前岡光明




なんでもありだぞ


 多くの熟年男性が前立腺で苦しんでいるようだが、六十五歳の私もその一人である。尿意を催したとたんに、もう我慢できなくなる。それでトイレに立っても少ししか出ない。常に膀胱が満タン状態で、溢れそうな分だけがちょろちょろ出る。
 一昨年の十二月、いよいよ限界だと思って泌尿器科へ行った。医師に、「あなたの前立腺はとても大きいです」と言われた。薬を服用して小便の出がだいぶ楽になった。その次に薬をもらいに行ったら、「血液検査の結果です。正常で四以下のPSAタンデム値があなたの場合一九・六もあってガンの疑いがあります。もしガンだったら他に転移している確率が二十パーセントです」と真顔の医師に告げられ、うろたえた。「前立腺ガンは進行が遅いです」は慰めにならなかった。前年、親しいKが、大腸ガンが肺に転移して亡くなっていた。そしてその頃友人のSが大腸ガンと戦っていた。いよいよ自分の番が来たかと思った私は、生体検査までの十日間、気持を整理した。
 患部の細胞を採取してガンかどうか調べる生体検査は半日で済んだが、その後小便が出なくて、管で抜いてもらったら五百cc溜まっていた。私はこの病気が膀胱破裂に至ることを知った。家に戻って頻繁にトイレに駆け込んで最初は数滴したたるだけだったが、やがて五cc、十ccと増え、夜には二十ccぐらいになり一安心した。次の日の夕方ほぼ元に戻った。そして何日かして、「ガン細胞は見つかりませんでした。よかったですね」と、看護婦さんから電話を頂いた。うれしかった。
 でも、ほっとしたのはわずかな間だった。かかりつけの医師から、「前立腺のガン細胞は見つかりにくい。骨に移ると惨めですよ。何回も探してもらいなさい」と言われた。また、近所のUさんから、「知り合いの医師だが、指の骨がこわばるのは庭いじりのせいだと思っていたら、前立腺ガンが骨に転移していて手遅れだった」と聞いた。そしてとどめは血尿だった。小便の最後に薄く血が混じるようになり、だんだんひどくなった。便器が赤くなって、公衆便所で隣の人と並んで立つのがはばかられた。わけの分からない出血は身震いするほど恐かった。でも、なるようにしかならないと覚悟を決めたつもりの私は、妻に平気な顔をしていたと思う。
 その頃、去年の二月のことだったが、スポーツと無縁だった妻が、体調を整えたくて、市の体育館の卓球教室に飛び込んでいた。最初の日は嬉々として帰ってきた。しかし、その次はしょげていた。まともに球を返せないので、組んだ相手に嫌がられたらしい。それで私は「俺が相手をしてやる」と、自分の体が利くうちに女房孝行をする決意をした。卓球の心得は少しあるが、小さな球をチマチマ切って打ち合うのが嫌いだったから、妻に手を貸してやるだけのつもりだった。二人で週一回の卓球教室に通いだした。次第に球の速さに目が慣れた。妻も行くたびに上達した。そうやって、緩やかなラリーが続くようになった。汗びっしょりになって、楽しかった。卓球教室以外の一般の卓球台解放日にも二人で体育館に通った。卓球を始めた頃から、いつのまにか血尿は影を潜めた。そして血液検査の値が、三月十七・八、五月十六・七と低下したのはふしぎだった。
 その頃、Uさんが持ってきてくれた読売新聞の切抜きに、私は両手を打った。「アメリカのデーターだが、週に一度激しいスポーツをする人は前立腺ガンにかかりにくい」そして「これまでも、運動をする人は前立腺肥大になりにくいと言われている」という記事だった。血尿が止まったのも、血液の値が下がったのもこれだ。また、前立腺肥大はホルモン異常が原因で、徹夜など不規則な生活を続けてきた人が罹るらしいが、まさにそれは私の四、五十代の生活だった。女房孝行のつもりの卓球が自分の苦境を救ったと、つきを感じた。体力のついた私は、市の体育館のママさんバレーの練習に加えてもらった。私は高校時代バレーボールに打ち込み、四十まで職場のチームでやっていたから、もう一度パスをやってみたかった。身体をほぐし気を張ってコートに立ち、はじめはぎこちなかったが、身体がボールの扱いを覚えていた。楽しかった。そのうちソフトバレーの練習に誘われた。これは軟らかいボールの変化がおもしろい。
 そうやって私が快調な日々を送っている時、七月になってSが大腸ガンの術後の院内感染で亡くなった。九月にWが肺せんガンであっけなく逝った。立て続けに信頼する友人を失い、私は滅入った。ふと気づくと、ぼんやり彼らのことを考えている。彼らに引きずり込まれまいと、私は散歩に出ては速足で歩いたし、スポーツに打ち込んだ。
 九月、血液検査の値は十六・四と横ばいだった。「単なる炎症ですね」と泌尿器科の医師が言った。しかし、私のただれた前立腺の細胞がいつガンに転化するか恐怖心は消えない。バレーボールの練習を二週間休んだ時に妙に指がこわばりガンかと心配したが、再開すると治ったので筋肉のしこりだと判断した。首が痛んで気になったことがあったがバレーボールで飛び込んで床に頭を打ったことに思い当たった。肩のつけねのしこりは前立腺が傷んでいるせいだ。そうやって何かしら身体の変調があったが解決した。ともかく少しぐらい身体が痛んでも、私はスポーツをして血液値を下げたいと願った。
 若い頃の私は体力派だった。大学は山岳部だったし二十代は一人で山登りした。五十の頃、下山時に膝が笑って皆についていけなくなった。二十のときスキーで両膝を捻挫して、「年とったら痛むぞ」と言われたのがこのことかと、それから山登りを諦めていた。それに通風の気もあって、激しい運動は避け、もっぱら散歩だった。そんな私が、一年前の去年の二月からスポーツに励めて夢のようだ。憑かれたように卓球、バレーボール、ソフトバレーと、あわせて週に四回ほど、それぞれ二時間から三時間近くやった。筋肉が徐々に鍛えられていく。
 卓球は私も腕を上げたが、四才若い妻は上達がはやくフォア、バックと打てるようになった。「五十本続けよう」と、ラリーを数える。片側二十本ぐらいは続けられるが、なかなか三十本を越せない。そうやって飽きた頃、妻が目を輝かせて、掌にボールを載せたサーブの構えで、「なんでもありよ」と宣言する。なんでもありとは、思いっきり打ち合うことだ。「ようし。こい」と挑戦を受ける。私と練習している妻は男性の強い球に慣れている。また熱心な妻に、いろんな人がコーチしてくれる。なんでもありでも、時々、私が打ち負けるようになった。
 そうやって卓球を始めて一年過ぎたこの二月の末、ひと月前のことだが、私は災難に見舞われた。上手な人に挑んで打ち合っている時、踏み込んだ右のふくらはぎがプツンという感じになった。湿布して二日で痛みが取れた。しかし、三、四日して散歩に出かけて右足が突っ張ったので、できるだけ歩かないようにしていた。そして十日ほど経った二週間前の寒い日、もういいだろうと、所用で街に出かけてからふくらはぎが張るようになり、気になって整形外科へ行きリハビリ治療を受けた。「卓球の肉離れは、痛みがとれてからしばらく我慢しないとぶり返しますよ」と言われ、その通り我慢した。おとといの朝、医師に、「八、九割は治ったようですね。もう一週間リハビリを続けますか?」と問われ、「完璧に治します」と私は顔をほころばせた。
 私は、この一ヶ月、汗を流せなくてしおれていた。その一方で、今度のふくらはぎの肉離れは身体にとってはいい休養だったという気持ちもあった。なんといっても膝を酷使し過ぎていた。そして、右手親指の突き指が治った。長続きさせるには、ここら辺で一休みする必要があったのだと、天の配分を思った。
 このひと月私が休んでいる間に妻はだいぶ腕を上げたようだ。卓球教室で突っつきを先生に褒められたらしい。体育館の公開日には私の練習相手達に揉まれているそうだから、大したものだ。それにラケットのラバーを替えたいと言っている。私は、妻とのなんでもありの打ち合いが楽しみだと思った。
 しかし、そうはうまくいかない。医者に八、九割治っていると言われた一昨日の夕方、庭でコンクリートブロックを抱え上げた時、ズンと右足が硬直した。重い荷物を持つと脚に負荷がかかると考えなかったのは、うかつだった。落ち込んだ。そして弱り目に祟り目。今朝四時頃、いつものように尿意で目覚めトイレに立ったら便器が真っ赤になって打ちのめされた。一年ぶりの血尿だった。一ヶ月の静養が前立腺の炎症を再発させたのだ。やはり激しいスポーツが前立腺を癒すと確信した。
 私はなんとしても炎症を止めなければならない。この一年間の経験で、大きな歩幅で急いで二十分も歩くと前立腺に刺激を与え小便の出がいいように感じていたから、少しぐらい脚が重くても大股で歩いてみよう。それで右足のふくらはぎの治癒が遅れてスポーツ復帰が先になっても仕方がない。そんなことを思いながら、朝になって着替えて、こわごわトイレに行ったら、便器が赤くならなかったので、ふーっと気が抜けた。さっきのは夢だったかとも思った。一過性の出血で治まりそうで助かった。
 今日は大股で歩いてみた。久しぶりで、膝が少しがくがくしたがふくらはぎは大丈夫だった。激しく気持ちが揺れ動いた一昨日からの三日間だった。そして、この一年余、このような身体の変調と気持ちの浮き沈みが断続的に続いていた。こうやって私の身体の加齢が進むのだろうと思った。
 もう少し我慢して、そのうち卓球に復帰できよう。今度、卓球に行ったら、「なんでもありだぞ」と、私の方から妻に挑んでみる。

