世情不安と宗教・・・・・・・・・・・・・・・・・・河井龍夫



 前の衆議院議員選挙で、創価学会と表裏一体の公明党は惨敗し、党首までも落選の憂き目を見た。現職の党首が落選するなど、ざらにあることでもあるまいし、その為体(ていたらく)は悲壮と云うより、むしろ滑稽にさえ思える。つい何年か前まで、教団信者の集会日なのか、創価学会真庭会館の前を通れば、氏神様の縁日さながらに賑わっていたのに、今は人影も疎らで、一頃の活気は、すっかり影を潜めた。このことは、教団自体、曾ての絶対的な動員力・求心力を失ってしまったばかりでなく、海老で鯛を釣るが如く、切実な年金問題などを餌に、国民を甘く見た場当たり的なマニフェストしか編めない公明党のいい加減さに国民は辟易して、愛想を尽かしたとしか思えない。
 信者らは布教のことを『広宣流布(こうせんるふ)』と称しているが、彼らの布教方法は日蓮宗の開祖日蓮が辻説法で他宗旨・宗派を徹底的に攻撃した『折伏(しゃくぶく)』の域を遥かに逸脱し、数を頼んで、しつこく、手段を選ばず、常識に反して、何人が見ても目に余るものがある。
 因みに『折伏』とは、他人の信仰を根本から否定しながら、威圧的に論破して、己の誤った信仰を悟らせ、悔い改めさせて導く方法のこと。他人の信仰談義に対して謙虚に耳を傾け、噛んで含めるように諭して導く方法の『摂受(しょうじゅ)』とは対をなす。
 教団は教勢挽回のマニュアルでも拵えたとみえ、その傾向は信者の布教・選挙運動の方法で、最近、特に著しい。少なくとも、私の目には、そう映ってしかたがない。
 私も、実際、被った体験だが、信者は『現世利益(りやく)』・『王仏冥合(おうぶつみょうごう)論』を声高に振り回し、私が入信・党候補への投票を拒否すれば、たちまち恫喝紛いの言葉で威圧し、それを正しいとする行動諸々で超肥満化した教団を脱するものが私の周りにも見られる。
 つまり、教団も公明党も、『月満つれば、即ち虧く』(現実には、月は虧けても、また満ちるが……。)との諺通り、退勢モードのスイッチが入ったのは、先ず間違いあるまい。
 今、思えば、まるで夢幻(ゆめまぼろし)のようだが、昭和四十五(一九七〇)年、轟々たる世間の非難を浴びた信者・党員による『言論出版妨害事件』を経て、教団の名誉会長池田大作と教団とが平成二(一九九〇)年と平成三年とに日蓮正宗(日蓮宗興門派から分立した一派)の総本山大石寺を、それぞれ破門された頃が教団・党の満月期ではなかっただろうか?
 私はマスコミや周りの信者の言動を通して、そんな教団・公明党の衰退振りを垣間見、
「これで日本も少しはいい方に向かうかもしれんぞっ。」と、心豊かな期待に浸っている。
 私が、そう期待するのは、洋の東西を問わず、古来、宗教の類いが政治・世相に跳梁跋扈する時は決まって真っ当な時代ではない。その類いの勢力に翳りが見える時、それらは穏やかさを取り戻す兆しをみせ、やがては、穏やかな時代が訪れている。
 いずれにしても、それが跋扈する時代背景は世情騒然・不安・不安定と云っても過言ではない。だが、私は、「世の中がそんな状態だから、それが跋扈するのか? それとも、それが跋扈するから、世の中がそんな状態なのか?」の相関関係は、「鶏の親は卵か? はたまた、卵の親は鶏か?」の他愛もない論判に似ていて、七面倒臭いから深く考えようとは思わない。
 ただ、宗教と政治が相容れないことは歴史が如実に証明しているところだ。
 少し、実例を挙げてみよう。

〇弓削道鏡による宇佐八幡神託事件

 女帝称徳天皇の寵を得た奈良時代末期の法相宗の僧道鏡が皇位を窺った事件。
 神護景雲三(七六九)年、道鏡の意で大宰府神官習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)らが仕組んだ、「道鏡を皇位に就ければ天下太平。」との宇佐八幡の神託を天皇に伝えた。天皇は夢枕で八幡大神に側近の尼僧法均を大宰府に遣わすよう求められて、法均の弟和気清麻呂を遣わし、阿曾麻呂らは清麻呂に圧力を加えた。清麻呂は、「天の日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。」との神託を伝えて、道鏡の野心を阻み、天皇崩御後、道鏡は下野国(栃木県)薬師寺の別当に配された。
 この事件を教訓に、真言宗の開祖空海(弘法大師)も天台宗の開祖最澄(伝教大師)も子弟らが市井の喧騒に巻き込まれることを忌み嫌い、遠く人里離れて、それぞれ高野山に金剛峰寺を、比叡山に延暦寺を創建した。
 政治と宗教の観点から、話は、少し逸するが、明治時代の黎明期、海軍元帥東郷平八郎は国家・国民の臣たる海軍の子弟が中央の垢に塗れることを懸念し、子弟の純正培養を期して、東京築地の海軍兵学校(海軍兵学寮)を、辺鄙な海辺の地、広島県江田島へ移設した。
 一方、海軍とは反対に、陸軍は東京市ヶ谷に陸軍士官学校を設立し、卒業生は陸軍将校(少尉以上の武官)の中核をなして、更にその中の一握りの英才(東条英機・武藤章・石原莞爾ら)は日本を満州事変→支那事変→太平洋戦争、つまり、日本が一方的に戦争の全責任を背負わされ、不条理な極東国際軍事裁判(GHQ連合国最高司令官総司令部♀ヌ理下の東京裁判)で云うところの『日本による十五年戦争』へと導き、未曾有の敗戦へと導いた。

