父に聞く戦争・・・・・・・・・・・・・・・・・・西野淑子



●従がわぬ命令
 終戦を迎え、武装解除がなされた後も、父は残務整理に追われていた。大竹海兵団の食糧庫には、まだぎっしりと非常食が備蓄されており、先に復員が決まった兵士に、カンヅメやカンパンなどを配給するのが主な任務だった。
 復員は家族のある者から順次許可されたから、残されているのは独身者ばかりだった。玉音放送のわずか四日前に、兵舎の裏山で同じ班の同年兵が首を吊って自殺し、残りの班員は班長から死ぬほど殴られた。その中で最年長だった辻内という人は、今しがた配給品を受け取ると、やたらありがたがって、いびつになった顔を気にする風もなく帰郷して行った。
 相棒の山崎の顔をしげしげと眺めた。
『コイツの顔も相当なもんだ』
 山崎が、見られている事に気付いて、
「オイ、どうせ普段から盛り上がっている頬の肉が、いっそう立派な事になっているとでも言いたいのだろうが」
「大声を出すなよ。まだ思うように口が開かんのだ」
 死んだ木曽という男はバイオリン弾きだった。およそ軍隊というような組織には全く不向きな人間で、口笛で野鳥を呼び寄せたりする事もあった。そんな繊細な男が広島の凄惨さを体験したのだから、生きている方が不思議な位だとも思う。
 山崎は引きちぎれている首を平然とトタンの切れ端でころがして集めていたが、父はその焼けただれてふくれ上がり、目と目が離れて違う方向をうらめしそうに見ている人相を忘れる事ができない。食事がノドを通らないという形容があるが、軍隊にはそれも当てはまらない。食える時に食い、眠れる時に眠る事は、兵隊の最低条件だ。それができない程、打ちひしがれた木曽は、日本という国の将来を完全に絶望してしまったのだ。戦病死という扱いで、初老の母親らしき人物が遺骨と遺品を取りに来ていた。片手で白布の箱をかかえ、もう一方で風呂敷包みをさげていた。その荷物からバイオリンの弓だけが突き出ていたのを覚えている。あともう数日持ちこたえていれば、木曽は死なずにすみ、今こうして山崎と立ち働いている場所にいたはずであった。
「この分じゃ、当分順番は回って来そうにないな」
 うず高く積まれているダンボールやら備品棚やらを見回しながら山崎がつぶやいた。
 この数週間、殺人的な任務をやり通してきた。原爆が投下され、救援部隊に編入されるまでは、島根との県境の山村で訓練に明け暮れ、最後の週は浜辺まで下って終日延待壕(えんたいごう)を掘り続けた。掘ったタテ穴にドラム缶をはめ込み、いざという時には兵隊が一人ずつ50キロの爆弾を背負って入り、上を米軍の上陸用舟艇が通ろうとしたら、ヒモを引っ張って自爆するという代物だった。もし少し外れて通ろうとした時は棒付き地雷を取り出し、舟艇のキャタピラに踏ませるように差し込んで、どの道爆死するという寸法だ。従がって軍事作戦と言えば聞こえが良いが、まさに墓穴を掘っているのと同じ事だった。
 戦況が明らかに不利になってゆく中で、ここの所にやってきた事は、ほとんど悪あがきに近いものだった。5〜10分程度の小休止の時に、死んだように眠る特技が身についたおかげで、かろうじて肉体は保たれていたものの、精神力は尽きかけていた。そんな時をめがけて落とされたような原子力爆弾だった。島根の海岸にいても、“ピカッ”と光ったのはわかっていた。新型爆弾により多数の犠牲を出した事は伝えられたが、実際に広島を見た時は誰もが言葉を失った。そしてこの場所が、本当に人間界だったのかと我が目を疑ったが、感傷に浸っている暇など無論なかった。
 おびただしい死体の処理、腐敗臭で感覚がマヒした鼻、いつまでも肉親を求めて、あるいは自分の体の一部を探して、さまよう人々、自分は死んだと思い込んで動けなくなっている人……。夜になるとリンが燃え、あちこちに青いぼんやりした光が出た。恐ろしいという感じは全くない。むしろそれは美しい光景で、この場所で精一杯生きていた無数の人の命を、証明しているかのようだった。
「オイッ、アレ見ろよ、辻内のおやじ又列に並んでんじゃねえか」
「ん?」
 配給をもらったはずの辻内が列の中で笑っていた、殴られてゆがんだ顔が腫れあがっているので笑っているように見えるのか、