(2006年)





終の棲家


 ゴールデンウイーク初日の空は真っ青だが、外に出ると風が強く長袖シャツでも肌寒い。約束した午前十時の二十分前に家を出て、いつもなら十分か十五分で着くのが、鶴川街道の混雑で五分ほど遅れてしまった。
 多摩丘陵の小高い尾根の緩い斜面の一画にある、I霊園である。横浜のランドタワーまで見渡せるほど景色がいい。頭上の綿雲のほつれ模様がよく見え空に近づいた開放感がある。二月の末に初めて訪れた時、尾根の雑木林の間に白い富士山を見つけ、私は歓声を上げた。そして、来るたびに、妻と「いいところだね」とうなずき合っている。今日も、浅く窪んだ地形が風をさえぎり、若葉の樹木の中で花壇の草花が輝き、陽だまりの公園のようだった。
 私達はこのI霊園の墓地を購入したばかりである。墓を建てることに長いこと否定的だった私達夫婦だが、とうとう決意し、まずは、家に一番近いこの霊園を訪れて、即座に決めた。
 都会に住む家族の墓は、個々に墓石を建てるのではなく、一つの墓にまとめて骨壷を納めるのだと知って、わが意を得たと思った。今日は、担当のS氏に、墓誌に刻む亡き父母の名前、享年、没年月日を伝えることが用件だった。郵便かファックスで送れば済むことだが、近いので持参することにした。まるで建築中の我が家を見にいくような楽しみである。子供達も気に入って、墓石に刻む文字の書体などの選択を彼らに任せた。 
 二年前に父が亡くなった時、長男である私が墓を建てるのが筋道であっただろう。でも、私の父は、「わしはあの世とか、神様、仏様は信じない」と、常々口にし、およそ墓参りはしたことがないし、仏壇で手を合わせたことのない人だった。父は農家の七人兄弟の末っ子で、若い頃家を出て各地を転々として働き、私たち三人の兄弟は大陸で生まれた。そんな父は家の伝統、因習を背負わずに暮らしてきた。我が家では、私の実母が亡くなっていたが、お盆の準備をしたことがない。養母が近くの小さなお寺に通うようになり、毎朝仏壇に手を合わせていた。そして、父は、「わしの葬式は、お前たちの好きなようにせい」と、言い残した。それは、本当は葬式も墓も不要だが、息子たちが世間体を繕うために好きなようにしていいということだった。その五年前に死んだ養母の遺骨は彼女が信者だったお寺の納骨堂に預けていた。
 そんな父の息子の私は、若い頃は生きることに悩み、宗教の本を何冊も読んだし、ある禅寺にひと夏こもったこともあるが、とうとう信心は持てなかった。それどころか、世襲の職業坊主たちの打算的な行状を知るにつれ、例え慣習の儀式とはいえ、見知らぬ、堕落した彼らに導いてもらうことなどご免だと反発する気持ちが強くなった。
 私は、人智を超えた者の存在があることは確かだと思う。何者かによって自分は生かされていると思う敬虔さは失いたくない。でも、私は、死後の自分がどうなるか、などということでは悩まない。呼吸が止まり酸素が届かなくなって脳細胞の活動が停止した段階で私の精神は消える。魂がどうなるかなどということは、個体が消滅してしまう悲しみを慰める希望的な観念である。死せる者の魂とは、残された者の脳裏に宿るもので、記憶に焼き付けられた像であろう。
 死者の体が荼毘にふされた時点で、その肉も地も煙と化しその微粒子は空に漂う。そして空中を漂う諸々の微粒子(エアロゾル)は、上空の水蒸気が冷えて気体から液体に相を変える時に、雲粒の核となる。雲粒はぶつかり合って雨滴に成長し、微粒子は雨の濁りとなって地上に落下する。体が燃えて出来た煙の微粒子はやがて土に還元する。一方、燃えカスの無機質の骨は、骨壷に入る量だけ拾われ、他は灰とともに廃棄され地に戻る。その骨壷の骨も、祀る者が途絶えれば、それまでの話である。いずれ時が経過して土に戻る。
 私の骨は、どこか迷惑のかからないところに、できればこれまでにお世話になった土地に埋めてもらうのが一番望ましいと思っていた。
 私の実母は、終戦後、私達子供三人を連れて大陸から引き揚げてきてまもなく結核で亡くなった。三人の子供を連れ帰るのと引き換えに自らの命を縮めた。その墓は大阪の外れの淡輪にあるが、その墓を知る者は今では私達兄弟三人だけである。父がその町を離れた時、叔父が哀れんで、母の墓を父の実家に移してくれた。しかし、今、その本家の跡取りが独り身なので、この先、先祖代々の墓地がどうなることやら……。
 墓なんか建てても、儚いものだ。
 私は、自分は墓を建てるつもりはないから、と弟に、墓を建てる時にいっしょに父母を祀ってくれと頼んでいた。
 妻も特定の宗派の信者ではない。若い頃、「私もお墓は要らない」と、私と同じことを言っていた。私達が、付き合いだしてしばらくして、互いに引揚者であることを知った。私達は、一歩間違えば、はぐれて中国残留孤児となったか、あるいは生きる道を絶たれたか、だった。そういう幼児期の過酷な体験が、自分では意識しなくとも、彼女に芯の強い人生観を持たせているのだろう。それに彼女の父も三男坊で家を出て各地を転々とした境遇であったから、私同様、家代々の墓、あるいは先祖を祀るということから意識は離れているのだろう。
 私が小学校に上がる前の年、終戦となり、大陸各地に取り残された日本人たちは、着の身着のまま大連に集結した。あの時、軍人・役人組織が崩壊した中で、取り残された大勢の民間人たちは、ある偉大な私人の私財を投げ打った尽力でかろうじて保護された。四つ下の私の妹と妻は同じ年である。私達はあの大連の街角ですれ違ったのかも知れない。そんな同じ境遇だったという意識が思いを加速させ、私は彼女と赤い糸が結ばれていると思うようになった。
 四十年余の結婚生活では、核家族の転勤続きで、私は工事現場の仕事に没頭し、妻は子育てに大変だった。妻といさかいをしたことは何度もあったが、その火種は、子供のこととか親戚のこととかで、互いのことは少なかった。リタイヤして家に居るようになって、私達は仲良く暮らしていると思う。老いを自覚した夫婦の絆は、夫婦の愛情という言葉よりも、お互いに理解し合っているという言い方が適切だろう。
 それはさておき、私は墓は要らないと強情を張るより、妻といっしょに墓に入れてもらうべきだと考えるようになった。そして、「いっしょに墓に入ろう」と、妻を口説くつもりになった。そういう気持ちになった直接のきっかけは、父母の墓を頼むと、弟に頼んだつもりだが、子供達が近くにいる自分の方が墓を守ってくれると言う意味で適しているのだろうと気づいたからだ。そして、もう一つ私が強く思うようになったことは、二人の息子達の絆のために、私と妻は墓を建てるべきだということだった。私の息子の一人は幼い頃に大病を患ったが、なんとか復帰して家から勤めに通い、がんばっている。
 ここまで綴ってきて、思い当たることは、長男夫婦が一年前に我が家の近くに戻ってきて新居を構えたことが、最大の要因である。私のように全国各地を転々と移り、仕事にのめり込んで家庭を省みない父親は、息子達の反面教師だったようだ。
 私が妻に、「墓を建てよう」と切り出したら、「うん」とうなずいた。
 妻の母は千葉の兄の家の近くの施設に入っている。妻は遠くにいる姉と誘い合って月に一度は見舞いに行っている。とっくに九十を過ぎ、もはや我が娘達の名前も顔も思い出せない時があって、そんなときに口にするのは少女時代のことらしい。その母は夫の墓に入ることになっており、子供達は母の死後のことで悩まなくてよい。そんなことで、妻は自分の墓のことを思案していたのだろう。私達の考えは一致した。そして、最初に見にいったこの霊園が二人ともすごく気に入ったというわけだ。
 私達のように、老後の暮らしを、子供達といっしょに過ごすのはとても恵まれたことだと、最近思うようになった。妻も同感である。
 妻の母性が子供達を抱擁しているのは間違いない。
 そんな妻が、先日母を見舞ってきて、放心したように言ったことがある。「小さい頃、親戚から送ってきたりんごをお母さんに剥いてもらった。私は丸まんま食べたかったのに、お母さんは一口ちょうだいって言って、包丁で少し切って横取りして食べるのが、とても不満だったわ。食べたいのなら自分の分を剥けばいいのに、と思っていたのよ。でも、お母さんの分のりんごは、ああやって食べるだけだったんだと、この頃、気づいたの。お母さんは自分のことは構わないで、全部、子供達にそそいでくれてたわ」
 六十をいくつか過ぎて、思い当たる母の恩である。そんな感性の妻だから、子供達が慕わないわけがない。
 私は墓を建てることにして良かったと思う。
 私は、思いも寄らぬ、終の棲家を得た。余計なことは言わず、私は両親の居るところに、妻といっしょに入る。そして、実母の墓の土を隅に置く。いずれ息子達も加わるだろう。
(2007年)





