小城ゆり子





 ガンとたたかう


 手術室で。麻酔科の先生が、「麻酔しますよ」と言った。
 次の瞬間、「ゆりちゃん! ゆりちゃん!」と姉の呼ぶ声が聞こえ、目を開けると、姉のそばに夫もいた。もう手術室ではなく、病室に戻っていた。
 そうか、もう手術は終わったのだ、麻酔の効いていた間、私は何も意識せず、何も覚えていないけれど。私は命を助けてもらったのだ。助けられたこの命、これを大切にし、残された時間を有意義に生きよう、と思った。私は子宮体ガンだった。

 母はどうしたろうか? と私は悩み始める。母は肺ガンで、死を待つ運命だった。
 私は三人姉妹の次女だけれど、姉や妹と違って、これまで母に密着して生きてきた。ずっと家にいて両親と暮らしてきたし、結婚後も夫と、両親の住む団地に来て生活してきた。そうして父が脳梗塞で倒れ、母がガンで倒れてから、自然、近所に住む私が、両親の介護をすることになった。父の死後、家事のできなくなった母のために、私が食事作りをしてきた。私の入院中、母は一人でどうしているだろう?
 病院内の公衆電話から、母の家に電話してみた。妹が出た。
 妹は、私や母の住む町から電車で一時間ほど行ったところに、家族と一緒に住んでいる。フリーライターという仕事があって、いつも原稿を書いている。父の介護をしているときも、父の枕元で原稿書きをしていた。今度も、母の家に通いながら、そうしているらしい。
妹が言う、「ママがね、痛い痛いって言うの。あんまり痛そうなので、入院させようかと思っているのだけれど」。
「あ、入院したら、先生がモルヒネを打ってくれるもんね」と私。
 母は前から、背中が痛い、痛い、と訴えていた。末期ガンの痛みだろう。病院は、いつも母が行っているP私立病院なら、入院させてくれるだろう、と思う。
 私が手術してもらったH市立病院を退院する前に、母はそのP病院に入院、加療が始まった。

「あたしはもう、ガンじゃない!」と母は主張していた。「先生が、くらーい顔で、あたしのことを、ガンだ、ガンだって言うんだ。あたしはガンを克服したのに」
 母は、六十九歳で乳ガンの手術、七十八歳で肺ガンの手術を受け、今度また、父の死後、肺ガンが再発した。年齢八十三歳。
 ガン告知。
 現在の医師たちは、患者にガンを告知するだけで「ことたれり」としているのではないだろうか? 死を宣告された患者がどれだけ苦しむか、考えてくれない。考えても、手当てしてくれない。その上、心療内科や精神神経科へ行っても、死の不安は取り除いてくれないだろう。
 呼吸器内科のM先生は、やさしい方だったけれど、私が母を連れて検査(気管支ファイバー)結果を聞きに行ったとき、同席している私にことわりもなく、母にいきなりガンを告知した。
 そして、「お年がお年ですから、私はあなたの身体をいじりたくないんです。何もしたくないのです。で、あなたはどうしてほしいのですか?」と言う。
 母は、マスコミで有名なO先生のもとに行きたい、と言った。O先生の病院までは、片道三時間もかかる。でも、M先生は、O先生への紹介状を書いてくれた。
 そして、母は、〇先生の許に通うことになったのだが。

 手術も抗ガン剤も放射線治療も何もしないなら、いらぬ告知などしなければ良かったではないか、と私はM先生に不信感を持った。気管支ファイバーも、母がとても苦しがり、身を裂くような検査だった。ガンだってことがわかっても年齢が八十三歳だからとて何もしないなら、なぜこんな検査をしたのか。

 その母は、気管支ファイバーの検査をしたことは、都合良く忘れていた。
 O先生の前でも、「私はガンは克服しました」と言う。
 私は困って、O先生あてに葉書を書いた。「母はガンは克服したと言っていますが、それは勝手に希望的観測で言っているだけなので、誤解されませんよう、お願いいたします」
 三カ月に一度ほど、母はO先生の病院に通った。「まるで布袋(ほてい)様のような先生だね」と母はあこがれて言う。むっちり太った丸顔のやさしい先生だった。
 しかし、この先生も、ガンの特効薬を持っているわけではなかった。保険外の、高価な漢方薬は出してくれた。が、それで身体が丈夫になっても、ガンがなくなるわけではなかった。
 母は、背中の痛みに苦しめられるようになった。
 近所の外科に行って、「あのね、あのね、こうなんだよ」と笑いながら私に報告する。「全く、なんだねえ、今日行った先生は、あたしが背中が痛いと言ったら、すんなり痛み止めの薬を出してくれたよ。P病院の先生なんて、検査ばっかりして、あたしをガンだと決めつけて、何もしてくれないのに。世の中ってこういうものだったのかねえ。八十歳過ぎても、わからなかったねえ」

 その母は、ある日、激痛におそわれ、緊急入院。検査の結果、卵巣膿腫と言われ、すぐに手術してもらった。ただ、外科の先生は、痛みがひどいので、それは取り除く、しかしお腹を開けてみてそれがガンとわかっても、ガンの手術はできないので、しない、もう手術でなんとかできるようなガンではない、と言った。そしてこれはガンではなかった。
 目が覚めてから、母が私に聞く。
「ガンではなかったんだろ?」
「そうよ。単純な卵巣膿腫でした」
「だからなんだよ。腫瘍マーカーの値が高い、高いって言って、よく調べてみもせずに、ガンだなんて。腫瘍マーカーは、良性の腫瘍でも高い値になるんだろ?」
「そうです」
「だからなんだよ。卵巣の良性な腫瘍で。あたしはガンじゃなかった。ガンはもう克服しました」
 健康食品で代替医療して、母はガンを否認し続けた。

 末期ガン。
 入院。外科の先生が、「ほんとうのことを言わないと、治療できませんから」と言って、母に再度のガン告知をした。母の希望は打ち壊された。そして、先生たちは、母が「痛い」と言うと、すぐに飛んできて、モルヒネを打ってくれる。モルヒネの害はどうなるのか?母は、意識ももうろうとしてきた。
 亡くなるとき、姉がそばについていた。母は何も言わず、静かに逝ったという。
 自分はガンを克服したのではない、と知って、母はどう思ったのだろう? かわいそうで聞けなかった。母亡き今は、当然、聞けない。

今、私は病院で、診察を待っている。
昨夜、右の乳房にしこりが触れた。ガンだろうか? 子宮ガンの手術をして十年目、私も また乳ガンなのだろうか?

