私たちは永遠に友達 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 井上明子





 私の夢……それは、中国の仲間と、日本の仲間と、みんなで一つのミュージカルを創る事。日中関係が冷え切った今だからこそ、私達若者同士が交流をして、社会に何かしらのメッセージを伝えたいとの願いからだった。

 そう思い続けて一年、二〇〇六年三月七日〜十日、上海にて、日中学生合作ミュージカル《私たちの旅路》は、無事幕を上げる事ができた。一年の準備期間の中で、学生の私には抱えきれない多くの困難があった。中国という外国で、言葉も文化も違う中国人達との合作作業は、想像を遥かに超える大変なものだった。けれど同時に、人の温かさや仲間の大切さをこれまでになく実感できた、貴重な時間でもあった。更に幸せな事には、現在上海で音楽を教えてらっしゃる歌手の谷村新司さんにも応援して戴く事ができ、様々な面で支えて戴き、普通では経験できない様な事も沢山経験する事もできた。そうやって、上海で初めての日中学生による日中学生達のミュージカルは奇跡的に実現する事ができた。

 よくこんな質問を受けた。「諦めようと思った事はありますか?」。私は決まって「一度だけあります。でも途中で諦めると日中友好が実現できなくなってしまうから」と答えた。その一度だけ諦めてしまいそうになった時の事は、その場にいた人以外は誰も知らない。誰にも話して来なかった。誤解されるのが嫌だったし、自分でも上手く整理できていなかったからだ。でも、今なら素直に振り返る事ができる。



 去年十一月中旬、日本から役者メンバーが交流の為に自費で上海へやってきた。そんな大事なときに、中国メンバーが稽古場に来なくなってしまった。「学校の行事がある」そう言いながら、中国メンバーは泣いて私に謝った。心の中では「私はこれ程までに日中友好を願っているのに、中国人はなぜ分かってくれないのか」そう思ったけれど、その涙に「空いている時間だけでも来てほしい」そう言うしかなかった。そんな私の思いには反して、次の日も、またその次の日も稽古場へは来られないと言う中国メンバー。一生懸命な日本メンバーの姿を見ると、私の焦りは頂点に達していった。「今日は練習に来ると元々約束していたじゃない?私の友達はあなた達と交流する為にわざわざ日本から自分のアルバイト代で来たのよ?」何度も彼らに訴えた。ところが、挙句の果てには携帯の電源を切られ、連絡手段を途絶えさせられてしまった。「なぜ?」彼らの行動の意味が全く分からなくなり、私が目指す日中友好の難しさを身をもって知った瞬間だった。

 翌日、中国メンバーが夜中だったら大丈夫だと、日本メンバーが帰国する前日に稽古場へやって来た。その時は素直に嬉しかった。それなのに次の瞬間「学校の行事というのは嘘だった」事を彼らの口から聞いてしまった。実は、私達が創作していた脚本が「日中戦争」を題材にしていた。それは学生が上演するには相応しくないとの事で、変更してからでないと稽古はできないとの先生方からの指導が入っていたのだった。私に話したくても、言葉の問題もありなかなか伝える勇気がなかったと、中国メンバーは私に謝った。それが今日まで稽古場に来る事ができなかった理由……あれ程、ただ交流がしたいのだと伝えたのに?もう明日日本メンバーは帰国してしまう。彼女達も学生だし、きっとどうすれば良いのか分からなかっただろう、そうするしかなかったんだろうと、今なら思える。しかしその時は「日中友好は難しい」そう冷たく中国メンバーに言い放ってしまった。彼らにとっては、私のミュージカルはどうでも良い事なんだと感じた。だから、自分が誤解を生む様な行動をとっていた事を棚に上げて、正直に伝えてくれた仲間の思いを、私はあっさりと切り捨てた。「もうこのミュージカルは止めよう」その場にいたメンバーは私のその気持ちを感じていたと思う。私だけが実現したい日中友好なんて何の意味もないと、悔しくてたまらなかった。

 それから二日間の間に、それまで自分がやってきた事をずっと思い返していた。すでにこの企画をやり始めて九ヶ月の日々が過ぎ去っていた。ここまでやって来たのに、こんな風に諦めてしまうのは嫌だと思った。元々私の一人よがりな夢だった事も思い出した。それでもみんなは今まで嫌な顔一つせず、ずっと私を支えてくれていた時の事も思い出した。ここで私が止めるという事は裏切る事になってしまう。そして何より、ここで止めてしまっては、日中不友好、やらない方がましだった、という結果になってしまう。だから中国メンバーに「ごめんね」とメールを送ろうとした。すると先に中国メンバーからメールが来た。「本当にごめんね。でも思うの、日中関係がどうかなんて関係ない。私達は永遠に友達。ただ最後までやり抜いてみよう、一緒に頑張ろう」と。私はこの時初めて、自分が心を閉ざしていた事に気付いた。彼らも私と同じ様に考えてくれていたと思えた。そして、何としてでもやり抜こうと心に決めた。一つ一つ色んな人の、色んな誤解を解いて、少しずつ信頼を積み重ねていく決意をした。脚本も最初からすべて書き直し、私達日中学生自身の交流の様子を描いた《私たちの旅路》という話しに変更した。

 それから四ヵ月後、舞台の上には、日本のメンバーと中国のメンバーが手を繋ぎ共に歌う姿があった。お互いの手のぬくもりを確かめ合う様に、しっかりと結ばれていた。日本人も中国人も、それぞれの言葉で精一杯の心を込めて歌った。ただ思いが込み上げてきて仕方なかった。私達は文化も言葉も違う。言葉の壁や文化の壁はたった数年で乗り越えられるものではない。時には誤解が生まれて、付き合う事に嫌気がさしてしまう事もある。けれども、だからこそ共有できる感動もあるのだ。諦めなかったみんなの心に沸いてきた実現の感動には、言葉も何も必要なかった。そしてその思いはしっかりと客席にも伝わった。

 公演最終日、メンバーから「日本と中国を繋ぐ虹の橋となってくれた人、井上明子さん。私たちはあなたの事が大好きです。謝謝」と言葉をもらった。嬉しくて嬉しくて今までの辛かった事や悲しかった事はすべて消えてしまった。

 でも私は、虹の橋は一人では架けられない事を知っている。あの日、日本と中国の空に架かった小さな虹の橋は、この企画に関わってくれたみんなで架けたものだという事を、決して忘れたくない。また、優しさだけでも厳しさだけでも架らない。色んな事があったけど、良い事も悪い事もすべてが必要だったんだ。ありがとう中国、中国の大地が私にその事を教えてくれた。応援して戴いたすべての方々、本当にありがとうございました。そして日本と中国の仲間達へ……私たちは永遠に友達です。