光田 恵



軌跡・〈十六歳〉


「さて、お客様。いしいひさいちのご注文頂いていた本が届いております」
「いしいひさいちって、書店に在庫なくて、探すのに苦労したのだ」

 そうして、東京創元社刊行の著作を8冊購入した。

「ところで、マンガで星野之宣の、『2001夜物語』って、光文社から出ている、豪華版は在庫どうですか?」
 店主は、カタカタとキーボードに向かって、取次と出版社の在庫を調べた。
「お客さん。なんとまあ、星野之宣のそれは、1冊5000円となっておりますが……」

(こないだ、ガンダムUC(ユニコーン)のDVDの1巻を買ったばかりだし、しかも。2、3巻と注文しているから、止めておくか)

 その旨を告げると、
「いしいひさいちも、これだけあることだし、お楽しみはこれからということで」
 と、何やら意味ありげなことを、店主は言って私は、ニヤッとしながらスクーターを走らせた。その後、めったに行かない図書館へやぼ用で立ち寄った。
 とととと、と駆け足で螺旋階段の二階の、広報物のある棚を目指した。
 私は、6年前から、吹田市に唯一ある、文芸同好会に入っている。そして、運営にもタッチしていることもあって、月刊の新聞の在庫をチェックした。

(ない!)

 私は、焦って我がことのように、品切れをがっかりした。それは、きっと、どこかの誰かが、我々の発行した新聞を読むことができなかった時のくやしい気持ちと、シンクロしたかったのようだった。
 司書に問いただしたところ、毎月3部だけ置くことになっているのだと、説明を受けて、肩の力を落としたが、他の運営委員にお願いして、新聞の増刷を代表の許可は取った上で、再度、図書館の司書にお願いするように、伝えた。

 そうして、文芸サークルで、メインに連載している掌編小説の『足許にある物語』の読者数の少なさに愕然としてしまった。
 全国に出してもおかしくともないクオリティーの作品を書いていたつもりが、たかだか1か月に100人相手に書いていたと、改めて思うと肩の力を落とした。

 その晩、運営委員の方から、発行部数を増やすのは残念ながら、無理だと主査が言っていたとの伝言があり、へこんだ。これ以上は、実力勝負と思い直し、作品作りに没頭した。

 3度目の長期の病気休暇(休職ではない)のただなかにいて、福祉施設で、1日3時間程度過ごして、産休明けで戻られた、いまもっとも親しくしている女性のソーシャルワーカーの稲田さんと話をして、過ごしている。
 そうして、以前同様、職場復帰のための活動の最中である。が、書くことは、何があっても、止めない。もう、意地だ。

 私は、お薬を飲まなければ眠れない、れっきとした病気で、障がいを持っている。だから、福祉施設を利用できるので、一般社会から〈孤立〉せずに済んでいる。しかし、他のメンバーさん(当事者)とは、懇意にお付き合いしてはいない。
障がいの程度、生活水準、職の有るなし千差万別だから話に落差があるからだ。

 ただ言えることは、施設とは、「行くところ」がない障がい者が訪れることができるところにある。障がい者の手帳、認定区分は受けて、市役所からも、きちんと認定をもらえないとここは、気楽には利用出来ない。 

 さて、ここでなぜこのエッセイのタイトルが、『軌跡・〈十六歳〉』なのかを書いておきたい。
 いつもタバコを吸うバルコニーで、いまから遠き日の、十六歳の頃を、振り返った。郷愁に浸っていた。ああ、あの日々があったから、今があるのだと……

 ……その当時の私は、本の虫であり、高校生にして、「新潮」掲載の大江健三郎の小説を読むこともあった。また、畑正憲のノンフィクションを読んでは、目を輝かしていた。とにかく、入手できる「ムツゴロウ」シリーズの文春文庫は読破した。そして、ついこの間、朝日新聞で、畑正憲の生きざまを連載していて、20年という歳月が語るモノに、感無量で泣けてきた。が、感じたのが、畑さんは一般サラリーマンとは180度生きざまが違ったのだったんだなとは、いまになって冷静に思った。

 また、高校生だった、1989年は、手塚治虫がなくなった年であり、手塚治虫のブームとなっていた。そのブームにつられるかのように、手塚治虫のマンガを、ほぼすべて読んだ。「アドルフに告ぐ」に胸を熱くした。そうして、当時好きな女の子はいたが、その子のことはもう忘れたい記憶なのでおいておく。