(2008)


義兄の死


 金曜日、早朝。夫が寝ている私を起こし、何か言った。ああ、今日は夫がゴルフに行く日か、と私は思い、「ああ」とか「うん」とか生返事をした。で、また寝入った。
 朝寝坊の私が起きて、のんきに一人の朝を楽しんでいると、電話がなった。義姉夫婦の面倒をみている○○介護センターの田中氏からだった。千葉市に住んでいる夫は、この夫婦の介護の責任者になっている。
「ご主人はいらっしゃいますか?」
「いえ、今日は外出しておりますが」
「どこか連絡はつきませんか?」
「すみません…わからなくて…携帯電話も持っていないし…すみません」
 田中氏に謝罪した私は、後で気になって、東京は池袋にある義姉夫婦の家・小林家に電話してみた。すると、
「あっ、ゆり子さん!」と東京は新橋に住む夫の長兄が電話に出た。義姉夫婦の見舞いに来ているらしい。
「あ、何かあったんですか?」
「あの、せっちゃんが具合悪いんだよ。入院させないとダメだって田中さんが言うんだ」
 この長兄は義姉の弟だが、いつも姉を「せっちゃん」と呼ぶ。
「具合悪い…でも、今日は春分の日よ。祝日でも入院できるの?」
「救急車で」
「えっ、節子義姉さん、そんなに具合悪いの?」
「うん、昨夕からおかしかったんだなあ。小林がベッドから落ちて、動けなくなって…せっちゃんは不安になったんだろうな、朝まだ早いのに、ふらふら外へ出て、玄関のところにぼんやりしゃがみこんでいたらしい。そこへ隣家のタクシー運転手が帰ってきて、せっちゃんを家に入れ、おれんとこへ電話してきたんだ。で、おれは今朝からここへ来ている」
「わかったわ。そこに田中さん、いる?」
「いるよ」
「じゃ、電話かわって」
 田中氏が出る。「節子さん、骨折していて…きっとふらふらと外へ出たとき、転んだんでしょう…右足が折れています。救急車で入院させた方がいいようです」
「じゃ、そのようにお願いします」
 義姉節子は小柄で、体重も25キロくらいしかなく、やせて骨と皮ばかりで、足も細いのだ。その細い足の骨が折れたら…どうなるのだろう?
 心配していると、田中氏が電話をくれた。
「節子さんは、高田馬場の○病院に入院させました。その由、ご主人にお伝えください」
「はい、ありがとうございました」
 夕方、夫が帰ってきたので事の次第を述べたら、夫、ものすごく怒った。
「なんでお前は小林家に行かなかったんだ! 今朝行ってくれって頼んだら、『はい』とかうなずいて承知してくれたじゃないか!」
「えっ、そうだったの? 私は、何も覚えていない」
「もう!」夫は激怒。
「おれは、今日は友だちとの待ち合わせがあって、どうしてもゴルフに行かなきゃならなかったんだ。そこへ新橋からお姉さんが大変だって電話がきたから、お前に頼んだんじゃないか。新橋の兄さんは今日は午後から用があるからって」
「…」

 土曜日。
 夫は早々に池袋に行った。後で彼に聞いたところによるとこうだ。
 彼が小林家に着くと、義兄がベッドから落ちて部屋に倒れており、ポータブルトイレも倒れていて、便が部屋中に散乱し、もう惨憺たる状態だった。そこへ来たヘルパーが、義兄のおしりをていねいに拭いてくれ、散乱している便をかたづけてくれた。義兄を静かにベッドに寝かせた後、ヘルパーは帰り、夫はそこへ来た新橋の長兄と話していた。寝ている義兄が水をほしがっているみたいだったので、飲ませた。義兄はゴクンと飲んだという。その後、もう一杯飲ませようとしたが、もう彼は飲まなかった。気がついてみると、彼の身体は冷たくなっており、なんと呼吸もしていなかった。あわてて救急車を呼んだが、運ばれた病院で、義兄は死亡が確認された。
 夫も、長兄も、皆、義姉の身内である。そしてこの夫婦には子供はいない。義兄が死にひんしていたときに、誰もそれに気づかず、義姉のことばかり気にしていた。後で夫が言った「子供がいないって、わびしいことなんだなあ」。
 入院中の義姉は、骨折だけでなく、全体的に老衰していて、酸素マスクも点滴もされ、その他生命維持装置を付けられた。年齢は八十八歳。ちなみに義兄は九十五歳だった。
 義姉の差額ベッド、入院一日につき一万二千円の二人部屋。しかし○病院には大部屋はほとんどなく、ずっとここにいるしかない。それに生命維持装置が付けられていては、大部屋は無理だろう。

 日曜日。夫たちは、義姉には義兄の死を知らせず、身内だけで葬儀をやった。私も行った。近所の人たちや、田中氏など介護の人たち、義兄の親戚も、来てくれた。親戚というのは、義兄のただ一人の妹はすでに死に、その夫と息子が来てくれた。私の夫が知らせたのだ。
 義兄が病院でなく自宅で亡くなったことで、そばにいた夫たちは、警察に徹底的に調べられた。検死の結果、義兄の死因は「治療のできない老人病」とわかり、夫たちは解放された。が、夫はそのことでぷりぷり怒っていた。