世代交代


「孫はかわいいぞ」これまで、先輩、同僚たちが相好を崩して語っていたが、やっと私にも孫を抱く幸せがめぐってきた。長男が近くに引っ越してきて子供が生まれ、毎日のように見守ってきた。大きな赤ん坊だったから、最初からかわいらしかった。目が見えるようになると、のぞき込んだ私の顔にほほえむ。なんとも愛くるしい女の子だ。
 固く握りしめていた手が、ひとさし指が伸び、中指も伸び、いつのまにか手のひらが拡がり、そして、腕を伸ばしてあたりの物に触わり掴もうとする。掴んで口に運ぶ。
 何でも口に持っていくのを見ると、改めて生存の原点は食べることにあると思う。
 八ヶ月になる今では、両手で哺乳瓶を抱える力持ちだ。そして目が輝いて、すばやくなんでも掴んでしまう。這いだして、本でも袋でも引きずり出し、くちゃくちゃにしてしまう。大事な本なので「だーめ」と取り上げようとすると、「うーっ」と主張する。
 次から次へと好奇心が移っていく。赤ちゃん用のきれいなおもちゃは、ほとんど遊ばない。あるとき夢中になったのは、お店の紙袋だった。くしゃくしゃ紙の折れる音と形が崩れるのを面白がった。クリップが入ったプラスチックの小箱、セロハンで包んだダイレクトメールの封筒でも遊んだ。とっくに飽きたガラガラを大きな洗濯ばさみで挟んだら、その日手放さなかった。テッシュペーパーの箱から、中身を一枚一枚摘まみ出す。夢中だ。紙を口に運んだが、おいしくないことを知ってからは、その心配はなくなった。次は、薄い雑誌をばりばり引き裂いて興奮している。今は、テレビのリモコンだ。そして、ラジオカセットだ。触って欲しくない物を触りたがるから困る。
 このように、私は孫を抱く幸せに浸っているが、友人に孫のいない人がけっこう居るので、久しぶりに会って近況を話すときなど気をつかう。また、「年に二回孫が来るが、すぐ帰ってしまう。さびしい」と嘆く人がいて、すなおに同情する。
 老いた夫婦あるいは若いカップルが小型犬を慈しんで散歩している姿をよく見かけるが、「孫の替わりだろう」「子供をつくれないのだろう」と、私は気の毒に思う。「そんなことを言うものじゃありません」と妻にたしなめられるが、座敷犬が嫌いな私だから、余計そう思う。
 世の中、ほとんどが核家族になってしまった。専業主婦でも、若い夫婦だけで子供を育てるのは大変だ。赤ん坊に振り回されて、相談相手のいない母親が育児ノイローゼになるのは無理もない。さらに今の女性は職業を持っている。子供が欲しくとも、育児を手助けしてくれる環境でないと、子供を産めない。
 少子化になる傾向が予測されたのに、あるいは、現実、少子化の世になっても、国は有効な手を打ってない。未だに役所の縄張りで幼稚園と保育所の二本立てで、働く母親の託児所は掛け声ばかりで解決してない。踏み込んだ幼児の保育対策は行政が一元化しなかったら出来っこない。文部科学省は小学校からの学校教育を主管し、幼稚園は厚生労働省に移管するよう、大ナタをふるうべきだ。この国が成熟して成長が頭打ちになった今、それなりに世の中の仕組みを変えていかねばなるまい。成長途上にあるときは制度の不備をカバーする勢いがあっても、縮小するときは、ほころび始める前に制度を手当てしないとひどいダメージを受ける。
 今、あちこちで、近くの病院の小児科がなくなって子供を産むのを不安がる人がいるとはひどい話だ。小児科医師は劣悪な勤務環境にあるから、医師の卵たちは敬遠するということだが、手をこまねいていてどうする。過労の末、医療ミスを犯した医師が親から訴えられ挫折するのは気の毒だ。クール過ぎるかも知れないが、金銭補償を補う保険制度が現実的だろう。そして、医療行政の抜本対策は国の責任だとしても、ともかく地域の小児科医と助産婦が連携して現状をしのがねばならないが、その組織作りを骨折るのはどの役所だろうか。
 最近、どうかと思う動きがある。自転車の三人乗りが危険だから取り締まるということだ。まず、若い母親たちから、「待ってちょうだい」と、悲鳴の声が上がった。それで、メーカーは三人乗り自転車を開発するという報道があった。
 そんなことで解決する問題じゃない。どこか世の中おかしくないかい。自転車の三人乗りが危ないのは確かだが、昨日今日の話ではない。我が妻は三十数年前に三人乗りしていた。幼いお兄ちゃん一人を家に置いて買い物に出かけたら、ワーンワーン泣くので仕方がないから無理して乗せていた。三人乗り自転車が開発されても、高額だろうし、幅の取る自転車の置き場所を探すのが大変だろう。少子化を皆が嘆いている時に、その解決に奮闘しているお母さんに皆が冷たく当たってどうするのだ。三人乗りのお母さんが来たら道をあけてあげて、おまわりさんはあたたかく見守ってやればいいのだ。
 今、子供が出来てしまったけど育てられない親が多い。生活が苦しく、またどうやって育てていいかわからず、そんな苦しみの中で子供につらく当たったり、育児を放棄したりして、あるいは離婚でお手上げになったりして、子供が児童擁護施設に引き取られる。
 その児童養護施設は、先生方がいっしょうけんめい面倒をみているが、手が足りない。だから、休みの日には、施設の中に子供を閉じ込めて外に出さない。遊び盛りの子供には残酷だ。
解決策はある。暇を持て余し気味の老人たちに、愛情に飢えた幼い子供の面倒をみてもらったら、と思う。老人ホームと児童擁護施設を併設したら、お互い得るものが多かろう。施設で一見お客様待遇で、その実、無為に過ごしている子供たちは、掃除やお世話ということで貢献でき、また、お手伝いの義務を学べる。そして、感謝され、生きがいを知るだろう。もちろんボランティアの人たちの助力がいるが、それは楽しい奉仕だろう。
 また、児童養護施設の子には、幼い頃の傷跡で学力の劣る子がいる。そういう子をむりやり高校に行かしてもついて行けず、いじけて反社会的な行動に走りかねない。早く社会に出て手に技術をつけたほうがよいと思う。でも、今どき中卒者が住み込みで働く場所はない。そして、高校に通わない子供は年齢制限で児童養護施設を出なければならないので、ともかく高校に入らざるをえない。
 施設の子供たちが毎日、牧場、農場などを手伝って汗を流して働けたらいいと思う。そういう場所に施設を併設できないものだろうか。心ある実業家たちに一肌脱いでもらいたいものだ。
 難しい問題がある。幼児虐待を受けた子供が成長して親になったとき、今度は自分がその加害者になる可能性が高いことだ。この連環を断たねばならない。女の子であれば、母性の愛情を身をもって知ることだと思う。現実、それが適わないのだから、幼い子供たちに心療的な手当てを望む。
 あれこれ言うのは簡単だが、現実改善は難しい。私は学習ボランティアで児童養護施設に通って五年になるが、無力だった。そして、この間、施設の子供たちの境遇が改善されたようには見えない。現場の先生方の努力には頭が下がるが、根本的なところでお役所仕事の冷めたさを感じる。
 私は世帯を持って、各地のダム工事現場を転々とした。家の事は顧みなかった。出産のとき、妻の母が手伝いにきてくれたあとは、妻はすべて一人で子育てをした。流産したことがあった。離乳期の子供を重い病気に罹らせたことがあった。苦い思い出だ。妻が、「あなたは何も手伝ってくれなかった」と、チラッと言うことがあるが、私はうつむいている。
 三十年前とは育児方法がずいぶん変わっているそうだ。出産の様子も違って、生まれてくる赤ん坊が大きいそうだ。でも、二人の息子を育てた妻は赤ん坊の扱いが堂にいっている。そして、母性本能丸出しで孫を慈しんでいる。そんな妻は決して嫁に育児のことで押し売りしないのは大したものだと思って眺めている。直接の育児の責任は親だから、あれこれ干渉しないのが、我が家のポリシーだ。
 手に職を持つ嫁が託児所に預けるつもりで私たちに預けてくれればいいのだ。孫が喜んで過ごしてくれるよう最大の努力をしよう。抱いて欲しいと手を伸ばしたら抱き上げてやる。スキンシップをふんだんに与える。でも、欲しがる物を買ってやるとか、甘いお菓子を与えるとかの甘やかしはしないつもりだ。そして、ナイーブな子のようだから、よほどのことでない限り、頭からだめだと言って、手に掴んだ物を奪わない。さりげなく、他の品物を与えて気をそらして取り上げる。
 年老いて、そばに孫が居ることで、この一年濃密な日々を過ごした。赤ん坊と付き合っていると、毎日が、「ばあっ、と言った」とか、「手を振った」とか、成長の発見である。それと、妻と感情のすれ違いがあっても、嫁から電話があると、にこにこ、二人で孫を迎えに行く。風呂に入れたり、買い物に連れて行ったり、仲良く子守をしている。孫は私たち熟年夫婦の絆である。
 そして、息子夫婦が我が家でいっしょに夕食を食べるとき、孫が一番喜々としている。赤ん坊でも大勢の家族に囲まれているのがいいのだ。
 どんな娘に育つのだろう。この娘も人並みに苦悩を負う日があるだろうが、強く、幸せに生きて欲しい。そして、息子夫婦は親としての喜びとともに心配が始まった。うれしい気持ちよりも責任感の方が強かろう。私は、世代交代をしたと意識する。
(2008年)