「週刊文春」、集英社の「青春と読書」、岩波書店の「図書」、ちくま書房の、「ちくま」は、定期購読していた。とくに、「週刊文春」を読むなど、年令的にみて、「おいおい。早すぎるだろ」って具合だった。きっと、背伸びしていたのだろう。
 そんな活字に憑かれた生活が、高校1年生から、結果予備校時代の4年間続いた。
 高校も何とか、卒業できて、予備校生の頃に受けた模試では、他の科目は、目も当てられない成績だったのに対して、国語だけはそれこそ京大でA判定であったのを、友人は驚いていた。
「おい、どうすれば、国語をA判定なんかとれるのだ?」
「そう言われても……とりあえず、本読んどけば?」
 という、大学入学が切実な、友人に向かって、「ケチな男だ」くらいに、思われたのではないかな。

 きっと、こころの中のどこかで、将来「作家」になりたいという思いがあったのだろう。一行たりとも、文を書かないまでも。もう、無謀としか思えない、願望だった。
 それから、いろんなことがあった。
絶望。裏切り。失恋。挫折。孤独。葛藤。そういったことが、すべての読書習慣や書くことの源泉になっていたのだろう。

 やっとの思いで郵便局へ、潜り込んで、ようやく、十六年経つ。気が付けば、サラリーマン生活の折り返し地点を迎えた。だが、長くなるので会社のことはここでは触れない。
 そうして、ぽつりぽつりと、作文の延長のようなものを書き出して、地元の豊中であった、文芸同好会の、「エッセイ火曜会」に参加して、月1本のエッセイを書き始めた。
 その頃は、月に1作品書くのにも、ヒイヒイ言っていたものだ。だが、その頃に書いた作品に、ろくなものはないし、保存していないのではないか。

 やがて、会も解散して、私は一人ぼっちになった。しかし、めげずに書いていた。倒産した、新風舎で、何冊もアンソロジーに参加して、30歳の記念に、エッセイ集を出版した。いまは、その本も絶版となってしまい、手元にも2冊しか残っていない。

 そして、それからしばらく経った後に、「文芸すいた」の会員となった。
 手前味噌で申し訳ないのだが、「文芸すいた」って、うまいこと、運営しているなあと感じる。毎月新聞を発行していて、吹田市内各図書館に常設している。読者会員に向けても例会誌を郵送している。そのタブロイド版の、パソコン打ちや、レイアウトを担当している。
 これだけで、想定読者は100人に及ぶ。それを増やしたかったのだが、前述の通り、挫折、した。

 会員となって早6年となる。それこそ毎月のことだから、月1本のエッセイを書く習慣が身に付いた。不思議と書けるものだった。それまでの自分からすれば、嬉しい誤算だ。
 そうして、二年前から、掌編小説を書き始めた。そのきっかけをあえて挙げるとすると、「星新一・1001話をつくった人」/最相葉月著だった。馴染みのある星新一が書いていた年令は、とうに過ぎていると実感したことで、感化されて、思い切って掌編小説にチャレンジした。

 さらに加えると、障がい者団体の新聞「交差点ニュース」も書く予定だ。こちらは、コラムだ。病気の啓蒙の機関紙である。
これも月1回発行なのだが、「書いて下さいよ」と、話があったところだ。断るいわれもない。
 となってくると、「文芸すいた」で、100人。「交差点ニュース」で600人を相手に、書く計算だ。みんながみんな、読むわけではないにしろ。

 それに加えて、文芸思潮でのアンソロジーへの参加。インターネット上での発表を加えると、大きく見積もっても、1000人を相手に、「語って」いる計算となり、それも嬉しい誤算だ。実際に、やっている当人からしてみれば、「ヒエー」ってな具合だ。

 そんな風に、「書き物」に関する一連の「軌跡」を書いてみた。郵便局に勤めることは、とりあえず、書き物とは、まったく違ったスキルを求められるので、別にする。が、その傍ら、作品を公の媒体で、発表の場を与えられているのも、十六歳の頃の、爆発的な読書習慣に寄るのだと思うと、十六歳の頃のむっつりした青年が、いまの自分(オジサン)の背中に向かって、

