三笠の山に出でし月かも・・・・・・・・・・・・・・・・・・十帖 田

 

 

 

小倉百人一首の百人の歌人の中で、歌を一首しか残していない人が二人いる。阿倍仲麻呂と喜撰法師だ。

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」

百人一首にある仲麻呂の歌なのだが、古今和歌集巻九の巻頭に登場する。

遣唐使となり若くして唐へ渡った仲麻呂は生涯帰国することができなかった。その彼の歌がなぜ古今和歌集に載っているのだろう。実はこの歌が仲麻呂の作ではないと思っている人は結構いるようなのだ。疑問点がいくつもある。なぜ一首だけなのか。歌が日本に持ち帰られたのなら、なぜ万葉集に載らなかったのか。その歌がどうして本人の作だと確認できたのか。それらを考えると、この歌は限りなく仲麻呂ではない。古今和歌集もそれを暗示するように安部仲麿としている。ではこれは誰の歌なのだろう。羇旅歌巻九の巻頭にあることを考えれば、かなり身分のある人物のはずなのだ。次の歌は百人一首にもある小野篁の歌だ。

私は私なりにこの歌の作者についての解答を持っているのだが、これが百パーセント真実だとは言い切れない。正解のないクイズはあまり振り向いてはもらえない。最後まで真犯人が分からない推理小説のようなものだ。

そこで視点を変えて、この歌が読まれた季節を考えてみたい。俳句には季語というものがある。月が詠まれていれば秋だ。しかしこの歌は、当時の常識として春だと思うのだ。万葉集に次のような歌がある。

「春日なる 三笠の山に 月も出でぬかも

佐紀山に 咲ける桜の 花の見ゆべく」

月も出でぬかもを、出でし月かも、と読む人もいる。仲麻呂の歌がこの歌をベースにしているというのは充分考えられることだ。では佐紀山とはどこにあるのだろう。奈良市の平城京跡のすぐ北に佐紀町という地名がある。仁徳天皇の皇后の磐之媛(いわのひめ)命陵や平城(へいぜい)天皇陵といわれるものがあるところだ。ここに山は見当たらない。この少し北の歌姫町に高台のようなものはあるが、少し東へ行くと佐保山らしきものがある。私は、佐紀山は佐保山のことだと思うのだ。書き間違いではなく、わざとそうしているのだ。このように、少し違って言うのは、当時は結構あたりまえのことだと思う。たとえば日本神話に出てくる神々は、いくつもの名を持っている。

佐保山は万葉集に何度か登場するが、佐紀山はこの一首しかない。

「阿保山の さくらの花は 今日もかも 散り乱るらむ 見る人無しに」

ちなみに、万葉集に一首しか登場しないこの阿保山も、佐保山のことだと思う。

「春日なる三笠の山に出でし月かも」が万葉集から採られたとすれば「天の原ふりさけ見れば」も万葉集から採ったと考えられないだろうか。山部赤人の長歌にも「天の原ふりさけ見れば」が登場する。

「田児(たご)の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不尽(ふじ)の高嶺に 雪は降りける」

赤人の有名な歌だが、この前の不尽を望める歌だ。

「天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲もい行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言い継ぎ行かむ 不尽の高嶺は」

天智天皇が病急なりしとき、皇后が詠んだ歌がある。

天の原 ふりさけ見れば 大君の 御命は長く 天足らしたり」

仲麻呂の「天の原ふりさけ見れば」は、この両方を意識していたと思われる。

これらのことから、仲麻呂の歌は誰かの病気や安否を心配していて、その人物は山部赤人に関係した人物だとは考えられないだろうか。

昔のことなので記録が何も残っていないと諦める必要はない。手掛りはそこら中にあるのだ。これらのことを知っていたと思われる人物がいる。古今和歌集にこの歌を入れた編纂者だ。勅命を受けたのは、紀友則(きのとものり)、紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)の四人だが、その中心は紀貫之だ。彼がこの歌について何かコメントしていないだろうか。彼の著書である「土佐日記」の中でこの歌を取り上げている。「天の原」と書くところを「青海原」としているのだ。これを隠されたメッセージだと考えない手は無い。青とは何だろう。私は青を阿保と考えた。阿保はアボとも読むが、アオとも読む。大阪府松原市にある阿保神社はアオジンジャだし、三重県にある阿保親王の墓はアオノシンノウだ。誰も信じないだろうが、私の回答を書いてみたい。古今和歌集の安部仲麿は阿保親王(あぼしんのう)なのだ。阿保親王とは、六歌仙で伊勢物語などでも有名な在原業平の父君だ。そして平城天皇の皇子でもある。阿部と阿保の語呂合せなのだ。

