその主文に対してその時は良く飲み込めていなかったのだと思う。一瞬頭の中がまっ白になり、傍聴席のざわめきが遠のいたが、その時は怒りも悔しさも感じなかった。
裁判長が私に着席するように命じ、私は裁判長を睨んだまま後退りするようにして被告人席に座った。私の着席を待たずに裁判長はもう判決文の朗読を始めていた。1時間以上に及ぶ朗読を裁判長一人で読み上げたのだから疲れもあったのだろうが、背中を丸めて、眼鏡を掛けたり外したりしながらつっかえつっかえしての朗読には、これが2年に亘って私を拘束し、結審から3ヵ月かかって出した裁判所の判決文なのだろうかと唖然だった。
「待ってください。被害者が営業していたスナックの出資金や、メールのトラブルについてどうして触れないのか、弁護人の出した証拠や疑問についてなぜ応えないんだ。動機は明らかでない、凶器は判然としないって、どうしてそれをみつけようとしないんだ」
私がそう叫ぼうとした時、3人の裁判官はもうドアの向うだった。それは「逃げるようにして」と言うことに何の迷いもない、素早い退廷だった。
私は再び沢山の傍聴人そして恩師友人たちの前で手錠を掛けられ腰縄を引かれて裁判所の地下仮監に戻された。泣き叫ぶ間もなく直ぐに弁護士がやって来た。主任弁護士透先生は接見室に入るなり、こう吠えた。
「実にけしからん裁判だ。被告人の怪しいを全部不利にしている。犯人だとすれば、という言い方で、最初から犯人だと決めてかかっている。疑わしきは被告人の利益にという刑事裁判の原則を踏み破っている」
純先生は唯唯憔悴しきった様子だった。
拘置所に戻されて、朝房を出る時には二度と戻ることはないと思っていたのに、私は再びその牢獄に戻されて泣き叫ぼうとした時、純先生がやって来た。
「野口さん、残念だ」
主任弁護士のように吠えることはせず、純先生は静かに頭を垂れた。私は純先生に掛ける言葉がみつからなかった。純先生は33日間毎日留置所にやって来て私を励ました。引当捜査でみつからなかった証拠の場所を台風の大雨の中何度も山に入って探し当てた。純先生は尽力の限りを尽くしたのだ。結果は負けたが、私は純先生には感謝の気持ちで一杯だ。
純先生の接見が終わると、拘置所の係長面接があると言われそのまま面接室に向った。
「無罪確信だと言って服は廃棄するわ、荷物は送ってしまって、気落ちしていないか。自棄になって自殺なんかするなよ。暫くカメラ付の房に入ってもらおうか」
そう係長は言うので私は強く反論した。
「私は殺人をしていないから大丈夫です。自棄になったりしません。書くことに集中したいので今のベッドの房がいいんです」
係長は私がふだん書くことに集中しており、拘置所から応募している文芸作品のいくつかに入賞していることも知っており、本来ならベッド房には許されない座机の使用を許してくれていた。私は刑務官から理不尽な扱いを受けたことがないのも、拘置所の規則を守っているからだけでなく、犯行を犯すような奴じゃないと信じてくれているからだと思っていた。係長は私の申出を許してくれた。係長面接中に康先生が面会に来た。康先生は私の顔を見るなりこう言った。
「俺はおまえを信じる。誰がなんと言おうと、俺はおまえが殺人をしていないと信じる。泣くな、またすぐ来るから」
康先生は38年前、高校一年の時一年だけ英語の授業を受けた恩師だ。1年で転任してからも私はことあるごとに康先生を頼り、大学受験の時も、あるいは海外の出先からも仕事で使う英文の助言を受け親交は続いていた。38年まえのたった1年だけの教え子のために腰が悪く足を引き摺りながら何度も拘置所に来てくれた康先生に私は涙がとまらなかった。康先生は何度も刑務官に頭を下げ、「よろしくお願いします」と言っていた。「早く行け」と私に言いながら康先生はいつまでもドアの所に立ったまま離れなかった。
独居房に戻ると今度は主任弁護人透先生がやって来た。透先生は怒り心頭といった感じで息巻いていたが、それだけ無罪判決を確信していたことに裏切られた悔しさであり、どれ程この事件に傾倒していたかの証左だろう。
めまぐるしい一日だった。昼食に手をつけなかったことを心配して係長が房にやって来て、飯は食えたかと気遣ってくれた。私は真実をみつけるために食うと決意した。
日中は気が張り詰めていたからだろうか、日が暮れると急に寂しくなり、今頃は東京に帰って友人たちと祝う会をしていた筈だと思うと、あの裁判長に対する怒りが猛然と沸き上り、声をあげて泣いた。
