板垣孝志



路頭に団塊


「仕事が少なくなったので、年長の方から辞めて貰いますからね」
 いきなり社長からのお達しである。
 青天の霹靂! 藪から棒!
 子供を抱えて学費や食費に孤軍奮闘している若手に比べたら、十万そこそこの年金がある私などはマシかも知れないが、それにしても、急な話である。
 物事には順序というものがある。ソフトランデイングとかいう言葉もある。
「三年経ったら定年ですよ」とか
「来年の誕生日までですよ」ならば、それなりの心構えというものがあるのだが……
 いきなりこの状況になると、のんびりと月を眺めていた蛙が、突然、酔っ払いにオシッコを掛けられたように、あたふたとしてしまう。
 私は、昭和二十一年生まれ、思い起こせば競争と仕事ばかりの人生だったかもしれない。仕事さえしていれば、なんとか食べて行けた時代を、なんとか生き抜いて来た世代なのである。
 その生き方が『イカの沖漬け』みたいに身体全体に染み渡っているから、唐突に仕事を奪われると途方に暮れてしまう。
 とりあえず仕事を探さねばならない。「とりあえず」とくれば、普段は「ビール」なのだが、そんな呑気な事を考えている場合ではないから職業安定所に通うことになる。
 昔は『口入れ屋』とか呼んだらしいが、最近は『ハローワーク』と呼ぶ、そんな事はどうでもいい、とりあえず失業の手続きをして、仕事を探している旨を伝えるが、なんとなく以前より雰囲気が違う。
 以前と書いたのは、つまり失業が初めてではないからで、一流企業と呼ばれる会社に十年勤めて、なんとなく飽きてしまい、なんとなく『晴耕雨読』という言葉に憧れて、寒い日は布団の上に粉雪が降り込む飯場暮らしを体験してみる。
 子供が小学校に入る年齢になっても、ブレーキの利かないジープ、車検の切れたダンプカーで、山道を走り回る生活。これは如何なものかと考え直して、たまたま弁当を包んであった新聞紙の求人欄を読み、そこに記載されてあった鉄工所に勤める。
 当時は仕事が沢山あった頃だったから、じっくり選ぶことも出来たのだが「これもなんかの縁だろう」と、待遇も聞かずにその工場で働きだした。
 それからの人生が賑やかになる。破産・倒産・夜逃げ・乗っ取りもどき・過労死・突然死・駆け落ち・詐欺・横領まあ様々な事件が身の回りに起きる。
 それにつれて何回か職業安定所のお世話になって来た。
 あの頃の日本は何でも作り、何でも売った。どこにでも道を造り、めったに車の通らない山道まで舗装してしまい、蹄で走りまわる猪がスリップして転び、その内の何頭かは、谷底に転落したまま、弔う仲間もなく白骨化しているそうだ。
 あの頃の職業安定所の職員の態度というか根本姿勢というか、モットーは
「仕事を早く見つけてくださいね。まだまだ色々な仕事が貴方を待っていますからね」という雰囲気が感じ取れた。職業安定所にまだ明るさと余裕があった。
 だが今回は、まるっきり様子が違う。職業安定所を訪れる失業者の数が以前より極めて多い、そして雰囲気が暗い、まるでお通夜のようだ。勤務先の社長が亡くなっても、これほどには暗くはならないだろう。希望する職種・希望報酬・希望勤務時間帯・希望勤務地その他、求職者側が『希望』を述べると、ほぼ百パーセント却下される。
 いまや職業安定所に『希望』は無いのだ。若い世代でもそうである、まして六十二歳などと、畏れながら申し上げると
「はあ、そうですか頑張ってくださいネ」といった感じの反応しかないのだ。
 ……あのなあ、芋食って育ったのを知ってる? サッカリンや集団就職って知ってる? コッペパン・脱脂粉乳って知ってる? 国民年金と共済年金の差を知ってる?……
 団塊の世代の走りは、こんな事を呟きながら、肩を落として家路に向かう事しかないのである。
