近藤 健



増穂の小貝
 

 

 降りようかどうしようか逡巡したあげく、夕暮れせまる金沢の駅に降り立った。
 当時、学生だった私は、冬休みで郷里の北海道へ帰省すべく、京都から日本海回りの特急に乗り込んでいた。
 向かったのは、能登半島西岸にある富来という小さな漁村だった。列車の中で時刻表を眺めていたとき、偶然にもその地名を見つけたのだ。
 富来という地は、福永武彦随筆集『遠くのこだま』の中の「貝合せ」で知った。この随筆との出会いは、私が十六歳、高校二年の現代国語の授業であった。
 作家は、東京オリンピックで日本中が沸騰する中、ひとり能登に遊ぶべく、ぶらりと旅に出る。そこで出会ったのが、湖月館という小さな宿の「むすめむすめした若いお嫁さん」と、増穂の浦に打ち寄せる小貝であった。
 以来、いつかこの地を訪ねてみたいという淡い思いを抱いていた。それから六年、ついにその夢を叶える好機が、突然、目の前に現れたのだ。
 乗車券の有効期限は一週間。所持金は二万円弱。時間だけはたっぷりとあった。金沢の駅前でバスの切符売り場を見つけ、発車直前のバスに飛び乗った。定員の半分ほどを乗せたバスは、一路能登を目指した。湖月館なる旅館は存在するのか、もしなかったらどこかで一夜を過ごし、まっすぐ帰ればいいと考えた。
 空には、この時季の日本海特有の鉛色の雲がたれこめていた。出発して間もなく、バスは耳障りな音をたてながら、ワイパーを動かし始めた。
 冬の夕暮れは、あっという間に窓外の景色を真っ黒に塗りこめ、旅の不安をいやが応にもかきたてる。車中は、一見して地元の者と思しき人ばかり。大きなリュックを背負った私の姿は、どこから見ても旅行者であり、よそ者であった。
 あえぐように走っていたバスは、二時間の後、小さな灯がともる寒々とした街に出た。冷たい雨がしょぼついていた。私はバスから降りるとすぐに電話ボックスに駆け込み、電話帳をめくった。
 はたして湖月館はあった。
 宿泊料金は七千円からだという。金沢へ戻る交通費、道中の食事代、故郷まであと二十六時間はかかる。どう考えても五千円以上の宿泊料金は払えなかった。だいたい五千円で旅館に泊まろうとすること自体、非常識なことだった。
 本を読んで来たことなどを諄々と説明し、食事はいらない、蒲団部屋でもいいから泊めてもらえないだろうか、という私の無謀な主張に、いつしか電話口の相手が替わっていた。
「いいですよ。いらっしゃい」
 その温かい言葉に思わず落涙しそうになりながらも、一大事を切り抜けた安堵感に、忘れていた空腹を覚えた。
 見回すと、近くに閉まりかけている小さな食堂があった。季節はずれの旅行者への親切心に甘え、茶の間に上がりこんで、炬燵の中で親子丼をかきこみ、私は旅館へと急いだ。
 こぢんまりとした小さな宿は、年に一度のかきいれどきを迎えていた。
「あいにく役場の忘年会があって……」
 という仲居さんの目の前で、ずぶぬれのズボンと服を脱がされ、そのまま風呂へと追い立てられた。
 人心地ついて部屋に戻ると、そこには豪勢な食事が待っていた。入り口で尻込みしていた私に声をかけて入ってきた女性は、そこにいるだけで華やぐような、一目で女将とわかる女性であった。
 よく来てくれました。本を読んで訪ねてくれたひとは、十四、五年ぶりだと言うなり、部屋の前に立ちすくむ私を、抱き込むように迎え入れてくれた。先生のお気に入りの部屋は、あいにく埋まっていて、申し訳ないという。私は、恐縮のあまり言葉を失っていた。
 名もない小さな漁村に、まるで似つかわしくない清楚な女将、私はひどく混乱し戸惑いを覚えていた。四十代の半ばと思われたが、華を秘めた女性であった。
 忘年会がはねた後、女将に招じられるまま小さな談話室で、夜更けまで語らった。その部屋の書棚には、作家の著作がずらりと並んでいた。作家とは十数年にわたり家族づき合いをしており、時には作家仲間での投宿もあったという。その作家が数年前に亡くなったことを、涙をもって語られた。
 私は、作家に関する知識を何ひとつ持っておらず、ましてや亡くなっていたことなど知るよしもない。女将は、風邪気味で熱があるといいながらも、アルバムを見せてくれたり、この地で採れる貝殻の標本を持ってきてくれたりした。
 この地は、毎年十一月から翌三月にかけて「貝寄せの風」が吹き、歌仙貝が打ち寄せることで名高い。さくら、なでしこ、いたや、わすれ、にしきといった詩的な名と、桃、橙、紫、黄という、暗鬱な空とは対照的に艶やかな色彩の小貝に、目を瞠る思いがした。
 翌朝、傘を借りて近くの浜辺を歩いてみた。そこは砂浜ではなく、小貝が敷き詰められた海岸であった。よく見ると小指の爪大の貝は大きいほうで、ほとんどがそれよりもはるかに小さく、それでいて完全な貝の形をなしていた。
 出発の時刻はまたたく間にやってきた。冬の時季の貝殻は色艶がいいという。寒風に吹かれながら手ずから拾った貝殻のお土産と、バスの中で食べなさい、とひと包みの握り飯を持たされた。私はただ恐縮するばかりだった。
 浜辺から戻る途中、立ち寄った小さな本屋で、たった一冊だけあった作家の文庫本を求めた。別れ際、厚かましくも、記念に何かしたためて欲しいと頼んだ。女将は、何の躊躇いもなく、驚くほど流麗な字で、作家からもらったという歌を一首したためてくれた。
「夜もすがら春のしるべの風ふけど 増穂の小貝くだけずにあれ」
 バス停まで送るという申し出を振り切るように断り、宿を後にした。振り返るといつまでも手を振る女将の姿があった。
 私は、暖かな旅の余韻にたっぷりと浸りながら、帰路に着いた。この歌が、恋歌だと気づいたのは、しばらく後になってからのことだった。 