尊厳死を望む


 私の顔を見ると涙を流して喜んでくれる人がいる。小学時代のA先生だ。ずっと音信が途絶えていたが、十年ほど前、ひょんなきっかけで私の書いた文章を先生が読んでいただいて、とてもていねいなお便りを頂き、それから文通が始まった。そして、去年、突然、今度こちらに移ったというハガキを頂き、さっそくその施設にお見舞いにうかがった。六十年近くも経っていたが、面影のある気品のある先生がおられた。名乗ると、私の両手を掴んで喜ばれた。涙を拭いながら、先生は私の母親のこと級友の消息などあれこれ尋ねられた。とっくに九十才を過ぎておられるのにしっかりされている。知らない土地に来て、寂しかったのだろうと思った。それから何回かお見舞いした。行くたびに涙を流される。老いて涙もろくなった先生だが、そんなに喜ばれて私も励まされている。
 私には、先生のこの次の境遇が想像できる。
 私の義母は九十六才で、先日、老人病院で亡くなった。義母は自分のことよりも子供のことを気にかける人だった。己のことには執着しない、潔い人だった。四人の幼い子供を連れ大陸から引き揚げてきた、強い人だった。一人暮らししていたが、八十才で、自ら望んで施設に入った。義父の恩給などがあって、月二十万円もかかる施設に入ることができた。そして、十年ほど経って、体が弱って、老人病院に移った。妻は高速道路の混雑を避けた時間帯を選び、片道二時間ほどかけ、毎月のように見舞った。たまに私も妻に同行したが、老人病院に移ってからの六年間というものは、見舞うたびに重い気持ちになって帰ってきた。哀れなのは、ここ二、三年、妻も義姉も義兄も母親に思い出してもらえなかったことだ。義母の脳裏にあるのは幼い頃のことだけである。妻の顔を見て「似ているわね」と呟やいたのは、自分の兄弟に面影が似ていたのだろう。
 ある時、義母は車椅子にくくり付けられて廊下で一列に並んでいた。体を動かそうとしてずり落ちるのでこうするらしい。不安そうな、落ちつかない目をした彼女の表情は幸せの対極である。車椅子で並んだどの顔も、皆、険しい表情である。
 義母は何回か肺炎を起こし、「危篤です」といわれた。兄弟が集まったが、強い義母は治療が効いて持ち直した。しかし、そのたびに意識は薄れていく。いつの間にか彼女の食事はチューブで喉に押し込まれていたが、やがてその食事を受け付けなくなり、点滴で二週間ほど生きた。口のきれいな、長生きに執着しなかった潔い彼女が、一番嫌っていた、晩年の姿だった。
 親を施設に入れるのは忍びないという思いで、在宅介護している健気な人が居る。でも、肉体的、経済的、精神的に追い詰められ、ぎりぎりの状態の人が多かろう。現代の核家族では、老いた親を家庭で介護することは困難である。
 また、老々介護の悲惨さが言われる。体力の落ちた老人が配偶者を介護するのは大変なことだ。でも、過酷な中に、崇高な夫婦の姿を見る思いがあるのは救いだ。
 その一方で、親の介護をするために結婚どころでなかった子供が、いよいよ介護に追われて会社を辞めてしまう悲劇がある。子自身の老後はどうなるのだ。子供を犠牲にするなど、どの親も望んでいないはずだが、すでに判断力を失っている。
 大昔、姥捨てという言葉があった。若い頃の私は、貧しい山村の民は口減らしのため老いた親を捨てたのだと思っていた。しかし、今の私の考えは違う。老人が口にする食べ物はわずかでしかない。それより、自身の身の回りのことが出来なくなった老人に、家族の介護の手が回らないのだ。しもの始末が出来なくなった老人の糞尿まみれの姿が想像できる。
 現代では、子供が独立して家を出ていけば、残された親はいずれそういう結末になる。
 田舎で市役所に勤めていた友人が、農家の一人住まいの老人を訪ねた時、ある老婦人は頑くなに戸を開けなかった。気になって強引に戸を開け家に入ると、居間のふとんが異臭を放っていたそうだ。失礼なことをしたと悔いたそうだが、誰にもいかんともしようがないことだ。その後どうなったか聞いてないが、介護の手の行き届かない老人は、そうやって終末を迎えることになる。
 アパート暮しの老人の孤独死が取りざたされ、悲劇だとマスコミが騒ぐが、ではどうすればいいのだと問いたい。きれいごとではなく、本音を語るべきだ。私だったら、見知らぬ施設に収容されて不安と焦燥感で、おどおど、いらいら暮らすより、一人布団の中で老衰死する方がいい。誰かに後始末してもらわなければならないがその迷惑はいっときのことである。
 事実を言おう。まもなく私もそうなる身だが、老いて経済力を失い自分で身の周りの始末を出来ない老人は、もはや厄介者でしかない。そんな人が、先ほどの農家の一人暮らしの老婦人のように、放っといてくれと言うのに、他人が中途半端なおせっかいを焼くのは、余計なお世話である。
 私の祖母は田舎暮らしで九十才で亡くなった。亡くなるまで、毎朝杖を付いて外に出て陽を拝み、家の周りをゆっくり歩いていた。彼女は、毎日お迎えが来ることを願っていた。そして何日か床に臥し、往生した。今の人は、彼女のように幸せな死に際を迎えられない。
 今は、大勢の老人が最後は病院で医師に看取られる。そして、医療施設の整ったわが国では、老人の燃え尽きようとする生命をさらに延ばしている。もし本人に正常な判断力があれば、管を体に挿し機器によって生かされるような、そんな醜態を晒すことは断固拒否したろう。もうろうとした意識の中、ただなされるがまま、心臓、胃腸の臓器が機能するあいだ生かされる。献身的な医師は、一度病院に受け入れた患者はどんな人でもしゃにむに生かそうとするのかも知れないが、果たしてそれは医師として正しい姿勢だろうか。生死与奪の術を手にして独善的にならぬよう、常に家族に、具体的に問うて欲しいものだ。
 延命処置はしていただかなくてけっこうですと、たいがいの家族は医師に言うのだろう。義母の家族の私達もそうだった。でも、義母の最後の何年かは延命でなくてなんだろう。私達の考える延命と、医師のとる延命措置では定義が違うようである。
 すでに意識を失くした老人が肺炎にかかったらそのまま往生させてあげるのが、本人そして家族のためであろう。昔なら、心不全、脳溢血などで、自宅の布団で大往生した人が、今は、ほとんど意識を失ったまま病院のベッドに寝かされ、醜くい姿を晒している。
 医療も商売である。金を持った老人をそう簡単に死なすわけにはゆかない。病院のベッドを充足する大事な患者だ。そのように、老人医療には行き過ぎがあると思う。
 本人の苦悩はさりながら、家族の負担の重さを見かねた心ある医師が生命維持装置を外して、殺人罪で告訴される。マスコミの心無い非難報道はどうかと思う。そのような尊い医師の行為を、誰であれ軽々しく非難できまい。
 しかし、一度つけてしまった生命維持装置は、もう外すことはできないのだ。外したら殺人になる。だから、そのような装置を使うときは慎重にならねばならない。医師は家族に相談すべきだ。 
 ひところ長野県でピンピンコロリという掛け言葉が言われていた。ピンピン元気に生きてコロリと死ぬのである。お医者さんは邪魔しないで、コロリと死なしてくださいということだ。
 多くの場合、老人達にお迎えが来ても、医師によって追い払われている。
 今のわが国の長寿大国の統計には、尊厳を失ってベッドで延命させられている人たちの何年かの延命年数が占めているのだろう。
 私は学生時代、山岳部にいた。帰省するたびに親にこんこんと言い聞かされるので、無茶なことはしまいと思っていた。それでも、山行の前には身の回りを整理していた。山登りの冒険では生と死と紙一重のひやりとすることがある。無事、その時期を乗り切った私は、ダム工事現場に長く居た。五十年前のダム工事では大勢死んだ。若い頃はそんな死と向き合った張り詰めた日々を送ってきたが、いつの間にか平穏な生活に浸っていた。六十を過ぎて小便の出がいよいよ悪くなって、医師に行ったら、PSAの値が二十近くもあり、「前立腺ガンの疑いがある、もしそうなら転移している可能性が三十パーセントある」と言われ、突然のことで、気持ちを整理するのに何日か、かかった。幸いガンではなかった。前立腺には運動がいいようで、私はソフトバレーと卓球をやっている。普通の肥大症の人の五倍以上に膨れ上がった私の前立腺が膿んで破れるまでは元気に身体を動かして過ごしたい。
 さて、東洋の英知、ヴェーダの国のインド人の理想の人生は、学生期、家住期、林住期、そして遊行期に分けるそうだ。家長の座を子供に譲って、森林で静かな余生を送るのが林住期である。そして、いよいよ死期が間近となったとき、聖なるガンジス河に旅立つのが遊行期である。魂の輪廻を信じる彼らはガンジス河で古い肉体を捨てる。そのような死生観を持つ彼らは最後の瞬間まで泰然としておれる。
 わが国では、どの人もその人なりの人生観を持っていようが、死生観については、まだ先の話だと思っているうちに不意打ちを食らい、挙句の果ては病院で意識を失くして醜態を晒すことになる。
 もし、私が、怪我、脳溢血、心不全などで倒れたなら、回復する見込みがあるのならどんな治療も受けたい。でもそうでなかったら、余計な治療は拒否する。私の意識が戻らなかったら治療は打ち切って欲しい。自分の意志を示せなくなったら、私の生はそれまでとしたい。私の最後は、薬、栄養、水分補給の点滴を拒否する。その時が来たら、新たな点滴の補給はやめてくれとお願いする。尊厳死を望む私はこの一文を息子達に託そう。
(2009)