「よくやったな!」

 そんな声が、私の背中に届く。

(2012)





あの日、あの時、あの瞬間



 私は、いつの頃からかの習性で、よく私生活を公にしているのだが、一般の良識の備わっている大人は、こんな内容のことなどは、形に残したりはしないだろう。

 大方の男性は、一杯飲み屋でジョッキ片手に恋人に、あるいは家庭で奥さんを相手に語るものだと思う。
 そんな内容の、エッセイをこれから少しく連ねたい。

 二年ほど前の、ちょうど梅雨の季節だった。精神の病が思いっきり発症して、長期間職場を休職し、やっとの思いで、職場復帰した。集配業務も軌道に乗りかけたかのように思えたある朝のことだ。
 ザー、ザーと容赦なく雨が降る日の出勤前だ。私は、ただでさえ、目一杯の中での集配業務なのに、その激しい雨が途方もなく重く感じられた。(もう駄目だ。今日は休もう)と思った。早朝、職場へ連絡を入れた。

「集配課、光田です。今朝がたから熱が出て、休ませて下さい」
「お大事に」

 とだけ返答されて、急に緊張感がプツリと切れ、体が弛緩した。と同時に、病院の診察まで、そのお休みを引っ張った。
 主治医は、

「いったん、長期のお休みをしますか」
 と言って、診断書を出してもらい、私はそれから一か月の病気休暇をもらった。

 することと言えばなにもなく、もうすでに精神障害の認定を受けていたので、障害者施設で、日々だらだらと過ごした。
 いきなり、女の子から告白されたと思い込み、またはこちらから、唐突に歯科衛生士にラブレターを送りつけ、ついに家で暴力を振るった。自分では病識がなかった。

 精神科医は、その立場を利用して、私を入院させた。ソーシャルワーカーの稲田さんは、どうして光田さんがふたたび入院しないといけないのかと、納得がいっていなかった。

 二度も、社会生活をリセットさせられた。嫌だ、嫌だと言ったところで、医者は判断を変えない。ただ、「入院させます」と。
 ……それから、三か月が過ぎて、私は、退院した。

 医者に、
「もういいんですか」
 と言ったが、短期間で私は精神科の病棟を去った。

 さて、それからである。私が二度目の職場復帰に向けて、大きく動き出したのは。幸いに、私の会社は、休職だとか傷病手当だとかの、福利厚生が充実してくれていた。一般社会から、ドーンと突き落とされずに済んだのも、そのお蔭だと思う。

 退院して、私が塞ぎ込んでいたのを見かねて、担当のソーシャルワーカーの稲田さんの紹介で、「大阪障害者職業センター」へと通った。会社へ戻るか、障害年金で暮らしてゆくかの二択に迫られた私は、やはり職場にまだ未練があった。わずかだが、こころの片隅に愛着の片鱗が残されていた。
 職業センターのカウンセラーの面談、職業適性等を済ませ、三か月の職業訓練は始まった。

 それが、二年前の春だった。
 様々なプログラムには、「ボールペン組み立て」、「模擬面接」、「SST」などがあった。それぞれのカリキュラムを、数日間でこなしていった。稲田さんに面会に来られて、照れくさかった。

(いったい俺は、こんなオフィス街で、何をしているんだろう?)コンビニの喫煙所でタバコを吸っては、?マーク一杯の日々を過ごした。
 余談だが、その喫煙所で、スーツ姿の若きビジネスマンの二人連れが、こんなことを喋っていたのは印象に残る。

「おい、知っているか。あの制服を着た連中は、転職セミナーだそうだぞ」 
「へえー。俺も通いたいなあ」
 ――だってさ。いい気なものだとは感じつつも、(今に見ておれ。そのビジネスマン)と、発奮せずにはいられなかった。

 そして、無事三か月のプログラムをすべて終えて、二〇一〇年度、自立支援コース・第一期生の修了証書をもらった。

 私を担当してくれていた、女性の稲田さんは産休に入られ、別の男性の方が私を引き継ぎ、訓練は始まった。しかも、「便所掃除」だとか、「近隣の清掃」だとか、「筋肉トレーニング」だとか、とにかく、よく動いた。

 これも余談だが、あまりに私が施設の窓拭きを熱心にしているので、
「私の家の植木を剪定してくれないかなあ」
 と言われて、請われるままに手伝いに行った。そんな半ばボランティアのようなことをもしつつ、職場へのアプローチも同時進行した。