 平成七年、雑誌『別冊太陽』の一月号に《作家の宿》という特集が組まれた。たまたま通りがかった池袋の書店で見つけた。それが十四年ぶりでの女将との再会となった。
 あれから二十三年、就職したらまたいらっしゃい、と言って宿を送り出してくれた約束を、いまだに果たせずにいる。
(2005年)




三億円のおひたし


 契約書の読み上げが終わりに近づいていた。会議室の窓からは、林立する新宿の高層ビル群が見渡せる。その上に初夏を思わせる明るい空が広がっていた。
 十年ほど前、会社が遊休地を売却した。その売買契約が、相手方の会社で行われた。土地の売買は私にとって初めての経験だったが、売る側の立場だったので気軽に構えていた。
「それでは決済を行います」
 司法書士の言葉で、土地の権利証と小切手が交換された。権利証に疑義がないか、また小切手に不備はないか、張り詰めた空気が会議室に流れた。これがマフィアの闇取引なら、買った側が懐からピストルを取り出し、現金もろとも車で逃走する場面だ。くだらぬ空想を巡らせているうちに、あっけなく売買は成約した。
 やれやれというところだが、問題はその後であった。我々は、一刻も早くその小切手を安全な場所に確保しなければならない。自社の銀行口座に入金しなければならなかった。小切手の額面は三億円だった。
 会議室を早々に辞し、ビルの出口まで来たところで、上司が鞄から小切手を取り出した。オレが持っているより、お前の方がいいという。確かに、二人並ぶと私の方が貧相である。暴漢の裏をかくという算段だ。そこで封筒に入った小切手を背広の内ポケットにしまい、さらにしっかりとボタンをかけた。黒塗りの鞄は上司が持った。入念なカモフラージュというわけだ。
 外へ出ると、新緑がまぶしく揺れる陽射しの強い午後だった。背広を着ていると額に汗が滲む。私は持ったことのない金額にひどく緊張しながら、内心「オレの値打ちは今、三億円だ」とワクワクした。
 歩き出してすぐに、銀行が目に入った。さっそくそこから小切手を送金することにした。往来の多い通りを、過剰に警戒して歩く。私は頻繁に背広の胸に手を置いて、封筒の存在を確認した。
 振込用紙に小切手を添え、窓口に出したとたん、
「あのー、お客様。小切手では直接振込みができませんが……」
 窓口の女性がほがらかに微笑んだ。私と上司は顔を見合わせた。小切手は手形と違い現金と同じもの、という認識しかなかったのだ。
 やむなくその銀行を出、辺りを見回すと、我社の取引銀行があった。ほっと胸をなでおろす。念のため行員に尋ねると、当座預金の入金帳を用い、預金口座のある支店で入金しなければならないという。そんなバカなと思ったが、押し問答している余裕はない。時計はすでに二時を回っていた。
 近くの公衆電話から会社に連絡し、入金帳を持って、銀行の前で待機するよう同僚に伝える。会社の銀行は日本橋にあった。電車に乗るのは危険だと、タクシーに乗り込んだ。二十分もあれば着くと踏んだのだ。
 だが、ほっとしたのもつかの間、タクシーはすぐに渋滞に巻き込まれた。時計を睨みながら、次第に焦りが募る。このままだと三時までには銀行にたどり着けない。運転手に急ぐ旨を伝え、他に道はないのかと尋ねると、
「お客さん、今日は五十日だから、どこ走っても同じですよ」
 と、にべもない。
 やむなく地下鉄の入口が見えた所でタクシーを降りた。地下へ続く階段を駆け下り、折りよく滑り込んできた電車に飛び乗った。変な妄想を起こさず、最初から電車に乗っていれば、何ら問題はなかったのだ。
 汗が額を流れ落ち、ワイシャツも汗ばんでいる。電車に乗ってすぐに、上司は背広を脱いだ。私は小切手を持っている手前、じっと耐えるしかない。流れ落ちる汗とは裏腹に、焦りがジリジリと首筋から上がってくる。三時まであと十分しかなかった。
 電車が目的の駅に着いたのは、三時ちょうどである。とにかく銀行に電話を入れなければ、と改札を出て公衆電話に飛びついた。
「今、××駅にいるのですが、これから小切手を入金しに行きたいのですが……」
 今からですか、と銀行員の冷淡な声が返ってきた。
「三億円の小切手なんです」
 というと相手の態度が一変した。
「たいへん失礼しました。お待ちしております」
 と弾む心を無理に抑えたような声が返ってきた。通用口のインターホンを押してくれれば開けるという。金額の多寡によって、銀行も融通が利くのだ。
 地下鉄の階段を駆け上がり、走りに走った。途中まで一緒だった上司は、
「おまえ、先に行け」とあえなく脱落。もはやカモフラージュどころではなくなっていた。
 やっとの思いで銀行にたどり着くと、シャッターの閉まった入り口の前で、途方に暮れた犬のような顔で同僚が待っていた。入金帳を受け取った私は、すっかり安心した。走りながらも幾度となく胸の封筒は確認していた。ぬかりなかった。
「いやー、ご苦労様です。どうぞ、どうぞ」
 汗を拭き拭き肩で息をする私を、中年の銀行員がにこやかに迎えてくれた。
「金額が金額だけに、どうしても今日中に入金したくて……」
 と口にはしたが、内心、どうだ、約束どおり持ってきてやったぞ、という上ずった気持ちになっていた。中年の銀行員も、揉み手をするほどの低姿勢で、
「いや、いや、ごもっとも、ごもっとも。さあ、さあどうぞ」
 といいながら、女子行員に冷たい麦茶を命じた。
 挨拶が一段落したところで、小切手を取り出そうと背広の懐に手を入れ、ギョッとした。私の背広の中が、熱帯雨林のような高温多湿になっていた。恐る恐る封筒を取り出すと、汗を吸った封筒が変色している。濡れた封筒に小切手がピタリと貼りつき、封筒と小切手が三位一体を呈している。仕方なくそろりと封筒を破ると、ホウレン草のおひたしのようになった小切手が出てきた。湯気を発していないのが不思議なほどだった。大変なことを仕出かしてしまったと青ざめた。冷や汗が流れ出た。
「ワアー……こういう状況の小切手は初めてですな」
 と行員が身を乗り出した。行員と私の立場は逆転していた。こんな小切手ではダメだ、といわれたら一巻の終わりである。祈るような気持ちで行員の表情を窺った。まあ何とかなるでしょうといいながら、麦茶を持ってきた女子行員に、受け皿に乗せた小切手を手渡した。女子行員の顔が、一瞬曇った。実際大変だったのは、アイロンがけをさせられた女子行員だったかも知れない。
 かくして三億円のおひたしは、無事預金口座に入金された。遅れてやってきた上司も、小切手並みにクタクタになっていた。その日はもうそれ以上仕事にならなかった。
(2006年)




