ルームメイト・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩越祐子



「恋がしたいわぁ! 燃えるような恋が!」
 いつも、たか子姉さんが口グセのように言っていた言葉。
 当時私は十六歳。たか子姉さん二十八歳。たか子姉さんと初めて会ったのは、我が家だった。父が将棋同好会を募り、入会申込みをしに来た彼女は母に、
「私、近々離婚するんです」
と、言うのだった。母は驚いて、身の上話を聞いて、住居の事に関心が向いたのだろう。たか子姉さんは、実家の宮崎県に帰るつもりでいた。
 一般的な母親なら、それ以上の関わりを持とうとはしないハズなのに、私の母は違っていた。
「それなら、祐子と一緒の部屋におれば?」
 私は、受験を控えている身なのにも関わらず、ルームメイトとして、強制的に母に決定されてしまった。部屋代を払っているのは母であり、今回で二度目の経験になった。一度目は、中学三年生の三月頃で、当時、東大阪の一戸建に住んでおり、両親は仕事の都合で、平野の店に住む準備をしていた折に、親類のT兄さんが、愛人を連れて挨拶に来た時に、住居の事が話題にのぼり、その時も、私を一人にするのが心配だったのか、M子さんに
「この家で住めば?」
と言ったのも母だった。M子さんには当時三歳のマー君がいて、男の子なのに、近所の女の子と、まま事遊びを楽しんでいた。
 M子さんは、眉と眉の間にホクロがあって、どこか、はかなげな風情の女性だった。
 二ヶ月共に暮らしていく内に、前のご主人が現れて、マー君を引き取って帰ってしまった。
 その翌日、彼女は睡眠薬を多量に飲んで、自殺しようとした。枕元には遺書が置かれてあった。私は、T兄さんに電話をし、まだ冷たくなっていないか、呼吸はしているかを確かめて、強くM子さんをゆさぶり起こした。私はパニック状態だった。もう、ガマンの限界!という時に、M子さんは去って行った。ホッとしたのも事実である。私が描いたM子さんの似顔絵を持ち去ってくれたのが唯一の救いとなった。そういう状況であっても、入試の間近な私は、勉強しなくてはならなかった。
 クラスメートの話の中で、母親達の心こまやかな気遣いを聞くにつれ、どうして私の母は、私のココ一番!という時にいつも邪魔するんだろう!と、腹が立った。
 高校一年生になった時、たか子姉さんと知り合い、当時の住居は、大阪市大正区の千島公団で、四階の2LDKに両親、三階の1DKに私が住んでいた。それも四月に住み始めて十日もたってはいなかった。たか子姉さんがルームメイトになった。
 たか子姉さんは、艶のある黒髪を肩まで伸ばし、見事な冨士額で、中央に前髪を振り分け、眉は細く上がり気味で、目は意志の強さを思わせるように大きく、鼻は高く、唇はぽっちゃりと大きく、誰もが振り返ってしまう程の個性的な女性だった。モデルでもしているかのようなスタイルであり、センスのよさに驚いたものだった。御主人が、Tデパートの専属のデザイナーであると聞かされていた。
 高校二年生の四月頃、親の都合で、近鉄布施駅の近くの平屋で、一人で住むことになった。六畳間二部屋で、風呂なしで、うどん店が通路の奥で営業しており、時々、トイレを借りに来ていた。この部屋に移り住むようになって一ヵ月後、たか子姉さんが母に頼まれて来たわ、と言って、居住するようになり、別れたハズの御主人も月の内二〜三日泊まるようになったので、私なりに復縁でもするのかな?と思いながら、私のほうから聞かなかった。たか子姉さんが、深いタメ息をつきながら、
「愛人だった女が妻になって、妻だった私が愛人になっちゃったわ」
 そう言って、淋しげに笑うのだった。
 御主人だったO氏は、体格の良い男性で、中々のダンディな人で、プレイボーイだった。浴衣姿のあれほどよく似合う男性は他にいないだろう。粋なのである。振舞いが。
たか子姉さんも、結婚する時の覚悟が浅かったのでは?と、高校一年の私は思うのだった。 よく、浴衣姿で将棋を指しに来られたものだった。
