伴走者
・・・・・・・・・・・・・・・・・・栗山惠久子





 パラリンピックの視覚障害者のランナーには、胸に、伴走と書かれたゼッケンをつけた人が必ず横を走っている。

 手にはお互いをつなぐリボンがしっかりと握られている。

 伴走者は、主役である選手のペースで走らなくてはならない。早くもなく、遅くもなく。ちょうどいい速さで。そしてベストの記録がでるように。その技量と心くばりには、感服するばかりだ。感動さえする。

 それは、多分、伴走者の姿に私自身の人生を映し出して見ているからだろう。



 私の長女は、知的障害とてんかんを併せ持って生まれてきた。

 幼少時は、てんかんの発作も多く、せめて、発作だけでも止まってくれたらどんなにいいか。知的障害だけだったら、どんなにいいだろうとさえ思っていた。

 発作が起きると、こどもの意識はどこか、遠くへ行ってしまって、もう、戻ってこないのではないかと不安でたまらなくなってしまったものだ。痙攣している姿をみているのも辛いけれど、「どんなふうに、体のどの場所から、発作が始まったか。どのくらい続いたか。どのような発作だったか」ということをよく観察するように医師に言われていて、次の診察の時に話さなくてはならない。つらい気持ちをぐっとこらえて、しっかり記録する。これは治療の手立てなのだから。すこしでも良くなって欲しいのだからと自分に言い聞かせ、くちびるをかみしめてメモをする。

 固かった体がやわらかくなり、失禁して、嘔吐する。そして、こどもがやっと、私のところへ戻ってくる。これが、何回繰り返されただろう。彼女が一四歳の時に、国立病院に入院して、薬を合わせ、それ以来、大きな発作が起きなくなった。
 本当に喜ばしいことである。三五歳になる今でも、毎日の服薬と定期的な検査は欠かせないが、毎日の生活になんらの支障もない。

 けれども、親は欲張りだ。あんなに、発作さえ起きなくなれば、どんなにいいだろうと思っていたのに、知的障害であることが、とても辛く苦しく思えてきた。

 親の欲張りのせいだけでなく、こどもが成長して体も大きくなり、社会へ出て行くようになると、学校という社会、世間というしがらみなどの外からのストレス。そして、思うように自分を表現できないもどかしさ、他人との距離がつかめず、うまく人間関係が築くことのできない辛さなどの、彼女の内面のストレス、そして、かずかずのこだわり、家庭内の問題などすべてが、彼女の生活に影響を及ぼし、パニックを引き起こし、気分障害をおこす、という、大変な状態になっていたのだ。こんがらがった糸のように、解決の道筋はつかめず、母親の私は、追い詰められていた。しかし、もっと、もっと、本人は辛かっただろう。パニックを起こすと、簡単には、止めることができない。彼女を家に一人残し、パニックがおさまり、静かになるまで、他のこども達を連れて外に出て、家の周囲をぐるぐる回っていたこともある。また、多動な彼女を連れて、一日中、多摩霊園、野川公園を走り回っていたこともある。極端な偏食。お弁当はツナサンドだけしか食べないし、夜もあまり寝ない、それなのに、どうして、こんなに、動けるのだろう?

 ご近所からの苦情、学校の先生からの苦情、夫の無理解。

 私の精神状態は限界に達して、ドアの外に出ることが怖くなり、人の目を見て話すことが出来なくなっていった。

 中学の担任は毎日午後二時きっかりになると、電話をかけてきた。

 今日はこんなに困ったことをしました。

 普通学級と併設しているのだから、迷惑をかけられると困ります。

 精神科へ行ってなんとかおとなしくさせてください。

 教室で、私が校庭を走ってきなさい、と言っても言うことを聞きません。

 もう、めんどうを見られませんのでこれから、S先生に車で送ってもらいます。もう、学校へ来なくていいです。精神病院に入院してください。卒業証書は出してあげます。

 卒業まで、一年以上。こどもにとって、一年間はとても長い。貴重な時間である。いくら、障害児だからといったって、義務教育なのに、教師が生徒を放り出すなんて。こどもにとっては、捨てられたという気持ちが残るだけ。