卒園式の涙

 私が学習ボランティアをしている児童養護施設から電話があった。
「勇夫君が卒園します。よろしかったら卒園式に出ていただけませんか。三月二十四日です」
 卒園式のお招きは三年ぶりだし、少し臆する気持もあったが、「参加します」と返事した。勇夫君が卒園するのだから、何はともあれおめでとうを言わねばならない。そして、気になっていた中三の正一君の入試の結果を尋ねた。「合格しました。今年は全員合格しました」で、私はほっとした。もう一人の高校生の光男君は、何と看護師の学校に合格したという話だった。頑張れば医科大学へ進めただろうに、たぶん自力で通える学校を選んだのだと察し、私は寂しかった。私は高校生の二人の餞別に大手スーパーの商品券を用意した。
 卒園式の当日、玄関先で正一君の後姿を見かけ、呼び止めたら、駆け寄ってきた。「合格、おめでとう」と言ったら、「工業高校に合格しました。ありがとうございました」と、早口で言った。「えっ、工業高校? 栃木のおばあさんの家の学校に行くのではなかったのか?」「工業高校です。僕は物造りが好きなので工業高校にしました」と、笑いながら言って、走り去った。彼の学力ならもっと上の高校も選べただろうに……。祖母のもとに帰るつもりで勉強に励んでいたはずの彼がふびんだった。何はともあれ、彼に、ありがとうと言われたのは、うれしかった。
 リタイヤした私は、何かボランティアをしたいと思った。大学生の百人に二人は分数が分からないというショッキングな本があって、分数なら自分が教えられると思った。それでこの園を訪れ、小学生の算数を教えさせてくださいと頼んだ。
 最初に教えたのが小学五年の勇夫君達である。週に二回ほど通った。そして、私は、先生方の手に余る、算数の落ちこぼれ達の面倒を見ていた。教科書は、数学的な考え方を身につけさせようとする。そこで、まだ知能が発育してない子供達はついていけず自信を失う。いずれ、どの子も知能は備わるが、その時期に早い遅いがある。一度、算数で自信を失うと、そのコンプレックスを拭うのは大変だ。そして、どうしてなのか、落ちこぼれる子はプライドの高い子が多いようだ。
 私は、オクテの子に復習の機会を与えずに切り捨てる今の算数教育に義憤を感じる。考えるのがまだ早い子供には、そろばんなど、計算技術を叩き込むべきだ。いっそ算数・数学の時間は能力別クラスにするのが、本当の平等なのだ。
 私は、中学生に数学の問題を問われるうちに、いつの間にか彼らに教える自信がついた。だんだん老いて根気を失った私は、学習時間をなんとか遊んで過ごしたいと考える落ちこぼれの小学生達の相手が疲れるようになった。それで最近は、学習意欲のある受験生の相手をしている。数学は、だいたい引っかかるところが決まっているから、私でも務まる。
 正一君は数学の文章問題が分からないと言うので、この夏休み中に五回ほど通って、手ほどきした。私のやり方は二人で文章問題を創ることだ。「D君と私の年齢の合計は、何ぼ」「D君の年齢の4倍は、私の年よりいくら足りない」を、xとyの連立方程式で表す。それを文章にする。自分で創った問題だから、すぐ解ける。何題かやっているうちに、コンプレックスが解消される。十月になって少し私に余裕が出来たので、二次方程式が理解できたかどうか、確かめようと思って、正一君に電話したら、「周りに聞きながら、やってます。大丈夫です」と断られ、寂しかった。学生のボランティア家庭教師が来てるのだろうと思って、様子を見に押しかけることはしなかった。彼にも私にも、遠慮がある。
 正一君は別にして、どの子も強がりを言う。「塾でやったからだいじょうぶ」と言う子にやらせてみると、出来ないことが多い。
 数学が得意だった隼君に、百点を取ったら見せろと約束したが、いっこうに持ってこない。こっちは褒美を与えるつもりでいる。中三のある時、強引に答案を見たら、計算問題の複雑なカッコの外し方を自己流でやっていた。自分じゃ計算違いをしたと思っていた。
 私が一番てこ入れしたのは、のんき者の勇夫君だった。彼は、冬になって、ぎりぎりの段階で、自分の模試の点数じゃ、その学校に入れないと気づいた。高校に入ってないと、園を出なければならない決まりになっている。それから彼は目の色を変えた。そして、その年の一月は、私は週に三、四回通った。入試発表の日、喜びの電話を受けた。
 この園は僧侶の園長ご夫妻と長年のスタッフの先生方で成り立っている。若い女の先生は結婚し出産して退職されるから、ずい分入れ替わった。
 以前は、大きな建物で五十名ほどが一緒に暮らしていた。それが何年か前から都の指導で、分割して十人ぐらいのグループホームという形になった。大勢だと、誰か一人がいきり立って暴れ出すと、同調した何人かが狂って廊下を駆けまわる。女の子に多かった。
 グループホームは、最上級生がしっかりしていると、和やかな環境になる。しかし、一人ひどい子がいたら引っ掻き回される。変な言い方だが、ひどく悪い子がいなければグループホームの方がいい。
 子供達は過保護である。自分の洗濯などは自分でさせているが、いわゆる家事手伝いをさせてない。食べさせてもらって、のほほんと過ごし、お小遣いまで与えられる。生活の厳しさを教えられないで、高校を終えたら、とつぜん社会に放り出される。