 O氏とようやくきっぱりと別れて、たか子姉さんは、難波のクラブで、ホステスとして働くようになった。その時私は大正区の千島公団の三階の1DKに住んでいて、五月頃だった。高校三年生になっていた。
 突然、たか子姉さんを頼って宮崎県から、二人の後輩がやって来て、妊娠中絶するために来阪したと言うのだった。ルームメイトとして、私を加えて四人が1DKで寝る事になった。
 受験するシーズンになると、どうしてこうも身辺がわずらわしくなるのだろう!と一人でイラ立った。
 たか子姉さんの後輩は、二人共背が高く、スタイルもよく、服やバッグは、ブランド品で、高級感を漂わせていた。
 私は、N子さんとK子さんは、友人同士と思っていたら、時々二人の険悪な会話から、「二郎」という男性をめぐっての、ライバルである事が判った。
 N子さんは想像妊娠だったが、K子さんは妊娠していた。
「K子に、私の二郎さんの子供を産ませる訳にはいかんちゃ!」
 N子の叫びであり、嫉妬が、K子を連行する行為となったのだろう。二人は共に二十四歳だった。
「あん人は、私の二郎さんを盗ったっちゃ!」
 今もN子の嘆きの声が、時折思い出されては、耳鳴りのように、耳の奥から聞こえてくる。
 ルームメイトが三人になった、一週間後の夜中の二時に、ドアをドンドン叩くので、驚いて、のぞき穴から相手を見ると、父の将棋仲間のM氏の奥さんが、ネグリジェ姿で立っていた。
 ドアを開けると、彼女はハダシだった。M氏の奥さんは、コーフン状態で、
「もうあの人との結婚生活は耐えられないわ!」
そう言って泣くのだった。
 ルームメイトが、私を入れて五人になっていた。私の寝場所は、押入れの上段で、ベッド風にしてくれていた。他の女達はゴロ寝状態だった。まもなく、四人の姉さん達は、たか子姉さんの働いているクラブで、ホステスになった。
 夜中の二時頃に帰ってくるなり、私を起こして、客の買ってくれた寿司を食べさせてくれたりした。そのような時に、イヤな客のグチ話が話題になって、それぞれが、話し出すのだった。その頃には、K子さんもN子さんも、仲良くなっていた。
 私は、ルームメイトのお姉さん達の生き様から、結婚相手にしくじったら、取り返しようがないのだ!という恐怖感が植付けられたように思う。
 好きな人が現れても、プロローズされると、急に怖くなってしまい、断ってばかりいた。
 恋愛感情そのものが疑わしいのである。今もそれはあって、いくらダンディで金持ちで、好意を寄せて下さっても、軽々しいマネなぞ出来ない。幸いな事に私は、美人でもなく、スマートでもない。独身時代は、スマートだったが、子供を産んでから太り始めた。
 プロポーズは主人の母から受けた。私も、この人の息子だったら、まぁ、いいんじゃない?と思った。嫁、姑のイザコザは起こらないだろうし。一度も起こらなかった。そうそう、彼のお父さんに会っておかなくっちゃ! 何といっても、父親に似てくるって、本に書いてあったし。それで、お父さんを我家に招いた。穏やかでダンディな人だった。お兄さんの家にも訪れ、姉になる人にも会った。私の友人と同じタイプの人で、次兄にも会った。嫌なところが、父とそっくりの人だった。
 主人よりも、主人の家族のムードに違和感がなく、話はトントン進み、三月に結婚していた。縁がある、というのは、こんな風に何の障害もなくスムーズに運ぶものだと初めて知った。
 ルームメイトだった、たか子姉さんは、病気で亡くなってしまったけれど、たか子姉さんが最も輝いていた時に、私達は寄り添い、共に暮らした事が、今にして思うのだ。私達は、若々しく、煌いていた。思い出すと、心の中にしまっていた宝石箱のフタを開けた時のように、若々しい気分になる。

 

岩越祐子(いわこしゆうこ)
児童詩詩人
児童詩誌「このて」会員
八尾市WAIWAI市民フォーラム実行委員
コンテスト文芸社「たび旅・journey」佳作
岐阜市主催の「信長への恋文」手紙コンテストで123賞を受賞