牛乳瓶の音 


 冬の朝。瓶の触れ合う音が聞こえてくる。厚手の瓶がいくつもぶつかり合う音だ。近所の人が、ポリ袋から資源回収箱へ空き瓶を移しているのだ。温かい蒲団の中でその音を聴いていると、遠い遠い三十年も昔の風景が蘇る。

 中学一年の雪の朝であった。
 近所に住む同級生の浩一が、牛乳配達のアルバイトをしていた。その朝、私は興味本位で浩一について回ったことがあった。
 夜が明けたばかりの北海道の冬の朝。寒気で肌がチリチリと粟立つ。そんな中、軍手を二枚重ねに履いた浩一が、機関車のように白い息を吐きながら、暁闇の光の中を近づいてくる。しかも、業務用の自転車に乗って。つい最近まで、一緒に三角乗りをして遊んでいたのに……。
 その朝の浩一は業務用にちゃんとまたがり、かろうじて爪先だけで漕いでいた。しかもハンドルの左右には、牛乳袋がずっしりとぶら下がっていた。浩一は、雪道と牛乳袋の重みにハンドルを取られながら、ゆっくりと力強く走ってくる。小柄な浩一が大きく見えた。
「悪りィー、遅ぐなったぁ」
 浩一の顔が真っ赤に上気している。
 一つの牛乳袋には、二十本の牛乳が入っている。左右あわせて四十本になる。そのバランスをとりながら大人の自転車に乗るのは、雪道でなくても軽業に近い。
「おめえ、よくこんなんで自転車に乗れるな」
 と感心すると、途中で転んで二本も割ってしまった、と照れ笑いした。なるほど片方の袋の底に、小さな白い氷柱が下がっている。牛乳袋の底には小指の先ほどの穴があり、瓶が割れても袋の中に牛乳が溜まらないようになっていた。牛乳は数本余分に積んでいるので、大丈夫だという。
 浩一がハンドルを握り、私が自転車の後を押しながら坂道を登る。やっと最初の一軒目にたどり着く。浩一は毎朝、たった一人でこの作業をやっていた。
「この家は二本だ。空き瓶、入ってるから持って来てくれ」
 両方の手に一本ずつ牛乳を持ち、目指す家に向かって走る。新雪が足にまとわりつく。朝の雪は、表面は真白だが、蹴散らした中の方は青味を帯びている。夜の名残りが宿っている。一足ごとにキュッキュッと雪が鳴く。
 まだ眠っている家の玄関前の牛乳受けから空き瓶を取り出し、新しい牛乳瓶と入れ替える。持ち帰った空き瓶は、バランスが崩れないよう、左右の袋に一つずつ戻す。
「おめえ、よく、こんなこと、覚えられるな」
 配達する家を覚えるだけでも大変なのに、一軒ごとの細かな本数まで憶えている。それが不思議でならなかった。
「おい、見てみろよ」
 私の質問には答えず、浩一が東の空を指差した。日高山脈の支流、アポイ岳の裾野から太陽が出ようとしていた。山の端から一条の光線が放たれたと思うと、それをきっかけに何本もの光の矢が一斉に走り始めた。オレンジ色の放射状の半円形が、アポイ岳の光背のように浮かび上がった。
 山の端から一直線に伸びた光が、西側の低い山々を照らす。やがて光は斜面の畑に下り、家々の屋根を照らした。青白い街がまばゆい光に包まれてゆく。小さな風が巻き起こり、光のかけらがほの白い雪面に宝石のように散乱している。その輝きがみるみる増えて、やがて雪面全体が金色に輝き始めた。
「――さあ、急ぐべ。学校、間に合わねぇど」
 浩一に促され、配達を急いだ。
 牛乳袋の中は、しだいに空き瓶が増えてくる。ハンドルが軽くなるとともに、瓶の触れ合う音も甲高くなってゆく。今まで蒲団の中でしか聞いたことがなかった音だ。まだ覚めやらぬ街に朝の音を響かせながら、私達は坂道を下って行く。
 配達を終えて、残った牛乳を一本ずつ飲む。火照った身体に、冷たい牛乳が沁みて行く。それをひと息に飲み干した浩一は、再び牛乳屋へ戻って行った。
 勢いよく走り出した浩一が途中で止まり、振り返りざま叫んだ。
「今日、母さん、退院するんだ」
 その声にはいいようのない色があった。肩で息をする浩一が、歓喜に包まれて見えた。
「よかったなー! 浩一」
 スピードを上げて遠ざかる浩一の背中に、私も大声で叫んでいた。不意に涙が込み上げた。
(2007年)