『初鰹』に代表されるように、初物は、○○の走りとか呼ばれて、珍重かつ丁寧に扱われ、高値で取引きされるべき存在なのだ。場合によっては嫁さん(若い)を質に入れてまで入手すべき存在なのだ! それなのに団塊の走りは、こうも粗雑に扱われている。
 家でゴロゴロしていては、掃除の邪魔かと思い込み、外をブラブラすれば[失業者・リストラの人・人員整理の方]などという目で眺められているのではないかと、段々と卑屈になってくる。
 新聞の記事で自殺者の数が今年はハイペースだと知れば、妙に納得したりする。
 これではいかん!何かしなければならない。というわけで、私は自宅の厨房に立つ事にした。女性ならば台所なのだが、男の場合は台所だとなにかしら貧しい感じがすると思う、だから厨房とした、更に厨房に立つと表現した。が低所得になんら変わりはない。
 幸いな事に本日は、妻がパートに出掛けているから、厨房は隙だらけである。
 夕食の時間帯に帰宅するから、その時刻に合わせて料理を作って置くのも何かの供養になるかも知れぬ、現に先日なんかは、魚肉ソーセージの味噌汁を作って、拍手喝采をあびたのではないか!
 男が厨房に立つと言う事は、こういう事なのだ。称賛と感嘆そして罵詈雑言との背中合わせの真剣勝負の場なのだ。
 カレーライスを作ろう。
 ライスの部分は在庫があるから、カレーの部分だけ作れば良い。まず玉ネギを炒める。【カレーライスの玉ネギは飴色になるまで炒めます】よく耳にする言葉である、よく目にする文字である。
 だが私をその飴色になるまで炒めた玉ネギというものを、私は今まで見たことが無い、六十二才になっても、飴色に炒めた玉ネギを見たことがない……これは我が人生に於いて恥ずべきことかもしれない。
 これはこの機会に是非ともやって置かねばならない課題である。千載一遇のチャンスである。飴色に玉ネギを炒める為に、神は私に失業という試練を与えたのかもしれない。
 出来るだけ薄くスライスした玉ネギを炒める。最初はシャンとしていた玉ネギも、炒め出すとすぐにヘナヘナになる。意外と根性のないヤツだ。そんな事だから、玉ネギは出世しないのだ。いつまで経っても主役にありつけない立場なのだ。
 たまには『オニオンスライス』とか呼ばれて踏ん反り返って見せたりするけれども、所詮そこまで、武士の情けで見逃してやろうではないか……もうすぐお前は飴色になってしまうのだ、玉ネギという存在さえも薄くなってしまうのだ。男が厨房に立つと言う事が、どんなものか思い知らせてやる!
 私はただひたすらに飴色を目指して玉ネギを炒め続けた。
 ところが、事態は思わぬ方向へと展開して行く。ヘナヘナになってからの玉ネギの図太い事、しぶとい事。
 炒めても炒めても、何の変化も見せない。『飴色』なんかになるものかという態度を頑として崩さない。どうやら玉ネギは、相手が素人だと見破ったようだ。
 太平洋戦争で暗号を解読された日本軍のように、手の内を見破られてしまっては勝ち目が無い。私は潔く『玉ネギ飴色作戦』から撤退することにした。
 こうなって仕舞うと、厨房に立つという崇高な志はどこかに消え去って、後は台所にいる只のおじさんである。
 カレーのルー、ジャガイモや人参、少しばかりの牛肉。更には魚肉ソーセージも放り込んで、その上に、インスタントコーヒーの粉末もふり掛け、豆腐も握り潰して追加してと、徐々にマゾヒストの心境になって来る。何でも放り込みたくなる。
 貯金通帳まで放り込んだら『味』が出るかもしれない、履歴書を放り込んだら『コク』が出るかもしれない。足元は濡れ、人参のヘタが転がり、それを踏んでよろめき、へろへろ、クタクタ、疲労困憊の挙句、どうやらカレーらしきものが出来た。カレーの香りの中に、焦げ付いた匂いも混じる。
 この結果は拍手喝采なのか、罵詈雑言なのか……もうどうでもいい。
 明日また、職業安定所に行こう。ただ作業内容に『玉ネギを炒める』と書いてあったら、謹んで断ろう。贅沢と言われようが、頑固として断ろう。
(2009)