 主治医に相談し、教育委員会を訪ねた。私の出した結論はこうであった。

「市立中学をやめさせます」

 都立養護学校中等部へ転入し新しい学校での生活が始まった。新しい生活が始まる時はそれはまた、大騒ぎの大変さ。

 バスと電車を使っての通学である。初めのうちは、一緒につきそい、すこしずつ、一人で行く距離を延ばしていく。そして、一人で行かせる日がやってくる。一人でといっても、心配なので、見つからないように尾行する。はたからみたら、すごく滑稽だろうと思うが、こちらは必死である。なにしろ、字は読めない、お金の計算もわからないという娘が一人で電車に乗って行くのだから。このような体験を重ねることにより、少しずつできることが増えていき、失敗を重ねながらも成長していってくれた。



 養護学校高等部卒業後、五年間、民間企業に就労した後、今は、通所更正施設に通っている。

 信頼できる主治医にも恵まれ、理解ある先生に巡り会い水泳という趣味もできた。まだまだこだわりはたくさんあるが、私のほうも、対処法の引き出しが増え、お互いなんとか、暮らしていけるようになった。この間、離婚や、私の就職など数え切れないほどの困難に親子で立ち向かってきた。この子がいなかったら、私はずいぶん楽に生きることができただろうに、と思うこともある。こどもの世話に明け暮れ自分のことは、すっぽり、おいてけぼり。友には遥か遅れをとってしまった。今年六〇歳になるが、もう、一〇〇年も二〇〇年も生きて来たような気がするし、まだ、二四歳のままで、ストップしているような気もする。

 けれど、私はようやく、自分自身について、考える時間と心の余裕が持てるようになった。今からが、私の人生の始まり、ことし、臨床心理大学院に入学する。大学を出てから三七年たって、追いついたのだ。やっと。友に。



 でも、この頃、ふと、思うことがある。

 もしかしたら、彼女が私の人生の伴走者なのではないかと。





シックマザー症候群・・・・・・・・・・・・・・・・・・栗山惠久子


 ―シックマザー症候群―
 DSM―WにもIOC―10にも載っていない。私が作った病名だから。
 私がつけた私の病名。

 自分のことを言い表すのに、これほどぴったりとした病名はない。

 気が付いたのはいつだろう。
 小さい頃の心の思い出が何もなかった。
 うれしいことも、悲しいこともなかった。心の中は空っぽで、ただいつも喉の奥が抑えつけられるような感じがしていた。

 運動能力の発達が遅れていて、お座りも、歩きだすのも遅かった。小学生になってもボール投げすら、まともにできず不器用だった。
 昼休みのドッジボールにも、ゴムダンにも入れてもらえず、教室に一人残って過ごしていた。だってくりやまさんが入ると、負けちゃうから。
 クラスメイトの楽しそうな歓声が、運動場から聞こえてくる。楽しそうに遊んでいるようすを、皆に見つからないように、ほんの少し、白い無地のカーテン越しに見る。ごわごわした木綿のカーテンを元に戻してから、そっと教室を抜け出す。
 一人で教室に残っていてはいけないような気がして。悪いことをしているわけではないのに。なんだかいつも「まともでない」感覚におびえていた。
 階段を下りたり上がったりして、古びた木造校舎をぐるぐる回り、行く先は図書室。友達はたくさんの本だった。
 ジャン・コクトーの詩に出会ったのは、十歳くらいのころだっただろうか。


