黄泉の島 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 古倉節子



 久米(くめ)島は今では沖縄本島から 南西へ飛行機でたった二十五分の距離の小さな島である。透き通ったブルーの海と白い砂浜が島を包んでいる。人口は戦後減少する一方で、当時でも千人いなかったかもしれない。

 久米島には戦争当時二つの村があった。西の具士川村(ぐしかわそん)、東の中里村(なかざとむら)である。私たちの家族は具士川村の大田村(おおたむら)に住んでいた。

太平洋戦争開戦の三年前、那覇から具士川村の上洲村(うえずむら)に、ある朝鮮人家族が引っ越してきた。谷川さんというその一家は七人家族で、昇さん、妻のウタさん、長男の和男さん、長女の八重子さん、二男の次男(つぐお)くん、二女の綾子さん、あと四歳の男の子がいた。長男の和男さんは当時小学四年生で私と同じ具士川国民学校だった。当時私は二年生だった。和男さんは成績優秀ですぐによく知られるようになった。学芸会での和男さんの独唱する姿が今でも目に浮かぶ。声が大きく明るくて美しかった。

 父の昇さんは、一九四一年の開戦前まではよく私の家を訪れていた。谷川さんの家は村で雑貨商を営んでいたが、貧しく雑貨商の収入だけでは生活に十分ではなく、空き缶収集を仕事の合い間にして補っていた。裕福でやさしかった私の母は生活の苦しい昇さんによく食事をすすめていた。昇さんが遠慮がちにうまそうに膳に向かっているのをときどき目にした。母は、帰りは必ず白い布袋に米を持てるだけ詰めて持たせてやった。

そんな日もつかの間、戦争が始まり、沖縄の空気も変わっていった。

昭和二十年になると、アメリカの飛行機がときどき飛ぶようになった。春になるとアメリカ軍が迫っているという噂が流れ、アメリカ兵が島に上陸してくるという話が私たちを不安にした。日本軍の守備隊が島にやって来て、二十七人の軍部隊が配備された。鹿山(かやま)という隊長だった。鹿山にはきれいな女性がいて、島で子供までできた。

 三月下旬に海からすごい音が聞こえてきた。地響きがすごくて家が壊れそうだった。昼も夜もつづくそのすさまじい音でろくに眠れなかった。アメリカ軍の艦砲射撃の音だった。それがみな沖縄本島に向かっているとは知らず、もういつ死ぬかと思った。

 アメリカの飛行機からビラが撒かれたが、軍の命令で拾えなかった。

 特攻隊の飛行機が米軍の飛行機に追われて海に墜落するのを見た。四月、沖縄本島に米軍が上陸し、すさまじい戦いになっているということだった。私たちの島にもいつ米軍が上陸してくるかとみな不安に襲われた。米軍が上陸してくれば、二十七人の守備隊ではどうにもならない。女は犯され、子供も殺されて皆殺しになると噂された。

 戦々恐々としたまま、しかし何事もないままに夏が来た。その間沖縄本島では日本軍が降伏し、米軍が本島を支配したという話が伝わってきた。

 そのまま八月が来て、日本は太平洋戦争で降伏した。日本は負けたというビラがアメリカ軍の飛行機からまかれた。しかしそのビラを手にする者はスパイ扱いにされるので触れもしなかった。島はまだ日本軍の守備隊が支配していた。

 まもなくアメリカ軍が島に武装解除に来るという噂が広がった。パニックはそのとき起こった。終戦直後のできごとであった。島の日本軍の守備隊は敗戦の怒りを民間へ向けた。暑さと敗戦とで狂ってしまったようだった。守備隊は前ぶれもなく村へ入り、怒りの衝動の矛先を朝鮮出身の谷川一家へ向けた。