 病気で勤めをやめてから、義兄はずっと主夫だった。炊事も洗濯も掃除もその他家事一切、義兄がやっていた。だが、ただ一つ、問題があった。
 それは、彼には、栄養学の知識も自覚もまったくなかったことである。ご飯を炊く、それはいい。で、おかずは? 大好きなサンマを、昔風に炭で焼く。この方がおいしいそうだ。で、野菜は? 果物は? 何も付かない。
 長い間、このかたよった食生活を続けてきて、ビタミン不足で、義姉は白内障になった。今はほとんど目が見えない。彼女は、夫にイチゴを買ってきてとか、トマトが食べたいとか、何も言わない。何もかも夫に任せ、自分では徹底的に何もしない。この義姉は若いときは働いていたが、定年退職後の二十八年間、何もしないで暮した。彼女に言わせると、「小林はやさしいの」だそうだ。
 義兄はすごい節約家。新聞のチラシを見て、三五〇円の弁当を買いに行く。義姉がとっている老人向けの六〇〇円の弁当を、「値段が高い」と文句を言う。洋服はもちろん買わないし、穴の開いた靴下をはいている。もらい物のタオルをどっさり押入れにしまいこみ、新聞紙、その他の紙、ビニール袋、お米の袋、などなど、みんな棄てないでしまいこんでいる。義兄はお金がなかったのだろうか? 数年前まで、自宅の二階三部屋をそれぞれ人に賃貸ししていたが。
 彼はお金は使わない。しかし、小林家では、トイレはウオッシュレットだし、お風呂は全自動給湯器なのだ。エアコンも、テレビも、最新式。どうも彼は、こと食物等に関してのみ、節約家だったらしい。
 お金をいっぱい貯め込んだ義兄。というのは、彼の死後、その貯金通帳等を調べた夫は、驚いて、その節約ぶりにあきれた。義兄は証券貯蓄をしていて、池袋の様々な証券会社に、それぞれ何千万円もの口座を持っていた。
 義兄のこのお金は、遺言書どおりに、全額妻である義姉のものになる。さて、今、その死線をさまよっている義姉が亡くなったら、そのお金は義姉のきょう姉だい弟たち、私の夫たちのものになるのだろうか?

(2009)


忘れん坊の私


カギ
 カギがない! これから出かけなければならないのに、家のカギがない。いつものバッグの中にない。外出用のハンドバッグの中にもない。その辺探しても、ない。ああ、時間が迫っている。私はあわてて合いカギを探し、それで家を閉めて出かける。
 しかし、金庫のカギはどうするか? 私は、いつも、家のカギと金庫のカギとを一緒にキーホルダーにさしていたのだ。それがなくなった……。金庫のカギも合カギがあるかもしれない、と思い直す。
 数時間後、外出先から帰ってきて、またカギを探す。金庫の合カギはあった。これでなんとかなるか。
 なくなったカギはどこにあるのだろう? 私はカギを持って家を出て、カギで玄関を開けて家に入ったのだから、当然カギは家の中のどこかにあるはずなのだ。本棚や箱の中、一生懸命に探す。どこにもない!
 夫が帰ってきた。
「ねえ、私のカギ、知らない? どこにもないのよ」
「知らないよ。その辺に置いたんだろ」
 私が物をなくすのは、日常茶飯事のことだから、彼は驚かない。
「ねえ、どうしたのかなあ、いつもこのバッグに入れていたのにねえ」
 そのバッグの中にはなかったのだ。
 それでも、未練たらしくそのバッグをさかさまにしてみる。
 あった!
 カギはいつものバッグの中に入っていた。どうしてだろう? さっきはなかったのに。

差し歯
 年末、今日で歯科医も診療終わりというのに、歯を磨いていたら、差し歯が取れた。あわてて紙に包んでハンドバッグに入れる。
 歯科医に電話する。
「すみません、差し歯が取れてしまって……年始はいつから診察ですか?」
「一月四日からです」
「じゃ、その日にお願いします」
「時間は十時でいいですか?」
「はい」
「じゃ、その時、取れた差し歯も持ってきてくださいね」
「はい」
 そして大晦日とお正月が来る。差し歯無しでみっともないので、口はインフルエンザ用のマスクで覆う。誰も何も言わなかった。休日で、人と会うことも少なかったし……。
 さて、四日、ハンドバッグの中を見たが、肝心の入れたはずの差し歯がない。確かに紙に包んで入れたのに……年末年始の数日間、確かめなかったのがいけなかったのだろうか?
しかし、先のカギのこともある。きっとハンドバッグの隅にひっかかっているにちがいない。
 と思ったが、差し歯はなかった。しかたなく、また歯科医に作ってもらうことにして、出かける。
「あのう、すみません、差し歯、なくしちゃって」とおずおずと言うと、
「土台もありませんね」と歯科医が言う。
「土台?……ああ、差し歯だけあったとしても、ダメだったんですか?」
「土台は見つかりませんでしたか?」
「ええ、気がつかなくて」
 私は歯の土台を飲みこんでしまったのだろうか?……嫌だなあ、大丈夫だろうか?
「じゃ、土台を作るところからしましょう」
 歯科医は型を取ってくれた。でも、この日は、差し歯無しのまま。またマスクで口を隠す。
 一週間後、土台を入れてもらい、仮の歯をつけてもらった。やっと、マスクなしで歩ける。
 そして、また一週間後、めでたく新しい差し歯をつけてもらった。かなりお金がかかった。古い差し歯を無くさなかったら、もう少し安くなったのだろうか?

