ブロードバンドの文化人類学的意味・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮本淳世




今や、ブロードバンドは世界を変えつつある。こうしている時にも、ブロードバンドを介し、人々の思いや意思、或いは知識や経験、勿論、商業ベースに乗った広告も含め、あらゆる情報が電子に置き換えられ、世界中を駆け巡っている。人々は情報のやり取りに、かつてのように紙に文字を書き、それを物理的に送る必要はなくなったのである。

情報収集も、或いは情報交換も、思いついたその瞬間、その場で、キーボードを叩くだけで可能となったのだ。それは電子技術の発達のおかげだが、これが電気を実用化してから僅か120年とは信じがたく、ましてこの数年の飛躍的な進歩は驚異的でさえある。

このような状況を別な見方をすれば、人々の脳がブロードバンドによって時空を超えて繋がっているということになる。これは人類とって一つの光明もといえる。何故なら人々は、ある予想される困難に対して、過去の類似課題を検索し、因果を探り、また人々の意見を集約し、取捨選択する等々、ブロードバンドを通じて、どう対処すべきかを判断することが出来るからである。

この事象は何かに似ている。こう思ったのは私だけだろうか。と言うのは、かつて人類は、個々人の脳が深奥で繋がっていて、情報をプールし、或いは引き出し、さらに情報の交換さえ行っていたと考えられるからである。

これはなにも人間に限ったことではなく、全ての動物に言えることで、同じ種同士、時空を超えて知識を蓄え、そしてそれを引き出す能力を有しているのだ。しかし、人間は、脳の異常な発達によって自我が肥大化したため、残念なことに、他の動物ほどこの能力は機能していない。

ここで、他の動物が保持し、人間が失いつつある能力、つまり、「同じ種同士、時空を超えて知識を蓄え、そしてそれを引き出す能力」について述べてみたい。

最初にこの事実を報告したのは、ニホンザルの研究者達である。在る島で、一匹の子ザルが餌のイモを海水で洗うと砂が落ち、しかも塩が効いて美味いことを発見する。この知識は大人ザル達にも伝わり、島の全てのサルがこれを実行するようになった翌朝、海を隔てた隣の島で子ザルが海水でイモを洗い始めたという。

世界の動物学者を驚かせたこの事実は様々な実験により追認された。一つの例をあげると、マウスを使った実験がある。まずアメリカのマウス達に一つの迷路を学習させる。次にイギリスのマウス達に同じ迷路を学習させると、アメリカの半分の時間で学習を終えてしまう。逆もまた同じ結果となる。つまり、迷路の知識が海を隔てていたにもかかわらず伝わったのである。

これら二つの例は、距離を隔てた同じ種が、獲得した知識を互いに伝え合ったことを示すものだが、スマトラ沖大地震では、野生動物達はいち早く危険を察知し難を逃れたのだが、彼らは、彼らの祖先が取得した知識、「地鳴りに続く地震、そして津波」という時を越えた知識を咄嗟に思い起こし行動を起こしたのである。

人間は、この原初的かつ偉大な能力、つまり、種として蓄積してきた貴重な知識や情報を引き出すという能力が極端に衰えてきている。言語数も少なく、食うや食わずで荒野をさ迷っていた時代、この能力は、人類と言う種にとって、その生存のためには欠くべからざる能力であったはずである。しかし、文明の発達は、この能力の衰えを招いたのである。

人類と言う種が蓄積した情報をプールする場は、C.G.ユングの言うところの集合的無意識と同一と考えられるが、証明不能なため、ここでは誰にも馴染みのあるテレパシーという言葉を使うことにする。本来このテレパシーという言葉は、この集合的無意識にアクセスする能力だと思われるのだが、それはひとまず、置いていくことにしよう。

ここでは、集合的無意識について、C.G.ユングの言葉を引用するにとどめる。彼は言う。「集合的無意識は、意識の心から閉ざされていて、心霊的内容、人が忘れ去り、見落としているあらゆるもの、またその原型的器官の中に横たわる無数の時代の知恵と体験を」を含むと。そして彼はこう結んでいる。我々の意識などは無限の大海(集合的無意識)に浮かぶ小島のようなものであると。

さて、このテレパシーであるが、これは種の保存本能と重要な関わりがある。何故なら種というグループに本能という言葉を結びつけるのは、グループ全体が共通の保存本能を持つことを前提に考えるからで、個々の固体が種の保存本能に基づき行動するのは、テレパシーによって、このグループ全体の種の保存本能を感じ取るからに他ならない。

従って、我々がこのテレパシー能力を失いつつあると言うことは、人類にとって由々しき事態なのである。種の保存本能は種が危機に瀕した時、種を保存するための方策を講じ、種全体に指令を発する。しかし、この能力が衰えているということは、種の保存のための方策が十分に機能しないことを意味するのである。

これは、人類の種の保存本能にとって手足をもがれた状態であり、正に危機的状況なのである。従って、ブロードバンドとは、人類の種の保存本能が、十分に機能しなくなったその能力を補うために用意した電子的な手段だと言えなくはない。

つまり、不十分ながら保存本能が機能し、人類の生存の危機を感じとり、そのために新たな手段を講じようとしている。失われたテレパシー能力を別な手段で実現しようと、人類にブロードバンドの急速な技術的発展を働きかけているともとれるのである。

このテレパシー能力の欠如そして希薄さは、人類としての連帯意識を薄れさせるという事態を招いた。その代わりに民族や宗教といった人間独特の、しかも種の保存本能には何の役にも立たない連帯意識を持つに到った。その結果、民族は切り離され互いに争い、宗教は他宗に不寛容となり戦争の火種とさえなっている。

こうした状況は、人類の生き残りための共通の道標を霧の中に隠し、その結果、民族や宗教の論理が大手を振ってまかり通ることになった。民族純化などという蛮行を犯しても、異宗教、異宗派どうしが虐殺を繰り返しても、平然としていられる人類を形成してしまったのである。

実は、人類は今、深刻な危機に直面している。それは地球温暖化である。もしこの問題解決のために、今すぐに、人類が共同作業を始めなければ、地球的規模の気候変動は知らず知らずのうちに何百万、何千万の人々の食料を奪い、更に民族・宗教対立を激化させるであろう。人類は種の保存本能に目覚め、今すぐ連帯しなければならない。

しかし、一度失った能力の回復は覚束ないだろう。であるなら、道は一つしかない。世界中の人々が、ブロードバンドによって繋がりを持ち、この危機意識を共有し、そのために人類は何を為すべきかを考えることだ。

問題は危機を回避するための時間的余裕がどれ程あるのかということだが、それは、ブロードバンドが民族や宗教の壁を如何に早く突き崩せるかにかかっている。しかし、不幸にしてし、既に手遅れであるのなら、ブロードバンドは、種の保存本能に従い、いかに食料を効率良く再生産し、公平に再配分するかという問題を担うべきであろう。