 



妻の生還


 雨がふたたび降り出していた。午後の日差しに照らされて、細い雨脚が白く光っている。
「ひとついい忘れたことがあったのですが……」
 ひと通り病状の説明を終えた当直医が、再び病室に戻って来た。白衣を着ていなければ、どこにでもいる若者である。
「――先ほどいったようにですね、病状が急変する可能性があります。そのときの措置を訊いておかなければいけないのですが……」
(措置……)
 私は、固唾を呑んだ。
「二つのコースがあります。延命コースとナチュラルコースなのですが……どちらになさいますか」
 コース? 耳を疑った。レストランのメニューを決めるような気安さに、唖然とした。
 丁寧な言葉で、事もなげに人生の一大事の選択を迫ってくる。しかも、右手を白衣のポケットに入れたまま。傍らでは、相変わらず妻が昏睡していた。

 平成十五年七月十三日。日付けが変わったばかりの日曜日の午前二時過ぎ、妻は医者から処方されている薬を、全て飲んでしまった。気づいた時には午前三時を回っていた。妻の異様な寝返りと、呻き声に跳ね起きたのだ。慌てて階下に下りて薬を確認すると、抗うつ薬、精神安定剤、入眠剤が空になっていた。十日分の分量である。うつ病を患っている妻は、ときおり深い絶望感に苛まれ、人生を放擲したくなるのだ。
 この日、中学二年になる娘が、初めてバドミントン大会に出場することになっていた。私は午前五時半に起きて、弁当を作る予定でいた。困ったことになった……。タバコに火をつけながら最善策を練る。
 まず、娘を大会に出そう。妻の過量服薬は、これが五度目のこと。それが私を冷静にさせていた。深夜という時間だが、横浜で独身寮の賄いをしている妻の母親に電話をした。その日、義母のもとに妻の弟が泊まっているはず。車を飛ばせば、四十分もあれば来れる。二人に娘のことを託し、私が救急車に同乗すればいい、それが私の結論だった。
 二人を待つ間、まず、弁当の用意をした。できるだけいつもと変わらぬようにした。ご飯も海苔を一センチ角に切って醤油に浸し、二重弁当にした。冷静なつもりであったが、手が震え、何枚も海苔をダメにした。
 次に、入院の準備にとりかかる。衣類と健康保険証をリュックに詰め、飲み干した薬の空包をゴミ箱から拾い集める。焦るな、焦るな。鎮まれ、鎮まれ、と自分にいい聞かせる。
 そんな中、妻がいつも病状を書き付けているノートに、遺書を見つけた。本当に死ぬつもりだったのか……。読む間もなく、かかりつけの大学病院の救急部へ電話を入れ、受け入れの準備を乞う。続けて一一九番。
 人の気配を感じ玄関を開けると、スズメのさえずりとともに冷気が流れ込んできた。早朝の青白い空気の中に、義母と弟が硬い表情で立っていた。もう雨は止んでいた。
 薬を飲んでから二時間。まだ大丈夫だろうと高を括っていた。だが、大学病院までの搬送は、時間的に無理だという。
「血圧七十……、瞳孔一ミリ、意識レベル……」
 救急隊員の声が部屋に響く。その一ミリが何を意味するのか分からない。ただ、逼迫した状況であることは感じ取れた。
 二階の寝室から妻を降ろすのに、布担架が必要とのことで消防車まできた。いつもはパトカーも来るのだが、それがなかったのでほっとした。
 午前五時、近所の救急病院に到着。ストレッチャーに乗せられた妻が、病院の薄暗い廊下を慌しく走り抜けて行った。妻を見送って、受付で手続きをする。やっと書類から解放されたところに、救急隊員が血相を変えて走ってきた。
「奥さん、妊娠されてませんか」
 処置室の前でも看護師から、同じことを訊かれた。
「いや、太っているだけですから」
 と苦笑い。薬の副作用で、ここ数年妻の体重は二十キロも増えていた。慌しい動きの中、
「あらッ、先生は? まだ寝てるのかしら」
 看護師が慌てて電話をかけている。ほどなくアルバイト研修のような若い医師が、ヌーッと姿を現した。
 私は、薄暗い廊下の長椅子に座って、非常灯の明りを放心の態で眺めていた。
 先生、まだ寝ぼけてますよ、と中年看護師の笑い声が漏れてくる。私は、深い溜め息をつきながら、スプリングがボコボコになっている長椅子の、すわり心地のいい場所を探していた。
 処置室の向いには、病室がズラリと並んでいた。患者の寝息が聞こえてくる。好奇心に駆られ病室を覗いたとたん、ギョッとした。カーテンに閉ざされた暗がりの中で、ベッドに座っている老女と目が合ったのだ。闇の中で冷たく光る目であった。死を待つ目だと思った。二時間近く廊下にいる間、すわり心地のいい場所は、とうとう見つけられなかった。
 いったん帰宅し、昼過ぎ、再び義母と病院へ向う。そのとき研修医から、コースの選択を迫られたのだ。妻を見殺しにするか、それとも心肺装置につなぎ植物人間にするか、そのどちらかを選べと。医者の肩越しの窓に、真っ白な百日紅の花が、雨にうな垂れているのが見えた。そうか妻は死ぬかも知れないのだな、と遠い所で考えていた。どちらの選択もできないと思った。
 薬の大半はすでに腸に吸収されており、大量の点滴で流す処置をしている。舌根沈下が見られ、窒息寸前だった。明後日の朝までに意識が戻らない場合は、覚悟が必要。仮に意識が戻っても、重篤な障害が残る可能性がある。唯一の救いは、三十四歳という妻の年齢、若さがもつ快復力に頼むしかないという。妻は百錠もの薬を飲んでいた。
 そうか、もう死んでしまうのか。ずいぶん若いな、と他人事のように考えていた。今まで遥か遠くにあった「死」が、手を伸ばせばすぐ触れるところにあった。
「会わせたい方には、会わせておいたことに越したことはない状況です」
 何ともまどろっこしいいい方で、とどめを刺された。その横で、妻は何事もなかったように眠っている。
 連絡をすべき者には、ひと通り知らせた。後は、待つだけであった。日曜の人気のないロビーの長椅子にもたれていると、玄関脇の大きな桜が目に入った。葉桜の大木が大きな陰を落としている。その黒々とした陰に、背筋が凍るような恐怖を覚えた。私は何を待っているのだろうか……。夕暮れが近づいていた。
 自宅に戻ると、「マケター」と上気した顔で娘が帰って来た。寝不足でやってられなかった、とひどく不機嫌である。
 娘を宥めながら、ママが厳しい状況だと伝える。一瞬、娘の顔が強張った。その苦悩を娘は呑み下した。妻の過量服薬が繰り返されていることへの慣れであった。今回は今までとは状況が違う、とまではいえなかった。長い一日が終わろうとしていた。

