弟 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 夏目日美子




 横浜の高台にあるその病院は、かなり古い白い木造の建物であった。

 正面玄関に車寄せがあり、よく手入れされた庭木がバランスよく配置され広い敷地に施された芝生が目に優しい。

 玄関前に泣きたいような重い気持ちの私とは正反対に元気の良いひまわりの花が咲いていた。

「何しにきたの?」

 ひまわりは私に訊いた。

「ええ、一寸、弟のことで……」

 私は、ひまわりの質問から逃れるように中に入った。

 まもなく病室に呼ばれた私は、院長から重いお言葉を頂くことになる。

 初老の院長は、気の毒そうに私に言った。

「もうお身内は貴女しかいらっしゃらないのですね……。弟さんは、アルコール依存性及び自傷性の高い人格傷害者です。自殺という生命の危険性を伴っていらっしゃいますのでただちに入院なさって下さい。看護師に後で病棟を御案内させますから」

 私は、院長の言葉に黙って頷くと先に病院で待っていた弟を入院させた。

 弟は過去何度も自殺未遂事件を起こしている。

 弟の体は、首を始め腹にも手首にも刃物で刺した刺し傷が沢山ある。

 人間関係が上手くできないと言って酒に逃げ酒におぼれ遂には人格を破綻させてしまった。

 幼少の頃より性格温和、大人しい優等生だった弟は両親の時にありあまる期待に押し潰されそうになりながら健気に生きた。

 しかし、青春期になって社会に出てからは、若者の持つ幸せそうな輝きを少しずつ失ってしまった。

 それは折角医学部に合格しながらも経済的理由で医学部を断念したことによる。

 その日から弟は変わってしまった。結局理工科を出て大手の医療器具会社に就職したわけだが半年もせずに酒を覚えた。

 それもかなりの深酒だった。そして上司ともうまくやっていけなかった弟はその会社で居場所を見失った。

 会社に行くことによる経済的安定、将来に対する希望は日に日に欠けた。

 それは秀才のはかなさと知識に毒された者の懐疑と屈折が増長され社内における人間関係を気まずくさせた。

 そんな弟にまるで女神のような希望の光が差し込んだのは総務課の新入社員としてやってきたある女性との恋であった。

 職場の中で弟はその女性に何となく話し相手として時間をつぶす内に恋にと発展したようだ。

 弟は一緒に食事をしたり映画に誘ったりしてつかの間の恋に喜々とした。

 弟の恋のお相手は、江戸時代から続くというある大店の一人娘だった。

 育ちの良さと品の良さ、会社の総務課に配属され彼女の姿は人目を魅いたという。

 そんなある日、弟は彼女に呼ばれた。

 弟は敏感に内密な話であること、それもいやな予感を感じとった。

 ビルの角隅のベンチに腰かけた彼女の顔は、死面のように青白かった。

 彼女は申し訳なさそうに弟に言ったという。

「貴男の気持ちわかっていたのにごめんなさい。私は両親の店を継いでくれる人と結婚しなければならないの。ごめんなさい……」

 ビルは浜松町にあり、一望千里、薄煙る灰色の東京湾が見わたせた。

 弟は、何と答えて良いかわからなかった。ただ見事に失恋してしまったのだという実感が彼のたった一つの夢を壊滅させた。

(この会社にもう用はない)

 弟が退職する方が、寿退社の彼女よりはるかに早かったのはいうまでもない。

 その後、弟はどこに勤めても長くて三年、短いと二ヶ月というように職場を変えた。

 そして四十歳になると突然

「行政書士として独立する」

と言って資格をとり開業した。

 経営は決して楽ではなかったようだが、行政書士の飲み仲間が結構仕事を紹介し、品川区の区民相談員にもなって活躍した。

 しかし、そんな時、国籍の問題で相談に来ていた中国人留学生にまんまと乗せられた。

「先生、中国の大理石が安く入手できます。ヒスイもです。それを売れば大儲けできますよ」

「どこへ売るのだね」

「売り先はおまかせ下さい。先生は中国から輸入だけすれば良いのです。仲間が杉並の堀の内に会社を持っておりますから中国物産店や各スーパー、デパートの催事に売り捌きます。販売は販売会社が責任を持ってやりますからどうぞ任せて下さい」

 陳という名の若い中国人は如才無く答えたという。

 いかにも自信ありげな陳の話を信用し、弟は遂に商品を仕入れてしまった。

 それも百万近い金額である。

 商品は、ダンボールに四箱もあり、中身は殆ど大理石の仏像だった。

 ところが、約束の日になっても陳は姿を見せない。電話をしても全く出ない。

 弟は、不審に思って彼の名刺の住所を尋ねた。

「そんな人、このマンションにおりませんよ」

との返事。

 そのまま、杉並区の販売会社の方に行ってみると大家さんの奥さんは怪訝な顔をして

「こちらに会社なんて一軒もありませんわ。以前中国人が住んでいましたが、その人は新宿の中華料理店のコックさんでしたよ。その人ももう引越して半年位経ちました。

 今は日本のサラリーマンの方が入居していますが……」

 と教えてくれた。

 弟は足許がガクガクした。

(しくじった。オレは嵌められたんだ。ちきしょう百万円も損してしまったではないか)

 浅ましい程動揺した弟はそれから極端に人間不信に陥り部屋中の机を金属バットでたたき壊すという狂気に走った。

 あの大人しい人が……。それは静かすぎる程静かだった弟の一生分の怒りと悲しみが遂に狂気となって露われる瞬間だった。

 アルコールに依存することによってますます理性を失った弟。そして私には遂に

「死にたい」

と言い出した。アルコール依存症は強固な断酒の意志がないと治らない病気である。

 弟の入院は、アルコール依存症を治す為とはいえ鍵のかかる閉鎖病棟とのことである。

 ケースワーカーと男性の看護師さんに付き添われ、弟は肩を落として別棟の病棟へ向かう。その後ろに私は続く。

 弟は、アルコールという魔物に取り憑かれ、しめ殺される寸前の鶏のようにみじめに首をうなだれていた。

 病棟への道はかなり長く、まるでこの世とあの世を結ぶ浄土へ続く白道のようであった。

 弟が先程診察室で私に渡したメモを読んだ。メモには、

 お姉ちゃん、今度生れてくる時は、もっとましな人生を送りたい。

 と書かれていた。

 あの子は、アルコールに呪縛された囚人のような自分に苦しみながらさぞ淋しく辛かったのだろう。私は病んだ弟を送る道で祈った。

 神よ、本人は苦しんでいます。どうぞ助けて下さい……。

 弟を病室まで送り、私はナースステーションに立ち寄って弟の件を頼んだ。

 弟にとって身内は、他家へ嫁いだ姉の私しかいない。父も母も弟の行く末を案じながら、とうの昔に黄泉路を渡った。

 私が鍵を持った看護師とともに病棟を去ろうとすると入院患者がざわめく。

 亡者のような顔をして去って行く私をとらえてひきずり込みたいようだ。

 職員は慣れた手つきで彼らを制止させると

「早く出て下さい」

と言ってドアを開け扉を閉めた。

 ガチャンという鍵のかかる音を聞きながら私は病棟を足早に去った。

 弟のすすり泣きによく似た風音が、ひまわりの花影から聞こえる。

「ふっふっふっ、貴女も大変ね」

とひまわりは言った。

(わかっております。あの病気はそんなに甘いものではないことを)

 私は黙って頷いた。

 夏の白い雲の下、私は背中に冷気を感じながら死刑宣告を受けた罪人のようにただ俯く。

 父や母に、これ以上、月の涙を流させないため私はじっと耐えよう。