 休職者の職場復帰プランの中の、もっとも最後の項目の「就業支援委員会」を迎えるに当たって、受かる自信は、もうすでに十二分にあったし、逆にこの難関を通り超えるためにだけ、この一年はあったのだとさえ思えた。

 ただただ、これは職場復帰が叶った今でさえ、(続けられるかなあ。この仕事を)という不安はやはり拭えなかった。健常者ですら、そんなこころのもやもやは抱いていることだろう。ましてや、我々はいまも……。

 そんな、「鬱」的な私の性格を知って、抗鬱薬、テンションが上がり過ぎないための、最先端の治療を受けつつ、働いている。暮らすために、十二分のお給料も貰っていてありがたい。

 上を見てもキリがないし、下へもたやすく落ちてゆける病識を抱えて働いている。
 今度のお休みには、また障がい者施設へと出向いて、職場では到底つくりえない、アットホーム感に浸るとしよう。
 そんなことを感じている。

(2011)





日本語を徹底して使うこと



 私は学力不足で、第二外国語を知らない。幼き日より、こんにちに至るまで日本語のみを、「読み」、「話し」、「聴き」、「書いて」きた。そんなところからも、なにかしら、四大卒の同世代の人たちと比べると、劣っているとコンプレックスを抱いている。

 ただ、世間一般の会社員と比べると、自信があるのが、「書く」ことだ。それだけは徹底してやってきたつもりだし、文筆家になれたらな、という思い、火種がこころの中ではいつも燻っているくらいだから、日本語を愛している。それはもう、外国人が日本の女性に艶やかさを感じるのと同じような、感覚だ。

 思えば、日本語で書かれた文章で、最初の衝撃が、「文学」との確かな出合いであった。その出合いが、私の内的世界を、限りなく広げ、そこから読書体験もそうだし、恋も友情も学んだ。

 ただこの時は、ひたすら文学を「読む」ことに没頭するあまり、友人たちと話をしていても、支離滅裂らしく、友人たちは私から静かに離れていき、私は書と登山を愛する孤高の人になっていった。

 だがその頃に、「映画」に出合ったのが、わずかに地に足の着いた生活といううものの何たるかを知る体験となった。

 それは、役者が「話す」セリフと女優が受けて「聴く」というキャッチボールの巧みさにただただ呆然とした。そして、「会話」で繰り広げられる、ストーリー展開の滑らかさを信じ、私は十六歳から孤高の人だった生活を断ち切るために、無理やり社会に出た。

 それが、私が二十歳の頃のことだ。

 私は、いっぱしに金を稼いで暮らしている喜びと、これが映画で繰り広げられる社会なんだと、心が軽くなったもんだ。

 そしてそれからの私は、人から馬鹿にされながらも、フリーターとして職を何度か変え、二十二歳で就職した。

 高校の頃に進学校に通ったために、その当時のの何人かの友人たちは、軽々と(そう見えた)就職していき、ちらほら恋人なんかもできている姿を傍目に、悔しさしかなかった。

 (どうして、僕にはいつまでたっても恋人ができないんだ!)

 そこから、完全にやけくそになり、大人の汚れた世界を渡り歩くようになり、もう文学なんか知るか。映画なんてデタラメだと心底思うようになっていった。そうして、本も読まない、人と話をしない、忠告を聞かない、人間の屑(のようにいまから思うと感じる)になっていった。

 そんな、辛かった時に、頭に浮かんだのが、辻仁成の唄う歌、描く活字、とても丁寧に日本語を使って表現する真摯な姿だった。芥川賞もその頃に受賞したんじゃないかな。

 (僕も、文学で身を立てていきたい)

 そう思い、体は勝手に動き、生まれて始めて、原稿用紙に「書く」という「行為」をした。それは、私がいまよりもまだずっと若かった頃の話だ。

 たとえそれが、息をするのも辛く、汚れたモノへ蓋をするのにも似た行為、つまり現実からの逃避ではあってもだ。

 それからよくもまあ、仕事と並行しつつよくぞ続けたものだと、ほんとうに思うし、じつに十三年の年月を重ねたのだった。

 あいかわらず、私の「話す」内容は、何を言いたいか分からんと言われることはよくあるのだが、たった二人だけ、親身になって分かって下さる方がいた。それが、職場で「師匠」と仰ぐお人と、文筆の「師匠」だ。