 翌朝。午前四時に目が覚める。いつ来るとも知れぬ電話に、私は終始怯えていた。こうしている間にも妻が死ぬかも知れない。そう思うと、再び寝つけなかった。
 いつもの月曜の朝のように娘を学校へ送り出し、病院へ向かう。「……ご迷惑をおかけします。ゴメンなさい」、妻の言葉が脳裏をかすめ、涙が込み上げてくる。周囲に悟られぬよう人を避け、道を急ぐ。
 病院に着き、恐る恐る病室を覗くと、昨日のままに横たわる妻がいた。酸素マスクをつけ、何本ものチューブが妻を取り巻いている。
 妻の顔を上から覗き込もうとしたとき、病室の片隅でモップがけをしていた掃除婦が、にこやかに声をかけてきた。
「――さっきまでお話し、していたんですよ」
「えッ! 意識が戻ったんですか……」
 思わず声を上げた。その声に妻が目を開けた。
「アー……ケンさん。カボチャのことが気になって……カボチャ、カボチャって、今、私言ってなかった」
「……」
 酸素マスクの中でのくぐもった声。そのうちに、妻はまた眠りに落ちていった。私は転げるように病院の階段を駆け下り、公衆電話に飛びついた。受話器の向うからは、いくつもの安堵の溜め息が漏れた。
 病室に戻ると、様子を見に来た看護師が妻の傍らにいた。
「あなた、酸素マスクをしているんだから、タバコはダメよ。爆発しちゃうわよ」
 看護師の明るい笑い声が病室に響く。
 妻の生還は喜ばしいのだが、また苦悩の日々が始まるのだなと思った。
「ここはどこ……」、「何これ、どうして手が縛られているの……」、「これちょっと痛いんだけど……」、スイッチを入れたり切ったりするような意識状態が、その日いっぱい続いた。
 その後、妻は急速に快復し、翌日には、大幅な繰り上げ退院となった。

 後日。百錠の薬を飲むのは本当に大変だった、と妻が漏らした。どうしても死ななければならない、と思ったという。そんなに頑張って死ななくてもいいだろう。生きていると、何かと楽しいこともあるし……。明るい喫茶店の片隅で、奇妙な会話を交わしながら、私たちはアフタヌーンティーを啜っていた。
(2008年)






