大学院重点化という愚策・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊良林正哉



 私は地方の研究所に勤務する生命科学を専門とする常勤の研究員である。研究活動の対価として報酬を得ていることから、プロの研究員の末席を汚していることになる。その仕事柄、私は地元の大学や県外の大学を訪れる機会が多い。その度に唖然とさせられるものである。地方大学とはいえども、大学の構内には近代的な研究棟が建ち並んでいる。まさに壮観な眺めである。その多くは、もちろん理系学部の研究棟である。まるでホテルのエントランスを彷彿させるような新設の研究棟に一歩足を踏み入れてみると、外界から隔絶された妙な静けさが漂っている。理論系は別として、実験系の研究室で本来ならば、時間を惜しんで実験をしている筈の学生の姿がほとんど見えない。これでは立派な研究棟が泣くようなものである。典型的な箱物行政を見るような思いである。
 我が国は今でこそアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国ではあるが、豊かな資源に恵まれ、巨大な人口を抱え、しかも理系の超エリート教育を国策として推進するアジアの大国である中国やインドに早晩、その経済力の分野で追い抜かれることは確かなようである。我が国は一億三千万人もの人口を抱えてはいるが、国土は狭くしかも資源や食料を海外からの輸入に依存せざるをえない資源小国なのである。インターネットの急速な大衆化とともに国境線なきグローバル化が進む現在および近未来社会において、我が国が世界に伍して生き残っていくための方策は、独創的な科学技術の研究開発をおいて他にはありえない。実体のないバブル経済とその終焉に端を発した「失われた十年」を我々既に経験している。モノ作りに基盤を置く愚直な生き方が我が国の奇跡的な繁栄をもたらしたのである。その意味で、我が国の将来を支えるのは理系の学生と言っても過言ではなかろう。
 大学の四年間の専門教育だけでは、独創的な研究を展開し得る人材を育てることはかなり難しい。従って、その専門性をさらに涵養する目的で大学院という教育、研究組織が大学に設置されている。私の時代には、大学院に進学することはプロの研究者を目指すことを意味していた。大学院の入学試験は完全な選抜試験であり、数少ない定員を多くの受験生が争うものであった。その難関を突破した人材は大学院の修士課程を経て大学院の博士課程に進学し、やがては博士号を取得するのであった。博士号を取得するということは、すなわちプロの研究者の入り口に立ったことを意味していた。その後、博士研究員という修行生活を経てある者は大学の教員に、またある者は企業の研究員としての活躍の場を得たのであった。少数精鋭主義を貫いたが故に、大学は優秀な人材を社会に提供することが出来たのである。それだけに、博士号という称号は重い意味を持っていたのである。
 高等教育の有り様を決める権限を持つ政策決定の当事者は、バブル崩壊を目の当たりにして、「科学立国日本」というキャッチフレーズの下で大学院の重点化に舵を切った。重点化というのは、換言すると大学院の定員を安易に増やすことであった。その結果、大学院への進学希望者のほとんどが大学院生になったのである。もはや、大学院に進学することは何も特別なことではなくなってしまったのである。一方で、大幅に増員された大学院生の研究指導を担うべき教員の数は据え置かれたままなのであった。こんなことでは、満足な大学院教育は不可能であろう。大学院の定員を満たさなければ、それだけ予算の削減が実施される。このような荒廃した教育体制の下で、大学院生間の格差が顕在化するのは時間の問題であった。明確な将来の展望を持ちそのための努力を厭わない上層に位置する大学院生の絶対数には変りはなかったが、この層に続くべき比較的良質な中間層が激減して、モラトリアムとして大学院生活を満喫する下層が激増したのである。ピカピカの研究室で実験に励む学生の姿が稀であることが、この事実を雄弁に物語っている。大学のレジャーランド化が指摘されて久しい。今では、大学院さえもレジャーランド化しつつあるのである。