カメラを飲もう


「鼻の穴が小さいですね」
 胃カメラの先端を、私の鼻の穴に、一センチほど挿入した検査医師がそう言った。
 (ケツの穴が小さい)という言葉は聞いたことがあるが、(鼻の穴が小さい)という言葉は初耳である。その言葉は褒め言葉であろうか? ふとそんな事が脳裏をかすめたが、事態は意外な方向へと進む。
「鼻の穴が小さすぎて、無理な時は口からカメラを入れて検査しますからね」
 冗談じゃない、そんなことは最初から聴いていないのだ。それを検査の前に聞かされていたら、多分この企画はなかったであろう。
「最近の胃カメラは細くなっていますし、鼻から入れる検査だと、痛みはほとんどありませんからね」そう言って、そそのかした主治医はこの場所には居ない。
 そもそも胃カメラなんぞ飲む気はなかったのだ。何を今更……
 思い起こせば三十年前、胃カメラを飲んだ父が、七転八倒の苦しみに遭ったのをこの目で確認しているし、胃カメラが喉を通過するときの「オエー」は、酒を飲みすぎたときの「オエー」の何十倍もの苦痛と不快感があると…… 風の便りで聞いている。
 そもそもカメラは、写真を撮るものであって、食べたり飲んだりしてはいけないのだ。わざわざ説明書に書かなくても、日本人の常識というもので判断がつく。
 日本人の常識と、よその国のジョーシキには相当な隔たりがあって、うっかりすると大変な目に遭わされる。
「雨に濡れたチワワを電子レンジで乾燥させたら死んでしまったから、賠償しろ」などと難癖をつけて裁判を起こす国もあると…… 風の便りで聞いている。
 だから輸出する商品の説明書には、やたらと注意書きを付して置かないと、裁判で負けてしまう。以前勤めていた会社で、輸出する工作機械のありとあらゆる部分に注意書きシールをベタベタと貼り付けたら、まるで、海外旅行マニアのトランクのようになった。
 それはともかく、カメラを飲み込むなどという恐ろしくも大胆な発想は、どこの国の陰謀なのであろうか。

 鼻から胃カメラを通すにあたっては、まずコーヒーに入れるミルク程度の消泡剤を飲む。これは食道や胃の内部に付着している泡を消し、写真写りを良くする為だそうだ。
 当然ながら美味しくはないが、バリュウムほど飲みにくいものでもないし、ビールを沢山飲む方は消泡剤をよけいに飲まなければならない、というものでもない。
 次は鼻の穴にスプレーを吹きかけるのであるが、実際に液体が噴射されたかどうかは、噴射する看護士には見えないから、噴射をされる側が注意をしなければならない。
 私の場合は、何かの不都合があって、液体が噴射されず空気だけだったが、幸いにも看護士が「あれ〜?」と気付いてくれて事なきを得た。
 出来ることなら、医師とか裁判官・弁護士・司法書士とか命を扱う方々は、くれぐれも就業中に「あれ〜?」とは言わないで欲しいものだ。
 肩に筋肉注射を打ち、診察室のベッドに仰向けにされ片方の鼻の穴に麻酔液を流し込まれる、イチゴに掛ける練乳のようだが、またしても美味しくない。部分麻酔なので特に身体に変化は現れない。
 仕上げに、カメラ・チューブと同じ太さのやわらかい管を試験的に喉あたりまで挿入して本番に備える。
 ここまでは特に支障はなかったのであるが、唐突に
「鼻の穴が小さいですね」の大問題が発生してしまったのだ。
 顔の小さいのは、女の子に限らず男性でもモテる傾向がある。鼻の穴も、大きいよりも、小さいほうがモテそうなのだが、カメラを通過させる時は不利である。
「鼻の穴が小さすぎて通らない時は、口からカメラを入れて検査しますからね」
 なんという恐怖を呼ぶ言葉であろうか、ベッドに縛られているわけではない、麻酔が効いて動けないわけでもない、だが両サイドに控えた看護士二人は、 何時逃げ出そうとしても直ぐに押さえつける体勢になって、静かに微笑んでいる。
 私はここからの脱出を諦めた。胃カメラが怖くなって、病院から逃げ出したとなれば、末代までの恥、晩節を汚すことになる。
 鼻からのカメラ挿入が口に代わるだけではないか、なにも大腸検査中のカメラを「肛門が小さいから、口から入れますよ」と言っているのではないのだ……
 覚悟を決めて俎板の上の鯉ならぬベッドの上のおっさんになることにする。
 そして、胃カメラを飲まねばならなくなった経過を思い起こしてみる。