 痔は、厄介な病である。
 人によっては人生最大の危機、と感じる場合もあるようだ。
 私などが痔と聞くと、
「お前の〈持病〉は〈痔病〉だから、〈主治医〉も〈主痔医〉というところだな」
 などとつい茶化してみたくなる。だが、実はそのへんに痔を患う者の辛さがある。
 痔は、疾患の場所が場所だけに、他人からは格好の揶揄、嘲笑の餌食となる。たとえ信頼できそうな人に打ち明けたとしても、
「ああ、大変ですね。お気の毒に」
 ひどく真顔で同情してくれるのだが、よく見るとその唇の端が笑いを堪えて震えている。つまり痔の患者は、痔の痛みと同時に、この種の屈辱に耐えねばならないのである。
 その痔の痛みだが、患った者にしか分からない、とわが友人は断言する。彼は痔瘻で、三カ月の入院生活を経験した、いわば痔のスペシャリストである。
「そりやぁおまえ、焼け火箸をやな、肛門にグイッと押しつけられたような痛みや。それが肛門から脳天にかけて一直線に突き抜けるんや。もう痛い≠ネんていうレベルの問題やない」と。
 彼によれば、痔の悲劇はその診察にあるという。患部を診てもらうためには、医者や看護師を前に、屈辱的な姿勢をとらざるを得ない。分かりやすくいえば、日当たりのいい縁側で、ネコが伸びをするようなポーズだという。つまり、パンツを脱いで、四つん這いの姿勢で肛門を高らかに突き出すのだ。うら若き女性の場合、そんなことをするくらいなら死んだ方がまし、と考えるのも頷ける。
 だから彼女らは、限界まで我慢に我慢を重ね、恥ずかしいなどといっていられない重篤な状況に陥って、初めて病院を訪ねる。しかもみな、例外なく腹にたっぷりと便を溜め込んでいる。肛門が痛くて排便ができないのだ。便は、すでに肛門付近でガチガチに固まった糞石と化し、乱暴な例えだが、シャンパンのコルクのごとく、不用意に人に向かって抜くと、暴発しかねない様相を呈している。痔とは、悲劇と喜劇が交差する、誠に気の毒な病なのである。
 かつて私の上司に、鬼軍曹という異名を持つ佐々本氏がいた。佐々本氏の背中には、「常務取締役東京支店長」という重々しい肩書きが貼り付いていた。その役職に違わず、誰もが認める辣腕家で、その厳しさも並大抵ではなかった。
 社員が風邪で会社を休もうものなら、
「なにィーッ、風邪? 精神がたるんでる証拠だッ! 死んでしまえッ!」
 と吼え、また、それが二日酔いだと、
「バカヤローッ! 這ってでも出て来いッ!」
 電話を取り次いで報告した者が返り討ちにあい、萎縮している姿を幾度となく目にしてきた。
 ただ、彼が周囲から一目置かれている点は、他人に対する厳しさもさることながら、自分自身をより厳しく律しているところにあった。つまり佐々本氏は、旧帝国陸軍歩兵隊長のような気概の持ち主で、堅牢無比な精神力で人生を処してきた、いわばサラリーマンの鑑≠ナあった。
 その佐々本氏が痔を患った。
 彼は持ち前の根性で痛みに立ち向かい、ついには努力、忍耐、気迫と、ありとあらゆるものを総動員し、耐えに耐えた。
「女房のヤツ、陣痛の方が痛いとぬかしやがった……」
 にわかに反撃に出た奥さんに、気焔を上げていたあたりまではよかったが、気力で持ち堪えていた佐々本氏にも限界がきた。
「クソがノド元まで逆流してきた」
 ついに病院へ行く決意をした。だが彼は、会社を休んで自宅近くの病院へ行くことはしなかった。這うようにして会社に来て、会社の近くの病院で手術を受けたのだ。病院までは、歩いて十分足らずの距離だったが、一時間近くもかかって戻ってきたという。
 やっとの思いで会社に辿り着いた佐々本氏は、関ヶ原の合戦に敗走し、ただ今帰陣した、といった形相で事務所の入り口に立った。顔面蒼白で、脂汗を流している。
「大丈夫ですか、支店長!」
 駆け寄った社員の声は深刻だったが、彼らの口元は完全に緩んでいた。佐々本氏は弁慶の立ち往生さながらの形相で、
「寄るなッ! 俺に触るな。いいか、触るな!」
 遠巻きにする社員を制しながら、ソファーに崩れた。正しくは、しがみつくような格好で取り縋った。痛みのあまり腰掛けられなかったのだ。いつもの怒髪天を衝く勢いは、完全に失せていた。さすがの軍曹も、その日は電車での帰宅かなわず、社員が運転する車で送り届けられた。後日、送っていった社員によると、佐々本氏は座席に座ることができず、運転席に背を向け立ち膝で後部座席にしがみついて呻吟していたという。
 かのフランスの英雄ナポレオンも痔を患っていた。一説によると、ワーテルローの戦いの敗因は、この痔の悪化にあったといわれる。ナポレオンの陣頭指揮にさえ支障をきたすこの難物、佐々本氏が屈するのも致し方ない。
 だが佐々本氏、毎朝、命がけの排便を強行し、奥さんの生理用品を股間に挟みながら、とうとう会社を休むことなく出勤を続けた。部下に範≠示したのである。以降、私たちは佐々本氏のことを「水戸黄門」ならぬ「痔と肛門」、「コーモン様」と陰ながら崇めたのはいうまでもない。
 手術から数日後、佐々本氏の役員用の椅子に、真新しい座布団が載った。役員の椅子は、多少ふんぞり返っても、ひっくり返らないような重厚な構造になっている。座布団のことを尋ねると、娘からだ、と照れくさそうにしている。よく見ると、その座布団の真ん中には、赤い糸で刺繍が施されていた。小さな文字で「G」とあった。何かのイニシャルか、と思った途端にひらめいた。それは「ジー」でありつまり、「痔」を意味していた。しかも刺繍糸の色が黄でも青でもなく、色鮮やかな赤であった。
 娘は、父親の滑稽とも思える苦悩を間近に見ていた。初めは笑っていただろう。だが、苦痛に歪む父親の顔を見ているうちに、ただならぬものを感じ取った。
 私は、そのふかふかの座布団に家族の温もりを認め、ふいに胸が熱くなった。同時に、当時高校生だったお嬢さんの、卓越したユーモアに脱帽したのである。