「名簿と照らし合わして配給すりゃあ良いんだろ? 二度やっちゃならんとは言われなかったよな」
「うん。確かに、そりゃそうだ」
 もう命令など何の意味もない。もし意味があるとしたら、命令通りにしなくても良い――その事にこそあるのかもしれない。

●帰れる者と帰れない者
 山崎と共謀して、辻内に何度配給品を渡してやっただろうか。二度三度と列に紛れる者は他にもいたが、辻内の場合は度を越している。
「ヤッコさん、いつになったら故郷へ帰るつもりだ」
 父が問うと山崎は、
「どうも変だと思ったら、ここで受け取った品をせっせと金に換えていやがるらしい」
「誰から聞いた」
「6班の小島だ。奴は辻内のおやじと同郷らしいが、家族はとっくに離散して居所も知れんらしい」
「親兄弟や息子夫婦、孫3人まであるという話だったから、さぞかしたくさんの食い物を持って帰ってやりたいのだろうと思っていたのに、どうなっているんだ」
「小島が言うには、中国へ渡るつもりらしいのだ。復員しても身寄りがないような者は、とたんに生活に行き詰まる。そういう者に声をかけて中国へ渡らせ、仕事の手引きをする中国人が多いそうだ。小島の担当は牛肉缶詰だが、奴の所へも頻繁に来るので、とうとう追い帰したと言うから、さすがにもう来んだろう」
 しかしその翌日も辻内は来た。だが列には並ばずに配給が終わる夕方に顔を出したのだ。
「何だお前さんの顔は、又別の所で誰かにやられたのか、いやあ、それにしてもブツブツして腫れているなあ」
「これは牛肉にあたりまして、ジンマシンなのか、かぶれなのかわかりませんが、かゆいやら痛いやらで、お二人には食べないよう、忠告せねばと思ったもんで」
 そう言い終わると辻内はそそくさとどこかへ行ってしまい、二度と姿を見せる事はなかった。彼が本当に中国へ行ったのか否かは、誰も知らなかった。ただ数日して小島の顔を見ると、彼も同様のジンマシンを発症していた。追い帰された腹いせでもあったのか、小島には忠告しなかったものらしい。
 そうこうするうちに一ヶ月あまりが過ぎていた。ある時山崎が、
「田川伍長、知ってるだろう」
 と問いかけてきた。
「そりゃあ知っている。話をした事はないが」
「大竹から岩国へかけて塩田が広がっているあたりがあるだろう」
「ああ」
「寄せた塩を小山のようにまとめているだろう」
「はあ。そうだなあ」
「その小山の中に頭を突っ込んで、死んでいたそうだ」
「えっ、なぜだ」
「あの先生、ずいぶん部下をいじめ抜いていたからな」
「まさか、仕返し、なのか」
「それしかないだろう。顔面は判別がつかん程、滅多打ちされていて、戸板に乗せて運び込まれた時、庭そうじの爺さんが鉢合わせして腰を抜かしたらしいが、どうだ、見に行ってみようか」
「よそう、よそう、もう人が死ぬのは見るのもたくさんだ」
「そうだなあ、やっと平和な世の中になったんだからなあ」
「何が平和なのか、よくわからんがな」
 その事件が引き金になったのか、父の部隊の下士官が、その後数名襲撃される憂き目を見たが、殺されたのは田川伍長だけだった。
 以後、約二ヶ月半を経て、父と山崎は同じ日に退役し、父は大阪に、山崎は神戸に、晴れて帰郷が許された。二人が広島駅まで来ると、なるほど片言の日本語で、復員者に声をかけて回る者達がいた。
「シゴトアルヨ。ミンナチュウゴク、クルヨロシ」
「アンタドコヘカエルカ」
「コウベモ、オオサカモ、ミナヤケタ、イキテルヒトイナイ、ムダ、ムダ、チュウゴククルカ」
 実際、そんな連中についてゆく人々が大勢いた。
「もしすべてが灰になってしまい、我家のありかがどこだったのかもわからないにしろ、とにかく探し回って、俺達は生きているのだから、死んだ者の骨を拾う責任がある」
「そうだ。やっと帰れるんだ。生まれ育った土地に戻って、やらなければならん事があるはずだ」
 二人は屋根もない荷車に乗り込んだ。あとからあとから人々が折り重なって乗り込み、そのままの形で汽車が動きだした。翌朝、山崎と別れて、父はようやく大阪に帰った。どの復員兵も、真っ黒けの顔になっていた。なるほど梅田一帯は、完全に焼け野原だ。それでも父は、まっすぐに歩き始めた。