 普段、胃カメラを飲むという行為は、勤務先の定期健康診断で「要検査」との診断を下された場合、または掛かりつけの医師から勧められた時に、しぶしぶ思いつくものである。
 もう一つのケースは、どうも胃の辺りに違和感があって、癌かも知れないと自主的に申し出る場合。おそらくこの三種類ではなかろうか。
 一応この三つを『胃カメラの三要素』と呼ぶことにしよう。
 それ以外には胃カメラを飲もうと考える人は少ないだろう。スリッパを買ったから、ついでに胃カメラを飲んでおこうとか、お隣のシングルマザーがニコニコしてくれたから胃カメラを飲もうという酔狂なお方も居ないだろうし、ましてや食通とかグルメとか呼ばれたいが為に、一応カメラも食して置かねばならぬと考える人物も見当らぬと推察される。
 私の場合は前期の『胃カメラの三要素』には該当しない。もちろん買い物のついででもないし、グルメ精神の極みから思いついた結果でもない。
何を隠そう、不況が私に胃カメラを飲ませたのだ。
 退職金も無しにいきなりリストラに遭い、還暦を過ぎて就職もままならず、東京都の生活保護手当て金額にも負ける年金生活では、近い将来に家計破綻が迫っている。
 その延命策として無駄な出費はないかと家計簿の仕分けに掛かった時、一番の候補に挙がったのが(がん保険)なのである。
もしも癌になったら、豊かな老後が過ごせるものと、楽しみにして十数年もの長い期間掛け捨てで続けてきたのだが、幸か不幸か一向に癌らしき兆候が出ないのである。
 それならば(がん保険)を解約して、生活費に廻そうとなったのだが、生まれつき幸運よりも不運の女神に追っかけられている身だから、保険解約した途端に癌が発生するかもしれない。
「保険解約の前に、一応胃カメラを飲んで調べて貰ったら?」と家人がけしかけ、掛かりつけの医師が尻馬に乗って賛同したのが事の発端なのだ。

 さて、鼻の穴が小さいからと諦めかけた検査医師がこう言った。
「もう一方の鼻の穴から入れてみましょう。多少は大きさが違うものですから……」。そういう風になっていたのだ、鼻の穴が二つもあるのは無駄ではなかったのだ。
 そこで、反対の鼻の穴に改めて麻酔液を流し込まれる。
「いつもより多めに足しております」などと言ってくれると、リラックス出来るのだが、生真面目そうな医師は、無言でカメラ付きのチューブを、かなり強引に挿入してくる。
 少し痛みも有ったが、悲鳴を上げるほどのことはない。
 ややあって、チューブの先端は喉ちんこ辺りに到着。「ごっくんして下さい」と医師が言うのでごっくん。ビールを飲むときは、この辺りが味を感知する場所だ。(のどごし生)ならば美味しいのだが、(のどごしカメラ)は実に味気ない。
 ここまでくると、以後はさほどの痛みは感じることは無い。
 喉元過ぎればなんとやらで、モニターに映し出される食道から胃そして十二指腸までの町内散策ならぬ腸内散策が楽しめる。腸内散策はおよそ十五分、費用は三割負担で五千円位。ちょっとしたスリルを味わいたい方にはお勧めのイベントである。
 ただし鼻の穴が小さい方にはお勧めしかねる。ではその大きさの基準であるが、鉛筆が簡単に通過できる鼻の穴で有れば合格と思われるが、実際に鉛筆を自分の鼻の穴に突っ込んだりはしない方がよろしい。とんでもない事が起きる可能性がある。
 鉛筆の注意書きに『この商品は人体のいかなる穴にも挿入してはいけません』とは書いていない。そのことが少し気になる。
(2010)




病院難民になる


 運のない人は宝くじに当たらないが、運の悪い人は宝くじに当たっていても気付かない。
 運の良い人は、たまたま行った病院で命拾いをするが、運の悪い人は慎重に選んだ病院で命を落としたりする。

