再出発・・・・・・・・・・北内通雄
私は徳島県に生まれ、いまは静岡県西部の小さな町に住んでいます。交通事故の後遺症で、視野と嗅覚に障害があります。
その日は人形劇の野外公演を終え、帰宅中でした。全く走ったことのないまっすぐな道を四〇〇tのオートバイで走っていました。すると突然の急カーブで、私は曲がりきることができず橋のコンクリート部分に頭部をぶつけてしまいました。
二十歳を二週間後に控えた十一月の夜でした。
私はヘルメットを被っていませんでした。一週間ほど前に盗難に遭い、普段ならふたつあるはずのヘルメットが一つしかなく、後ろに乗せた友達に被ってもらったからです。オートバイで事故をすると、後ろに乗っている人が怪我をすることが多いと聞いていました。
橋の下は小さな川でしたが、その友達が私を道路まで引き上げ、近所のお宅から救急車を呼びました。直ちに入院。二十日間意識不明でした。
後で聞いた話では、救急車の中で血をたくさん吐いたそうです。また、病院では、「殺してくれ」とわめいたようです。
故郷の徳島から両親とおじさんたちが車で駆けつけてきました。四十日後、無事退院できました。
しかし、視野が狭くなっていました。また、匂いを全く感じません。そして、鏡を見ると、私の左目は下方へ下がり、左右の目の高さが違っていました。暗い日々が続きました。自殺を考えました。
そんな折、今の妻と出会いました。彼女は「あなたの目になってあげる」と言ってくれました。どんな愛の言葉より嬉しかったことを憶えています。
そして今、事故から三十年が経ち、私は四十九歳です。
右目は真正面から左側だけが見えます。左目は右側だけが少し見えます。両目の焦点は合っていません。左目は内斜視です。しかも強度の近視で、右目だけにコンタクトレンズを入れています。
脳神経外科医は、「症状は固定ですね」と言います。つまり、悪くはならないだろうけれど、よくもならないということです。
視野で身体障害者手帳の交付申請をしました。担当医は五級相当だと書いてくれましたが、県からの通知は「該当しない」でした。
歩いていて、物や人にぶつかってしまうことがよくあります。目を開けている間は常にストレスを感じています。
こんなことがありました。
ある会社では、「目つきが悪い」と出入りのトラック運転手に言われました。幸い、事情を説明して分かっていただきました。
こんなこともありました。
ある職場に、面接、論文と合格し、最後に適性検査を受けました。数学の問題を知能検査風にアレンジしたものでした。私は、大学の専攻は法律ですが、高校三年生まで理科系にいたので、数学にはちょっと自信がありました。ところが、受けてみると全部が時間切れになるのです。横書きの文章を読むのが極端に遅いので、問題の意味を理解するまでに時間がかかりすぎるのです。
結果は不合格でした。
数年前、脳外傷友の会「しずおか」という家族会があることを新聞で知りました。交通事故や病気で脳に障害があり、後遺症を抱えている人たちの集まりです。私は入会しました。そこでは、年三回発行の会報の編集を担当しました。横組みでしたが、無理を言って、縦組みにしてもらいました。
現在、私は娘がふたりいます。市の臨時職員として働いています。バイトも勘定に入れて、六つ目の職場です。
後遺症のせいで気後れするからだと思いますが、なかなか自信が持てませんでした。人と面と向かって話ができませんでした。しかし、やっと自分に合ったものを見つけました。
それは文章を書くことです。
知人主宰の同人誌、出版社の日記マガジン、人形劇の業界新聞などに原稿を書いたことがあります。また、自分の思いを短文にして友人知人に毎月送っています。
文章を書いていると、あらぬ方向へ進んでいって、あれ、私はこんなことを考えていたんだと驚くことがあります。それらを一つのまとまりある文章にしていくことは、快い作業です。書きながら考えるという方法が、私には合っているように思います。それに、自分の文章を誰かが読んでくれるという事実に、私は満足します。
振り返ると、高校時代にはレタリング、大学時代には校正の通信講座を受け、印刷会社の営業、業界雑誌の編集、書道やパソコンの勉強をしてきました。これらは私の中ではひとつに繋がっています。日本語を扱いたいという強い思いです。
書くことは「行動」ではない、だから、全うな大人が取り組むべきものではないと思う気持ちがありました。しかし今は、書くことが自信になっています。