   シャボン玉の中に、庭は入れません。
   まわりをくるくるまわっています。


 あ、
 私のことだ。
 空から光が、さあっと降り注ぐように、一編の詩がキラキラと私の心に入り込んだ。私はいつもシャボン玉の中に一人で生きた。シャボン玉のきらきら輝く膜の外で、世界は回っていた。それは決して私のいる世界には入ってこない。いや、外の世界を自分の中に入れることができなかったのか。
 何もしゃべらず、友達と遊ぶこともなく、ひとりで黙って、静かに過ごしていたあのころ。
「ここでまっていなさいよ」と母親に言われると、何時間でも同じところにじっと立っていた。さびしいとも思わず、苦しいとも思わず。母には「おとなしくて手のかからない子だ」と言われていたが、喉の奥に大きな塊があって、私を強く押し付けていた。
 世話がかからないものだから、母親の買い物や芝居見物に連れていかれ、小学校に入る前には、いっぱしの歌舞伎通になっていた。父親の外出の口実に使われ、新宿に出て来たところで、歌舞伎町の映画館に置き去りに、夜父が迎えに来るまで、独りぼっちで過ごした。兄や姉は出かけるときに、「えく」を連れて行くからといって外出した。年の離れた小さな妹を連れて出かけることで、母親の信用を得、お小遣いがもらえたのだろう。おかげで、幼稚園の頃には、映画通にも音楽通にもなっていた。

 外の世界は相変わらず、シャボン玉の外で回り続け、息苦しく、生きづらいまま、大きくなった。中学、高校生になると、少しは友達ができたが、自分から話しかけることができなかった。話しかけようとすると、外の世界から厚くて頑丈な壁が押し付けてくる。勇気を振り紋って声を出そうと思っても、喉の奥に熱がたまり、声がかすれてうまく出せない。家でも、特に母親に話しかけることができなかった。やっとの思いで、「教科書を買うから、お金をください」といえるようになるまでに、数日を必要とし、喉の奥が圧迫されて、呼吸が苦しくなるほどだった。
 私と外の世界をふさぐ壁は厚くて大きくなっていた。

 心理学を専攻する大学生になったとき、それまで聞いたことのない症例について出あった。四十数年前の日本では、まだなじみのない障害であった。
「小児自閉症」
 自閉症は関係性、コミュニケーション、想像の三つ組みの障害で、当時は親の育て方に原因があるといわれていた。
 私は自閉症という不恩義な障害に夢中になった。当時、自閉症は知的に遅れのある子供についての障害だと思われていた。自分ととても近い世界だと思ったが、私は大学に入学できる知的能力があったし、青年期になっていた。

 不器用な生き方をしながらも、私は二十四歳で母親になった。恋愛も、妊娠も、出産もうまくできないままに、母親になってしまった。人間の生き方の方法というものが、具体的にわからない。周りの女性たちが自然に身に着けてきたのであろう処世術が、私には何も身についていなかった。
 私は自分は幸せになってはいけないような気がしていた。人間として、女性として、母親として半端であるような気がしていたのだ。
 幸せな人生を歩むために、人々がする努力というものをしなかったし、方法がわからなかった。就職活動、結婚するための努力、出産準備、子育てなど、幸せな人生を築いていくために、女性たちは当たり前に努力をしていた。
 私はといえば、努力する以前に苦手なことが多すぎて苦しんでいた。
 卒業式も成人式も結婚式も凡そ、式と名のつくものすべて、祝賀会、謝恩会、同窓会、飲み会、女子会、お茶会、食事会とか会という集まりすべて。
 そして一番苦手なのが、何気ないおしゃべり、井戸端会議といわれる奥様達のおしゃべり。

 劣等感だらけで、生きていていいのか悪いのかさえわからないような私が、母親になってしまった。もしかしてこれは大きな罪なのではないか。
 母親になって以来、ずっと感じている罪の感覚。

 それなのに、私は4人の娘の母親になってしまった。
 特に長女は障害を持ち育てにくかった。出産時の酸欠が原因であろうと、自分を責めた。私のせいだ。私が人間としてあまりにも欠陥だらけだから。金銭感覚もなく計画性もなく、家族を持ってしまったから。生きるという意識、人間であるという意識があまりにも薄すぎて、人間なら皆うまくできていることが、私は何もうまくできない。

