みやこ叔母・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩越祐子

           

 小学校五年生の折に、我家の生活習慣と、他家の生活習慣を比較するようになり、生活リズムの違いに興味を持つようになっていた。とりあえず私は、叔父や叔母達の生活に何か共通した習慣性があるのではないかと関心が、夏休み、冬休みのごと再燃するのだった。私は初めて自分の意志で夏休みの一週間を、俊徳道に住んでいるみや子叔母のもとで過ごすことを思いつき、両親の許しを得て、自転車ででかけた。私の家は当時東大阪の柏田に住んでいたので、自転車で四十分も走れば叔母の家に着くのだった。
 みや子叔母の嫁ぎ先は、和菓子屋を営んでいる。家で、祖母の妹が、姑になるのだった。イトコ同士の結婚だと叔母から聞き出せた。叔母が叔父を呼ぶにしても、名前で呼んでいた。我家では、名前で呼び合わず、かと言って、お父さん、お母さんでもなく、『パパ』『ママ』で呼び合っていたので、叔母の名前で呼ぶ折など、軽いショックを覚えたものだった。父がみや子叔母の主人を呼ぶのは、いつも「ヨッさん」であり、O家の事を呼ぶのは、父や叔父達みんなが、「まんじゅう屋」であった。
 O家は、まず御飯が我家と違って固かった。私が我家流に炊いては叱られた。叔父が
「祐子の家では、この炊き方が良えのかも知らんが、ワシのとこでは、この炊き方ではアカンのや」
「叔父さんは、なんでそない固い御飯しか食べへんのん?」
「柔かいメシは、何やすぐお腹がモタレてアカン! メシは固い方がエエ」
 今だに忘れられない会話である。叔父が喜びそうな固さの米を我家で炊いたら、
「こんな固いメシ、食えるか!」
 と、父なら叱るだろうが、この家ではオイシイと言われる。我家では、全員が同じ品数のオカズなのに、O家では、叔父だけの二品が常に用意されていた。叔父はそれを当然の如く食べ、みんなに分け与えようとはしなかった。ラッキョ漬けは、必ずフタ付小鉢に入れられて、私は初めてラッキョの味を覚えた。叔母の漬けたぬか漬のキューリやナスビが必ず食卓に出されていた。朝食は七時半頃であり、叔父がお菓子の制作に取り組むのが八時半頃だったと患う。叔母と私は、葬儀用のハクセンコウを包む作業をしたり、金魚すくいのハリガネを紙に貼る作業をしたりして過ごした。叔母と話をしながら作業をするので、少しも退屈しなかった。昼食を、叔父、叔母、私で済ませると、叔父は配達に出かける。その後の二時頃になると、きまって叔母が、「おっちゃんには内諾やで」と、言いながら、店のお菓子を味合わせてくれたものだった。
 時折、店頭にお菓子を買い求めに来られて、迷っておられると、私の方から
「こっちのお菓子の方が特にオイシイですよ!」
 と言って勧めると、ほとんどのお客は、そのお菓子を買うのだった。その応対が私には楽しかった。小学生の低学年の子等は、金魚すくいをしにきたり、かき氷ちょうだい!と、言ってきたりする都度、四角に切られてある氷を取り出して、機械に取り付け、かき氷を作っていく作業も楽しい事柄であった。時々叔母とかき氷を食べたりして、毎日テレビを見て過ごした。自分の家でだと、テレビを見るよりも、友人と外に出歩くか、プールへ行くかで、一日中家に居る事のない私なのに、叔母の家では、どこへも行きようがないから、店番兼、テレビを見ていた。イトコ達が来ると、近くの小学校のプールへ泳ぎに行き、小学校の先生に、「飛び込み」をコーチしてもらったりした。夜になると、叔父、T兄ちゃん、叔母、私、そして青年二人が食事を共にした。この青年二人は、T兄ちゃんの友達でもなく、叔父叔母を慕って毎晩顔ぶれが違ったり、同じ人だったりするのだった。母の世話の仕方と、叔母の世話の仕方の違いのように思われた。夜になると人の出入が多くなり、叔父、叔母が居なくても、私相手にどちらかが帰ってくるまで待っていたりして、息子のT兄ちゃんが、自分の部屋に引き龍るのも無理ない事だと思うのだった。
 或る日、叔母が『今夜はちらし寿しにしようか』と言ったのには驚かされた。我家では、何か祝い事か特別な何かがなければ、食べられない料理だったので、叔母の何気ない言葉の中に、叔母の気分の乗った日はいつでもちらし寿しが食べられるという、我家と違う感覚に驚いたのだった。
 まんじゅう屋の二階には、六畳間が三部屋あって、一部屋ごとにドアが取り付けられていた。一部屋はMさんに貸しており、真ン中の部屋は空いてあって、奥の部屋が、T兄ちゃんの部屋になっていた。
 叔母が私に
「二階のMさんとこ行って、今夜ちらし寿し作ることゆうてきて」
「そう言ったら、判りはんのん?」
「そうや」
 ワケが判らないのは私だけで、その通りに伝えると、しばらくしてMさんが金糸卵を作って持って来たのには私がびっくりしてしまった。隣のおばさんは、紅ショウガとチリメンジャコを持って来た。叔母は大きなオケに御飯を広げるようにして、木ジャクシでまんべんなく、酢、御飯、具をまぜていく。ウチワであおぐのは私の役目だった。叔母のちらし寿しの美味しさは今も忘れられない。酢っぱすぎず、甘すぎず、適度の塩加減で「すしの子」等の粉末は一切使わずに調理していくのだった。
 叔母の近所付合いの濃さが、かけ声一ツで協力しあう関係となるようで、出来上がったちらし寿しは、M家の夕食となり、隣のおぼさんの夕食となり、私達の夕食となった。
 叔母から小言をいわれた事はなかった。友達感覚で付き合ってもらえた事が今も心に残っている。叔母が亡くなって十六年もたつのに、私の生活意識の中で叔母から教えられたことがふと思い出されたりする。小学生の時に叔母の家へ滞在した回数は二回、中学生の折二回の計四回の叔母との接触が、今の私の養分となっているように思われてならない。





岩越祐子(いわこしゆうこ)
児童詩詩人
児童詩誌「このて」会員
八尾市WAIWAI市民フォーラム実行委員
コンテスト文芸社「たび旅・journey」佳作
岐阜市主催の「信長への恋文」手紙コンテストで123賞を受賞。