 どちらの方とも、その現場を離れられたので、疎遠になってきているが、どちらも人生の辛酸を舐めてこられて、だからこそ人を温かくする「言葉」を大事にされていたように思う。

 そのことは、「言葉」をぞんざいに扱うものではなくて、丁寧に積み重ねていくことだと気づいた時、私はたとえそれが素人ではあっても、文筆家でありたいと、改めて願った。

 最近では、私の「言葉」は含みがあって考えさせると指摘されることもあったりと、嬉しく思っている。

 (これだ。これこそが、私の目指してきた「会話」だ)

と。

 日本語を愛して、裏切られて、それでもなお信じて使ってきて、ほんと良かったなと感じるのが、なんといっても、気になる女性に私の「言葉」が腹に落ちる瞬間だ。

 そして、「書く」という行為と生活の基盤である、いってしまえば「娑婆」にしか思えない仕事を継続しつつ、一方で「フィクション」の世界を保っていくしかないんだ。

 そう感じている次第だ。

(2010)





『機動戦士ガンダム・THE  ORIGINN』〜脱安彦良和論〜



 逃げ口上であるのは心得ている。だがあえて、私は評論家には向いていないといっておこう。そのことに関しては、早くから諦めている。それゆえ、日本映画学校の校長をなさっている、佐藤忠男さんは映画評論家としては、第一人者であって、ある意味憧れだ。

 というけれどもなにも、評論家としてカネを頂戴しようという魂胆もない。なぜならばなにを好き好んで、クリエイターに嫌われるような仕事をしなければならないのか。

 たとえ駄作であると世間一般の意見が一致しようとも、芸術作品は創り手が心血注いでまるで粘土細工から、仏像を造り上げるかのように、多くは魂が篭っていて、それは安彦氏を挙げるまでもなく、いくつになっても彼らは現役なのだ。芸術家に定年は、ない。

 さて、『ガンダム』へと話を戻す。いわゆるロスト・ジェネェレーション(現在三十歳前半から後半にいたる男女)世代間でピカイチに熱いのが、月刊誌『ガンダムエース』だ。それを毎月愛読しては、郷愁に浸り、なおかつ現代マンガを俯瞰している私が、発売日にもっとも胸がトキメクのだ。

 この事実は体感済みだからして、書店でこそっと雑誌を手に取り、レジカウンターへとそそくさと持って行く自分が傍目にはかわいく思える。

 ある男は、「カイ・シデン」に己を投影し、またある立場にいる者は「ブライト・ノア」に共感し、またある女の子は「セイラ・マス」や「シャア・アズナブル(キャスバル・ジム・ダイクン)」兄弟を親近感をもって読むことだろう。

 まったくもって、そんな光景が見受けられても不思議ではないほどに、『オリジン』はリアリティーがある。そんな夢の篭ったリアリズムのあるキャラクターを余すところなく描いた戦記物が、『機動戦士ガンダム・ジ・オリジン』なのだ。

 その寸分の狂いもない絵柄のタッチは、安彦氏が虫プロ時代からサンライズのアニメーターとして、いわゆる「千本ノック」を苦しんだのか、あるいは愉しんで仕事をしていたのかは、不明だがその成果として、一流であって異色のマンガ家であるゆえんである。

 その人気は周知のことだが、『ナムジ』で漫画家協会賞優秀賞を受賞していて、『王道の狗』では文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞していることからも、業界でもトップクラスのマンガ家である。

 それはずいぶんと昔から感じていたんだが、かの宮崎駿と同格ではなかろうかと思う。それはあくまでも、私の主観であって、また読者、観客の対象年齢が異なることは、記しておかなければ、宮崎ブランドに対して失礼である。

 戦後マンガ界は、かの手塚治虫と横山光輝が道を切り開いてゆき、後輩たちが現在のマンガ界の持てる境地を、切り開いていった感すらある。

 それは恋愛モノからビジネス書や、日本経済入門から古代中国史に至るまで、まるで「画」を使えば描くことが、不可能なジャンルなどないかのように、日本マンガ業界からはいぜん活気付いては、読者対象も子どもから、ミドルエイジに至るまで、提供され続けているのだ。

