老鶯のうた・・・・・・・・・・・・・・・・・・熊谷和代



 子供のころ、私の家の中の壁にはいたるところに張り紙があった。ローマ字で、中国語と他の国々の言葉の音韻を比較したものである。家の表口にはOO言語研究所という看板まで出し、子供には何か奇異に思えて恥ずかしかった。家での父は寝ているか、机に向かっているかである。寡黙でめったに子供を叱らなかったが、怖い存在でもあった。一介の中学の英語教員である。仲の良かった叔母は私の知らない父について話してくれた。スポーツ好きで、三段跳びや棒高跳びが得意、東京の学生時代には荒川を泳いで渡っていたことや、あちこちの大学に何度も入りなおし、優雅な学生生活を送っていたことなど。溌剌とした饒舌な父がガラリと変わったのは、あの戦争のあとだと叔母は語った。
 大学を卒業し「皇国のために尽くしたい」思いで、中国語の教員として満州・旅順に渡る。かの地の人々とも家族ぐるみの付き合いをした。馬車の叔父さんには中国人と間違われたこともあったとか。
 昭和十七年頃には内地転勤となり、東京のある学校の中国語教官となる。それは、戦後市川雷蔵主演の映画にもなった、あの「陸軍中野学校」であった。父の知られざる過去を知り、驚いたものである。終戦の残務処理を終えて疎開先に帰ってきたのは、戦後しばらく経ってからであった。縞のシャツを着たその日の疲れきった姿が記憶にある。このようなところに勤めたことも戦後の父の生き方を決定づけた要因のひとつとなったのだろう。
 当然中国とは国交断絶。中国語もいらなくなる。それからの父は長い間仕事もせずに家にいた。業をにやした母が病気の弟を病院に連れて行かないというストライキをおこしたこともあった。「皇国のために」と疑いもなく歩んできた自分、自らの国でもない満州に出かけて行き、かの地の人々を苦しめたこと、様々な思いが渦巻く日々であったに違いない。子供の私は知る由もなかったが、こんなことがあった。
 国民学校最後の一年生であった昭和二十一年、私が学校帰りに、ジープから降りてきたアメリカ兵に出くわした。ガムを噛みながら大股で歩く姿は怖くて足がすくんだ。ほうほうの体で逃げ帰った私に、父は「アメリカ人なんか何も怖くないぞ、日本人の方がよっぽど怖いぞ」と言ったのだ。子供の私にその意味が分かるよしもなかったが、強烈な言葉として私の中に残った。いつのまにか自分も含め、戦争に突入していった日本人の恐ろしさを噛み締めていたのだろう。
 NHKで『遥かなる絆をもとめて』という中国残留孤児のドラマがあった。『大地の子』にしても、まかり間違えば私も同じ運命を辿ることになったかも知れないのだ。その臨場感は胸に迫った。憎き敵の子供を「子供には罪はない」と、かくも可愛がり、大事に育ててくれた人々の国と、何ゆえ戦争をしなければならなかったのか。「彼らと戦争したのは間違っていたー!」後年父は絞り出すように言ったことがある。
 新制学校発足とともにようやく父は地元の中学校の英語教員となり、自転車で通勤する姿を見るのは子供心にも嬉しかった。しかし、不器用な父は、時代は変わったのだからと生きられる人ではない。戦地にも行っていない、戦死した多くの友人にすまない、こんな思いも抱えての戦後の出発であった。以来選挙で投票する人はいつもビリの人だったようだ。一体どんな人に投票しているのだろう? そのころの私の疑問であった。今だから分かる父の変心ぶり。
 もともとどの外国語より好きだった中国語の研究は続けていたようだが、私たち子供が大きくなるにつれて、清貧に甘んじ、地位や名誉など眼中にないかのようなその生き方は、物足りなかった。「昔のお父さん、どうしたの」と言いたかった。研究は単なる趣味に思えたから。いつも机に向かっている父を見ていた妹は「あんな勉強ばかりする人とは絶対結婚しない」と思い、弟は弟で「お金がなくてどうする。自分は絶対ああならないぞ」と誓っていた。将来誰も教員を目指す子供はいなかった。
「お金がなくて悩むようでは人間ではない」と霞でも食べて生きていたかのような父。この父が一時パチンコに凝った。娯楽などにあまり縁のない父だったが、町でも評判になっていたらしい。そんなある日、とうとう生活費まで摩ってしまった。末の弟を身ごもっていた母は朝から布団を被って寝込んでいた。なんとも目に焼きついた光景! 父も自分を持て余していたのだろう。しかし今となっては、ナマの父を知るエピソードで、思い出すたびに私の顔はほころぶ。母亡きあと、末の弟が「大学を途中でやめたい」と言った時には「自分の道は自分で切り開くしかないんだぞ!」と電話で一喝、思いとどまらせた。
「勉強ばかりする人」を嫌った妹は、海外を飛び回るエンジニアと結婚し、「金がなくてどうする」と言った弟は高度経済成長期に猛烈社員として働き、退職後は経営コンサルタントになった。亡き人もさぞや驚いていることだろう。研究の成果を一冊の本に残し、母への冥土の土産が出来たと父は七十代半ばで逝った。
 没後二十年。人生とはふしぎなもの。はからずも教員の妻となっていた私の夫の定年退職まぎわに、中国行きの話が降って湧いたようにあった。何という運命のめぐり合わせ!「専門ではないし……」と躊躇する夫の背中を私は一押しした。
 二OO五年初夏、一年間の中国滞在を前に出発準備におおわらわのころ、裏山で響きわたっていた一羽の老鶯の囀る声が、いたく私の心に沁みたのだった。
(2010)




1940年 宮崎県生まれ OL生活のあと結婚。主婦。
中国とドイツでの生活体験。 
著書 『今も新しい漱石の女性観』(2007年、日本文学館)
徳島ペンクラブ会員。