春の夜空に・・・・・・・・・・・・・・・・・・西山雅美

 

十五年ほど前のことだったと思う。まだ春先のことで夜になると肌寒く、私は終電近い電車の扉近くの席で、冷えた指先を上着のポケットに突っ込み、ぼんやりと帰宅するまでのわずかな時間共に過ごす人々をながめていた。車内に人はまばらで、皆疲れた体を小豆色のシートに深く沈ませ、一様に目を閉じていた。私の正面に座っているおじさんは、飲んだ帰りなのだろう。顔だけでなく、バーコード模様の七三分けから透かし見える頭皮まで赤く染めている。緩めたネクタイを首からぶら下げ、電車の揺れにワンテンポ遅れ気味に舟をこいでいた。

 やがて電車が止まり、夜の冷気と共に一人の乗客が乗り込んできた。三十代前半のサラリーマンといったところだろうか。紺色のスーツにネクタイをきっちりと締め、大股で歩いてくると網棚の上に黒いカバンを置き、酔ったおじさんの右側に座った。

――学生時代は、剣道部所属でした。

背筋をぴんと伸ばし膝にこぶしを握って置く姿は、取引先の相手に学生時分のことを聞かれたら、はきはきとした口調でそう答えそうだ。おそらく彼は静座したまま、目的地まで行くのだろう――そう決めつけ、さて私も眠ろうかと目を閉じたとき、息を吐くというよりは声を発したかのような、大きくて短いため息が聞こえた。

それは電車の眠気を誘う規則的な音に似合わぬ、抑えきれない心の高ぶりをたまらず吐露したようなため息だった。目を開けて正面にいるおじさんを見たが、彼は口を開いたまま相変わらず舟をこいでいて、よだれは出しても、あんな力の籠ったため息はつかないだろう。ならばと剣道部のほうを見ると、顔を上げ、のっぺりと白い天井を見つめている。その目は少し潤んでいるようにすら見えた。天井の愛想のなさに感嘆しているわけではないだろう。どうやら何かぐっとくる出来事が起こり、そのシーンを天井のスクリーンに投影させ、思わずため息をついたらしい。――私が勝手な解釈をしている間にも、彼は同じようなため息を何度もついた。周りに人がいるということを、完全に忘れているように見える。あまりじろじろながめているのも気が引けるので、私は本を取り出し、いかにも視力が悪くて読みにくいといった様子で顔の前に本をかかげ、読むふりをしながら彼を観察することにした。

……契約でもとりつけたかな?

苦労した末にきめた大口契約ならば、それは嬉しいに違いない。同じプロジェクトの仲間たちと飲んで互いを称え合い、士気を高めてきた余韻に浸っているのだろうか。しかしなにも目を潤ませて、あんなに自己主張の強いため息を何度もつくことはなかろう。問題は、あの目の潤みだ。あれがおそらく、謎を解く鍵になるだろう――。こうしている間にも、彼は相変わらず非日常的なため息をついている。となりにいる酔ったおじさんが、こいできた舟のオールを手放し、いよいよ舟もろとも彼の膝めがけて転覆しようと傾いてきているというのに、一向に意に介さない。

もしや、彼女に振られたとか?

たった今別れ話をしてきた帰りなら、そりゃあ泣きたくもなるだろう。私は本の陰でひそかにうなずいた。たぶん清楚な感じでありながら、芯の強さも時折見せる女性に違いない。彼女はすでに別れを決めており、その意志を覆すことはできなかったのだ――。なんだか鼻の奥がつーんとしてきて、私も上を向いた。線香の煙がたなびくような、細く長いため息をついていた。それと同時に、彼がまたもや派手なため息をついた。

――何かが違う。

ため息というのは、抱えた重さを軽くしようとして堪らず吐き出し、それでもなお沈み込んでいくような、やり切れなさを持ったものではないのか。彼の顔をまじまじと見た。少し顔を赤らめ、ため息の余韻を楽しむようにうっすらと口を開いている。口角が上がり、微笑しているようにすら見えてきた。彼のため息は、きっと上昇感を抑えるためのものだ。糸の切れた凧は青空をくるくると飛び回り、どこまで飛んでいくものか知れない。彼は飛び回る気持ちの、舵取りをしようとしているのだ。

ならば、プロポーズしてきたところか?

こうなりゃ下手な鉄砲も数打ちゃ当たるだ。勝手な思い込みでもらい泣きしかけ、私も意地になってきた。本を読むふりをやめ、正面の窓の外を見据えながら、目の端で彼の様子を観察する。目を瞬かせながら依然として上を向き、感無量といった風情。もはや私の目には、幸せを噛みしめているようにしか映らなかった。付き合っている相手といえども、結婚を申し込む時というのは相当の緊張感があるはずだ。彼女も快くうなづき、緊張も一気に解けて、きっと最高の気分だろう。二人が共に生きていく明るい未来を信じ切れなければ、とても踏み込めるものではないのだろうな――。当時学生だった私には未知の領域で、彼の決意を秘めた、一点の曇りもない喜びようは清々しく、眩しいくらいだった。落ち込んでいる時、人は自然に下を向いてしまう。嬉しい時は、空を見上げたくなる。彼のまなざしは電車の屋根を越え、ひんやりと澄んだ春の夜空に浮かぶ月星と、そのあとに昇ってくる太陽を見ているのかもしれない。

低いアナウンスが車内に流れ、電車は駅に近付いてきた。居眠りおじさんがいよいよ彼の膝に落ちるかに見えたその矢先、甲高いポケットベルの音が鳴り響いた。終始天を仰ぎ自分の世界に浸っていた彼が、とたんに電光石火の素早い動きで、ジャケットの左ポケットからポケベルを取り出す。耳元で目覚ましを鳴らされたおじさんは、よだれを吸い込み、間一髪で彼の肘鉄から逃れると、あたふたと身を起こした。そんな出来事にはまったく気付かず、彼は食い入るような目でポケベルを確認すると急いで立ち上がる。網棚にのせていたカバンを引き下ろしてラグビーボールのように小脇に抱え、私の右横扉に突進した。そのままホームにトライするかという勢いだったが、電車はようやく駅に差し掛かったところで当然扉は開いていない。阻まれた彼は、大きな鈍い音を立てて止まった。車内の人々の、寝ぼけた眼差しが彼に注がれる。しかし彼の意識はそれには一切向けられない。額をガラス扉に押し付けたまま、忙しくホームの上に目を走らせている。スピードが落ちるにつれ、彼の視線は一点に集中した。たっぷり時間をかけて扉が開くと共に飛び出し、正面にある公衆電話の受話器をつかみ取った。

「もしもし、お母さんですか? ……はい! 有り難うございます。今から病院に向かいます。……そうですか、いずみも子どもも元気ですか。いえ! いえいえ、まだどちらだったかは言わないで下さいよ。とにかく顔を見て、それから……まず顔を見てから知りたいんです。僕もいずみも、今日までずっと楽しみにしてましたから――」

夜の静かなホームには、彼の弾んだ声がよく響いていた。扉が閉まり、電車はまた走りはじめる。私は短くため息をつき、天井を見上げた。

今夜は、春の星座を探しながら帰ろう。

心地よい揺れに身体をあずけ、私はじっと、天井の先にある早春の夜空をみていた。