タンゴの国アルゼンチンと日系移民の人々

..................濁澤純夫



スペインの植民地であったアルゼンチンは宗主国からの独立を勝ち得て建国、欧州からの移民の子孫が人口の殆どを占め、温暖な気候と肥沃な大地を背景に一大農業国・牧畜国となった。また、首都ブエノスアイレスの港に近いボカ地区が発祥の地と言われる「タンゴ」は、情熱的なアルゼンチンを象徴する音楽と踊りである。

 昭和三十年代後半、父親の転勤のため中学生としての三年間をアルゼンチンで過ごした私が、この情熱のタンゴのリズムと共に忘れ得ぬ思い出として蘇ってくるのは、ブエノスアイレス滞在中に母親が花柳流師範として日本舞踊を教えていたお弟子たちとの交流。彼女たちのほとんどは沖縄や九州などから移民してきた人たちの子供、日系移民二世たちであった。

 戦前、日本から南米に新天地を求め移住した人々、ブラジルやペルー等では、その初期はジャングルを開墾してコーヒー園を始める等、皆大変な苦労をされたと聞く。アルゼンチンの場合は如何なものであったか詳しくは聞き及んでいないが、何れにせよ一世の人たちは多かれ少なかれ、言葉も通じぬ不慣れな土地で新しい仕事を求め生活を安定させ、家族を養うために当初非常に苦労されたであろうことは容易に想像される。

 私がブエノスアイレスに滞在した当時は、一世の人たちのほとんどは既に園芸業やクリーニング業等で身を立て安定した生活を送っていた。彼らは真面目にこつこつ働く勤勉な人たちであり、アルゼンチン社会から「日本人は犯罪には縁がない」と言われ、すこぶる評判が良かった。当時のアルゼンチンの移民受入はアジアでは日本のみであったと記憶しており、他のアジア系の人たちを町で見かけることは無かった。多くの一世たちは、働き盛りの年代を経てそろそろ子供たちである二世への世代交代に移る時期であったと思う。この一世たちは母国の文化と習慣を頑なに守り、それらを日本語と共に二世に伝えようとしていた。二世たちは日本人の家庭で育ちアルゼンチン人の学校教育を受け、両国の文化を共有する言わばバイリンガルな存在であった。

当時のブエノスアイレス在留邦人のうち短期滞在者は在外公館や企業の駐在員とその家族であり、当時の日本の国力・経済力からして未だその数は少なかった。一方、ブエノスアイレスとその近郊そしてプロヴィンシアスと言われる地方都市には数多くの一世・二世一族が住んでいた。しかしながら、駐在員とその家族は自分たちのサークルの中で行動することが多く、また一世・二世たちは企業駐在の人々への遠慮もあってか、双方が交流し真に溶け込むことはほとんど無かった。かろうじて、接点と言えば駐在員家族が一世たちの作った日本食材を購入したり、クリーニングの依頼をしたり、あるいは日本企業駐在員事務所に雇用されたバイリンガル二世たちとの仕事の場だけであった。

 そんな中で、母はブエノスアイレス滞在の三年間、十名程度のお弟子を取って趣味の日本舞踊を教えていた。彼女たちは二十歳前後の日系二世がほとんど。毎週我家の居間に集まり、母が教える「藤娘」や「島の千歳」や色々な舞踊曲の稽古をしていた。古い日本の民族文化や難しい言い回しの日本語、彼女たちにとっては初めて触れる異文化そのものであったと想像するが、母は踊りがどんな背景と内容を持っているのかから始め、ひとつひとつの所作にどんな意味があるのかを、まるで外国人に説明する様に、とても丁寧に教え理解させていた。彼女たちが日本舞踊を習おうとした背景には、両親である一世たちの限りない望郷の念や子供たちに祖国の伝統や文化を教えたいとの強い思いがあったに違いない。この教室は我々がブエノスアイレスを去るまで続けられた。その間、母とお弟子たちの日本舞踊を通じた交流は現地の新聞などで日系人社会に伝えられ、ブエノスアイレスの日本人会のフェスティバルなどで踊りを披露する様に依頼された。また日本大使館の広報活動によりアルゼンチン社会にも広く紹介され、日本文化を紹介する各種行事の中で、大統領夫人との親睦会で踊ったり、地方都市コルドバやメンドサで行われた大使館主催の日亜交流行事の催しの中でも、母とお弟子たちが日本舞踊を披露した。これらの行事で踊ることが決まると、母もお弟子たちもいつも眼をきらきらさせながら稽古と準備に余念がなかった。地方に行くときは父も私も観光を兼ね同行し、いつの間にか彼女たちの輪の中に入り、我家と彼女たちとの交流と友情は深まっていった。真面目で勤勉な両親を見て育った彼女たちは皆、実に誠実で素直な人たちであった。敢えて言えば、昔の日本女性の素晴らしい面を沢山持っていた様に思う。そして、その彼女たちが踊る発表会で、涙を浮かべながら舞台の子供たちをじっと見つめる一世両親たちの姿は、いつまでも忘れられない思い出となっている。

 今年はブラジル移民が始まって百周年と聞く。今、南米に移住した日系人社会は、二世世代も老境に入りつつあるのであろうか、三世いや既に四世の世代が中心となっているのかと思う。時が経てば、現地の文化・風土への溶け込みも進むのは自然の摂理であり、またそうあるべきであろう。しかし、おそらく、三世・四世の世代でも母国の文化への執着は無くならないであろうし伝承されるであろうと思う。そうあって欲しい。一世たちが苦労して築いた基盤の上で、両国の文化を融合した子孫たちの姿を見ることこそ、一世たちが新天地を求めて南米に移住した時に見た夢ではなかっただろうか。

 タンゴの国アルゼンチンと、それから全くかけ離れた日本舞踊を通じて得た在留日系人との交流は、タンゴの演奏を聴くたびに、私の頭の中で不思議と重なり合うのである。