ボランティアとしての架け橋・・・・・・・・・・・・・・・・・・倉田さくら



*ピーターパン

 わたしは十一年前夫の転勤地会津若松市にいた。
 東京でのサークルで一緒だった友だちが最近第二の人生に旦那さんと会津へ農業とカフェのため移住した。その友だち伊藤さんからある日メールが届いた。
「山ちゃんが会津で蒔いた種が大きな障がい者施設となったんだってよ。山ちゃんはどこにいっても短時間のうちに地域にとけ込み何か事業を起こすんだからねえ、すごいよね。東京の育児サークルもそうだったでしょう?」と書いてあった。まもなくして当時ボランティアを一緒にやっていて今はキッチンモモというお弁当作りの障がい者事業所の所長をしている友だち皆川さんから資料が届けられた。
 中を見ると当時はピーターパンといって障がいがあってもなくても一緒に働ける小さなパン工房だったのが、社会福祉法人心愛会となり就労移行支援事業パン作り、豆腐作り、就労継続支援事業分子模型づくり、さらに生活介護事業、重症心身障がい児通園事業などを行う通称コパンとなっていた。写真が添えられそれは立派な施設だった。そして皆川さんから「山崎さんとトマト作りからはじめたのがこんな大きな施設になったのよ。当時の新聞配達青年蟻波君は二児のパパ、パンのりっぱな工場長だよ」と添えてあった。
 十五年前私が会津にいたとき、ある新聞記事に目がとまった。
「障がいがあってもなくても一緒に働ける場所を作りましょう」静岡で施設職員をしていた若者三人が会津にきてトマト作りをしながら作業所設立にむけて運動していたのだった。
 わたしは「これだ、わたしがしたかったのは」とおもい自転車を事務所に走らせた。そこには若者三人と障がい者二人、養護学校へ子供を通わせている親御さんがたくさんいた。この会を雑草の会と言った。会長の若者の穴沢さんから「パン工房を目指して今はトマト作り、ポプリの小物作っています。山崎さんも手伝ってもらえませんか?」といわれた。わたしはすぐに同意した。若者のうち会長の穴沢さんと蟻波さんは男で、朝は新聞配達、夜はパチンコ屋で働いていた。女の田島さんは朝夕と旅館で働いていた。養護学校へ子供を通わせている親御さんたちは一生懸命市民から募金をつのった。雑草の会の役員には車いすの千代さんもいた。皆川さんも当初から役員になっていた。
 無添加のパン工房を目指していたが誰もパンを作ったことがない。わたしはまず東京の育児サークルで一緒だった冒頭の伊藤さんが自然食品の店をしていたので、そこから無添加パンを取り寄せ試食会をした。そして家で本を見ながら天然酵母と国産小麦粉をとりよせ何日もパン作りに没頭した。
 市民から二百万円募金が集まった。市も助成金を出してくれた。そして一年後穴沢さんの家の横にパン工房ピーターパンが誕生した。当時はまだ養護学校の卒業生はでてなかったので、口コミで在宅の障がい者が集まってきた。中途障がい者の五十代の中村さん、脳性マヒの三十代の清水君、四十代の精神障がい者の原さん、知的障がい者の五十代の伊藤おばさん、事務は交通事故で車いすになった三十代の二併さん、シール貼りの二十代のちかちゃんがいた。
 パンには会津の人には天然酵母はあわないのではと生イースト使用、福島産国産小麦使用の物にした。蟻波君が郡山までパン作りの修業にかよった。開所時にはあんパン、クリームパン、食パン、バターロール、ヘルシーカレーパン、卵パン、ジャムパンなど作れるようになっていた。ジャムパンのリンゴジャムとカレーパンのカレールーはボランティアの人たちがつくった。
「わあ、できた。温かなパンが」障がいのある人もない人もみんなで歓声を上げた。
 開店日にはパン工房の前に大勢のお客さんが集まった。マスコミもきていた。
 注文は電話やファックスで受け付け、スタッフが車で運んだ。そのうちに養護学校へ子供を預けていて不動産の仕事をしているお母さんが、街中に使ってない医院があるからそこを販売店にしたらと話を持ちかけてきた。玄関で靴を脱いであがる待合室が販売所、裏の診察室が雑草の会の集まる場所になった。養護学校の子供らのためにもっともっと次々と作業所を作っていかねばならなかった。啓蒙活動、資金集めのために会合がもたれた。わたしは啓蒙活動の長として、又ピーターパンの運営委員長として働かせてもらった。
 販売所はボランティアの手によって内装がつくられた。レジには二十代の精神障がいのよしこさんが立った。十一時にはピーターパンから温かなパンが販売所に届けられた。お客さんが靴を脱いで上がって買いにきてくれた。残ったパンはピーターパン専用車に乗せて市役所、学校などへ配り歩いた。我が子の先生たちも喜んで買ってくれた。


*障がい者との出会い

 話はさかのぼりましょう。
 私は障がい児、障がい者に興味を持ったのは中学生の時です。子供の頃、長野県伊那市高遠町に住んでいて、中学二年の時、社会科見学で諏訪に行った。そこで諏訪養護学校の車いす集団に出くわしたのでした。普段目にしない風景に驚いた。その時の感動というか思いを弁論大会で語ったのだった。当時は養護学校というものができて地域から障がい児が消えた。高校は進学校に進み、医学部に行きたかったが、国立に入るには頭が足らない。薬学部をと言う母の意見をけって農学部畜産科にした。そして杜の都仙台東北大に入学した。
 そこでまた障がい児者、福祉を学ぶ東北福祉大生に会うのだった。東北大生と東北福祉大生とで作っていたセツルメントという地域で子供や老人と語り遊ぶサークルに入った。
 福祉大生からはいろいろな福祉のこと障がいのことを教わった。
 畜産の勉強も牧場実習など楽しかった。将来どの方向に進むかについて悩み、教授に相談した。「そんなに福祉の仕事に就きたいのならとりあえず四年は畜産を勉強して卒業後のそういうことが勉強できる道を選ばれたら」と助言があった。四年制大学卒業生を受け入れ福祉の勉強ができ資格がとれる、国立の秩父学園が埼玉にあった。そこに行こうと思った。
 福祉大生の友だちが施設実習してきたときの障がい児が書いた握りこぶしの詩というのをいただいた。文字板に、にぎりこぶしで押した文字を友だちが字にしてくれたのだった。

 もしも この手が自由に動いたら お母さんと一緒にお料理します
 もしも この足が自由に動いたら お父さんと自転車に乗ります
 もしも この口が自由に動いたら お姉さんとおしゃべりします
 もしもの思いを込めて 文字にたくします

 私は早速アコーデオンでこの詩に曲を作ってあげた。
 また福祉大の先輩が勤めていた重度障がい児施設、埼玉にあったが、泊りがけで見学させてもらった。そこは病院と隣接しており、本当に重い障がい児だった。ベッドの三分の一が頭の水痘症の子、車いすにくくられてる子。立って歩ける子供はいなかった。この時の感動、驚きは脳裏に焼き付いて忘れられない。
 生きているのか生かされているのか、いや僕らだって生きてる人間なんだ。と思わせてくれた。私はこの子らのためにいきたいと思った。