 子供はうまく育たない。パニックばかり起こしている。わあわあ叫んでいる。ご飯は食べない。夜は寝ない。よその子のおもちゃを壊す。よそのうちに勝手に入る。
 検診ではお宅のお子さんは障害児ですと告知され、幼稚園や学校の先生には、親の努力が足りないといわれ、母親として何をしているんですか。もっと頑張りなさい。あなたががんばらなくてどうするんですか、と世界中が私に向かって攻めてくるような気がし始めた。玄関のドアの外が怖くなり、外へ出るのが恐怖となった。学校の先生やPTAのお母さんたちから苦情が相次ぎ、電話の音にもびくびくするようになった。私一人の子供ではないのに、私一人で解決しなければならなかった。
「こんなうちに帰って来たくない」と言い放ち、「自分の家系には障害児は一人もいない」と私を非難する夫の言葉の暴力は日に日に酷くなり、とうとう私は壊れた。
 空は毎日灰色で、春も秋も、色もない。
 私は無価値な人間だ。ごめんなさい。子供たち。私がお母さんで本当にごめんなさい。自分の母親にも相談できず、一人ですべて抱え込んでいた私は、鬱病になった。強迫神経症、不安症、抜毛症。ああもうだめだ。深い深い穴の底に落ち込んで、光がひと筋もささない世界。恐ろしいほど暗い海の底。
 精神科に通院しながら、長女の世話をし、相変わらずの夫と学校からの非難を受けながら、壊れたままで、下の三人の娘をどうやって育てていたのだろう。暗い目をして、強迫的な不安に取りつかれた母親を持った娘たちに、私は負い目を感じている。

 私なりに良かれと思ってしてきたこと、頑張って、頑張って、人一倍頑張って、手探りでこどもを育ててきたこと。誰にも頼れなかったこと。カウンセリングセンターで一気に吐き出した私に向かって、「あなたはとても危険な状態だ。」と精神科医に指摘されたあの日が、私の新しい人生の始まりだった。医師は続けた。「今すぐその場を離れなさい。今晩そこで寝たくないと思う場所からは、離れるように」
 あれからもう二十年近くたつ。相変わらず、精神科とは縁が切れない。薬物療法、カウンセリング、グループ療法などで、私は「生き方」「心の在り方」「子供との距離の取り方」という、人間としての基本を一から学んだ。空っぽでスポンジのような私の脳の中に、新しく学ぶ言葉はぐんぐんと吸収され、満たされる気持ちよさを、生まれて初めて実感した。
 離婚も成立し、介護職として働き、六十歳の時に、アメリカの臨床心理大学院の東京サテライト校に入学した。
 アメリカの自閉症スペクトラムの研究は、この十数年間で目覚ましく発展していた。知的に遅れがない自閉症、アスペルガー症候群についての文献を読んだとき、宇宙という大きなジグゾーパズルの、どうしても探しても見つからなかった一片が、みつかり、カチッと音を立ててパズルが完成した。

 見つかった。
 やっと自分が見つかった。私の生きづらさの理由がわかった。

 それからたくさんの文献や書物を読んだが、なかなか成人女性のアスペルガー症候群についての研究は見つからなかった。アスペルガー症候群の女性は存在するはずなのに、彼女たちはいったいどこに隠れているのだろう。鬱病や統合失調症として、精神科に入院しているかも知れない。ママ友とうまく付き合えず、いじめにあっているかもしれない。
 そんな思いが私を突き動かし、自分で研究を始めることにした。修士論文は「自閉症スペクトラムを持つ成人女性の生きづらさ―包括的支援の必要性について―」
 四十歳から人生をやり直し、六十歳から学び始めた。私の研究はまだまだ続く。もっとたくさん論文を書き上げたいと障害学会に入った。
 人間は完全な生き物ではない。気が付いたその時から、新しいスタートを始めることができる。長い長いトンネルを抜けた今、まぶしいほどに成人した娘たちを正面から見ることができるようになつた自分を、うれしく思う。