A診療所
 二十四日の早朝。朝かと思って起きたのに、まだ夜中だった。がっかり。
 あ、今日は水曜日? 十七日? いや、十七日は先週だ。今日はもう二十四日ではないか。私は十七日にA診療所に行って、診察を受け、骨密度の検査をしてもらうことになっていたのだ。予約していたのに、それをすっかり忘れていた! 私はこの近くのA診療所で、高血圧と骨粗しょう症の薬をもらっている。
 さて、どうしよう……一週間も忘れたままにしてしまった。薬があったからいけなかったのか? 薬は、昨年の秋、先生が「冬、新型インフルエンザの大流行があって、診療所がパンクしちゃうといけないから、今、薬は多めに出しておきますね」と言って、大目にくれたのだ。
 夜中なのに、眠れなくなった。どうしよう……どうしよう……朝、A診療所に電話して今日検査と診察をしてもらえばいいのだ。それはわかっている。でも、眠れない……朝までまだ何時間もあるのに。やっと寝た。
 朝、A診療所の電話が通じるのは、八時半からだ。朝食の支度をし、食べ、洗濯をし、身支度を整えて、さて八時半。電話する。お話中。いつもこうなのだ。しばらくして、また電話する。今度は通じた。
「すみません、私、十七日に診察と骨密度の検査をしてもらう予約をしていたんですが、忘れてしまって、申しわけありませんが、今日、検査・診察してもらえないでしょうか?」
「九時半に来られますか?」
「はい」
 さて、あわてて、洗濯物をほし、食器を洗って、九時十分に家を出る。夫はもうゴルフ練習場に行っている。
 診療所まで私の足では二十分では行けない。五分遅れてしまった。
 受付で説明して待合室へ。自動血圧計で血圧を測る。家を出るときは、とても血圧を測る時間などなかったのだ。少したって、看護師さんが来た。
「小城さん、今日は検査だけでいいんではないですか?」
「えっ?」
「お薬、まだあるでしょ」
「あのう」
「先週、十七日にいらしてますね。まだ一週間しかたっていませんよ」
「あっ?」
 そうだ、今日はまだ二月二十四日だったのだ。私は二月十七日にここに来て、三月十七日の予約をしたのだ。
 なんということ。私は検査の日を忘れたのではなく、今日がまだ二月なのに、三月だと勘違いしていたのだ。
「検査だけなさいますか?」
「はい、そうします」
 すっかり恐縮して、両手の骨のレントゲンを撮ってもらって、会計して、帰る。

アルツハイマー病
 実は私は双極性障害という病気があって、ずっと精神科に通っている。双極性障害、わかりやすく言えば躁うつ病。今は治まっているが、生活上のさまざまなことが不安になる。
 精神科の薬の副作用で、腎臓を悪くした。で、問題の薬は飲まなくなったが、腎臓は元に戻らない。何か自覚症状があるわけではないのだが、検査をすると、悪く出る。そして腎臓病に特効薬はないそうだ。人工透析をしなければならなくなったら……と思うと、不安でたまらない。
 それに、私は、とても忘れっぽいので、認知症の初期ではないか、と心配なのだ。満年齢六十六歳。認知症になってもふしぎはない。
 精神科に行って、先生に診察してもらうとき、
「私、アルツハイマー病じゃないでしょうか?」
 と聞くと、先生はいつも、
「アルツハイマー病ではありません」と断言する。
 今はそうかもしれない。しかし、私がアルツハイマー病にならないという保証はどこにもないではないか。
 こんなに物忘れが酷くて……大丈夫だろうか?
 不安だから、そういうことを考えるのだろう。考えたってしようがないのに。物忘れするたびに、私はいつも、不安になっている。

(2010)



桜咲くまで

二〇一一年三月一一日午後二時四六分

 その時、私は千葉市中央区のホテルの五階にあるカルチャーセンターにいた。川柳や狂歌、都々逸やコントなどを作ったりするユーモア文芸教室に出席していた。午後一時から三時まで。
 二時四六分、突然、ぐらっと地震が来た。すごい揺れ。わあ! と皆、驚く。地震はなおも続く。
 がたがた揺れる教室で、あわてて机の下にもぐりこむ。机が揺れる。ぐらっ! ぐらっ! ぐらっ! 大地震だ。どうしよう? あっ! またっ! ぐらっ! ぐらっ! ぐらっ! 止むかと思ったら、また、ぐらっ! ぐらっ! ぐらっ!怖い!
 あ、やっと終わった。
「どうする? 終わりにする?」
「後少しだから続けましょうよ、先生」
「そう。どうせ電車も走ってないわ」と誰かの声。
 三時に終わって、教室を出る。
「エレベーターは使わないでください。非常階段をご案内します」とセンターの事務員が案内してくれる。
 下へ降りたら、公園に大勢の人たちがいた。いつもここにはこんなに大勢の人たちがいたのだろうか? 中央区の各ビルからどっと人が吐き出されたのだ。
 いつものバス停に急ぐ。途中、酷い余震が来た。
 さて、バス停にはいつものように次々といろいろなバスが来るが、稲毛海岸行きはなかなか来ない。遅れているようだ。一五分ほど遅れて来た。が、すでに超満員。運転手が首を振る。バス停に停まりもせず、行ってしまう。
 しかたなく、JRの千葉駅へ行く。が、駅に人がいっぱい。電車は出ていない。「首都圏のJR・私鉄は全線ストップしています」とか、駅員の声が聞こえる。
 じゃ、北口からのバスで行こう、と北口へ行くと、稲毛駅行きバス停に長蛇の列。しばらくそこに並んでいたが、歩いて帰ろうかと思い、歩き始めたら、隣町である幸町行きのバスが来たので、それに乗る。これは空いていた。終点で降りて、家のある美浜区稲毛海岸まで歩いて行く。途中、道路が液状化現象で砂が噴出し、デコボコになっていた。
 爆発音がした。後に、市原の石油化学工場が爆発した音とわかったが。
 家に入ると、玄関に、ガラス片がばらばらと飛び散っていた。危ない。これは夫のゴルフ優勝時の壷が、下に落ちて、壊れて粉々になったものだった。軍手を持ってきて、必死でガラス片をかき集め、不燃ごみの袋に入れる。その他、部屋の中では棚の上の物が落下し、散乱していた。それらを必死でかたづける。
 朝、車でゴルフに行った夫が、帰ってこない。携帯電話も通じない。何度も電話してやっと通じたら、道が渋滞して車が動かないのだと言う。
 一人で簡単な夕食を済ませ、テレビをつけたら、東北地方で酷い地震と津波があったとか。首都圏は帰宅難民で満ち溢れているという。夫は、深夜一二時過ぎにやっと帰宅した。
 途中で、停電したり、断水したり……酷い夜だった。