 かわいそうなのは、学校から帰って来た子供達を遊びに出さず、閉じ込めていることだ。悪い子に誘惑されることを案じてのことだが、子供を篭の鳥にしている。 
 そして、この子達に欠けているのは強く叱られることだ。ここは学校の延長だから、先生方は子供を強く叱れない。また、先生方は交代で宿直するから、先生によって、子供達の態度が変わる。強く叱責することができるのは、外部の人間の私なんかだと思って、叱らねばならない時は、私はあえて厳しく叱責した。
 卒園式が始まった。在園生代表の陽太郎君の送る言葉を聞いていると、二人の卒園生の人柄がしのばれた。利発そうな陽太郎君は自分も負けずに二人を越えたいと誓った。
 次は卒園生の言葉である。最初の勇夫君は用意してきたペーパーを読み上げた。その中に、工業高校入学では、私と、もう一人、中学のK先生にお世話になりましたと、謝辞があって驚いた。うれしかった。精悍な若者に変身した勇夫君は調理が好きだったそうだ。すし屋に就職が決まっていた。よかったと思った。
 次に難しい都立高へ通っている光男君のあいさつである。彼は、在園生の一人ひとりに呼びかける、型破りのスピーチだった。「誰々、我慢せいよ」とか、「誰々、俺を越えろよ」とか、愛情のこもった言葉を贈った。語りながら、彼は声を詰まらせている。信望厚いリーダーだったということがわかった。私も、涙をこらえるのに必死だった。
 次は、若い吉田先生が、「先輩を差し置いて、在任四年の私が、職員を代表して一言述べます」と、壇上に立った。この先生は、最初からティッシュペーパーを左手に持ち、壇に置いたので、おやおやと思って眺めていた。光男君とのつきあいの話になると彼の涙声は途切れがちだった。最初は言葉をかけても心を開いてくれなかった光男君だが、だんだん打ち解けてくれ、最後は枕を並べて寝ながら朝まで語り合う仲になったことを、こみ上げる思いに泣きじゃくりながら、披露した。皆、もらい泣きした。
(こうやって、この先生も成長した……)と、私は思った。
 大幅に予定時刻が遅れて、パーティになった。子供、生徒、来賓合わせて七、八十名いた。私は、隼君の隣だった。私は隼君とも長いつきあいだった。会うたびに背が伸びてたくましくなっていく。今度高校三年だ。サッカーのディフェンダーをやっているという。喘息持ちで、皆といっしょに遊べず、ぼんやり立っていた子が立派になったと思った。
 その一方で、私は成績優秀な光男君、そして来年は隼君の進学の力になってやれない無力感に肩をすくめていた。私は学力優秀な園児の大学進学を助力できないかと思って、努力した時期があった。それで、『算数の計算パズル集』や、父母を対象にした『算数嫌いのチェックポイント』という参考書をまとめ、出版して資金を得ようと試みた。無名の一家庭教師の作品は、ただホームページに陳列するだけに終わった。『足し算パズル』、『引き算パズル』は、数の勘定が苦手な子供達がチェックしてくれて、彼らが進歩した実績はある。
 私は途中で退園して行った子供達の面影を思い出していた。親元に引き取られ、明るく過ごしている子もいようが、暗い気持ちで日を送っている子が多いように思う。
 幼い頃、つらい体験をした人は、未熟な親を乗り越えねばならない。「子を持って知る親の恩」という言葉がある。自分の子が我を張って言うことを聞かない時、「こんな時、親はがまんして、子供を見守らなければならないのだ」と、この言葉を意識し、耐えるのだ。
 このような施設では熱血漢の先生が必要だ。子供と一対一で真剣に相手してくれる吉田先生のような先生だ。先生の第一条件は子供好きであることだ。理想の児童擁護施設は、熱いハートの夫婦を囲んだ大家族のホームだ。
 卒園式に列席した私は、やさしい、友達思いの子供達と、それを支える熱い心の先生方を目の当たりにしてうれしかった。まだまだ、この民族には、未来がある。
(2011)



お釈迦さまの瞑想

 七十才を過ぎて頭の働きも衰えたようだが、ふんだんにある自分の時間をライフワークの「私の星形成論」に注ぎ込んでいる。難しい理論は分からないし、詳しいデーターを持たない素人だけど、本質を考え抜くことは出来る。宇宙論はたぶんにイマジネーションの世界だから、私なりの発見がある。転向力、水素分子の性状、分子雲の内部分裂などを思いつき、私は素朴な理論で星の出来方を説明しようとしている。

 朝起きて、風呂の残り湯を洗濯機に汲み、食事の後片付けをするのが私の務めである。そのあと、再びベッドに行って、壁にもたれて胡坐をかき瞑想をする。寒いので毛布を被る。そして、呼吸を整えながら目を閉じる。気持が落ち着かないと、また目を開ける。そして目を瞑り、秘伝の短い言葉を思い浮かべる。言葉というより、響きだが、ゆっくりしたそのリズムに乗って私の意識は心の奥に沈んでいく。お腹が、グウと鳴るのは、内臓の緊張がほぐれるのだ。呼吸が柔らかくなって、私の意識は超越する。そのような瞑想中でも、意識はある。外の風の音が分かるし、呼びかけられれば返事する。
 雑念が湧いて、その響きに乗れない時がある。考え事をしていると気づいたら、意識してその言葉を思い浮かべる。妙に神経が高ぶっている時は、何度もその言葉を唱え直すが、すぐに雑念に囚われてしまう。でも、そうやって私のストレスが拭われるのだそうだ。

