・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 来島徹

 

 

 私の姉は耳が聞こえなかった。

 私がもの心ついた頃にはもうそうなっていた。発音が少しおかしかったから、私は姉を疎んじ、母親から姉に付き添っていくように頼まれた時など、極端に嫌がった。まだ、子供だったから仕方がないといってしまえばそれまでだが、今もって、悔まれる。

 それでも、姉は姉として、弟の私をかわいがってくれた。一緒に遊んだいくつかの楽しい思い出もある。

 母の話によると、姉は二歳頃に高熱を発し、その後、耳が聞こえなくなったようである。そのことに気づいたとき、母は半狂乱のようになって、あちらの病院、こちらの病院と駈けずり回った。

「家が今もって貧乏なのは、その時、たくさんのお金をつかって、借金ができてしまったからなの。」

 と母は云った。

 何処の病院へ行っても、治療の見込みはないと判った時、姉はもう六歳になっていた。

 姉は二歳の時に聴力を失ったわけで、ことばを知らない。ただ「アー」とか「ウー」とかいう声を発するだけである。親ならだれしも、この子が早く大きくなって、自分に話し掛けてくれるようになったら、という願いを持っている。親のこうした願いは完全に裏切られたわけである。母の苦悩、悲しみはいかばかりであったろうか、と思う。

 母はこの段階で、重大な決意を迫られることになる。すなわち、子どもを自分の手許から引き離して、聾唖学校に入れるかどうかということである。まだ六歳そこそこの子どもである。もう少し後で、というのが親心であろう。しかし、教育は早い方がいい。

 聾唖学校の寄宿舎の一室から、泣き叫ぶわが子を後に残して、母は走り出たのだという。

 今になって解るのだが、母は偉かったと思う。親というものは、時には心を鬼にして、子どもの幸せのためにしなければならないことがあるのだ。

「かわいい子には旅をさせよ。」

 古いことばである。だが、かわいい子に旅をさせたがらない親のいかに多いことか――。

 母はそれから泣き暮らした。あの子は今、どうしているだろうか。そう思うだけで、涙が溢れた。

 ことばを知らない子どもに、どのようにしてことばを教えるのか、私は知らない。おそらく、ひとつひとつの発音を、口の開き方、舌の位置、息の出し方から教えていくのであろう。想像するだに大変な努力である。そうして、この音とこの音を組み合わせると、こうしたものを表すことばになるということを教える。これもまた大変な作業に違いない。

 待ちに待った夏休みが来た。

 母はいそいそと学校へ子どもを引きとりに出かけた。姉は母の顔を見るなり叫んだ。

「オカアサン!」

 生まれて初めてのわが子のことばであった。母はうれしさのあまり、姉を抱きしめ、床に座り込んで、声をあげて泣いたという。そうして、家へ帰ってからも、一晩中、子どもを抱いて、泣いていた。

 まことに、教育とは偉大である。

 

 私の姉は耳が聞こえなかったが、私がもの心ついた頃には、普通に何でもしゃべれるようになっていた。聾唖学校の教育のお陰である。

 長ずるに従って、新聞も読むようになっていたし、数学などの成績は群を抜いていたようである。読唇の能力にも長けていて、ゆっくりと話せば、たいていのことは理解できた。

 だから、耳が聞こえないという点を除けば、日常生活には何の支障もなかったといっていい。

 ただ、姉のような障害を持つ人に共通していることなのかどうか、少々、依怙地な面があった。平たくいえば、融通が利かなかった。それは当然といえば当然のことで、耳が不自由なだけに、経験の巾がどうしても狭くなるからである。要らぬ雑音も入ってこない。それだけに別のいい方をすれば純粋であったといえる。

姉には悪意といったものが、全くなかった。人の悪口をいったりすることはついぞなかったし、自分とあまり関係がないと思われる人の不幸にでも、涙を流した。学校で教えられたり、しつけられたりすること以外の、無用の知識を、姉は持ち合わせていなかった。

 私が道端に紙くずを捨てたりすると、

「拾いなさい!」

 といって、きつく叱った。

 現代の社会には情報が氾濫している。情報選択の能力を持たない子どもたちは、そうした情報にどんどん毒されていく。そうして、いいわけや、ずるさだけを身につけていく。

 そうした意味で、姉は幸せだったといえる。人を疑うといったことにも、全く無縁であった。

 姉は相変わらず学校に通っていたが、そうした姉にも、やがて思春期が訪れる。同じ学校で職業訓練を受けていた三歳年上の男性と、相思の仲になったようである。どこかの校長の息子だということであった。同じように耳が不自由であったが、誠実そうな、思いやりのある男性で、周囲の人たちも大いに賛成であった。その時、姉はちょうど二十歳であった。

 私は当時、中学三年生だったように記憶している。ある程度の分別もできていたから、あまり幸せとはいえなかった姉にやっと訪れた人生の春を、心から祝福したい気持ちであった。

 だが、姉の運命はあくまで過酷であった。結婚の日取りも決まり、結納も終わったある日、姉はまた突然に高熱を発し、ひきつけを起こしたのである。

 何人かの医師が往診したが、原因は不明であった。私は割箸にガーゼを巻いて、舌を噛まないようにあてがい続けた。

 三日三晩、彼女はひきつけた。父も母も右往左往するばかりであった。今なら、さしずめ救急車で病院ということになろうが、当時のこととて、それもままならなかったようである。

 今もって、不思議に思うのだが四日目の午後二時ごろであったろうか、姉のひきつけは収まって、意識を取り戻したのである。彼女は私を見つめ、手をあげて私の頭を撫でた。そうして、

「ハヤク、オオキクナリナサイネ」

 といったのである。姉の意識が戻ったのはそのほんの一瞬で、しかも、死の直前であった。

 そのこと自体も不思議であったが、彼女のことば自体も、謎めいている。おそらく、彼女は過去の中に帰って、私の姿に幼かった頃の弟の姿を認めたのであろう。それにしても、このことばには決別の意味が含まれている。彼女はあのような状態の中で自分の死を悟っていたというのか――。後になって、そのことに気づいた時、私は愕然とした。

 私はあくまで不幸であった姉の人生について思う。そうして、そんな姉をあまりにも疎んじてきた、少年時代の自分を憎む。

 婚約者の男性は、死者の側を離れようとはしなかった。みんなが泣いた。そうして、姉をつかんで離さなかった運命の、あまりの過酷さをのろった。あんなにも正直で、心やさしかった姉に対する理不尽な運命を憎んだのである。

 それからしばらくして、私は教師への道を選んだ。