 もう三十年ほど前の話になるが、勤務先の鉄工所で作業中、鋼材に手首を挟まれた。
 捻挫だと思ったが、骨折していたら難儀なことになるので、包帯だけ巻いて市民病院に向かった。
 信号で止まった交差点の横にふと目をやると、そこに外科の看板があった。
「○○外科醫院」古い木造の小さな建物は、うっかりしていたら見逃すようなところに、ひっそりと、まるで捨てられたように建っていた。
 だが墨痕鮮やかにしてボロボロの看板の文字は「医院」ではなく「醫院」である。
 なんとなく名医とか赤ひげとかのイメージが浮かんでくる。
 市民病院は待ち時間が長い、私は迷わずにその医院、いや、醫院の門をくぐった。
 受付に座って編み物をしていたオバチャンは一瞬びっくりした顔を見せたが、そのまま診察室に行けと言う。予約なし、待ち時間なし、番号札もなしドライブスルー状態である。    よほど暇なのであろう。やや不安になってくる。
 昔の木造校舎の職員室のような診察室には、古い机や古い椅子、古いカーテンに古いベッドなどが置かれ、そこには古いと言うか老医師がちょこんと座っていた。
「大分良くなって来たようだな」
 その老医師は、包帯をした私の手を握ると、いきなり前後に激しく振ったのだ。
「痛い!」と私が悲鳴を上げると、怪訝な顔をしてカルテを覗き込み
「初診か・・・」 初診もなにも、こちらは出来立てほやほやの怪我人である。
 良くなってきたのではなく、これから悪くなるかもしれない新品の怪我人なのだ!
「では、レントゲンを」とまったく反省の様子は無い。
 レントゲンもこの老医師が一人で準備をして、一人で撮影をして、一人で現像をする。
一日に四人以上の患者が来たら、この醫院の機能はマヒしてしまうだろう。
 しばらく待たされて、よっこらしょと老医師はパネルに写真を貼り付け、照明を入れた途端に、私と老医師は同時に「ワッ」声を上げた。
 私の手首の写真は子供の頭蓋骨を押さえている。鮮明なる重ね撮りだ。
「ここに在ったのか・・・捜していたんだ」老医師は急に機嫌が良くなる。
どうやらこの老医師は子供の頭蓋骨のレントゲン写真を撮ったのだが、取り出すのを忘れていたらしい。 探し物が出てきたので嬉しくてたまらない様子である。
 もう一度レントゲンを撮りなおし、その説明を上の空で聞いて、私は早々に退散をすることにした。運が悪かったと思った。魔が差したとも思った。
 私の診察が長引いたので、編み物をしていた受付のオバチャンは、もう帰宅する時刻になったらしく、玄関で靴を履いていた。オバチャンは脚を痛めているらしく、ギブスを巻いて松葉杖をついていたが、その松葉杖の焼印をみて私は愕然とした。
 なんとその松葉杖には市民病院の文字が押されていたのである。
  