 過日のこと。
 私があまりにも痔、痔、痔とキーボードを叩いたものだから、さすがのパソコンも嫌気が差したか、〈地酒〉を出そうと変換したら、〈痔裂け〉と出てきた。
「何だッ!」
 衝撃的な字面だった。
 ディスプレイに現れたその痛々しい文字に、私なりに多少とも痔の痛みを理解し、佐々本氏の痛恨を実感した気がしたのである。
(2009年)



二艘の小舟


「どうやら、おいら、うつ≠轤オい……」
 それまで年賀状のやりとりだけだった学生時代の友人からメールが届いた。平成十五年のことである。まもなく三人目の子供が生まれる。しばらく会社を休んでいるが、辞めることになるかも知れない、とあった。
 私は、良二からのメールを前に、天井を仰いだ。何か言葉を返そうとパソコンに向かうが、真っ白いディスプレイを見つめたまま指が動かなかった。
 四十三歳、臨月の妻と幼子二人、うつ病、失職……。絶望するなということ自体、無理がある。だが、安易に「頑張れ」とはいえない。「頑張らなければ」という気持ちが良二を押し潰しかねなかった。
 良二とは学生時代の二年間を、京都のアパートで過ごした。まわりが関西人ばかりの中、私が北海道出身で良二が東北だったという親近感から、すぐに打ち解けた。
 そのころ良二は、古美術研究会なるサークルに所属していた。
「何だか骨董屋みないたいな名前だな」
 とバカにしていたのだが、あるとき良二の書いた仏教建築の研究発表を目にし、衝撃を受けた。その前書きに、「薬師寺の三重塔に足げく通ううちに、塔を見に行く自分が、いつしか塔に会いに行く自分に変わっていた」と書き出されていた。行間から溢れるその瑞々しい感性と、卓越した筆力に圧倒されたのだ。
 良二には、何を仕出かすか分らない一面があった。私がいないことを知りながら、北海道の私の実家を訪ね、
「今、お前の家で飲んでるんだ」
 と電話をよこしたこともある。酔ってひどい怪我をしてアパートに帰って来たこともあったし、家賃の滞納も並外れてひどかった。良二は、一見、自由気ままに生きているようだったが、その生き方がどことなく危うい、生き難い人生と不器用に向き合っている印象があった。
 二回生の終わり、良二がアパートを引き払った。お寺に寄宿しながら、修行僧まがいの生活を始めたのだ。以来、良二との音信は途絶えた。
 東京の会社に就職して五年目、私は偶然にも良二との再開を果たした。東京の生活にも慣れ、学生時代を懐かしむ余裕が出てきたころ、良二のことが気になりだした。岩手の実家の住所をうろ覚えに記憶していた私は、NTTの番号案内に請い、四十軒ほどあるという同姓の中から、無作為に三軒の電話番号を教えてもらった。その最初の一軒目が、偶然にも良二の親類だった。
 良二は、大学在学中に母親を亡くし、その後、事業に失敗した父親と義絶状態になっていた。今は結婚して千葉県におり、妻の姓を名乗っているという。電話口に出た年配の女性が、言葉を選ぶような口調で、良二の消息を教えてくれた。学生時代の良二の家賃の滞納やお寺での寄宿生活は、父親の事業の失敗や母親の病死に関係していたのだろう。
 昭和六十三年、私は良二と卒業以来五年ぶりの再会を果たした。良二はすっかり垢抜けた東京のビジネスマンになっていた。そのとき私は、結婚前の妻を伴っており、翌年の私の結婚披露宴には、良二夫婦も招待した。
 その後、お互いに忙しかったこともあり、年賀状のやりとりだけになっていた。そんな良二からメールが届いたのだ。昭和六十三年の再会から、十四年が経っていた。