 プロの研究者になるという強い意志を持たない大学院博士課程の学生数が激増するのも当然の帰結であった。この事実と同調するかのように、大学によっては博士号取得の条件が緩和され大量の博士号取得者が生産されるようになった。まさに博士バブルである。ただし、昔に比べて現在では有給の博士研究員のポストが増加したこともあって、博士号取得者の大部分は契約制の博士研究員となることは比較的容易になっている。しかしながら、彼らは一年契約の研究員なのである。通常であれば、三年までは契約の更新が可能ではあるが、不安定な身分であることには変りはない。「三十五歳の壁」という言葉がある。加齢とともに、体力および精神力がゆるやかな曲線を描いて下降していくのは自然の理である。プロの研究者としてのポストを得るためには、この三十五歳までにどこかの常勤研究員や大学の教員にならなければ、将来の可能性は限りなく低いものとなる。博士研究員というポストはあくまで常勤の研究職に就くまでのつなぎのポストなのである。現在、我が国には約一万六千名の博士研究員が存在していると言われている。彼らの多くは複数の研究機関を渡り歩いて、いずれは「三十五歳の壁」に直面するのである。言葉は悪いが、彼らは高学歴失業者予備軍なのである。
 では、何故このような事態になってしまったかである。その答えは単純である。大学院重点化という政策によって大学院生が激増したからである。博士号取得者の絶対数を増やせば、それで「科学立国日本」なる国策が完了すると考えた現場を知らない浅はかな政策立案者の責任は重い。研究の現場にいる私に言わせてもらえば、質の悪い博士号取得者が単純に増加しただけなのである。私が所属する研究所でも毎年のように博士研究員の公募をしているが、採用した後でまともに使い物になる博士研究員はほんのわずかなものである。研究遂行能力も低く、また研究に対する意欲に乏しい博士号取得者はかくも多いのである。おそらく、このような経験をしている大学を含めた研究機関は多いだろう。博士号の価値は株価と同様に下落の一途をたどっているのが現状なのである。
 研究機関における現場の実動部隊は大学院生であり、また博士研究員なのである。彼らの意欲や能力が我が国の研究の質を下支えしていることは間違いのない事実である。その研究の現場における肝心の実動部隊の質が急激に低下しているのである。頭数さえ揃えば、良質な研究成果が得られる訳ではない。ならば、どうするかである。実効性のある対策は一つしかない。つまり、大学院の入り口と出口を狭くするのである。大学院重点化などという耳触りだけが良い政策を即刻中止して、従来の選抜試験に戻して意欲のある学生だけを大学院生として向かい入れる。さらに、博士号取得の条件を統一して安易に博士号を取得させないようにするのである。そうでもしない限り、研究の質を維持、発展させるとともに研究の業界における人材の需要と供給のバランスを取ることは難しい。現在の博士バブルというのは、まさに悪貨が良貨を駆逐する状況に似ている。圧倒的多数の悪貨の存在によって良貨であるべき優秀な人材が薄まってしまっているのが、現在の研究の現場の有り様なのである。一部では、既に有名大学による優秀な大学院生の囲い込みが公然と行われている。その結果として、大学間の格差という新たな問題が浮上しつつあるのである。このように、大量の悪貨の生産は大学院重点化という愚策に起因するのである。
 教育に対する投資は、国家の将来を左右するほどに重要なものである。限られた予算であるのであれば、厳しく公平な選抜試験をパスした将来性のある研究者の卵に集中的に投資すべきであろう。一人前の研究者を養成するためには、一億円という巨額の予算が費やされると聴いたことがある。その巨額の予算に見合う人材を育成しなければならない。優秀な研究者は優秀な若手の研究者を育て上げることが出来るであろう。研究に対する旺盛な意欲を持ち、努力を厭わない人材が正当な評価を受けて報われるような当たり前の仕組みを、政策責任者たる方々は具体的に構築していただきたい。
(2009社会批評賞入選)