 あれから三十年ほど過ぎた。
 野暮用が出来たので、風呂上りだったがいきなり自転車に跨って寒い中を飛ばしたら、右の太股の裏側が痛くなった。これはてっきり「肉離れ」だと思った。
 五日ばかり寝て居れば治ると簡単に考えていたが、運悪く義母が狭心症を起こし緊急入院をしてしまい、その介護の手助けの一ヶ月、「ウッ」とか「ビャ〜」とか叫びながら車の運転を続けた、そのうち良くなると思っていたが、痛みは益々ひどくなる。
 ぎっくり腰も痛いが、ぎっくり腰は横になって静かにしておれば、ある時間だけは痛みをかわせる、今回は二十四時間、年中無休・休憩なしで攻め立てて来る。
タオルを咥えて「ギャー」と叫びたいほどである。もちろん顔つきもゆがんでしまう。
 高見盛という相撲取りが、頑張ってがんばって、あと一息のところで手が滑って負けた時のあの悔しそうな顔になるほどゆがむ。
 やっと義母が退院したのを機に、近くの外科医を訪ね【肉離れ】だと告げた。
 その医者がどんな痛みかと訊ねるので、熊に咬みつかれて、それを時々振り回すような痛みであると言うと
「熊に咬みつかれたことがあるんですか?」と言う。
 焼け火箸を当てられる感じだといえば
「焼け火箸を当てられたことがあるんですか」と言う、だろう。
 どうやら勝手に病名を決めつけてくる患者に対して快く思っていないようである。さらに敵愾心も抱いているようにも見える。
 ひょっとしたら、医者は病名を告げることに対して特殊な感慨を持つのかもしれない。
 患者に対して病名を告げるときが医者としてのプライドと優越感に浸る至福のひと時かもしれない。【常染色体劣勢遺伝性若年性パーキンソン病】である等と告げるとき。
「医者になってよかった〜」と思って居るのに違いない。その為に、遊びたい時期に遊びもせず、眠りたい時に眠りもせず、やりたいときにやりもせず、ただひたすら医学の勉強を積み重ね、いそしみ且つ練り上げ塗り上げて来たのだ。
 昔から日本人は言葉を縮めて表す癖があり、原子力発電所のことを原発・自動販売機を自販機などと言うが、どんなことがあっても、医者が病名を縮めて言ったりすることはない。慢性虫垂炎を【マンチュー】などという医者が居たら、患者はその場でひっくり返り、横にいた女性看護師は持っていた注射器を医者の頭に突き刺し、待合室の患者は慌てふためいて脱兎のごとく逃げ出してしまうことであろう。
 医師として患者に病名を告げる。それは裁判官が被告に判決を下すのに等しい。プロがプロフェッショナルになれる人生の貴重なひと時なのだ!
 嗚呼それなのに、この患者は、厚顔無恥・傲慢不遜・無礼千万にも
【肉離れです】とやって来たのである。医師の立場をどうしてくれる!そう考えたのかも知れぬ、気分を損ねて意地悪な受け答えをしても仕方がないかも知れぬ、だがこちらもなんとなく腹が立つ、ここで掴み合いの喧嘩をしても負ける。世が世ならと思うが今は時期が悪い、なにしろ座っているのが精一杯なのだから…… クソーと我慢をする。 
「これは多分、椎間板ヘルニアであるからして、大きな病院に行って、MRIのCDを貰って来なさい」との御宣託で、痛み止めの飲み薬と湿布を貰って帰る。
 やはり【椎ヘル】という言葉は出なかった。
 次の日にまた「ドエ〜」とか叫びながら車を運転して大きな病院に行きMRIを撮ってCDに記録して帰宅。それだけで死にたくなる痛みである。
 家人に相談したところ、義母も義父もかなりの認知症が進んでいて介護が必要である。たった一人の義兄も重体ながら必死に生きようと、胃ろうにも気管切開にも耐えて頑張っている。息子は東京に単身赴任、嫁は臨月に近い。したがって死んでいるような暇はないと言う。ついでに痛い顔もするなと言う。
 仕方がないのでまた翌日に最初の外科にCDをもって行くと、
「やはり椎間板ヘルニアです。寝ていなさい、痛くなったら来てください」
あのね〜、痛かったら動けないの!と心の中で叫ぶ。
(だけどあなたが手術をするとなれば大きな病院だしネ)という態度がありありと推察できる。一方、MRIを持つ大きな病院のほうは
「先にツバつけたのはあちらの外科なのだし、やっぱり縄張りというか、あまり関わりを持ちたくないしネ」という雰囲気なのである。
 背開きにして背骨をジョリジョリ削る手術の成功率は7割とか、最悪は下半身不随。
 これは医者も患者もリスクが大きすぎる。運悪く変な結果が出た時の病院の評価を考えたらシッシと野良犬みたいに患者を追い払った方が無難かもしれない。
 何事も初期対応とか初動捜査を誤ってしまうと取り返しが付かなくなってくる。
 痛み止めを飲めば本屋を一周ぐらいは出来るが、痛みは、太股だけにとどまらず、足の裏から腕・腰・尻・膝・肘(アイウエオ順)にまで拡散してしまった。
 間寛平氏はアヘアヘと地球を一周して帰国しバンザイをしたが、私はアヘアヘと本屋を一周して帰宅しバッタリと倒れる。
(2011)