 その後、良二は私の提案を受け入れ、精神科を訪ねた。その報告のメールの最後に、
「ああ、とうとうおいらも、精神病者だ……」
 と嘆息まじりの呟きがあった。良二の気持ちが私の胸に突き刺さり、パソコンのディスプレイが涙で歪んだ。実はその時、私も良二と同じ苦悩を抱えていた。
 平成九年十二月、気分の落ち込みを訴え、身動きのとれなくなった妻を伴って、私は精神科を訪ねていた。
 その日を境に、私の生活が一変した。料理の雑誌を傍らに置きながらの食事作り。風呂のお湯はまだ大丈夫か。洗濯物はどうなっている。学校の保護者会はいつだ。冬休みが始まる。正月はどうすればいい。その前にクリスマスがくる。忘年会は……頼れる身内がいなかった。ひとり娘は小学二年だった。
 妻が入院して一カ月が過ぎたころ、それまで我慢を重ねていた娘の糸がついに切れた。
「ママに会いたいよー……」
「ママのご飯が食べたいよー……」
 寝かせつけている蒲団の中で、毎晩のように泣く。
 妻が退院してほどなく、娘が私の耳許でささやいた。
「ねえ、ママ……なんかへん。本当のママじゃないみたい……」
 抗うつ薬の影響もあいまって、妻は魂が抜けたように生気を失っていた。私は娘を強く抱きしめながら、
「ママはまだ調子が悪いんだよ。……そのうちに元気になるよ」
 小さな娘の背中の陰で、溢れる涙をそっと拭った。
 あれから十二年、当時八歳だった娘も大学生になった。私は、サラリーマン生活の中で転勤はおろか出張も残業もできなくなり、子会社へと出向になっていた。妻は十二回の入退院を繰り返し、喘ぎながらも治療を続けている。妻の症状は、ゆるやかに改善されてはいるが、数年前までは私に対する強い不信感や苛立ちが現れていた。
「女がいるんだろ。白状しろッ!」
 私の胸元で包丁が鋭く光る。それが落ち着くと、一転、激しい自責の念に苛まれる。
「どうして私はいつもこうなんだろう。これも病気のせい? もうイヤ、こんなこと……」
 肩を震わす妻の背に手を置いて、
「大丈夫だよ。今は調子が悪いんだ。ここを抜けたら楽になるよ……」
 妻の傍らで、そっと呟く。
 妻は時として深い絶望感に襲われ、衝動的に処方されている薬を大量に飲む。その量が百錠におよぶ。午前二時や三時に救急車を呼んだこともあったし、十二月三十日の夜に緊急入院したこともあった。傍らで眠る妻を見ながら、このまま朝まで気づかなかったふりをすれば、間違いなく死ぬだろう、と頭から蒲団をかぶったこともあった。だが、見殺しにはできなかった。これまでに七回、病院へ運んだ。
 妻も娘も私も、それぞれに「どうして私だけが……」という思いにしばしば立ち止まる。「こんなはずじゃなかった……」とお互いに思いながら、幸せって何だろうと考えている。
 妻はワンクール七回、二度にわたる電気痙攣療法を経、その間、平成十八年には精神障害者の認定を受けた。「私は病気なんかじゃない。病気なのはあなたの方でしょう」といっていた妻が、やっと病気を受け入れたのだ。妻の開き直りは、僅かながら病状の安定をもたらした。

 病院へ行き始めた良二からは、ポツリポツリと連絡が来るようになった。三人目の子供が無事に生まれた、との知らせもそんなメールのひとつだった。良二自身も一年間の休職期限が切れたあと、営業から事務職へ配置換えをしてもらい復職していた。それでも些細なことが刺激となり、頭がパニックになるという。
 二艘の小舟が荒波に翻弄されつつ、互いに声をかけ、励ましあいながら凌いできた。学生時代に飲んだくれてバカをやり合っていた我々が、二十数年を経て、助け合いながら歩むことになるとは思ってもいなかった。
「おーい、だいじょうぶか」
「今日、娘たちと餃子作ったぞー」
「無理するなよ」
 そんなメールのやりとりをしながら、次々と立ち現れるうねりをやり過ごしていた。
 平成十七年の暮れ、良二は早期退職制度に従い会社を辞め、自宅の近くにガラス工房を開いた。インターネットでガラス彫刻の販売を始めたのだ。私も贈答用にマグカップを何度か作ってもらい、会社の創立記念品もワインボトルに彫刻を施したものにした。電話での打ち合わせも頻繁に行い、時々、一緒に飲むこともあった。医師からは、もう薬はいらないでしょう、といわれるまでに回復していた。
 良二のガラス彫刻は評判がよく、地元のラジオ局が取材に訪れるほどだった。だが、良二の収入は、一家を支えるには程遠かった。

 平成二十一年十月、長野県の山中で良二が発見された。林道に止めた車の中で睡眠導入剤を飲み、練炭自殺を図ったのだ。
 良二の妻も良二の異変には気づかなかった。数日前に良二から届いたメールにも、なんの予兆も感じられなかった。ブログもいつものペースで更新されていた。
「――ずるいよ、逃げちゃうなんて……。卑怯……」
 良二の死を知らせる電話口で、良二の妻が声をふるわせた。
「衝動的じゃないわ。良二さんは周到に計画していたのよ。私にはその気持ち、わかるわ」
 妻がポツリと呟いた。
「死のうと思うんじゃないのよ。うつがひどくなるとね、この世から自分の存在を消したくなるの。結局、死ぬことと同じなんだけど……でも違うのよ」
 良二の死は、私の妻にとっても体調を崩すほどの衝撃だった。
 高三、中三、そして発病後に生まれた六歳の三人の女の子を残し、良二はまた何もいわずに去って行った。四十九歳六カ月の生涯であった。
「セッちゃん、だいじょうぶか」
「今日、下の娘の入学式だったの」
 二艘の小舟は、大きな荒波を乗り越え、再び沖へと漕ぎ出している。
(2010)



近藤 健 (こんどう・けん)
1960年北海道様似郡様似町生まれ。83年龍谷大学法学部卒業。同年、北日本石油梶i東京)に入社。
・03年4月 「祝電」 第8回 随筆春秋賞 最優秀賞
・04年8月 「昆布干しの夏」 第10回 小諸・藤村文学賞 優秀賞
・09年1月 「妻の生還」 第4回文芸思潮エッセイ賞 優秀賞
・文藝春秋刊『ベスト・エッセイ集』収録作品 05年「警視総監賞」、06年「昆布干しの夏」、08年「介錯人の末裔」、09年「増穂の小貝」