よねさん・・・・・・・・・・・・・・・・・・なかむらけいこ



 わたしは、夕刊の記事の中に、次のような文章を見つけた時、心の中に、眠っていたある思いが、突然むくむくと、頭をもたげてきたのを知り、ものすごく驚いてしまった。
「太宰治は、幼少時に世話をしてくれた、お手伝いさんを、後年、探して歩いたことがあった。」
 わたしの家は、太宰の家みたいに、裕福ではなかったが、母が仕事をもっていたために、お手伝いさんが、住み込みでいた。
 その人はよねさんといった。
 よねさんは、わたしが生まれてから、一年生までの六年間、わたしや、弟、妹の世話をしてくれた人である。
 多少、知的な障害があり、家にいたところ、世話をする人があって、わたしの家に来たのだという。とは言っても、幼かったわたしにとって、よねさんは、母以上の存在でもあったと思う。
 母は、戦前から戦後にかけて、小学校の(当時は国民学校)教師をしていたから、わたしは、よねさんに背負われて、授乳をしに、学校へ通ったということだった。そのせいか、小使室(今の用務員室)は、わたしにとって、家の中のひと部屋のようだった。
 母の帰りはいつも遅かった。わたしたち、きょうだいが寝てから、帰ってくる日が多かった。休みの日も、子供たちが来たりして、わたしにとって、母親はよねさんだった。
 よねさんは、あまり喋らない人だったが、わたしはよねさんの気持ちがよくわかっていた。よねさんは優しい人だった。
 わたしは、友達と遊ぶよりも、よねさんといっしょの方が多かった。
 春になると、よく摘み草に連れて行ってくれた。その頃はまだ、自然が残っていて、農薬などの心配もなかったから、野草の中で、食べられるものは、家の近くにもあった。
 よねさんは、いつ、どこへ行けば、何があるのかをちゃんと知っていた。
 わたしが、幼い日に暮らしていたのは、信州の片田舎で、春になっても、まだ、雪が残っていた。そんな中でも、雪の中から顔を出すのは、ふきのとうだった。日当たりのいい土手では、両手でもちきれないくらい、採ることができた。
 芹は、田んぼの中や、小川にもあったが、よねさんは、山から流れてくる、清流の芹の在り処を知っていて、山へ連れて行ってくれた。
 クレソンは、台湾芹と呼ばれていて、水の湧き出ているような、水溜りにたくさん生えていた。
 よもぎは、土手や原っぱなら、どこにでもあったが、よねさんは、柔らかい若い葉を摘んで、お団子にして食べさせてくれた。
 摘み草の帰りには、シロツメ草の花で、首飾りを編んでくれたりした。
 夏になると、家の前を流れている川でよく遊んだ。村でいちばん大きな川だったが、浅かったので、水の中へ入って遊んだ。小魚、川えび、川がになどを、追い掛け回すのが楽しかった。よねさんは、そんなわたしを、洗濯をしながら見ていてくれた。
 秋の楽しみは、いなご採りだった。その当時は、農薬を使わない田んぼが多く、いなごはどこにでもいた。わたしの家は農家ではなかったので、近所の家の田んぼで採らせてもらった。よねさんは、いなごを捕まえるのが、上手だった。
 十二月には、初雪が降った。その当時は、今より雪が積もった。多いときは、三十センチくらい積もったように思う。雪が降ると、わたしは外へ飛び出した。雪合戦、雪だるま作り、そり滑りができるからだった。わたしがいちばん、熱中したのは、そり滑りだった。家の前の坂道で、滑った。父がみかん箱で作ってくれたお手製のそりに、よねさんが、薄い座布団を入れてくれた。そして、いつも見ていてくれた。

 遊ぶときだけでなく、寝るときもわたしは、よねさんと一緒だった。だから、よねさんなしの、生活なんて、考えられなかった。それなのに、よねさんとの別れの日は、突然やってきた。
 それは、三月の終了式の日だった。いつもより、早く、学校から帰ったわたしは、よねさんが居ないのに気がついた。いつもなら、わたしが「ただいま」と言って、土間の戸を開けると、「おかえり」と言って出迎えてくれたのに、よねさんは居なかった。
 もしかしたら、とわたしは思った。よねさんは、自分の家に帰ったんだ。とうさんと、かあさんが、よねさんを追い出したんだ。やっぱり。わたしには、心当たりがあった。
 弟より一年後に生まれて、その年二歳だった妹は、大雪の降った日に、肺炎に罹って、あっけなく死んでしまっていた。それまで、仲の良かった父と母は、言い争いばかりするようになっていた。
 「よねさんなんかに、まかせたから、こんな事になったんだ」
 わたしは、こんなことを言う父が許せなかった。どちらかと言えば、優しくて、わたしは、好きだったのだが、こんなことを言う父は嫌いだった。よねさんを追い出したのは、父だ。連れ戻しに行こう。わたしは、よねさんの家に向かって走りだしていた。
 よねさんの家は、二キロメートルほど、坂を下ったところにあった。何度かよねさんに連れられて行ったことがあって、よく知っていた。
 いつの間にか、日が暮れてしまい、心細さと、悲しさから、わたしは、泣きじゃくりながら戸口に立っていた。
 その声を聞きつけてか、男の人が顔を出して、わたしを、家の中に入れてくれた。
 「よく、一人で、来なすったね。さぁ、もうすぐご飯だから、こっちへ、さあさあ。」
 座敷にあがると、よねさんが顔を出した。目が真っ赤だった。
 「おばちゃん」わたしはよねさんに近寄ろうとした。だが、よねさんは、黙ったまま、奥の部屋へと入って行ってしまった。
 食事中も、よねさんは、黙ったままだった。
 食事が終わってしばらくすると、父がわたしを、迎えに来た。
 「よねさんの事、言わなかったからだろうけれど、黙って、一人でこんなところまで、来ちゃだめだぞ」
 父はわたしを、自転車の後ろに乗せながら言った。
 「どうして、どうして、教えてくれなかったの」
 また、わたしの目から涙がしたたり落ちた。
 「よねさんが、どうしても、言わないでって頼んだからだよ」
 星がきれいな夜だった。わたしはその星を見ながら、もう、よねさんに逢いに行ったりするのは止めようと、思った。ついさっき見た、よねさんの悲しそうな顔が、また浮かんできて、わたしは涙を流し続けていた。

 よねさんのかわりに、母が家に居る、生活が始まった。母は三月で学校をやめていた。
 父と母がよねさんを追い出したのではなくて、母が家に居るようになったために、お手伝いさんの仕事をやめてもらったということが、理解できたのは、ずっと、後になってからだった。
 当たり前のことだが、よねさんと母はあまりにも違っていた。
 わたしは心を閉ざし、必要な事以外はしゃべらなかった。そして、叱られたりすると、よねさんに逢いたいなと思った。でも、我慢した。
 よねさんは、わたしが、高校に入学した年、病気で亡くなった。まだ、五十代のはじめだったという。 
 「もし、ずっと、わたしの家にいたら、よねさんは、もっと長生きしたかも。どうして、わたしは、よねさんに逢いに行かなかったんだろう。別れの日には、よねさんは、悲しそうだったとしても、年月がたてば、逢いに行けば喜んでくれただろうに」
 この思いがずうっと、わたしの心の中に眠っていたことに、わたしは、太宰の記事を読んで気がついたのだった。
 「太宰とは違って、探す必要はなかった。それなのに、わたしは、逢いに行かなかった」
 今さら、悔やんでも仕方ないのに、わたしは、自分を責めている。
(2010)