月明りではっきりと中庭の草花まで見える窓の下に愛犬ヤマの幻像を見てまた泣いた。拘禁反応で物が食えなくなり全身が痛く意味不明の言動をする自分に脅えた。それでも友人たちからの手紙に支えられ、「真実は必ず明かされる。朝の来ない夜はない」そう励まされて私は耐えて来た。なぜなんだ、俺は犯人じゃない。そう呪詛の言葉を一晩じゅう吐き続けた。
判決翌日には大学時代の友人夫妻が東京から面会に来てくれた。まだその時は私は興奮して泣くだけだった。
逮捕された日の朝、私は愛犬ヤマの健康診断の予約があり、足早に自宅マンションを出たところでいかつい男たちに取り囲まれた。
逮捕状はなく、それが任意同行であることも告げず、行先も言わず車に押込み、生まれて初めて入った取調室に恐れ戦いている私にポリグラフ検査を掛けた。不安に脅えている間に警察は私を犯人に仕立て上げるため着々と証拠を作って行った。あとは自白調書にサインをすればもう一丁上がり。しかし、私はその常套手段にひっかからなかった。私は決して安易にその自白の強要に屈することはなかった。私は犯行を犯していないのだから。
最初の三日間は窓のある取調室で、日本海の蒼い海と澄んだ空、真夏の陽ざしは私に力を与えてくれたが、4日目からは窓のないタバコの脂で黄色く変色した壁と、異様な臭いがする狭い取調室は私を滅入らせるのに時間を長く要することはなかった。手錠は解かれているものの腰縄は錆びたパイプ椅子に括られて身動きはとれなかった。取調室に入れられた容疑者は、精神的にもこうしてどんどん負の立場に追い込まれて行くのである。
毎日の取調は午前9時から正午過ぎまで、午後1時から6時までと、そして午後7時から始まる夜間の取調は終わる時間は決まっていなかった。最初の2日間は午後9時までだったがその後は10時までが常となり午前0時近くまでのこともあった。
取調室で最初に刑事が言った言葉は「あんたは必ず死刑になる」だった。「自白すれば6〜7年の刑で済む。自白すればすぐに保釈だってされるんだ」刑事たちは性急に自白を得ることだけに必死になっていた。午後7時から始まる夜の取調べは泣き落とし、恫喝そして机を叩いて怒鳴るのくり返しだった。
亡くなった母さんが草葉の陰で泣いている云々の話には私はまだ動揺することはなかったが、毎日風呂も寝床も一緒だった愛犬ヤマの話には涙が溢れた。それでも私は耐えた。
「じゃあな、自分だったらこういう方法で殺しますと書いてごらん」「試しに、私がやりましたと書いてごらん」そう言って紙を差し出す刑事たちに私は吐き気さえ覚えた。
「目撃者だって、この窓から見て、あんたがコロシの現場にいたと言っているんだよ」
そう言ってマジックミラーを指で示した。
「あんたは死刑になりたいんか、山ちゃん(若い刑事に)今の死刑はなんだったかなあ。ギロチンか電気椅子だ、電気椅子は相当痛いんだぞ」
今日の日本における死刑執行が絞首刑だけであることを私はその時には知らなかった。刑事のそうした妄説や脅かしは私を陰陰滅滅とした気分にさせるのに十分だった。
私は逮捕されるまで沢山の人と接し、普通に生活をして来た。スキューバダイビングのインストラクターをして人を楽しませ、体を動かすことが好きな私はトライアスロンに出て20代の若者と互角にタイムを競っていた。81キロあった頑健な体は血を吐いて20日余りの間に67キロまで落ちた。5年で7件の誤判をした裁判長により、私は犯人ではないのに有罪判決を下され、3年以上獄の中にいる。しかし、私は負けない。真実が明かされるまで、己れの汚名を雪ぐまで闘う。
事件から3年の月日が経ち、私を犯人として追及している間は真犯人は現れないし、再捜査はない。本当の犯人は今、社会のどこかで身を潜めて、私の有罪確定を念じている。
私の無罪が明かされたとしても、私が被告として費した時間は戻らないし、この冤罪によって起きた不幸の連鎖は計り知れない。
(2007)




動機無、凶器無、自白無だが有罪とす



 京都府北部、日本海に面する舟屋でその地名を馳せた伊根町の山中で事件は起こった。
 平成十六年七月四日の昼下がり、気温三十五度を越す猛暑となったその日、隣村に暮らす七十才になる源造は軽四輪貨物で通称くらまの山に枯竹枝を採りに入ったところ、足一本だけを残した黒焦げの死体を発見した。