ももこの世界・・・・・・・・・・・・・・・・・・栗山惠久子


「おかあさん、きょうね、のぐちさんとあかいバットであそんだの。」

ただいまあと、私が勝手口で靴を脱ぐ、ほんのわずかな時間さえも待ちきれず、ももこは今日一日の出来事を話し始める。

ももこが、あゆみえんから家に帰ってくるのが、午後5時少し前。私の帰宅が、ほぼ午後6時。

この一時間くらいの間、おやつを食べたり、紅茶を飲んだりしながら、母親の帰宅を待っている。その一時間ばかりの間に、ももこの今日一日の「話したいこと」が心の中で、風船のように、むくむくと膨らんでしまう。

帰りのバスに乗る前に見た、かわいいこどものこと、道端に咲くきれいな花のこと、新しく来たやさしい職員のことなど。

今日一日で体験した、伝えたいこと、感じたことが山のようにたくさんある。

母親がドアを開けるやいなや、心の中でぱちんと風船がはじけ、きれいな色のシャボン玉が、思いの数だけ勢いよく飛び出して来る。虹色のしゃぼんの膜に、鮮やかな情景が、ぐるぐる回りながら、夕暮れの室内を満たし始める。

ゆっくり腰を据えて話を聞いてやればいいものを、私は手洗いもそこそこに、晩御飯を並べ始める。夕方は、いつもあわただしく、すまないなあと思うのだが、これも、「夕ご飯は午後6時」というももこのこだわりのためなのだから仕方がない。

 

「のぐちさん、やきゅうがすごくじょうずなんだよ。おしたてこうえんでね、はしったの。のぐちさん、はしるのすごくはやいんだよ。」

すらすらと出てこない言葉に、時々つまりながら、力を込めて話し続ける。あんまり、力を入れて話すものだから、顔は赤くなり、目をかっとみひらくので、にらんでいるようなこわい顔になる。

まるで、桃太郎さんだ。

ふわふわと雲が湧いてくるかのように、部屋を満たし始めた押立公園の情景が、かたい殻の隙間を縫って、私の心の中にも写りはじめた。

 

暖かい春の昼下がり、桜吹雪の中で楽しそうに赤いバットを振るももこの姿が見える。

 

ボールを投げるのはのぐちさんだ。

赤や黄色のチューリップが、春の歌をうたう合唱団の少女たちのように揺れている。ももこの打ったボールを追いかけて走るのぐちさん。飛び跳ねるように走るのぐちさんを見て笑い転げるももこの顔は、ほんとうにうれしそうだ。

ああ、楽しいってこういうことなんだな。

私もつられて、思わず笑顔になる。そして、今まで経験したことがないほど楽しい気持ちになった。

そして気がついた

ももこの世界に、こんなにも、近づいたことは初めてではないだろうか。今まで、ももこの世界の中で、私が幸せになったことはなかったのではないだろうか。

障害のある娘を育て、一緒に生きてきたこの40年間。苦労ばかりの人生だったと思っていた。

しかし、苦労ばかりと思っていたのは、私の世界での私の人生であったのだろう。

ももこにはももこの世界があって、彼女はその世界で幸せに生きていた。もちろん、障害者としてこの社会で生きていくことは、並大抵のことではないが、少なくとも、今日のももこは幸せな時間を過ごしたのだ。

そして、その幸せを私も感じることができた。

身長160センチの、ぽっちゃりした大人の女性と、やせっぽっちで、にぎやかにしゃべり続けながら走り回る大人の男性、少し風変わりな二人の大人が、きゃあきゃあと声を上げて、笑い転げ、野球をしている。