 かなり話がぶれたので、安彦氏へと戻そう。氏の天才ぶりと異色ぶりは、アシスタントによる分業をせずに、Gペンではなく筆ペンひとつで、漆黒の闇に瞬く星々から微妙な人物のニュアンス、細かいメカをも描き分ける。さらにおそらく、日本マンガ業界に、富野由悠季や大河原邦男と共にその歴史の一ページに名を残す傑作であると、素人目にも分かる。

 安彦氏は、『オリジン』のために、月産五、六十枚のなおかつカラー原稿を描いているのだ。

 それは、『三国志』を十年余りかけて描ききった、一時期の横山光輝をも彷彿とさせる、熱の入れようだ。

 さらにここのところ、氏の原画展を全国各地で開催されているところからしても、かの鳥山明をもってしてもまだ、画集が世に出るところ止まりである。

 ここまで述べると、氏の偉大さは伝わることだろう。もう早くから、国内外問わずに影響が出ている。

  個展で入手した、詩と批評の雑誌『ユリイカ』の安彦良和特集の対談の中で、氏がぼそっと言ったひと言を、私は見逃さなかった。

「あなた、マンガが描けてほんと良かったネ」

と、奥さんは言っているそうだ。

 そうして今となれば、「アムロ・レイ」に対する「フラウ・ボウ」や、「アリオン」の「レスフィーナ」や、『虹色のトロッキー』での「ウムボルト」に対する「麗花」に氏の若かりし安彦夫妻の姿を勝手に憶測してしまうのだ。

 そうして私もまた、きわめて氏と好きな女の子のタイプが、驚くほど似通っていて、今風にたとえれば丸顔の、「ラッキョ顔」なのだ。タレントでいえば、堀北真希がそうだ。

 そうして、氏のセックスシーンは獣そのものであり、昨今の「好き」から始まって「お付き合い」しだしてからのベッドインする、私にいわせると、恋愛ごっこを丸ごと否定している。それほどまでに、作品の各シーンにはこだわってもおられる。

 たとえればオトコとオンナを見事に対比させた、オールカラー作品の『マラヤ』がそこの部分を、全面展開させたストーリーだと見てとれよう。

 さて戦争モノといえば、反戦が前面に出ている作品は、あまりにも気持ち悪すぎて、今風ではないようだ。だから、『オリジン』は戦記モノとしては青春群像なのである。それは、『ウィナス戦記』、『ナムジ』、『ジャンヌ』、『イエス』、『虹色のトロッキー』、『王道の狗』しかりである。

 そもそも、何年も前から安彦良和を語ってみたいという、強烈な思いがあったんだが、やはりそのきっかけは、氏の個展に足を運んだことによる。

 それにしても、ここまで重圧のかかるお仕事を淡々と日々なさる氏は心情を、ビデオのインタビューで吐露されている。

「私の筆ペンの在庫がなくなったら、引退しますよ」

と言って、机の引き出しからその筆ペンが大量に出てきて、私は安堵した。

 そうして、胸につっかえていたおりが、一気に噴出した。

 そもそも私と「ガンプラ」との出合いは、小学生の頃に溯る。私は寡黙にひとり黙々と、プラモデルを創ることをこよなく愛する一少年であり、私が自己投影したのは、「アムロ・レイ」であった。

 そうして、時は流れて、廃刊してるとは思うのだが、安彦氏と邂逅したのが、『コミック・トム』誌上にて連載を始めた、『虹色のトロッキー』だった。

 その連載予告の「画」を何度となく眺めた若かりし学生時代に思いを馳せるのだ。

 さて、この長くなったコラムも、核心の「ニュータイプ」を語って締めくくりたい。私的には、ニュータイプイコール「才能」と捕らえている。

 しかし、「ファーストガンダム」の産みの父親である、富野氏は山田玲司著・「絶望に効く薬」の中でこう語っている。


「洞察することの力。つまり、相手の思っていることを、間違いなく理解できること」

 今作品では、あくまでも安彦氏を語っているのであって、富野氏に関しては、何も語る術を私は知らない。心情的にも……。

 やや淋しい終わり方になってしまいそうなので、追記すると『機動戦士ガンダム・ジ・オリジン』はついに、宇宙へと舞台を移した。安彦氏曰く、完結まではまだ二、三年は費やすだろう、と。

 私は、ラスト・シューティングまで見届けるつもりでもある。純粋にいちファンなのだから!