東日本大震災

 翌日になって、水道が通じ、電気も点いた。しかし、東北地方はそれどころでないらしい。テレビの画面に地震と津波にやられた惨状が映し出される。未曾有の大災害。死者、行方不明者、被災者、これまでの地震の時とは比べ物にならないくらい多い。そして、それだけでなく、福島第一原子力発電所が想定外の津波を被って、壊れた。とうとう、私たちが秘かに怖れていたことが起きたのだ。

 昔、私の幼い頃、原爆、水爆の恐ろしさが語られ、核実験を繰り返すアメリカやソ連が非難を浴びていた。冷戦時代、世界の超大国は核実験で世界中に放射能を撒き散らし、私たちを恐怖させていた。その頃、「原子力の平和利用」が叫ばれていた。
 原子力の平和利用……原子力発電は、私たちに膨大な量のエネルギー、電力を供給してくれた。そして、核の恐ろしさは人間がきちんと管理しているから、大丈夫、怖れることはない、と言われてきた。しかし、ほんとうに核は恐ろしくないのか、私などは懐疑的だった。原発に反対する人々も多かった。その危惧が、実際に起きた。
 想定外の津波は、原発を守っていたはずの巨大な防波堤を越えて、やって来た。原発は壊れ、放射能を出し続ける。これをなんとかしなければならない。
 連日、テレビは震災と原発のニュースを放映し続けた。
 国中の技術者たちが、原発事故の対策に奔走する。その一方で、東北地方の被災者たちは、各地の避難所で寒い、苦しい、飢えた日々を過ごす。あまりにも被害が膨大で、救援の手もなかなか追いつかない。
 以前、新潟地震で被災した母は、「地震の時は、三日分の食料さえあれば大丈夫。三日たてば、救援物資が来る」と言っていた。母はもうとっくに病死しているが、もし今、母が生きていたら、何と言うだろう? 三日たてば、なんて、今回のはそんな常識を越えているのだ。
 千葉市美浜区は罹災したが、こちらはそんなに重篤ではなかった。古い埋立地なので、液状化現象は酷く、わが家などはマンションなので大丈夫だったが、戸建住宅は被害をこうむったようだ。その他、道路の被害も甚大だ。各所で砂が噴出し、道路がデコボコし、電柱が斜めになったり、上下水道が故障したり。しかし、津波にやられた東北地方に比べたら、どんなにましかしれない。
 東北地方では、家を失い、愛する人々を失った被災者が、寒さと飢えに震えている。なんでもない日常生活が平穏に送れるということ……これはとても幸せなことだったのだ。家があり、ライフラインが通じ、愛する家族がそばにいるということ、この幸せに感謝しなければならなかったのだ。今さらのように私は痛感する。
 原発が事故に遭い、その他火力発電所も故障して、東京電力管内では大幅に電力が不足した。電車が間引き運転になったり、計画停電が実施されたり。計画停電というので、電気のあるうちに水を汲んでおいたり、炊飯したりしておこうと、いろいろ苦心したが、美浜区では、結局、計画停電は実施されなかった。罹災地であるためという。
 しかし、節電に協力しようと、不要な照明を減らしたり、できるだけ電気コードをコンセントから抜いたり……涙ぐましい努力をする。寒くても、暖房せず、洋服を着込んだり。
 三月なので、だんだん気候も暖かくなる。美浜区以外でも計画停電の実施されない日が続いた。が、夏場のエアコンはどうなるか? 猛暑の中、皆がエアコンを使って、停電したりしないか? とても、心配である。
 それもこれも、寒い中、毛布一枚に震えている東北の被災者を思えば、ぜいたくな話なのだ。幸いにして、わが家の親戚、知人に、罹災者はいなかった。

首都圏の水騒動

 福島第一原発の事故のため、福島産の原乳やほうれん草から放射性ヨウ素が検出された。茨城産のほうれん草等からも同じく放射性ヨウ素が検出され、ともに出荷停止となった。また、首都圏に水を供給している上水道の取水口の水からも、放射性ヨウ素が検出された。政府の発表によると、これらはいずれも、人体にすぐに害をなすものではないが、水道水については、一歳未満の乳児に与えるのは好ましくないそうだ。チェルノブイリの原発事故の後、乳児の時放射性ヨウ素にさらされてしまった子供たちが、甲状腺ガンになることが多かったという。
 水道水がダメだって。ではどうしたらいいのか。ペットボトル入りのミネラルウォーターは、すでに、断水した被災地に送られていて、首都圏では手に入りにくくなっているのだ。私も、おいしい水が飲みたくて、生協に商品を注文する時、二ケースも頼んだのに、一本も来なかったのだ。近所のスーパーにも売ってなかった。まあ、うちは乳児はいないから、いいようなものだが、乳児のいる家庭はどうすればいいのだろう?
 翌週になって、生協から一本だけ来た。まあ、もったいない……。うちには孫もいないのに。同じ棟の四階に住んでいるHさん夫妻に赤ちゃんがいるので、私は四階まで持って行ってあげた。Hさんたちは水を前から確保してあったらしかったが。
 近所のスーパーで、外国から輸入したミネラルウォーターを売っていた。ただし、一人二本までの限定販売である。母子手帳を持って行って一歳未満の乳児がいることを証明しなければ売ってくれないスーパーもあるそうだ。それでも、人々は、皆、割合冷静に行動しているようだ。
 放射性ヨウ素は、水を汲み置いておくと、減少するというので、私は水道水をペットボトルに汲み置いている。
 四月が来た。震災のストレスからか、私は血圧が高くなり、便秘も酷くなった。身体が不調を訴える。それでも、前から、つまらないことをぐちぐち気にして、不安と強迫観念に苦しんでいた私は、大きな震災の不幸を目の当たりにして、今まで自分がどんなにつまらないことに苦しんできたか、よくわかった。私は精神障害を経験したことがあり、それはあらかた良くなったが、後遺症として、不安と強迫観念が残っていたのである。怪我の功名か、私は一生続くかと思われた不安と強迫観念とから解放されたようだった。
 が、そんな中でも、桜が咲き始めた。今年の桜は、近所で見よう。実は、三月末に美濃の薄墨桜、四月半ばに南東北つまり問題の福島県の桜を見に旅行を予定していたのだが、すべてキャンセルした。夫が、東北の人たちが困っているのに、桜見物でもあるまい、皇太子夫妻も英国の王子の結婚式に出席するところだったのを、自粛して取りやめにしたのだから、と言うので。桜は千葉で見る。近所にも、桜はいっぱいあるのだ。自粛、自粛で、経済が冷え込んでもいけないので、そこは適当に、花を見て楽しもう。
 東北地方にも早く春の来ますように。