まさか谷川一家が虐殺されるとは予想だにしなかった。軍が谷川さんの家へ押しかけた。長男の和男さんは四才の幼児をおぶって逃げた。しかし兵隊に後ろから追いつかれバサリと切り殺された。近くのガジュマルの大木の下で二人は死んだ。残る家族は月夜に入り、浜辺へ引かれていって、そこで殺された。

 村の人たちは、軍の行動におびえ、身を隠すだけで精いっぱいだった。

 さらに兵は他の具士川村の他の村、大原北原村へ向かった。

 この村でも二家族が家の中に閉じこめられ、そのまま火を点けられて焼き殺された。生き残った新垣家の親族は当時を思い出しながらおそるおそる話してくれた。軍は赤ちゃんを持ち上げ、刀で切ってから炎の中へ投げ入れていた。これ以上中年婦人は言えず、深呼吸をくり返すばかりだった。

 他にも二十五才の若い仲村さんがスパイと見なされて殺された。海からはアメリカの攻撃、陸からは日本軍が民間人をスパイよばわりして追いかける。戦争中よりおそろしい終戦であった。

 港へ入るアメリカ軍に接近したといって仲村さんはスパイ扱いされた。仲村さんは英語が堪能だったらしくアメリカ兵とやり取りしていたのを見られ、不運だった。夫が殺されたことを知り身重の仲村さんの妻は入水自殺してしまった。



 それから終戦五十年目のことだった。韓国の谷川さんの弟さんと妹さん二人が、谷川さん一家の霊を弔いに訪れた。

 沖縄戦でも多数の朝鮮人が犠牲になっている。ちょうどこの年、糸満市で行われた慰霊祭で、韓国人慰霊塔がマビニの丘に建てられた。その式典に出席するため、保安課の招きで多数の朝鮮人遺族が来日したのだった。その折、谷川さんの弟さん妹さん二人は久米島まで足を伸ばした。

久米島での日本軍による虐殺事件は長い間封印されたままだった。しかし当時谷川さんの家の隣りに住む、今は村の収入役をしている東江(あがりえ)さんがその当時を克明に語ってくれた。あのいまわしい状況を語るのはつらく、ずっと固く口をとざしてきた。しかし、韓国から遺族が来て、話さないではいられなかった。

 東江さんの話を聞いた後、二人は谷川一家の住まいのあった方向に平伏して号泣した。なおしばらくの間さらにしぼるように泣き続けた。やがてあのいまわしい悲惨さをかみしめるように、谷川さんの弟はゆっくりと島の人たちに向かって言った。

「これは戦争のしたことだし、今更どうにもならん。まあしかたないし、もう恨みようがない。みなさんすっかりお世話になりました。ありがとうございます」

 最後に島の人たちへ深々と頭を下げると谷川家族の死んだ浜辺を歩きながら当時をしのぶようにもう一度涙を流し、その日に島を離れるとともに谷川一家の遺骨を引き取っていった。

糸満のマブニの丘には「平和の礎(いしじ)」が建立されていて死者の名が刻まれている。

 私は平和の礎に行きづらかったので長いこと行けずにいたが、そのとき思い切って「礎」へ行った。その「礎」に谷川一家の名を見つけようと必死だった。

 やがて私の村の名とともに、谷川一家の人々の名が目にとびこんできた。それを見てどっと涙が溢れてきた。刻まれている名に顔を近づけ、目を血のようにしてその名に見入った。

 私の記憶の中にいちばん鮮やかに息づいているのがお父さんの昇さんが私の家で遠慮がちに食事をする姿だった。

 谷川一家のひとりひとりの名を私は手でなぞっていた。昇さん、妻のウタさん、長男の和男さん、長女の八重子さん、二男の次男さん、二女の綾子さん、そして四才の幼児……。 

 あの当時の和男さんが歌った「田植」の歌がきれいな声で私の耳もとへこだましてきた。



 揃った出揃った早苗が揃った

 植えよ植えましょ御国の為に

 今年豊年 穂に穂が咲いて

 道の小草も米になる