精神医学について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小島 史



 心を病む、ということは、躰の病に比較でき得ない。何故なら、心を病む人は、本人が罹りたくなくても、心が綺麗で、ストレスに弱くて、環境要因等々の条件さえ揃えば、必然的に罹患するからだ。

 精神医学は、心の病を治療するのが最優先の目的の医学のカテゴリーである。その多くは、対処療法としての薬物療法が主である。
 しかし、薬物療法だけで、人間の心が楽になる筈もない。家族の悩みを一人で抱えて、それでも前向きに生きている患者にとっては、寛解状態は保てても、家族から来るストレスに、常に、苦悶している。

 ここで断っておくが、精神科医という職業に従事している医師は、患者の目を見て、一瞬にして患者を見抜けるようにならないと、一人前として認められない、のが私見である。
 つまり、精神科医には、即座に精神分析でき得る眼力が必要、という訳だ。患者の目から跳ね返ってくる内面像を診ることを、「投影を診る」という具合に解釈する。この「投影」が、精神科の治療では、最も治療に役立つのである。患者の目を見ないで、あるいは、投影を診ないで診察する医師は、医師として失格者として見做されても否認はでき得ない。そのことによって、患者の調子が悪くなる場合が、多々、生じてしまうからだ。結果的に、「投影」は、精神医学の臨床において要(かなめ)なのである。

 尚、精神科の診療には、医師と患者の相互作用Interactionが欠かせない。患者が話さないからと云って、医師が一方的に喋っても、患者の心は診得ないし、精神分析どころでもない。
 医師の言動で、患者が切り刻まれる程、傷付くことも頻繁に起こる。医師が、患者に自分自身のことを吐き出させるよう、医師には、「傾聴」という作業が要求される。医師が、「傾聴」すれば、大体の患者は気分が晴れるものである。こういう見地から、3分間診療など、到底、治癒に至るのは、無理な診療体制であろう。少しでも多く患者のために、診療時間内に、医師が時間を使うのは当然のことである。

 とかく、精神科医にとっては、経験がなによりも医師としての優劣を決定づける。故に、若手の精神科医には、まだ経験が浅く、自信が備わっていないので、“藪医者”とでも文句を付けようものなら、憤慨するのが常である。
 しかしながら、どんなに若輩の精神科医でも、患者の心に癒しを投ずるような、そんな診療をしなければ医師になった意味がない。
 診察室で、冗談を云って患者を笑わせられる医師は、好感を持たれ、治療も進展するだろう。

 よく、精神科医は詩人でなくてはならない、という解釈をする人間がいるが、それは現場の医師の多忙さに疎い人間の発言である。ある程度常識の範囲内で決められた時間の中で、患者の心に、快さを取り戻すことが医師に求められる。その為には、飴と鞭を上手く使い分けなければ、患者の心のバランスが崩れてしまう。
 しかし、精神科医は、真の教育者ではない。
 学校で教えることについては、専門の教育の先生に任せ、精神科医は、主に、傾聴を心がけるべきだ。そして、患者の頭を押さえつけるような言動をしては、患者が可哀そうなので、控えるのが筋道だろう。
 教育には教育の専門家が、精神科医には、教育ではなく、患者の心を開いて、自由な状態にして、社会に羽ばたかせる専門性が必要である。

 であるから、精神科医は、教育を受け持つのではなく、教育機関に患者を戻すことも、一つの選択肢として持っていることが重要なことだ。
 つまり、精神医学における最重要点は、患者を、精神科の中の日常生活という状況から脱しさせて、日常生活の中の精神科という、極めて健康的な状態まで治癒させることにある。このことを、すべての精神科医が認識すれば、精神病院の数もイタリア並みに、激減するだろうし、患者の治りも早くなることは、否めない事実なのである。
 但し、診察においては、患者が主体で、医師が客体である。そして、主体なくして客体はなく、客体なくして主体はない。つまり、患者なくして医師は存在せず、医師なくして患者は在ることはでき得ない。その上、診察で生じる両者の間には、第三の何らかの主体、あるいは客体が浮かび上がる。その第三の主体・客体が、患者と医師の信頼関係を築き、治癒のための解決策を講じることとなる。

 付して断れば、この第三の主体・客体は、患者の治癒に欠かせない最善の患者の努力、勤勉さに関わってくる。医師だけの尽力では、非力過ぎる。それ故に、患者の望む治癒法、つまり、例を挙げれば、教育という治療法が有効になる場合があり得るのである。

 その類として、大学教育という、広くて深いキャパシティを持った現場に患者が置かれれば治癒するということに対する見解の相違を、一般社会に見出さざるを得ない。何故なら、真に勉強好きで、大学進学を心待ちに志にして勉強している患者は、稀有だからだ。大半の大学を目指す患者は、唯、学歴を披歴したいがために進学し、挫折して中退するか、あるいは、留年をして病気を長期化させるに終わる。

 特例として、病気が治癒するのは、医師の感情転移という、医師の患者への恋心が悪質になった瀕死の状況に置かれた患者が、大学に避難した場合が、一例、症例として報告でき得る。
 この例において、患者に、ぞっこん惚れ込んだ医師が、患者に処方するのは、束縛と抑圧である。男性である医師はオオカミになり、患者を我が物にするため手練手管を使って患者を自分の手に囲い、患者は、苦渋の色を浮かべる。
 患者の能力より医師の能力が劣る場合、患者は、この稚拙な医師を如何、扱っていいのか判断に迷う。が、ステータスは、医師の方が上位なので、患者は、なかなか医師に逆らえない。どうしても、患者は、医師に対して、自己の内面を打ち明けられない防御の姿勢をとる。
 最悪の事態になると、患者が極限状態に置かれ、眠れないほど、自分の担当の医師に地獄より辛い状態にされ、「助けて!」と、喚くしか道がなくなる。家族も知人も、医師より患者を疑い、医師が治せないのではなく、患者が暴れている、としか解釈しなくなるからだ。
 こうなると、患者は、生きた心地など到底しない。見ている家族も辛苦を味わうので、患者を責める。患者は、医師と家族の叱責ばかり受け、自分の正当性を主張できない。経口投与の薬物も注射も効かず、患者は、自身の理性と理論的に考えられる頭脳、そして、宗教に頼る。

 不思議と、人間には、その人の能力に耐えられる苦労を、崇高な存在から貰っているものなのだ。昔とった杵柄がものをいう。つまり、国語の力、文章を書く文才等々、人文科学の力が、助け舟となる。患者は、これらの人文社会学の能力を求められる大学教育に逃れれば救済される。
 事実、その患者は、大学教育を四年間で終えて、一時は大変な生き地獄の中に嵌っていたが、今は、研究者になり、芸術・文学・社会学・医学等々に長け、作家・声楽家となっている。

 結局、患者という存在は、一個の存在価値があり、それをぞんざいに扱う医師など人間性が堕ちていくしか将来性は無い。どんな名声がある医師でも、その売れた名とは、別個の人格を持っていて、所謂、俗人には違いない。
 よって、高潔な患者は、その性質通り、自分の道を切り開き、開拓していく。そして、自分自身に合った人生に辿り着く。
 帰結として、患者の心は、医師の持つ人格に左右され、治癒するか悪化するかは、教育という名の下で、優秀な先生、すなわち、大学教員の能力にかかっている、と、結ぶ。