(2008年)





守護神



 私はトンネルの中を、汗を滝のように流しながら、先ほど道を尋ねた老婆の言う通りに、足早に歩いていた。

 (あのばあちゃん、バスの停留所のひとつ手前で下ろさせやがって)

 右手には、初めて目の当たりにした日本海の岸壁に波が寄せて、静かに波打っていた。



 私は、当時悩みをそのママさんに聞いてもらっていた、メンタル喫茶≠ノ出入りしていた。特にその宗教に入信していたわけではなかったんだが、そのママさんが心の拠り所としていた教団の人の勧めもあって、「守護神」(魂の生みの親)を下ろしてもらってから、それ以前と何ら変化のないことに、苛ついてもいた。

 そこで、連休を使って初夏のある日に、私の守護神が奉られているという、兵庫県と鳥取の間の日本海側にある田舎町の、浜坂町へと特急に乗って訪れていた。

 目的地は、「大歳神社」としか、事前には分からなかったので、区役所の人に聞いたりしていた。

 しかしその当時、なぜそこまで守護神という奇妙なものに関心を抱いたのか不思議なくらいだ。冷静になった今分かることは、ママの変な影響下にあったというところだ。



 トンネルを抜けて車道の傍をいくら歩けども、区役所の人に教わった停留所は見当たらなかった。そこで、ようやく見つけた家人に場所を尋ねた。

「ああ、それならば隣町だから、あと四キロよ」

「四キロ!」

 私は、タオルハンカチで汗を拭きながら、神社を目指して歩いた。とにかく歩いた。

 三十分経った頃、隣町に着いたようだった。私は、特定郵便局に入って、大歳神社の場所を尋ねた。

「ああ、それならば裏の小学校の校庭内にあるよ」

「神主さんはいるんですか?」

「いや無人よ」

 土手を少し登った所に大歳神社はあった。

「あった!」

 (本当に僕の守護神が奉られているという神社はあったんだ)