野球のルールは分からないふたりだけど、自己流なりに、ボールのやり取りをしながら、楽しい時間が流れていく。

なんて素敵な午後だろう。

押立公園を取り巻く町はなんて素敵なんだろう。

そしてこの町で暮らしているということは、なんて幸せなんだろうと胸がいっぱいになった。

その夜、十一時から翌朝の六時まで、私はぐっすりと眠った。ももこが誕生してから、初めて熟睡をした。深く深く夜の闇に包まれて、眠ることがこんなにも甘美で、気持ちがいいものだと初めて知った。

癲癇の発作が頻繁に起きていたとき。

パニックを起こして叫びまわっていたとき。

小学校に入学したとき。

学校や近隣からの苦情におびえていたとき。

障害者枠で就職したとき。

会社に通えなくなり、ベッドから起き上がれなくなったとき。

会社を辞めてあゆみえんに通うようになったとき。

躁状態が現れるようになり、家じゅうが大混乱に陥るようになったとき。

私は、いつもいつも、ももこの様子が心配で眠ることができなかったし、実際、起こされることが多かった。

眠ることは死につながるもののように思え、明日また、新しい朝を迎えられるのだろうか、明日も生きることができるのだろうかと、不安な心をなだめながら布団に入っていた。

寝ていても、少しの物音でびくっとして目が覚めてしまい、二,三時間ごとに時計を見ていた。

浅い眠りと浅い世界観。それが私の世界だった。自分の世界から、ももこを見ていたために、私の生き方を制限し、私の生活を壊す存在としてしか、ももこを見ることができなかった。

人間は、しょせん、だれもが自分の主観の中で生きているのだからといってしまえば仕方がないが、ももこの世界の大きさや豊かさが、私には見えていなかったことは事実なのだ。見ているつもりでいたが、私の見ていたももこの世界は、私という屈折した人間のプリズムを通して見えていた光に過ぎなかった。

透きとおった眼でみるももこの世界は、私の世界の何倍も広く温かかった。

昨年の晩秋の躁転から、桜が舞い散るこの春までの長きにわたったももこの躁状態は、私を憔悴させ、混乱させた。今までで一番激しい躁の嵐だった。

眠ることができず、早朝から起きだし、起きている間中続く、大きな怒鳴り声。時に偉そうに、時に命令口調に。あまりに大声で話し続けるものだから、声は枯れて割れてしまう。

ほしいものがあると、手に入るまで、騒ぎ立て、根負けした私は、冬の夜に、パジャマの上にダウンコートを着て、自転車を飛ばして買い物に出かける。

怒らせないように、感情を爆発させないように、刺激をなるべく減らそうと、物の置き場所、食事のメニュー、お気に入りの靴下などこだわりのポイントを万全に整える。なんでこんなに、私が仕えなくてはならないのか、なんでこんなに気を使わなくてはならないのか、理不尽だと腹が立つ。

しかし、どれほどの努力をしようと、ももこのスイッチは入ってしまう。スイッチがひとたび入ってしまおうものなら、からみつくような激しい怒りを、私にぶつけてくる。

私の行動に対して怒っているのではなく、病気のせいだとわかっていても、大きな感情の塊をぶつけられては、いくら母親でもへこんでしまう。

陸地も見えず、光も刺さない真っ黒な大海原の真ん中で、大きな波のうねりに翻弄され、木端微塵に砕け散った小舟のように、なすすべもなく絶望にうちひしがれていた。

私も苦しかったが、当の本人は、もっともっと苦しかっただろう。荒れ狂う精神の嵐に巻き込まれ、自分では、どうしようもできなかったのだろう。ももこの嵐が、私に襲い掛かり、私の魂の叫びがももこを混乱させてひときわ大きな嵐になっていたのだろう。

嵐の後の静けさの今、心穏やかに、ももこの世界で遊んでみた。遊ぶことが苦手な私が、心を遊ばせて、揺蕩ってみた。

明日はどうなるのかわからない。穏やかな一日であればいいと思うが、躁転のきっかけになるスイッチはどこに隠れているか、だれも知らない。わかっているのは、今日は、穏やかで、楽しい一日であったということだ。

(2013)