 盗みもない静かな山村に起きた謂われなき殺人容疑で野口が五年の歳月を獄に繋がれることになる事件の幕開けである。
 事件の第一報は所轄署から府警本部に報告され、捜査は府警本部刑事二課が全権を担うこととなり、本部から大挙して捜査員が現地入りしたのは源造が最初に焼死体を発見してから四時間以上も経た日没後の七時半を過ぎていた。
 源造は発見時の状況を次のように語った。
「死体は右足を残し、ほぼ黒焦げで頭を北に向けて仰向けに倒れており、死体周辺には枯葉が撒かれ、木炭や枯木の燃えカスがあり、股間部には枯竹枝や枯葉が積み上げられ、燃えきっていない木炭が二、三十個散らばっていました。あたりにはなんとも言えない生肉の嫌な臭いが漂っていましたが、ガソリンや軽油の臭いはありませんでした。」
 解剖所見等から検察官が推認した犯行態様は、実に凄惨で特異なものだった。
 犯人は先ず、鈍体様の物で被害者の頭部を一撃し、鋭利な刃物で頸部を切りつけ、出血性賢ショックで絶命した遺体をそこから七メートル山側に運び、被害者の携帯電話を予め焼却したその上に遺体を置いてガソリンを掛けて焼いた。更に頭部を離断して脳漿を掻き出して、股間部に枯葉枯枝を積んで五十キロ離れた海岸に頭部を遺棄したと言うのだ。
 実況見分の結果、大量の血液が付着したガソリン納品書が現場から発見された。捜査本部ではそれを犯人の遺留品と断じて捜査を進め、翌日にはこの納品書から野口隆司を犯人と推認し、一挙に野口検挙に向け走り出した。
 殺害現場から焼却現場までの七メートルの経路上には滴下血痕が竹の葉に付着していた。滴下血痕とは即ち、上から滴り落ちた血痕である。つまり、被害者は殺害されてから地面を引き摺られたのではなく、抱き抱えられるか或は、複数の犯人によって持ち運ばれたことによって生じた血痕を意味するものであり、野口単独犯行説には疑問を残していた。
 死亡推定時刻は七月四日午前十一時から正午と断定された。その日午後六時半、普段は地元住民でさえ滅多に立ち入ることのない現場に通じる林道に京都ナンバーの不審な乗用車が目撃されていたが、野口が大阪で借出したレンタカーは和泉ナンバーだったことから、その目撃情報は捜査対象から外された。被害者は、事件九日前に「修羅場になる」と言う不穏なメールを受信していた外、金銭トラブルを窺わせるメールも通信記録から明らかになったが、野口犯人説に結びつかないことはことごとく証拠から排除されて行った。内偵や証拠の鑑定を進めて行く中で、なかなか逮捕状請求の要件を満たせなかった捜査本部が最初に辿り着いたのは、野口が使用したレンタカーから被害者の血痕を発見したと言うものだった。それはレンタカーが判明してから十二日後の七月十六日のことであった。血液型も判明できない微量の血痕があったとされたのは車の乗り降りの際に靴底などが接する筈のないドアゴム部分であった。通常の捜査では後の再鑑定に備えて証拠物である血痕媒体は保存しなければならないが、本件では全量消費されてしまい、残されていなかった。レンタカー会社では野口が七月四日夕刻に車を返却して以降十六日までの間に二度貸出され、その都度車内はぞうきんがけまでする徹底した清掃を施している。更に七月の炎天下、半月近くの間、被害者のDNAが本当に生きているのだろうかと言う疑問も看過できない。
 いずれにしても、捜査本部はガソリン納品書とレンタカーから発見された微量の擦過血痕から抽出のDNAを根拠に野口の逮捕に踏切ったのは事件発生から一月後のことだった。
 東京にいた野口はその日、自宅を出た所で人相の悪い煙草臭を発散させた八人の男達に突然取り囲まれた。
「京都府警のもんや、何で来たかわかっているな」
 その男達のボスと思われる五十代中半の男がそう言うと、取巻きの男達は無言で野口の所持品を全て取り上げて、車に押し込んだ。それは拉致そのものであった。
「弁護士に連絡させてくれ。何処に行く」
 車内では野口の必死の問いかけにも口を開く者はおらず、男達は終始無言だった。
 車が到着した先は桜田門にある東京警視庁だった。ポリグラフ検査を受けさせられて、午後五時三十一分逮捕状を執行された。刑事達は口々に「逮捕状執行」「通常逮捕完了」と叫んでいた。それはまるで応援していたプロ野球チームが優勝したかのような歓声だった。だが、野口は初めての手錠にもさほどの衝撃を感じなかった。心のどこかで、これは何かの間違いだ、そのうち解るさと楽観視していたのだった。