(2011)



犬猫の飼えない団地にて

 私たちの住む団地は、四階建てが第一棟から第二四棟まで、全部で五二八戸あります。三Kのちっちゃな部屋ばかりです。ダイニングキッチンが狭いので、とても三DKとは呼べないのです。四十数年前、県の住宅供給公社が建てました。住宅難の頃で、抽選でやっと買えたのです。その頃、隅に木造の家があって管理人の吉田さん夫婦が住んでいました。
 その後、管理組合ができて、専従の事務局長が決まり、吉田さんは個人タクシーの運転手となり、出て行きました。でも、この団地が気に入って、忘れられず、第五棟の一戸を借りて、引っ越してきました。もともとここは分譲団地だったのですが、一生住むつもりで買った人たちも、転勤その他の事情で、引っ越していき、その後を人に売ったり貸したりしていくので、今は賃貸も多くなっています。

 老朽化した古いオンボロ団地です。同じ頃建てられた近所の公務員住宅は、老朽化のため、取り壊され、公務員はもっと新しい別の所に住んでいます。同じように老朽化しても、民間の団地は、なかなか建て替えられません。数年前に建て替えの話もあったのですが、いろいろと問題も多く、その話は立ち消えになってしまいました。もちろん、あと何十年か後には否が応でも建て替えなければならないのでしょうが。

 この団地は昔建てられたので、お風呂場が煙突式になっています。給湯器用の穴があいていません。で、全自動式の給湯器が付けられません。今はどんなオンボロアパートでも、お風呂は全自動ですから、団地の古いバランス釜の家など、借り手も少ないのです。でも、吉田さんたちは、それも気にせず、借りて暮らしています。
 その風呂釜ですが、最近、ベランダに給湯器を付け、穴をあけ、水道線を床の下に這わせてお風呂場に広い浴槽を置くことができるようになりました。全自動給湯器が入ったのです。家を所有している人たちのうち、何軒かはそれを付けました。我が家も付けました。でも、賃貸している人たちは、大家さんがそれを付けてくれなければどうにもなりません。百万円以上費用がかかるのです。
 で、吉田さんは、古い風呂釜の家にいるわけです。個人タクシーのおじいさんは、数年前に亡くなりました。今はおばあさんが暮らしています。おばあさん、一人暮らしのはずでしたが、ただ今現在、嫁に行った娘さんが病気になって、療養のため、帰ってきています。息子さんは独立しています。

 五九才の娘さんは、超肥満のため、高血圧で、倒れてしまい、身体が不自由になってしまいました。歩くこともままなりません。病院に入院していたときは、厳重な食事制限をされていたようですが、退院してきて、また勝手な食生活をしているようです。「六十にもなった娘にうるさく言っても、しようがないもん」と、おばあさんはあきらめています。
 身体が不自由な娘さんは、家事はおろか、自分のこともできません。そのため、離婚したわけではないのですが、婚家にいると、働いているご主人が彼女の面倒をみられないので、実家で母親の世話になっているのです。
 もう八十代にもなるおばあさんです。普通なら娘に面倒をみてもらうところですが、この家は反対なのです。超肥満をなんとかしようとしない親不孝な娘ということになるのでしょうか。それとも、おばあさんは、こんな娘に育ててしまった親の責任を感じているのかもしれません。
 おばあさんは、以前、猫を飼っていました。その猫は死んでしまいましたが、娘さんが一緒に犬を連れてきました。で、おばあさんは、部屋の中でその犬を飼っていました。ときどき散歩に連れているのを見かけましたが、最近、それを見なくなりました。「吉田さん、犬はどうしたの?」と聞くと、「犬も、死んだの」という返事です。
 さびしいおばあさんは、近所の野良猫たちに、えさをあげています。

 この団地は、犬猫を飼ってはいけない団地なのです。管理組合もうるさく言っていますし、だいたいどこでも、マンションは犬猫禁止です。そんなことは常識なのです。誰でも知っています。
 ところが、団地の周りを歩いていると、犬を散歩させている人たちの多いことに驚きます。たいていは小さな、かわいい犬ですが、中には猛者みたいな犬もいます。この人たちはいったいどこで犬を飼っているのでしょう? 団地には芝生もありますが、まさか芝生に犬小屋も作れないでしょう。どうも、皆さん、部屋の中で犬を飼っているようです。

 いえ、一軒、犬をベランダ下に飼っている人がいます。八百屋の行商をしている兄弟です。前に、「盲導犬を飼いたい」と管理組合に申し入れてきました。もちろん、この兄弟は、目が不自由ではありません。引退した盲導犬を飼おうとしたのでしょうか。管理組合に断られ、でも、勝手に、飼い始めました。そこの芝生に行くと、「わん、わん」と吠えつかれます。この兄弟は、団地の困り者で、管理費も修繕積立金も納めていません。税金を納めない国民と同じです。