これを言うと石を投げられそうだが、平城天皇が山部赤人なのだ。山部皇子(桓武天皇)の赤子という意味で山部赤人としたのだろう。だからこそ、貫之は赤人の歌から「天の原ふりさけ見れば」を取り、阿保を知らせるために佐紀山を使った。万葉集の佐紀山は佐保山であり、佐保山は阿保山なのだ。当時の人は暗黙のうちにそれが分かったにちがいない。

ついでに喜撰法師の正体もはっきりさせておこう。まず百人一首で隣にいる小野小町に着目する。喜撰法師と小町の歌に「わが世」という共通した言葉が入っているのだ。小町は、六歌仙の五人の男のうち四人とまでもが噂されて、喜撰法師とは隣に並んでいるのに何の噂もないというのは逆に変だ。これを書くとミサイルを打ち込まれるかもしれないが、二人は恋人であり、喜撰法師の正体は阿保親王だったのだ。

垂仁天皇の皇子であり、天照大神を伊勢へお連れした倭姫の弟君である息速別命(いこはやわけのみこと)の墓は、阿保親王(あおのしんのう)の墓として三重県にあるが、まさに都の辰巳(南東)なのだ。宇治の喜撰山は誰が見ても都の辰巳ではない。

万葉集が平城天皇以後の時代に世に出たというのはほぼ定説だと言っていい。古今和歌集の真名序には「昔、平城の天子、侍臣に詔して万葉集を撰ばしむ」と書かれている。であれば、この歌集に平城天皇や早良皇子の歌が入っていないはずがないのだが、それを誰も不思議がらないのは、この歌集が七五九年(天平宝字三年)の大伴家持の歌で終っているからだ。しかし、発表されるまでの間に、新しい歌を古い時代の歌として加えることは、家持でなくとも思いつく手法だ。たとえば、仮名手本忠臣蔵は、江戸時代の事件を室町時代に置き変えている。早良親王や平城天皇の歌が名を変えて万葉集にあったとしても少しも不思議な話ではないと思う。

視点を変えてみたところで、もちろん真実は不明で、正解はない。しかし、古今和歌集巻九のこの羇旅歌を阿倍仲麻呂の歌として鑑賞するだけでは何も生まれないと思う。歌だけを見れば、単に万葉集のパクリでしかない。しかし、これが阿保親王の歌だとしたら意味は違ってくる。

古今和歌集は万葉集を意識して作られた歌集だ。仲麻呂の歌を巻九の巻頭に持ってきていることも何か意味があると思う。万葉集巻九の巻頭は雄略天皇の歌だが、これは雄略天皇の歌ではないのだ。まず、研究者のほとんどが雄略天皇の歌ではありえないと思っているのは当然として、万葉集自身もそうではないと断っているのだ。左注で或本に云はく、岡本天皇の御製なりと書き、巻八の同じような歌を崗本天皇の歌としている。崗本天皇とは舒明天皇のことだろう。

「夕されば 小椋の山に臥す鹿の 今夜は鳴かず 寝ねにけらしも」

巻九にある雄略天皇の歌だ。万葉集巻一の巻頭も雄略天皇の歌で始まる。これも雄略天皇ではないとされている。では誰の歌なのか。又々正解のない問題だ。私は、巻九などから巻一の歌も舒明天皇だと思う。そしてそこから別の人物を推測したのだが、これも真実は不明だ。しかし、答のない問題を解くことを「考える」と言うのではないだろうか。どんな問題の答も、百パーセント真実とは言い切れない。

極端なことを言えば、推理小説の真犯人ですら、本当の犯人かどうかわずかな疑問は残る。ひょっとして「それでもボクはやっていない」と言っているかもしれないのだ。