 私は、五、六枚写真を撮って校庭に腰を下ろして、水を飲んだ。側では小川のせせらぎが、さらさらと聞こえてきた。

 辺りを見渡してみて私は、守護神の意味するところを、合理的に解釈していた。それはやがて、確信へと繋がった。

 守護神とは、私の魂の生みの親。

 そしてそれを奉る神社の側には、保育所があり小学校があり、郵便局がある。それは奇妙な一致であった。

 私の生まれは片田舎の熊本だが、父の転勤で、二歳の時に大阪へと引っ越してきた。だから育ちは都会だ。

 保育園にはおばあちゃんに手を引いてもらって毎日通った。両親が共稼ぎだったために、私はおばあちゃんっ子だった。

 やがて小学校に入学。その小学校は自宅から徒歩五分とかからない所にある。

 そうして大変に思い悩んだ就職先は、郵便局だった。

 つまり、この大歳神社の周囲には、これまで私が歩んで来た、魂の成長過程がぎゅっと凝縮されていたのだった。

 その後、喫茶店のママさんの強い勧めもあってその宗教の大阪支部へと出向いた。

 そこで目にした、信者のニコニコとした表情を見て何だか薄気味悪くなったのを覚えている。

 私は、心の拠り所はあくまでも女性に求めるタチなので、いくら周囲の熱心な勧めがあっても、ここの人たちとはそぐわないと思い、やがて喫茶店にも足を運ばなくなった。

 ただひとつ分かることは、人間とは脆く崩れ易い存在であって、何かに寄り掛かって生きているんだと気付かされた。



 さて話はもう少し続く。帰途についた私は、JR浜坂駅でみやげものを探していた。周囲には下校時の女子高生たちがわいわいとはしゃいでいた。

 ベンチに腰掛けて、列車の発車時刻まで、煙草を吹かしながら見るともなく地元の女子高生たちを眺めていた。何だか、大阪で見るのとは違った素朴感にいたく心洗われた。

 私は随分と昔、自分ってモテないんじゃないかと、悩んでいた時期に、熊本に住むある女性からこう言われた。

「あなたはこっちだったら、絶対にモテるタイプなのに! 大阪の女の子はいったい何してんでしょうね」

 私は往きの列車で目にした、学生のカップルのことを思い出しては、自分にはそんな青春はなかったなと、悔やんでいた。

 男子学生と女子学生が、肩を近付けて座席に並んで登下校している。はしゃぐでもなく彼女の方がそっと彼氏の肩に頭を寄せている光景――。



 熊本の女性が言ったことは案外真実かもしれないなと、三十歳を越した今は思えるんだ。

 父の転勤で大阪へと来ることもなく、片田舎の熊本でひっそりとその半生を歩んでいれば、色々な意味で苦労することはなかったろうに……。

 そう思うと、あの時が私の人生の分岐点だったんだなって、思える。かたことと夜行列車に乗って、母親に手を繋いでもらって、大阪へさえ来なければ。

 だがしかし、特急で神戸に入る辺り、薄暗闇の中を照らすビルの明かりを目にして感じた。

 (やっぱり僕はこっちの人間だ)

(2007年)





映画監督・山田洋次



 たとえば戦中、戦後に木下恵介や小津安二郎や黒沢明の映画を劇場にて、タイムリーに触れてきた、映画マニアがいたように、私は映画監督の山田洋次と同時代に、成長を歩んでこれた幸運には偶然と呼べないくらいに、彼はとても近い存在だ。

 それにしても三十代だとしても、私が積極的に観る映画の年齢層は実に高い。しかしその劇場で感じる違和感は何も今に始まったことでもなくて、高校生の頃に溯る。

 逆にいえば、チャラチャラした映画を観ることもなくまた、TVすら一切見ない人なので、劇場でかかる映画たちには思い入れが深いものがあるのだ。

 さて、監督のキラ星のごとき映画たちを思い浮かべて、各個の作品に焦点を当てずに、全作品の底流をさらさらと流れる、私が思春期に強く影響を受けたメッセージを綴りたい。

一、庶民賛歌

二、労働とは、尊いもの

三、恋愛のぶざまさ

の三つに集約されよう。

 まず一について。『寅さん』の博は大企業に勤めるエリートでもなくて、零細企業の印刷の仕事をしながら、寅さんとは対極に普通と言おうか、世間並みの幸せを感受している。

 その博のひたむきに生きる姿勢を見て私は、大学進学→大企業という、両親の望んだ人生からドロップアウトした。

 そのきっかけとなったひとことが、『ダウンタウンヒーローズ』のオンケルが寮生たちに送った最後の言葉だ。しかし言葉に潜む潜在的な力をも感じる。

 「私は、象牙の塔にひきこもるよりも、民衆の一員として生きることにこそ、生き甲斐を感じる諸君らは我が道を歩め」

 「息子」のように、フリーターのはしりを経て、「汗を流して働いて金を稼ぐこと」の尊さといおうか大変さを、始めて体験した。
 しかし現職の郵便局は今、生まれ変わる過渡期にある。旧態依然としていたのでもいけないし、かといって利潤追求にのみ重きを置く経営だとしてもいけない。人間関係までぎくしゃくするのである。

 そこで登場するのがポスト『寅さん』にまで定着している感のある『釣りバカ』である。仕事そっちのけで釣りとみちこさんのことで頭がいっぱいの浜ちゃんの生き方が、観客に受けるゆえんだろう。

 さて、最後に、三について。

 申し分のない映画にあえて要求するとすれば、若くてルックスの良い俳優が出ると、(あっこのふたり最後に結ばれるな)と、容易に想像できてしまい、恋愛のプロセスに関しては「セカチュー」の行定勲監督の描き方の方が、丁寧であるなあと思う。

 まあそれはそれとしてもだ。「寅さん」の甥の満男と泉の危っかしい恋愛には、当時初恋の最中にあった高校生の私は、手をぎゅっと握ってスクリーンを観た記憶がある。


 そうして私の人生において、“恋愛”が組み込まれることとなった。そうしてそのことはまた、私に大きな試練といおうか、その後の人生に大きなテーマを与えた。

 『学校』でもそうだし監督は自分の映画を観終わった観客が、いい気分でコヤを出ればいいなという思いで映画を作っているのとは裏腹に、一本一本観終わるたびに、(あのシーンは何を言いたかったのだろう?)等々悩むのである。

 常に、私の感性に訴える力をその映像に潜む監誓が晩年の今、最後の時代劇にチャレンジされてもいるようだ。

(2006年)