〇十字軍の遠征
 十字軍とは、西ヨーロッパのカトリック勢力が十一世紀末(一〇九六年)から十三世紀後半に掛け、七回に亙って、聖地パレスチナへ差し向けた遠征軍。その目的はイスラム勢力の討伐とエルサレムの奪回にあった。三回目(一一八九〜一一九二年)以降の遠征は宗教上の理想より、地中海での政経上の思惑が最優先して、イタリア各都市に繁栄をもたらしたが、中東におけるイスラム勢力の軍事的最終勝利で、当初の目的は瓦解に帰した。

〇一向一揆
 室町時代末期に起こり、織田信長など戦国勢力と戦った宗教一揆の一つ。
 浄土真宗(一向宗)本願寺派は蓮如(本願寺第八世法主(ほっす))の行脚布教で、教勢は飛躍的に伸張し、やがて、寺を核に土着の武士や町場・惣村の民衆で教団を武装化するに至った。
 一揆の形態は地域・時代で異なるが、局地的な抗争では信者・非信者が一体になって蜂起した。社会的・経済的に進んだ北陸・東海・近畿では独自の自治を敷くところもあった。
 中でも加賀一揆は、長享二(一四八八)年、加賀南半国の守護富樫政親を高尾(たこお)城に攻めて自決させ、信者による自治領国を形成して、天正十(一五六八)年、信長の重臣柴田勝家に滅ぼされるまでの、凡そ百年間、自治統治した。
 また、実如(九世)期・証如(十世)期の一揆では、法主が開祖親鸞への忠節を説いて、蜂起させ、信者を戦国勢力との権益抗争へと駆り立てた。
 信長の天下統一の途次、最大の障壁となった顕如(十一世)は、永禄十一(一五六八)年、上洛中の信長から銭五千貫と寺域明け渡しを要求されて、反発し、証如が戦国大名の城域並みに要塞化した寺域を更に強化して、元亀元(一五七〇)年、宗門の存亡を懸け、北陸・東海・近畿の信者に徹底抗戦の檄を飛ばして蜂起させ、以降、十一年間の石山合戦(元亀・天正の戦い)で信長と頑強に戦った。天正八(一五八〇)年、正親町(おおぎまち)天皇の勅命で和睦し、顕如は紀伊鷲森に退いたが、長男教如は寺域に立て篭もった。この時、顕如の退去派と教如の立て篭もり派は、将来、東西の本願寺に分裂する因を内包した。
 ほどなく、寺院は焼失して、教如は寺域を逃れ、一世紀に亙った一向一揆は収束した。
 この収束こそ、戦国大名による武家政権樹立、のみならず世情安定の第一歩を意味する。
 その後の本願寺が東西に分裂した経緯の大略を見て、日蓮正宗と創価学会との経緯に似ている。また、戦国時代、本願寺が親鸞への忠節を説いて、信者を権益抗争へと駆り立てる様は、傍から見て、今日、創価学会が日蓮への忠節を説いて、信者を布教活動・選挙運動へと駆り立てる様に似ていないでもない。

〇宗教戦争
 十六世紀におけるカトリック世界での信仰上・教会体制上の宗教改革を機に十六世紀中頃から十七世紀に掛けて起こった武力抗争。ドイツのシュマルカルデン戦争・フランスのユグノー戦争・オランダ独立戦争・三十年戦争などが挙げられる。
 だが、いずれも、開戦時の宗教的な対立より政経的・現実的な思惑に支配された。
 なにも、これは昔話ではない。二十一世紀では、中東戦争・イラク戦争が、将に然り。

〇東学党の乱(甲午農民戦争)
 朝鮮の李朝末期で十九世紀半ば、宗教的霊能者(呪い師)による土着の信仰に仏教・儒教・道教を加え、西学(キリスト教)を排斥した教団東学の信者が朝鮮南部を中心に農民を煽り立てた反侵略・反封建の内乱。日本・清国はこの内乱鎮圧を口実に、朝鮮へ出兵し、日清戦争勃発の引き金となった。戦後、東学は天道教・侍天教などに分裂して、消滅した。

 改めて、戦争の歴史を振り返れば、宗教絡みの戦争が、なんと多いことか?
 だが、はっきり云えることは、如何なる宗教も世俗的な隆盛を続けた史実は皆無に等しく、宗教が世俗の野心を離れ、己が本来の在り様に立ち戻った時、例外もあるが、政治・世情は平穏を取り戻している。……と、決め付けてしまうのは、些か乱暴過ぎだろうか?
(2010)




【Profile】
かわい・たつお
昭和十四年生まれ。生き甲斐は東京裁判など諸々の不条理を暴き立てることと花園観賞。