 二十分間の瞑想から抜け出たあとは、すっきりしている。そして、無心に作業に取り掛かっている。そんな時、行き詰ってこんがらかっていた考えがすらすら解けていく。
 時として知らぬ間に、一時間ほど瞑想の至福の時を過ごしていることがある。老いて、つつましい生活ながらも、このように穏やかに毎日を過ごせることはありがたい。
 私がこの瞑想を得たのは四十六才の時だった。ダム技術者の私は各地の工事現場を転々と移って、引越し、転校、他で、家族に苦労をかけてきた。私は転勤のない職場を選択して、調査・設計を行う設計コンサルタントに転進した。都心の小さな会社に勤めたが、慣れない仕事で、私は厳しい状況に陥った。友人後輩達が、私の技術力を買って仕事を廻してくれたが、まだ部下も育ってないところで、報告書にまとめるのが大変だった。私は寝る暇がなくなった。出張の電車の中で爆睡した。三ヶ月間一日も休めないことがあった。

 常に、いくつかの仕事を同時に進めているので、どれからやるかが問題であった。一つをやれば他が遅れる。遅れたところから催促が来るのでそれにかかると、他が遅れる。完全に能力オーバーだった。眠れないのがつらかった。フトンに入っても、遣り残した仕事が気になって目が冴える。私は起き上がって仕事を始めた。カバンの中には常に作業中の書類と資料があった。一つのことをやっていると、ふと、「あれはどうだったか?」と他の仕事が気になる。そうやってパニックになる。神経を太く持たねばと思うが小心者はそうはいかない。このままだと自分は潰れると思った。周りもそういう目で私のことを見ていたようだが、お互い自分のことで精一杯で手を差し伸べる余裕はない。私は深夜の駅にたむろするホームレスをうらやましく思うようになった。

 そんな時、私は偶然その瞑想のことを知った。藁をも掴む思いで説明会に行き、何日か後にその技術を授けられた。その、音というか響きというか、短い言葉が私のものとして与えられた。教師に導かれるまま簡単に瞑想に入ることが出来た。二十分後、教師の合図で気がついた私は、身体が軽やかになっていて生き返った思いがした。夜、ぐっすり眠れた。そのあと何回か通って、正常に瞑想に入れているかチエックしてもらった。ストレスから解放されると、長年プレッシャーを受けていた歪が出て頭や顔や肩や首などが痛むことがあるそうだ。幸い私はどこも痛まなかった。多忙を極めたから、朝晩二十分間ずつ規則正しく瞑想をしなさいといわれても無理だった。会社で疲れて頭の中が白くなったら、机の上で瞑想した。私は、「瞑想しているから起こすな」と宣言した。瞑想した私はそのまま居眠りすることが多かった。瞑想に入ると、体は、その時に最も欲することをしていた。二、三十分して瞑想から醒めた私は、何の気負いもなく一番先に仕上げねばならない仕事に取り掛かっていた。切羽詰った時のそんな優先順位は後で分かることで、その時は直感だった。そうやって何年か、私は机の上で不規則な瞑想をした。そのうち部下も増え楽になったら、喉元過ぎれば熱さ忘れるで、私はあまり瞑想をしなくなった。それでも苦しい時の神頼みで、窮地に陥った時に瞑想をした。そしてストレスを拭い直感で解決策を得、私は活路を開いていた。でも、だんだんそんなこともなくなっていた。会費納入を止めたら自動的に退会するのがその組織の決まりだが、あの困難な状況を救ってもらったという意識があるから、会費は納め続けた。毎月、機関誌が届くが、封を切らず書棚に積み上げていた。そうやって、私は現役を退いた。

 そして、六十八才の時、私は家庭内の問題でストレスを抱えていた。こういう時こそ瞑想だと思い出して、目を瞑ってその言葉を念じるが、瞑想に入れない。それで、あれ以来初めてセンターを訪れ、チェッキングをしてもらって、私は再び瞑想の技術を習得した。簡単だった。私は、改めて口伝の微妙な技術だと知った。そして、日々規則的に実践しなければもったいないと痛感した。家の中の問題は、私がストレッサーだったから、すぐ解消した。
 国語辞典で「瞑想」を引くと、「目を閉じて静かにある物事を考えること」とあったが、私の瞑想は、そういうものではない。瞑想中は何も思わないし、考えない。意識を集中させると超越できないから、瞑想に入る時は心を空っぽにする。そう、私の瞑想は意識を現象界から絶対界(超越界)へ超越させるものである。私はこの瞑想の背景を知りたくなり、機関誌を読み、瞑想の書やインド思想の入門書を漁った。

 この瞑想方法は、マハリシというインド人聖者が、インド古来の瞑想を、純粋性を維持したまま現代人向けのシステマチックなものにし、世界に広めたものである。彼はこの瞑想の哲学を「存在の科学」としてまとめた。彼は毎年多数の教師を育て、各国にセンターを建てた。この五十年間で世界中で五百万人が瞑想を習った。能力開発の技術として、この瞑想に親しむは多い。ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、クリント・イーストウッドも瞑想者である。映画のデヴィッド・リンチ監督は基金を設け、世界中の荒廃した学校へこの瞑想導入を行い成功を収めている。
 この瞑想は、東洋の英知とされる、世界最古の聖典ヴェーダの伝統の瞑想である。リシ(真理を知る人)達が瞑想により天啓の書ヴェーダを産み出したということだ。
 最も古い仏典の一つであるスッタニパータ(岩波文庫「ブッダのことば」中村元訳)に、お釈迦さまが瞑想をされ、瞑想を勧められていたことが載っていた(七〇九頌他)。スッタニパータはパーリー語の韻を踏んだ詩篇だが、韻を踏んで訳すのは難しいので原文に忠実に訳した旨のことを、中村元先生が解説に書かれている。心に沁みる素朴な言葉は、まさにお釈迦さまじきじきの教えだと思う。お釈迦さまの時代はヴェーダが色濃く残っており、お釈迦さまは「ヴェーダの達人」とも称された(四七九頌他)。仏教はヴェーダの土壌で生まれたものだが、ウパニシャッドのブラフマン(宇宙原理)の権威を否定したお釈迦さまの教えはとても新鮮なものだったろう(第三大いなる章 10コーカリヤ)。でも、お釈迦さまは瞑想は踏襲された。

 インド学の世界的泰斗ゴンダは、わずかな間に仏教が人々の心を捕らえ広まったのはその「正しい瞑想」によるとして、お釈迦さまの瞑想を「正しい瞑想」と呼び、これこそが仏教の本質である、と喝破している(岩波文庫「インド思想史」p102)。また、彼は、「仏陀は、すべてのヨーガ行者達と同じく、悟性に基づく思惟を意識的に抑制した」と記している(p108)。知力ではなく瞑想で育んだ直感を大事にするということだ。
 しかし、仏教は、大乗仏教が生まれた西暦紀元の頃には、すでに瞑想を失っている。口伝の技術だから一代でも欠けると、復活できず、形をなぞったものになると、私は思う。
 一方、ヴェーダの導統は、ヒマラヤの山中で修行する歴代の聖者から弟子へ連綿と受け継がれ、合一(ヨーガ)修行の一つとして、瞑想の技術は純粋に伝えられた。
 七世紀に玄奘が中国へ伝えた経典では、お釈迦さまの瞑想は形骸化していた。
 私は、お釈迦さまが坐禅をされたとする解説書を奇異に思っていたが、漢訳経典では瞑想の境地の「三昧(サマーディ)」を「禅定」と訳す慣例があると知り、背景を理解した。瞑想=三昧=禅定=坐禅、なのだ。