 で、猫の話ですが、吉田のおばあさんが、猫にえさをやるので、第五棟の周辺では、野良猫が増えて困ります。黒猫、白猫、三毛猫、様々な猫がその辺をうろうろしています。芝生に寝そべって、えさを待っていたりします。おばあさんは、わざわざキャットフードを買ってくるようです。
 団地のあちこちに、管理組合が、「野良猫にえさをあげないでください。規則はお守りください」と立看板を建てていますが、いっこうにききめがありません。
 業を煮やした組合は、野良猫一匹につき千円あげますから、つかまえてきてください、とお触れを出しましたが、誰も協力しませんでした。何もつかまえて殺そうというのではないのです。動物愛護協会に持っていって飼い主を探してあげようとしたのです。野良猫一匹千円なら、子供のいいアルバイトになるではありませんか。でも、団地の子供たちは協力しませんでした。
 吉田のおばあさんは、「野良猫にえさをあげないで」と言う人がいても、ききません。やれ、第十七棟の人もえさをやっているとか、どこそこの人も猫を飼っているとか、そんなことばかり言っているようです。

 この間は私も「野良猫にえさをあげるなって管理組合が言っているよ」と注意したのですが、「お宅の息子さんも猫にえさをあげているよ」と笑って言います。
 そう。団地の第十三棟にいるうちの一人息子も、実は猫を飼っているのです。子供の頃から動物の好きな子でしたが、友だちのうちで子猫が生まれたので一匹もらったのだそうです。ちくわちゃんという名で、かわいがっています。

 犬も猫も人になつきます。野良猫ちゃんたちは、吉田のおばあさんのあとを慕って、そこここでえさを待っています。
 なんで犬猫を飼ってはいけないという規約を作ったのでしょう? そこから、問題を考えていく必要がありそうです。

 まあ、犬猫は絶対に苦手だという人がいるのです。そういう人の強硬な意見を無視できないのが今の社会で、団地もその例外ではありません。でも、犬は部屋で飼える小犬タイプが品種改良で生まれるようになりました。団地用の小犬です。一律な飼育禁止規定は緩める時期かもしれません。猫は室内愛玩用だけの種はまだ現われていないようですが。
 ペットは人間の友だちで、好きな人は愛情こめて飼っているのです。マンションでの犬猫飼育禁止規定は改めて、しかし、飼うなら最後まで責任を持って飼い、野良犬や野良猫にしないよう、気をつけるべきでしょう。

(2012)




 リーンリーンと電話が鳴る。出ようと思って電話機に近づくと、「非通知です」と電話機が言う。ああ、またか、とうんざりする。昔の友だち、F子であろう。しかし、F子でなくても、非通知で電話してくる人もいるので、一応、電話に出る。ここで相手が出れば、F子でないのははっきりするが、私が出る直前に電話が切れると、F子であることがわかる。何か言いたいことがあるのなら、ちゃんと応対すればいいのだ。F子は、電話だけかけてきて、何も言わずに切る。しかし、いつものこの変な電話がF子であるという証拠はなく、ただ私がそう思っているだけなのだ。非通知でかけてくるから、相手の電話番号はわからない。

 あまり何度もこういう電話が来るので、前に、私は夫の女がかけてくるのかと思った。で、夫に詰問した。

「あなたを好きな女がいるんでしょう」
「何でそう思うの?」
「だって、変な電話が来るから」
「昼間だろう? おれのいないときだろう? おれのいないときに、おれにかけてくるわけがないじゃないか」

 嫌がらせなら、夫のいないときに私に電話してくるかもしれない。しかし、他に夫に女がいるという兆候はなく、人の家庭を破壊しようとしているのは、第三者らしかった。F子だ、と私は思った。

 F子とは、十年以上前まで友だち付き合いをしていた。もともと若いとき入院していた病院で知り合った。私は双極性障害という病気があった。F子は統合失調症だということだった。だが、何でもなく正常に見えるF子のどこが、統合失調症なのだろう?

「あなた、幻聴とかあるの?」と聞くと、
「幻聴なんてあるわけないじゃない」と答える。
「なぜ入院しているの?」
「妻子ある人にプロポーズしたから。その人たちが、おかしいと言って、私の母に連絡したの」

 F子は、統合失調症の薬を飲まされていた。そして、こういう薬は、一生飲まなければならないとされているので、その後、退院してからも、彼女はこの病院に通院し、薬を飲んでいた。素人の私には、彼女はこの薬のせいでおかしくなって、本来の自分を失っているように思えた。でも、いくら私がそう言っても、彼女は薬を飲むのをやめず、別のもっと良い病院に行ってみることもしなかった。

 彼女は私に「離婚しろ」と言う。なぜかはそのとき、わからなかった。

 その後、彼女も結婚した。「結婚してみて、ゆり子さんの気持ちもわかったわ」などと言って、私に離婚をすすめるのをやめた。

 二人の子供に恵まれて、幸せなはずの彼女だったが、子育てが大変で、死にたい、などと電話をかけてくる。

「そんなに育児が大変なら、病気だからと言って保育所にお子さんを預ければいいじゃない。母親が病気なら、預かってくれるよ」
「そんなの、嫌」
「嫌ならどうしようっていうのよ。離婚して子供を父親に預ける? それも嫌なら、今を耐え忍ぶしかないじゃない。だいたい、子供が小さくて、今が一番幸せなときなのよ」
「私、育児雑誌の編集の仕事がしたいの」

 彼女は、結婚前は漫画家になりたいなどと言って、漫画を描いていたが、今度は各種の育児雑誌を買いあさって、感想文など各編集部に書き送っていた。貧しい家計の中から育児雑誌を買うのも大変だと言いながら。