 新幹線で京都に押送され、それから車で三時間かかって所轄署に入ったのは、日付の変わる午前0時少し前。睡眠を取ることも許されず、六時間以上かかって取調や所持品検査を受けて、その後鉄格子が二重に施された扉を潜って留置場に放り込まれたのは午前六時十五分だった。僅か四十五分後には起床の号令で叩き起こされ、その時から凶悪な殺人犯としての容疑を晴らすべく野口の闘いが始まったのである。
 取調はそれは凄まじいものだった。野口は逮捕当初から一粒の米も食えず、逮捕五日目には大量の吐血をして救急車で病院に運ばれた。医者は入院を勧告したが、直ぐに留置場に戻されて、ブドウ糖の点滴をするだけで、立つことさえできない野口の両腕を抱えて、荷物を運ぶようにして取調室に押し込んで自白を迫った。机を叩き怒鳴ったかと思えば、急に優しい顔になって泣き落としにかかった。
 しかし、逮捕直後から三十三日間、毎日接見にやって来たあの熱血弁護士がいなかったら野口は自白の強要に負けていたかもしれない。野口は事件当日の行動を詳細に語り、確認をしてくれと訴えたが、刑事に聞く耳はなく、野口の主張が調書に書かれることはなかった。野口はその取調室という密室での凄まじい自白の強要に一度として屈することはなかったが起訴をされてしまった。
 一審公判は検察官請求の証人が公判出廷を拒否し、殺人事件の立件には必要不可欠である筈の犯行動機を検察官は立証もしなかったが、判決は検察官主張を全て首肯した上で、「動機は明らかでない、凶器は判然としない」ままでの有罪判決であった。
 被害者と野口は二十二年来の友人であった。野口は惨殺された友人の生活実態を何一つ知らなかったことを悔やんだ。彼はいつも「金がない」と言っては友人達に飯を奢らせ、野口自身も何度か金を融通していた。彼は徹底した倹約家であり、病気になると他人の保険証で受診し、年金や税金には無縁だったが、実は千三百万円もの預金を残していた。彼はどうしてそこまで金に固執していたのか、彼の交遊関係も含めて謎は解明されなかった。
 控訴審では一審からの二人の弁護人に加え刑事弁護の世界では全国でも三本指に入る二人の著名な弁護士が加わり、弁護団は証拠開示命令や事実取調べを求めて何度も請求を出し、裁判所にも四人の弁護人が揃って出向いたが検察寄りと悪評しきりの第二刑事部のS裁判長はにべもなく弁護団の請求を全て却下して、たった六十分の被告人質問と弁論だけで結審し、有罪判決を維持したのだった。
 野口が万に一つもない上告審無罪判決を諦めることなく前向きなのは何故だろうか。
 それはこの事件は異例づくしだからである。否認被疑事件で、検察官が犯行動機に触れないのは極めて希なケースだと言う。更に本件一審判決を下した京都地裁第三刑事部は法令適用の誤りを犯した。三人の裁判官が刑法六条及び十条の処断刑の適用を誤るなど前代未聞の不祥事であると言う。
 殺人事件では量刑判断をも左右することとなる犯行に使用された凶器が未解明のままで、こんなでたらめな高裁判決は見たことがないと著名なジャーナリストも評する。
 冤罪、それはごく普通に生活する人たちには全く無縁のことであるだろう。
 だが、そこに巻き込まれた人たちにとってみれば、不運だった、間違いだったで済まされる話ではない。野口は正に巻き込まれたのである。
 かつて多くの冤罪が晴れた事件でも、その冤罪が発生した原因を調査する公的機関が日本には存在せず、間違いを犯した警察、検察、裁判所が冤罪者に謝意を述べることはないし、何故冤罪が発生したのか懲戒もない。
 事件の真犯人が捕えられ、適切な審理の元に裁かれるなら、事件は正当に閉じられよう。しかし、無実の人間を裁く時、犯罪被害者以外のもう一人の冤罪被害者を生み出す。有罪判決が確定し、謂われなき刑罰を受けることはもとより、最終的に無罪判決を勝ち得ても、被告として費やした歳月は返ってこない。
 無実の人間を犯人として追求することは、犯罪の真相が闇に消える結果を生じさせる。苦闘の末に無罪判決を勝ち得たとしても、事件の再捜査はなく、迷宮入りとなる。犯罪被害者遺族の思いは晴れず、かつて被告であった冤罪被害者に疑いと恨みを持ち続けるというのだ。
 冤罪の温床は取調にある。生身の人間が取調室という密室で権力と対峙する時の重圧感恐怖感は想像を絶する。しかし、野口はそれに打ち勝って今もその闘志は衰えていない。
(2009)