 また、漢訳経典では、お釈迦さまの教えの「布施、戒律、忍耐、努力、三昧(×禅定)、智慧の完成(プラジニャー・パーラミタ)」の、「プラジニャー・パーラミタ」は訳すこと不能ということで、原語の響き「般若波羅蜜多」と表記するそうだ。私が思うに、布施を心がけ戒律を守り忍耐強く努力するのは意識して行うことであり、三昧の境地を楽しみ、知力を超越した直感力という智慧を完成するのは瞑想によることである。プラジニャー・パーラミタは原語の意味どおり「智慧の完成」と訳すべきである。
 私はこの瞑想で、図らずもお釈迦さまの仏教の本質に触れていたのだ。ありがたく思う。
(2012)




異郷の友


……赤い靴 はいてた 女の子 
異人さんに つれられて 行っちゃった……
 この頃、ふと、この歌が口に出る。
 二月も末になり、暖かい日など、どうやらこの冬をしのぐことが出来たと安堵する気持があって、このような童謡を口ずさむのだろう。
「歌詞にはふさわしいメロデーがある。それが愛される歌だ」という人がいたが、その通りだと思う。最近の若い人たちの流行の歌に、私はついていけない。連続テレビ小説の主題歌にしてもそうだ。歌いにくい、奇をてらったかのような歌は、すぐに消えて行く。
 この「赤い靴」はまさに、時を越え皆に愛される歌だ。幸薄い、身寄りのない女の子が、アメリカ人宣教師に救われるのである。ピカピカの赤い靴を履いて、旅の支度を終えた女の子である。
……横浜の はとばから、ふねに乗って、
異人さんに つれられて、行っちゃった……
 恵まれない境遇から抜け出せるとはいえ、故国を離れ、遠い異国に発つ。そんな悲しみが、この歌のメロデーにある。
 野口有情作詞、本居長世作曲である。
 私が赤い靴を口ずさむのは、たぶんに、幼い孫娘の面影を追ってのことである。彼女が健やかに育ってくれとの思いが、ふと、この歌を口に出すのだろう。
 近くに住んでいて、生まれた時から、妻と私がよく子守をしてきた。保育園に入り、近所に友だちが出来て、だんだん私たちから離れてゆく。どんなに愛おしくとも、毎日顔を見たくとも、親が居るし、私達は見守るだけだと、寂しさをこらえている。そんな気持がこの歌を口ずさませるのだろう。

 この頃、私は、ブラジルにいるT君のことよく思い出す。中学の同級の、大柄で骨太な男だった。私たちはその町の進学校に進んだ。T君は卒業後上京し、昼間家電販売店で働きながら夜学に通った。そして、学校を出るとインテリア工事会社に就職した。小さな会社だったが、急成長し従業員一五〇名ほどの規模になり、やがて三〇名ほどの子会社を作った。その後、彼は五〇才ぐらいでその子会社の社長を継いで業績を伸ばした。 
 私は、地方の工事現場を転々としていて、その頃東京の本社に転勤してきて、彼と再会した。昔と変わらぬ誠実な男だった。
 ある日、彼は離婚したと言った。同い年の奥さんだと聞いていたが、どんな人かは知らない。それこそ性格の不一致があったのだろうと想像した。彼は早婚だった。娘と息子が居て、順調に自立したようだった。彼に浮ついた話はなかった。
 何年かして、酒を酌み交わしながら、「女房が再婚した。ほっとした」と独り言のように言ったので、驚いたが、私は彼らしいと思った。詳しく聞いてはいけないことのようだったので、それまでにした。
 それから、間もなくして彼は大腸ガンを手術した。私も見舞った。彼は覚悟を決め、身辺整理を済ましていたようだった。会社の後継者を誰にするか悩んだと話していた。三〇センチほど直腸を切って、彼は無事復帰した。そして、その時に世話になった看護助手の人がブラジルの日本人一世で、というのは彼女が幼い頃に両親に連れられて移住したのだが、その人と親しくなって、デートしたと話していた。年が離れていたが二人は結婚した。
 そして、新婚旅行を兼ねてブラジルに帰った時に、サンパウロで奥さんが突然、ギランバレー症候群という病で倒れ、奥さんの兄弟に相談して、三百キロ離れた、住いの近くの病院に搬送した。三ヶ月入院し、奥さんは一命を取り留めたという波乱があった。
 やがてバブルがはじけ不景気が彼の商売に影を落とした。「仕事を受注しても、工事代金が回収できるかどうかが問題だ」と、営業の難しさを語っていた。そして、「おれの体に生命保険を掛けて銀行から金を借りた」と、話していた。
 とうとう彼の会社は倒産した。「突然、融資打ち切りと言われて、それでお終いだった。冷たいもんだ」と、彼は言った。
「おれは、従業員には規程通りの退職金を払った。それだけは弁護士に褒められた」と言った。確かに彼はそんな男だった。
 彼は奥さんと二人で賃貸アパートでひっそり暮らしていた。彼は昔取った杵柄で、内装の仕事のアルバイトをしていた。
 ある時、私は相談された。
「このまま日本で暮らしていたら、身寄りのいない女房がかわいそうだ。彼女の両親は亡くなったが、兄弟はブラジルにいる。それに、ビザのことがあって、彼女は一年おきにブラジルに帰らねばならない。思い切って向うで暮らそうかと思っている。しかし、迷っている」
「奥さんを大事にしたいのなら、向うへ行くしかないじゃないか」と、私は答えた。その時、ちょいちょい日本に帰ってくればいいじゃないかという気持ちが私にはあった。
そうやって、彼はブラジルに渡った。

 遠い異郷に渡った、T君と、赤い靴の女の子である。
 しかし、実際は、この赤い靴を履いた女の子は、アメリカに渡らなかった。出発時の検疫で引っかかって、日本に置き去りにされたという後日談があった。
 幼子なりに描いた明日の夢を打ち破られた無念、理不尽な運命の悲哀がこのメロディに隠されていたのだ。
 そして、詳しい事実を調べると次のとおりである。
 異父妹の三女が、昭和四八年に『私の姉は赤い靴の女の子』と新聞投書したのが発端で、事実経過の掘り起こしが始まった。
 この女の子は明治三五年生まれで、私生児だった。静岡出身の母に連れられ北海道に渡り、母は結婚した。夫婦は、当時社会主義運動の一環として注目された平民農場に入植したが、生活の厳しさに、母は三才のその娘の養育を義父に託した。
 そして、母親は、娘が宣教師に連れられてアメリカに渡ったと聞かされ、終生そう信じていた。それで、夫の同僚の、野口有情に娘のことを話したということだ。大正十一年にこの曲は発表された。
 三番、四番は、
……今では 青い目に なっちゃって 
異人さんの お国に いるんだろう。

赤い靴 見るたび 考える
異人さんに あうたび 考える……
であるが、四番の「考える」は、まさに母親の胸中だろう。

 娘は孤児院で、結核を病み、九才で亡くなっていた。
 そして、そのアメリカ人宣教師と女の子にはまったく接点がなかったようである。
 ここまで背景を知ると、義父の冷酷な嘘を信じ切った母親の哀れさが身に染みる。でも、彼女はそれでよかったのだ。まさに明治男の非情の情けであった。

 赤い靴の五番、未公表の草稿がある。
……生まれた 日本が 恋しくば
青い海眺めて いるんだろう
異人さんに たのんで 帰って来(こ)……
 最後の行は、私はリフレーンで歌っている。

さて、もう、八、九年になるが、新宿で開いたT君の歓送会に皆が集った。その時、「一年したら戻って来て、向うの様子を報告するよ」と言っていたT君だが、それから一度も帰ってこない。
 ブラジルからの旅費は、年金生活者の彼にとって大変なことだろう。まして、一時、自己破産してすべてを失った男だ。
 私たちは、年に何回かメールのやり取りをしている。彼は娘さんの乳ガンのことを案じていた。
 寄る年波、互いに医者にかかった。奥さんもひざが悪いそうだ。でも、元気そうで暮らしているのが何よりだ。
 これから秋も深まる遠い異郷の地で、彼はどんな望郷の歌を口ずさんでいるのだろう。

(2013)