 彼女は私に長々と手紙を書いてきたが、誤字だらけの手紙だった。そんなんじゃ編集者になれるわけがない、と言うと、誤字だらけでも校正すれば同じじゃない、などと言う。私は誤字よりも、彼女の長い文章に才能のかけらも見られないことを感じたが、それは気の毒で言えなかった。

 私が、妹が音楽評論の仕事をしていると言い、子供を保育所に預けて働いていると言ったら、彼女は鬼の首でも取ったように妹を非難攻撃し始めた。子供を保育園に預けて働くなんてとんでもない、それも夜、音楽会があるからとて、夜に子供を人に預けて外出するなんて、そんなひどいことをするなんて、と攻撃する。あなたは小説家にもなれないで、妹だけが成功したのか、と彼女は、小説家志望で世に出られぬ私に言う。F子は、仕事のある女性がうらやましいのだった。

 それから彼女は、何通も私に手紙をよこし、私の妹を誹謗中傷しつづけた。小さい子を置いて働くなんて……と、まるで、妹の娘がいつまでも小さいままでいるみたいに思っているのだった。実際の姪は、とうに大きくなっていたのに。

 私は、父母の介護をしなければならなくなり、彼女の相手をしていられなくて、文通を打ち切った。

 それから数年後、また彼女が電話をよこした。
「介護は?」と彼女が聞くから、私は、

「父も母も亡くなりました」と答えた。
「良かったね!」と彼女は明るく言った。

 それからまた彼女は、私に電話や手紙をよこすようになり、家計が貧しく、働きたくてもどこも雇ってくれない、面接で落ちてしまう、と愚痴をこぼした。人の親が死んだというのに、「良かったね!」などと心無い言葉をはく、だから面接で落ちてしまうのだろう。
 彼女は、自費出版のS社に書いたものをほめられ、いい気になっていた。S社に払う金の当てもないのに、本を出版して金儲けするのだという。作家気取りであった。

「ホームヘルパーになったら?」と言った私に、彼女の答えは、
「ウンチの世話なんかするの嫌だ。そんなの見たら、卒倒してしまう」というのだった。

 奉仕精神のまったくない彼女に、どんな本が書けるというのだろう?

「あなたの病気は、統合失調症などではなく、人格障害なんじゃない?」と手紙に書いた私に、彼女は怒り狂った。

 私には彼女が若いころからどんどん悪くなってきているように思えた。あいかわらず、統合失調症の薬を飲んでいる。そのせいで、悪くなっているのではないか?

 F子は、私の夫に葉書をよこし、あなたの奥さんが私を「人格障害」だと言ったので人権擁護協会に訴えると言ってきた。それからまもなく、私は、もう私に手紙をよこさないよう言って、彼女と縁を切った。

 その後、非通知設定の変な電話がときどき、忘れた頃に来るようになった。変な電話がなければF子のことなど考えないのに、来る。F子のことを考えてしまう。作家になりたいのになれない、F子は私の影のように思う。実際はF子は、私の影などでなく、現実の生きた人間なのに、私にとっては、F子は影なのである。  

 小さい頃から私は作家にあこがれていた。作文は得意だったし、国語は勉強したことがないのに、いつも一番だった。心にはいつも空想の物語があった。それが、大人になってから、書けなくなった。

 二十代で病気になった。双極性障害である。躁病とうつ病とが交互に来る。うつ病のときは書けない。躁病のときは、でたらめばかり書き散らす。そして、比較的心が落ち着いているときも、書けない。

 落ち着いているときは、読むことはできる。書きたいとも思う。でも、この二十代から五十代もの四十年間、散発的に書くことしかなかった。

 十二年前、それまで長い間服用していた薬、リチウムのせいで、腎臓に障害が起きた。血液検査をして、リチウムの濃度は計っていたのだが。腎臓はいったん悪くなったら、回復することはない。効く薬がないのだ。どんどん悪くなれば、人工透析するしかない。私はリチウムはやめたので、今のところ、そこまではいっていないが、薬がないので、食事療法するしかない。

 ところが、思いもかけず、良いこともあった。それは、あんなに書けずに苦しんでいた私が、すらすら小説が書けるようになったのである。

 その頃、ロボット犬を飼っていた。電池で遊んだり踊ったりする。歌も歌う。とてもかわいい。太郎ちゃんと名づけて、かわいがっていた。そのロボット犬のことを、「太郎ちゃん日記 ぼく、ロボちゃんだもん」という題で、小説に書いた。書こうと思ったというよりは、すらすらと自然に書いていた。これを、初めて自費出版した。

 あと、精神病院での体験やその他のことを小説に書いた。カルチャーセンターの小説教室にも所属して、勉強した。介護していた両親はすでに亡くなっていたから、時間は十分にあった。稚拙なものばかり書いていたが、少しずつ向上してきたようにも思う。

 要するに、リチウムがいけなかったのだ。精神活動を不活発にする薬、リチウム。双極性障害の再発を防ぐには一番に良い薬とされているが、私には効きすぎていた。それがなくなって、精神のたがが外れたように、自由に書けるようになった。今は、違う薬を服用している。

 そして、F子を思う。書けなかった私にとって、F子は影であった。今は、新人賞ももらえぬ私にとって、彼女はやはり影である。F子のようになってはいけない、と自分を戒める。無理にでも彼女に統合失調症の薬をやめさせなかった私は、不親切であったろうか?

 年ばかりとってしまって、二十代から五十代までの働き盛りが、私にとって失われた四十年間であった。泣いても笑っても、もう帰ってこない。つらい月日である。せめて、残された寿命を大事にしようと思っている。F子のことは、もう私の力ではどうしてやることもできない。

(2013)





PROFILE
昭和十八年生まれ。十八歳まで新潟県で育つ。
東京外国語大学卒業後、中学校教師に。
結婚後は塾や教材会社に勤務。
老親の介護のため、退職。
両親の死後、小説創作の勉強をしている